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日本基督教団 板橋大山教会

2024年7月21日 礼拝

2024.08.23 11:20

「和解させる任務」 コリントの信徒への手紙(二)5章17節~6章2節


 みなさまよくご存知の物語で、アダムとエバのお話があります。このカップルはせっかく幸せに暮らしていたのに、食べてはいけない果物を食べてしまって神さまに叱られました。盗み食いですね。私もよくやりました。母がこっそり貯めていた小銭を、盗んだこともあります。親というのは有難いもので、どんなに悪いことをしても、しまいには赦してくれます。神さまも同じで、どんな罪人でも愛してくださって、最後には赦して下さいます。

 神さまとの関係修復を、キリスト教では「和解」と言います。普通は、悪いことをしたほうが和解金を支払います。ところが、神さまと人間との和解は、神さまのほうが支払います。神さまの和解金はイエスさまです。「神はキリストによって、世を御自分と和解させた」(今日の聖書より)。どういうことかというと、「罪と何のかかわりもないかたを、神は、わたしたちのために罪となさいました」(今日の聖書より)。つまり、父なる神は 私たち罪人と和解するために、イエスさまを十字架にかけて、私たちのすべての罪を背負わせました。

 私が通った高校は、お城の敷地のなかにありました。お城を築いたのは太田道灌で、父親と一緒に請け負いました。あるとき、この父親が夢を見ました。龍が現れて、「お前の娘を人身御供に差し出せば、お城が完成する」と言いました。そのお嬢さんも同じ夢を見たものですから、自ら人身御供となったと伝えられています。

 誰かのために自分の命を差し出すのですから、イエスさまの十字架は人身御供と同じです。イエスさまは神さまでありながら、私たちと同じ人間になられました。同じとは言っても、私たちと違って罪となんのかかわりもありません。罪がないのに、神さまはイエスさまを罪となさいました。私たちの一切の罪が十字架のイエスさまに集められて、神さまの怒りを一身に引き受けて下さいました。「わたしたちは、その方によって、神の義を得ることができたのです」(今日の聖書より)。「神の義を得る」とは、言い換えれば救われることです。私たちは、神さまの怒りの火で焼かれるはずのところを、十字架のイエスさまによって救われました。「今や恵みの時、今こそ救いの日」(今日の聖書より)。

 こうして、イエスさまによって救われた私たちです。せっかく頂いた恵みに応えたいものです。今度は私たちが隣人と和解する番です。「神からいただいた恵みを、無駄にしてはいけません」(今日の聖書より)。イエスさまは、お前たちも我が子イエスのように隣人と和解しなさいとの任務をゆだねました。「和解のために奉仕する任務を、わたしたちにお授けになりました」(今日の聖書より)。私たちは、争いを和解させる任務を、神さまから委ねられているのです。

 世界中に争いが絶えませんから、もはや私たちの手に負えないように見えます。しかしパウロは言います。「だから、キリストと結ばれる人は、だれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(今日の聖書より)。

 私たちは、イエスさまに結ばれて、新しく創造されました。古い自分のときにはできるはずもなかったことも、イエスさまによって新しく造り直された自分なら、できるはずです。和解は人間のわざではなく、神さまのわざです。自分の力が及ばない時には、イエスさまの力を借りればいいのです。

 たとえイエスさまから任されたのだとしても、どうしたらよいのか途方にくれてしまいます。若いかたは仕事があるし、年を取れば体がいうことをききません。「人の争いなんかに、かまってはいられない」というのが、私たちの実情です。どうしたらよいのでしょうか。まずは、自分が平和に生きることです。自分が争っていて、どうして他人に平和をもたらすことができるでしょうか。

 渋谷で日曜日の朝8時頃に教会まで歩きますと、若いかたが何人か左手にビニール袋、右手に長いはさみを持ってゴミを拾っています。だから、昼間の渋谷にはゴミは落ちていません。これは決して当たり前の話ではなく、オリンピックが開かれているパリはごみがたくさん落ちているし、イタリアのローマはもっときたないです。

 日本ほどゴミが落ちてない国はありません。住んでいる人が町をキレイにさえしておけば、あとは神さまが「ここはきれいな街だから、ゴミを落とすなよ」と、言って下さいます。町をキレイにしたいのなら、まずは自分の住んでいる周りキレイにする。そうすれば、誰もゴミを落とさなくなります。

 人々に平和をもたらしたいのなら、まずは自分が平和のうちに暮らす。そうすれば、おのずと周りに平和が広がります。自分が平和であることで、結果的に争いのない世界が近づきます。私たち自身が愛される人でありたいと思います。愛されることで心の中に安心がもたらされ、おのずと他人に対する愛になります。愛されている一匹の犬は、家族に平和をもたらします。「子はかすがい」と言いますように、子どもも和解をもたらします。若い人も高齢者も、元気な人も病気の人も、誰でも平和と和解をもたらします。

 その人が、力を持っているからではありません。すべては、神さまがなさることです。皆さまおひとりおひとりが、平和な心で暮らすのがなによりです。そしてできることなら、平和のないところに平和がもたらされるようにと、祈りましょう。