マガダ国
http://www.zuikouji01.sakura.ne.jp/monngo/bukkyou/touzenn/01hokken/12hokken/12hokken.html 【マガダ国】より
ガンジス河を渡り、南下1由延(ヨージャナ)でマガダ国のパータリプトラに到る。パータリプトラはアショーカ王の治めた所である。城中の王の宮殿は皆鬼神によって建てさせたもので、石を重ねて門や石垣を造り、宮殿の彫刻や装飾はこの世の人の作ったものではない。今も元のまま残っている。
アショーカ王の弟は羅漢道を悟って、いつも耆闍崛山(ぎしゃくっせん)に住み、心から閑静を願っていた。王は弟を心から敬い、家で供養したいと請うた。ところが、弟は山の静かな生活が楽しいので、この願いを受け入れなかった。するとアショーカ王は弟に向かって「それでは私の請願を受けてください。汝が山がいいのなら、必ず私は汝のために城の裏に山を造りましょう」と言った。そこで王は飲食を整えて、もろもろの鬼神を召し集め次のように告げた。「明日はすべての鬼神が私の要請を受けて欲しい。ただ座席がないから各自石を持ってきなさい」。翌日もろもろの大鬼神はおのおの大石を持って来て、縦横4~5歩を避けて坐った。アショーカ王は、そこで鬼神たちにその石を重ねて大石山を造らせた。その大石山の底に五つの大きな四角い石で長さ3丈、広さ2丈、高さ1丈ばかりの一つの石室を造らせた。一人の大乗バラモンの人でラージャスバルマという男が、この城の裏の石室に住んだ。彼は悟りを開き智慧多く、できぬこととてなく、起居振る舞いは清浄であった。アショーカ王は篤く敬い師事し、もしそこへ赴いて挨拶する場合も決して並座、客と並んで座を同じくするようなことはしなかった。仮りに王が敬愛心でバラモンの手を執っても、それが終わるとバラモンはすぐに自らの手を潅ぎ洗う。歳はおよそ50余歳で、国を挙げて仰ぎ誉め讃えている。このバラモン一人のおかげで仏法を広く弘めている。そのため、外道も仏法の衆僧たちを迫害することがない。
アショーカ王塔の付近に摩訶衍(まかえん)僧伽藍が作られ、甚だ美しい。また小乗の寺もあり、ここに合わせて6~700人の衆僧がいる。衆僧たちの威儀秩序は見るべきものがある。四方の高徳の沙門や学問の人で、仏法の奥義、学理を求めようと欲する人は皆この寺に来る。かつてのバラモンの師、文殊師利(もんじゅしり)という人もまたこの僧伽藍に住み、国内の大徳沙門(しゃもん)、もろもろの大乗の比丘たちも皆等しく尊敬している。
およそこの中インドでは、この国の都城・パータリプトラが最大である。町の人々は富み栄え、競って仁義、仁の道を行っている。毎年常に建卯2月の8日に行像を行う。四輪車を造り、竹を縛って五層に作り、斗拱や九輪の柱があり、高さ2丈ばかり。その形状は塔そっくりである。その上を白木綿で蔽い、諸天の形像を彩画する。金銀、瑠璃でその上を飾り、繪の幡や蓋を懸け四辺に龕(がん)を作る。龕には皆坐仏があり菩薩が立侍している。このような四輪車がおよそ20車もあり、車々の装飾はおのおの異なっている。行像の日になると、この国の道人や俗人は皆集まり、音楽と踊り、倡伎楽を行い香華を捧げて供養する。やがてバラモンが来て仏を招請し、仏はだんだんと城内に入り、城内で2泊する。その夜は一晩中燈を燃やし、伎楽を奉納して供養する。この日は国々皆同様である。
その国の長者、居士(こじ)はおのおの城中に福徳医薬舎を建てている。およそ国中の貧窮者、孤独の人、不具者、一切の病人は皆この福徳医薬舎に到り、種々の供給を受けることができる。ここでは医師が病気を診て、良い飲食や湯薬を与え、病人たちを安楽にしてやり、良くなった者は自ら去ることになっている。
アショーカ王は7塔を壊し八万四千の塔を作った。そのうち、最初に作った大塔はこの城の南3里余の所にある。この塔の前に仏足跡があり、そこに精舎があるが、戸の北が塔に向かっている。南には一つの石柱があり、石柱の周囲は1丈4~5尺、高さは3丈余である。塔には次のような銘題がある。「アショーカ王はこの閻浮提(えんぶだい)において、四方の僧に布施し、また銭で贖(あがな)い、このことを3度繰り返した」と。
塔の北3400歩の所は、アショーカ王が元ここに泥梨城(にり城)を造った所である。そこの中央に石柱がある。これも高さが3丈余で上に師子がある。柱上には銘があり泥梨城を造った因縁と年数と月日が記されている。
[註]
【パータリプトラ】マガタ国は中インド最大の王国で、地方5000里という。パータリプトラはその首府。婆羅利弗多羅、華氏城、香花宮城とも訳す。今のパトナ。仏在世の時、ビンビサーラ王は旧王舎城に、その子阿闍世(アシャータトゥル)は王舎城にいたが、阿闍世王はガンジス川北のブリジ族(弗栗恃族)の侵入を防ぐたえパータリプトラに築城、後アショーカ王時代に王城となった。
【アショーカ王の弟】初め王弟は極めて嬌恣であったが、アショーカ王に「汝の罪は死罪に当たる。ただし7日間王位を分かってやるから起居飲食自由にせよ」と言われ、憂悶の後、王に無常を説教され、翻然(ほんぜん)大悟して阿羅漢道に入ったという。この説話は『阿育王伝』等に見え、その名宿大多(シュクダイタ)、帝須(テイシャ)、摩磬醯因陀羅(マケインダラ)などと記されている。
【耆闍崛山】グリドゥラクータの略音写。霊鷲山、霊山とも訳す。マガタ国の旧首都王舎城の北東にあり、仏が説法された地として有名。
【ラージャスバルマ】原文「羅沃私婆迷」は音写。王師の意。羅汰私迷、邏闍桑弥と訳す。
【摩訶衍僧伽藍】摩訶衍は大乗、即ち大乗寺の意。
【建卯の月】インドの歳首で中国の2月に当たる。
【福徳医薬舎】かかる施薬、療病、悲田等の施設はアショーカ王時代に始まるという。アショーカ王碑文に見える。我が国の聖徳太子に始まる施薬院、療病院、悲田院の開設もこの伝統に基づく。
【最初の大塔】阿育寺または鶏頭摩寺という。また鶏園寺にあるといい、あるいは王宮の北に塔、仏跡、精舎の記録も見えるが、法顕の報告とはやや異なっている。
【泥梨城】ニラヤ(地獄)の音写。その因縁についてはガヤ城に詳しい。
王舎城とその周辺
ここパータリプトラから南東に行くこと9由延(ヨージャナ)で一小孤石山に到る。山の頂上に石室がある。石室は南向きである。仏はその中に坐り、天帝釈が天楽般遮(パンチャシカ)を率いて琴を弾じ、仏を楽しませた所である。この時天帝釈は42の質問をした。仏は一々指で石に答えを書いた。その書いた跡は今も残っている。この中にもまた僧伽藍がある。
ここから西南へ1由延行くと那羅(なら)という集落に到る。ここは舎利弗(シャリホツ)の本生の村である。舎利弗はこの村に還り、この村内で般涅槃(はつねはん)した。そこで、ここに塔を建てた。それは今もなお存在している。
ここから西行1由延で王舎新城に到る。この新城というのは阿闍世王(アジャセ王)が造った城である。中に二つの僧伽藍がある。城の西門を出て300歩の所に阿闍世王が仏の8分の1の分舎利を得て塔を建てた所がある。塔は高大で甚だ美しい。城を出て南へ4里行くと、道は南向して谷に入り五山の裏に到る。五山の周囲は城郭のようになっている。ここが即ちビンビサーラ王の旧城である。城は東西約5~6里、南北7~8里である。ここに舎利弗、目蓮(モクレン)が初めてアシュバジットを見た所、ニルグランタが火坑、毒飯を作って仏を請じた所、阿闍世王が酒を黒象に飲ませ、仏を害しようとした所などがある。城の東北角に屈曲した所に耆旧がアンバパーリの園中に精舎を建て、仏と1250人の弟子を請じて供養した所があり、今もそのまま残っている。その城中は荒れ果てて人は住んでいない。
谷に入り山を巡って東南方へ15里登ってゆくと耆闍崛山に到る。頂上の手前3里の所に石窟があり、南を向いている。仏は元ここにおいて座禅したもうたという。その西北30歩にさらに一つの石窟がある。そこは阿難が中で座禅し、天魔波旬は化して鵰鷲(わし)となり、この窟(くつ)の前に止まり阿難を恐れさせた。そこで、仏は神足力で石を通して手を伸ばし阿難の肩を撫でたので、恐怖はたちまち止むことができたという。この猛鳥の足跡や手の孔(あな)が今の如くあるので、ここを鵰鷲窟(ちょしゅうくつ)という。
山窟の前に四仏の坐処があり、またもろもろの羅漢にはおのおの座禅した石窟があり、どうかすると数百窟もある。仏が石室の前で東西経行(きんひん)された時、調達(ちょうだつ)が山北の険峻の間から横ざまに石を投げ落とし、仏の足指を傷つけた所もある。その石は今もなおある。
仏の説法堂は既に破壊し、わずかに煉瓦(れんが)壁の基礎だけが残っている。その山は厳かな秀峰で、この五山中最も高いものである。
法顕は新城の中で香華、油燈を買い、二人の老比丘に頼んで送ってもらい、耆闍崛山(ぎしゃくっせん)に登った。法顕は香華を供養し燈火を燃やし続けて慨然として悲嘆した。やがて涙を収めて、「仏は昔ここに住み、首楞厳(しゅりょうごん)を説かれた。法顕は生きて仏にお会いできず、ただ遺跡の諸処を見るのみである」と感慨を述べた。そこで石窟の前で首楞厳経を誦した。法顕はここで一晩泊り、また王舎新城に帰った。
旧城の北を出て行くこと300歩、道の西にカランダカ竹園精舎があり、今も現存して衆僧が掃き清めている。精舎の北2~3里に尸磨賖那(しましゃな)がある。尸磨賖那とは中国語で死人の棄(す)て墓のことである。南山を巡り西へ行くこと300歩で一つの石室があり、ピッパラ窟という。仏は食後常にここで座禅されたという。また西へ行くこと56里で山の北側に車帝窟(しゃていくつ)と呼ばれる石室がある。仏の涅槃の後、ここに500人の阿羅漢が集まり経典を結集(けつじゅう)した所である。経を出すときには三つの空座を設けて厳かに飾った。舎利弗(シャリホツ)の座は左に、目蓮(モクレン)の座は右にある。集まった阿羅漢は500人に一人足らず、大迦葉(大カショウ)が上座であった。時に阿難(アナン)は門前にいたが入ることができなかった。その所に塔を建てたが、それは今も残っている。
この山を巡って、また諸羅漢の座禅の石窟が甚だ多い。旧城の北を出て東に下ること3里、調達(ちょうだつ)の石窟がある。ここから50歩離れた所に大きな四角い黒石がある。昔一人の比丘がこの上で経行し、自らの身の無常、苦空を思惟したという。比丘は不浄観を得て、自らの身を厭わしく思って刀を取り自殺しようと思った。しかし、また世尊が戒を定めたことを思うと、自殺することはできない。だがまた、そうではあるが、私は未だ三毒の煩悩の賊を殺そうと欲しているのであると思い直し、直ちに刀で自ら首を切った。初め傷つけるや、一歩を進めて須陀洹(しゅだおん)を得、すでに半ばに及ぶや阿那含(あなごん)を得、首を断ち終わるや阿羅漢果(あらかんか)を成就し般涅槃(はつねはん)したという。
[註]
【一小孤石山】いわゆる帝釈窟山、インドラシャイラグハー。霊鷲山の東側にあり、ラージギルから約10㎞の所にある。
【天楽般遮】般遮(パンチャシカ)の訳。般遮尸棄とも訳す。琴を弾き歌を歌って仏徳を嘆える楽神。
【42の質問】天帝釈が煩悩、愛憎等、自らの疑問42項を仏に問い、仏は一々これを指示したという。
【那羅】(なら)ナーラカ、ナーランダの音写。ナーランダ寺の東南20余里という。
【王舎新城】王舎城は中インド、マガタ国の首都。パドナ市の南ビハール地方のラージギルがその旧趾である。釈尊に関係の深かった都城で、ビンビサーラ王、アジャセ王、ヴェーデーヒー夫人らのいた所。南方に旧城、北方に新城があり、付近に迦蘭陀竹林、霊鷲山などがある。王舎新城は今もラージャグリハとよばれ、曷羅闍姞利哂、羅閲祇と音写し、王舎城と訳す。アジャセ王の居城。旧城の北門の北方約600mにある。ここに一辺約600mの広大な城壁の遺跡が現存している。王舎城とは普通ラージギルを指すが、後にアショーカ王が首都をパトナ(華氏城)に移したので、パトナを王舎城と呼ぶこともある。
【阿闍世の舎利塔】世尊涅槃の後、8国の王はそれぞれ舎利を分かち、アジャセ王は王舎城に持ち帰り、城の西門外300歩に塔を建てた。現在の道の東側にある小高い所で、イスラム教徒の墓地となっているところという。
【五山】旧王舎城の周囲にある山々のうち、精舎、石窟の多い五つの山を指す。『大智度論』に「問うて曰く、仏何ぞ以て多く王舎城に住するや。答えて曰く、座禅の精舎多きを以ての故なり。余処にはあるなし。竹園、①鞞婆羅跋恕(バイバーラバナ)、②薩多般那求呵(サッタバルナグハー)、③因陀羅勢求呵(インドラサイラグハー)、帝釈窟山、④薩簸恕魂直迦鉢婆羅(サルピクンデイカ・パーバラ)、⑤耆闍崛、霊鷲山の如し。五山の中に五精舎あり。竹園は平地にあり」とあり、①は今のヴァイバーラ・ギリで旧城の西北に、②は今のソーナギリで旧城の南方に、③はサイラギリ東方のギルイェーク、一小孤石山、④は今のヴィプラギリで旧城の東北に、⑤はヴィプラギリ東方のチャタギリに推定されている。竹園はいわゆるカランダカ竹園を指す。
【王舎旧城】ビンビサーラ王の旧城。釈尊在世時代のマガタ国王。その居城はクシャーグラプラ城という。クシャーグラプラは茅(かや)またはススキに似た草で、祭式用の敷物として用い、吉祥草、上茅、香茅と訳す。周囲を山に囲まれた広潤な盆地で、山の尾根沿いに城壁がめぐらされ、上茅が多いので上茅宮城と呼ばれている。遺跡は今も一部が部分的に残っているものの、大部分は湮滅している。
【アシュバジット】原文「頞鞞」。阿説示、馬勝とも訳す。初め舎利弗は外道を信じ、ある時王舎城でアシュバジットに会い、その起居の端正さを見て仏の説法を聞き、開悟した後、目蓮に告げて共に得道したともいう。
【ニルグランタ】尼犍子(にけんし)はジャイナ教の祖ニガンタ・ナータプッタのこと。尼犍子には作火坑毒飯請仏の所伝はない。『大唐西域記』によれば、ニルグランタ外道の勝密は火坑と毒飯で仏を傷害しようとしたという。
【黒象の仏傷害】調達はアジャセ王と謀り、王のダナバーラ(護財)という悪象に酒を飲ませて町に放した。象は托鉢中の世尊に合うと膝を屈して足をなめたという。
【耆旧】耆旧は耆婆(ぎば)、ジーバカの訛転。ジーバカは王舎城の遊女サラーヴァティーの子で王舎城の名医。彼は自らの持つアンバ園に精舎を建てて世尊に奉じた。
【天魔波旬】マーラのパーピーマンドゥまたはパーピーヤームスの訳。人の命や善根を断つ悪魔。
【鵰鷲】(ちょうしゅう)わし。
【調達】デーバダッタが山上から巨石を転下し、その破片が仏の足指を傷つけた説話は諸本に見える。
【首楞厳】(しゅりょうごん)『首楞厳三昧経』。法顕以前、支婁迦讖、竺法護、竺叔蘭の三訳及びこれら三本を集めて一経とした『支敏度合首楞厳経』がある。現存のものは法顕渡印中、鳩摩羅什が長安で訳した『新首楞厳経』。内容は、堅意菩薩が菩提を早く得るための三昧を問うたのに対し、首楞厳三昧を説いたもの。
【カランダカ竹園精舎】原文「迦蘭陀」の略音写。カランダカは王舎城の長者。旧城の北にある竹林を仏に奉じたという。
【尸磨賖那】(しましゃな)シュマシャーナの音写。尸陀林(しだりん)とも記し、棄尸人墓、死体の棄て墓。
【ピッパラ窟】原文「賓波羅窟」の音写。畢鉢羅窟ともいう。ここでも仏典結集が行われたとの説がある。
【車帝窟】(しゃていくつ)車帝はサプタパルナグハーの訛略。刹帝山窟、七葉窟ともいう。『大唐西域記』には「竹林の西南、行くこと5~6里、南山の陰の大竹林中、大石室あり」とある。有名な王舎城仏典結集はここで行われたという。
【三つの空座】三空座には中央に仏、左に舎利弗、右に目蓮の座を設けた。舎利弗、目蓮共に仏陀より早く入滅した。次に大迦葉の席、次いで五百羅漢の席を作った。
【阿難】王舎城結集に当たり、迦葉は阿難に初めから羅漢の席に着くのを許さず、一夜門外で余苦を脱し、しかる後座に就くことを許した。
【阿羅漢果】アルハト(阿羅漢)の音写。小乗における修行段階の最終過程。この果に達すると一切の見惑、修惑を断じ、迷いの世界に流転することなく、涅槃に入ることができるという。
ブッダガヤ
ここから西へ行くこと4由延(ヨージャナ)でガヤ城に到る。ここもまた城内は荒れ果てている。さらに南に行くこと20里で、菩薩がもと6年間苦行した所に着く。この所には林木がある。ここから西行3里で、仏が水に入って洗浴し、天が樹枝を指し伸ばし、それを掴んで池を出られたところに到る。また北へ2里行くと、弥家(メーカー)女が仏に乳糜(にゅうび)を奉じた所に行くことができる。ここからさらに北へ2里行くと、仏がある大樹の下の石の上に東向きに坐り、乳糜を食べた所で、その樹や石は今もなお悉く存在している。石は広さと長さはおよそ6尺、高さは2尺ばかりである。
中インドは寒暑ともに順調で、樹木のあるものは数千歳から万歳にまで及ぶという。ここから東北へ行くこと半由延で、一つの石窟に到る。ここは菩薩が中に入り西向きに結跏趺坐(けっかふざ)し、心に「もし私が成道するとすれば、まさに神験があるに違いない」と念じた所である。この窟内の石壁の上にはまさしく仏影が現われており、長さ3尺ばかりで今もなお明瞭である。
この時天地は大いに動き、諸天神が空中で「ここは過去、未来の諸仏の成道の所ではない。ここから西南方へ行くこと半由延足らずにある貝多(ばいた)樹下こそ、まさに過去、未来の諸仏の成道の所である」と言った。諸天はこう言い終わると直ちに前に立って唱導し、案内して行った。かくて菩薩は起って行き、樹から30歩離れた所で天は吉祥を授け、菩薩はこれを受けた。また15歩行くと500匹の青雀(せいじゃく)が飛んできて菩薩の周りを3回飛び回って去った。菩薩は進んで貝多樹の下に到り、ここに吉祥草を敷き東向きに坐った。その時魔王は三美女を遣わし、北から来て試させた。魔王自らは南側から来て試した。菩薩が足の指で地を撫でると摩兵は退散し、三美女は老女に変わった。上述の苦行6年の処からこの諸処に到るまで、後人は皆この間に塔を起こし像を建てた。それらは皆存在している。
その他、仏が成道し、7日の間樹を見て解脱の楽しみを受けられた所、仏が貝多樹下において7日間、東西に経行(きんひん)された所、諸天神が変化して七宝堂を造り、仏を7日間供養した所、文鱗盲龍(ムチャリンダ)が7日の間仏を巡った所、仏が尼拘律樹下の四角い石の上で東向きに坐り、焚天(ぼんてん)が来て仏を請じた所、四天王が鉢を奉じた所、500人の商人が麨蜜(しょうみつ)を仏に奉じた所、仏が迦葉(かしょう)兄弟の師徒1000人を度したもうた所など、これらの諸処もまたそれぞれ塔を建ててある。
仏が得道した所は、3つの僧伽藍があり、皆僧が住んでいる。衆僧も民戸も供給が豊かで欠乏している者はない。ここは戒律は厳峻で、威儀や起居、入衆の法は仏在世の時に聖僧たちが行った方法と同じであり、今に至っている。仏の般涅槃(はつねはん)以来、四大塔の所は相承けて絶えていない。四大塔とは、仏の誕生の所、得道の所、転法輪の所、般涅槃の所である。
アショーカ王は昔、小児の時に道で遊んでいると、迦葉(かしょう)仏が乞食(こつじき)を行って来るのに会った。小児は歓喜して一握りの土を取って仏に施した。仏は持ち帰って、その土を経行の地に撒いた。この果報により、王は鉄輪王となり、閻浮提(えんぶだい)の王となった。そして王は鉄輪に乗り閻浮提を巡行し、鉄囲の両山の間の地獄で罪人を懲罰するのを見たので「これは一体何か」と群臣に尋ねた。群臣は「これは鬼王閻羅(えんら)が罪人を懲罰しているのです」と答えた。アショーカ王は「鬼王でさえなおよく地獄を造って罪人を懲罰している。私は人間の王である。どうして地獄を作って罪人を懲罰しないのか」と考え、臣下らに「誰かわしのために地獄の主となって、罪人を懲罰する者はいないか」と尋ねたので、人々は次のように答えた。「それはただ極悪人だけがよくできるでしょう」。そこで王はすぐさま臣下を各地に遣わし、あまねく悪人を求めた。とある池の畔に一人の男がいた。長身でたくましく、色は黒く髪は黄色で目は青く、足で魚を釣り、口で禽獣(きんじゅう)を呼び、禽獣が来ればただちに射殺して逃れうるものはなかった。臣下らはこの人を見つけたので、王の所へ連れて行った。王はひそかにこの男に勅(みことのり)して次のように言った。「汝は四方に高い石垣を作り、中に種々の華果のなる木を植えよ、良い浴池を造り、立派に装飾して人々に憬れ渇仰させなさい。牢には門戸を造り、もし入ってくる人があったら早速捕えて色々罪を懲罰し、二度と出られぬようにすること。たとえ私が入ったとしてもまた罪を懲罰して出られぬようにすること。今私は汝を地獄主に命ずる」。
ある比丘が段々乞食をしていく内に、その地獄の門に入ってしまった。獄卒はこれを見てすぐさまその罪を懲罰しようとした。比丘は大いに恐れ、しばらく昼食をとることを許されたいと請うた。しばらくして、また一人の人が入ってきた。獄卒はこれを碓臼(つきうす)の中に入れて搗いたので、血の飛沫(しぶき)がほとばしった。比丘はこれを見て、この身の無常、苦空、泡の如く沫の如きことを思惟(しゆい)した。すると、たちまち阿羅漢果を得た。次いで獄卒は比丘を捉えて釜の行の湯の中に入れた。比丘の心と顔は晴々としている。すると火は消え湯は冷めて、中に蓮華が生じ、比丘はその上に坐っていた。
獄卒は直ちに出かけて行って王に獄中の奇怪なことを報じ、王自らやって来て見られんことを願った。王は、「私は先にしなければならぬ要件がある。今はどうにも行くことはできない」と言ったが、獄卒は「このことは小事ではありません。どうか王よ、早く行ってください。どうか先にすべき要件を替えて行ってください」と言ったので、王はすぐ獄卒に従って獄に入った。すると比丘が王のために法を説き、王は信解(さとり)を得た。すぐさま地獄を壊し、前にしたもろもろの悪を後悔した。
これ以後、王は篤く三宝を信じ、常に貝多樹の下に行って過ちを悔いて自責し、八斎を受けた。王夫人が「王はいつも何処へ出かけるのですか」と問うと、群臣は「王は常に貝多樹の下におられます」と答えた。夫人は王の不在の時をうかがって、人をやってその樹を切り倒させた。やがて王が来てこれを見ると、煩悶失神して地に倒れた。諸臣がしばらく水を顔に注ぎ、ようやく蘇った。王は煉瓦を重ねて四辺に囲いを造り、100本の瓶に入れた牛乳をその根に注いだ。王は五体を地に投げ「もしこの樹が生きなければ、私は二度と起ち上がらぬ」と誓った。この誓いをすると、すぐさま根が地中から上がって樹が生じ、今日に至るまで樹齢が続いている。今、この樹の高さは10丈足らずである。
ここから南へ3里行くと一つの山に到り、鶏足山という。大迦葉は今この山の中にいるといわれている。山を裂いて下に入り、入った所は常人が入ることはできない。大迦葉の下に入った所は極めて遠く、旁孔が通じており、迦葉の全身はこの中に住んでいるという。孔(あな)の外には迦葉がもと手を洗った土がある。土地の人々はもし頭が痛くなると、この土を取って頭に塗ればすぐ治るという。
この山中には、今もなおもろもろの羅漢が住んでいる。天竺諸国の道人は、年々ここに赴いて迦葉を供養している。迦葉を崇拝することの熱心な人々は、夜になるとすぐ羅漢がやって来て共に論議し、その疑いが解けると忽然(こつぜん)と見えなくなるという。この山は榛(はしばみ)の木がよく茂っており、また獅子、虎、狼が多く、むやみに入れない所である。
[註]
【ガヤ城】原文「迦耶城」の音写。今のガヤ市にある。
【6年間苦行】出家した釈尊は王舎城霊鷲山で諸仙人を訪ね、次いで侍者驕陳如ら5人と尼蓮禅河辺で6年間苦行し、背骨が曲がって起つこともできなくなった。かくて彼は苦行が解脱の道でないことを悟り、尼蓮禅河で身を清め、岸に上がって諸味を採り身体に塗油し、さらに牧女弥家(メーカー)の進める乳糜を食べた。5人はこれを見て太子退転と考え、釈尊を捨てて去った。
【弥家女】(メーカー)弥迦とも訳す。弥家は一般に乳糜(にゅうび)を捧げた牧女はスジャータ(須闍陀)と伝えられるが、『一切経音義』には弥迦の名を伝えている。
【林木】いわゆる苦行林。今のブッダガヤ大塔のやや南、文鱗盲龍池付近に当たるという。
【石窟】ブッダガヤの東北約5㎞にある前正覚山仏影石窟。仏は初めここで禅定しようとしたが、諸天の神験により菩提樹下の金剛座に向かわれた。
【貝多樹】(ばいたじゅ)菩提樹の原語アシュの音を略した当て字。畢鉢羅、阿輪陀樹、道樹、覚樹などの異訳がある。貝多羅葉(パッーラ)、多羅樹(ターラ)とは別種。
【吉祥草】クシャ。鳩尸草、拘尸草、細茅、細秋などとも訳す。
【貝多樹の下】貝多樹の下に金剛座がある。釈尊はここに吉祥草を敷き、東面して結跏趺坐し禅定に入った。この時、魔王と三魔女が来て釈尊を脅かした。釈尊は右手で地を案じ、魔王を退散させて悟りを開かれたという。ただし、現存の菩提樹と金剛座はカンニンガム氏以来新たに設定されたもので、その正確な旧位置は不明確である。
【地を撫でる】足指案地は仏の神通を示す語であるが、『仏本行集経』『釈迦氏譜』などには「手を以てこの地を指す」「手を伸ばして地を案ず」などとあり、いわゆる降魔相を示している。
【文鱗盲龍】ムチャリンダ。龍王。
【尼拘律樹下】榕樹を指す。
【麨蜜】(しょうみつ)釈尊は成道の後7日間観樹して解脱の楽しみを受け、また7日間東西経行し諸天の供養を受け、ムチャリンダ龍王に繞護(ぎょうご)された。間もなく500人の商人がやって来て乳酪、麨蜜を供養した。この時、仏は鉢がなく、外道のように手で受けられなかったが、四天王が各々一鉢を持って来たので、仏は皆重ねて一鉢とした。仏鉢に四際があるのはこの故事に基づく。一説には、この時来たのはタプッサとバッリカという2人の商人だったという。
【迦葉兄弟】釈尊は鹿野苑で従者ら5人を済度した後、ネーランジャラ(尼蓮禅河)河岸のウルヴェーラーで、ウルヴェーラー・カーシャパ(優楼頻縲迦葉)とその徒500人を度した。次いでその弟ナディー・カーシャバ(那提迦葉)とその徒250人、同じくガヤー・カーシャパ(伽耶迦葉)とその徒250人を済度したという。
【入衆の法】衆人とともに起居し、人間を遊行する作法で、①下意、②慈心、③恭敬、④次第を知る、⑤余事を説かずを「入衆の五法」という。
【迦葉仏】『南宋本』には釈迦仏とある。『阿育王伝』に、徳勝、無勝の二童子が道で土遊びをしていると世尊が来たので、徳勝童子が土を供養したという説話が見え、釈迦仏が正しいことが分る。
【鉄囲】チャクラヴァーダの訳。輪囲山ともいう。スメール(須弥山)を中心に七山八海があり、その第八海(醎海・かんかい)を取り巻く山を鉄囲山という。
【鬼王閻羅】ヤマラージャの字音の省略形。
【八斎】八戒または八斎戒ともいう。在家の男女が一日だけ保つことを期する戒。①生き物を殺さない、②盗まない、③性交しない、④嘘を言わない、⑤酒を飲まない、⑥化粧、装身をやめ歌舞を見ない、⑦高くゆったりしたベッドに寝ない、⑧昼以後食事をしない等の八つの戒を守るようにする。出家生活を一日だけ守るという形をとったもの。
【鶏足山】クックタパダギリの訳。屈屈托播陀山、究究羅跋大山等と写し、尊足山、鶏脚山とも訳す。ブッダガヤ東南東32㎞のグルパ山に推定されている。
【羅漢が住んでいる】この部分の原文「即日故」の三字は特に読み難い。「この山中では太陽が沈み始めると、全ての羅漢はやって来てその座を占める」「それ故、この時以来、この山中に羅漢がいた」などと訳されている。今は「法顕の訪いしその時、なお諸羅漢の住するものありし」の意に従う。
ベナレス
法顕は引き返してパータリプトラに向かった。ガンジス河に従って西に下ること10由延(ヨージャナ)で曠野というある精舎に到った。ここも仏の住まわれた所で、今も現に僧がいる。それからまたガンジス河に従って西方へ12由延行くと、カーシー国のバーラーナシー城に到る。バーラーナシー城の東北10里ばかりの所に仙人鹿野苑精舎がある。この苑には元辟支仏(びしゅく仏)が住んでおり、常に野鹿がここに生息していた。世尊がまさに成道しようとすると、諸天が空中で「白浄王子は出家して道を学び、今から後7日でまさに成仏するであろう」と唱えた。辟支仏はこれを聞くと、直ちに涅槃に入った。そこで、ここを名づけて仙人鹿野苑と呼んでいるのである。
世尊が成道すると、後人はここに精舎を建てた。仏は拘驎ら5人を度したいと欲したが、5人は互いに「この沙門ゴータマ(瞿曇沙門)は元6年間も苦行し、毎日一麻一米、わずかな麻の実と米を食し、なお道を得なかった。いわんや人間(じんかん)に入り身口意を欲しいままにして、何の道を得ていようか。今日来たら互いに慎んで一緒に語るのはよそう」と言い合った。ところが、ここに仏がやって来ると、5人は皆起って礼をしたという。さらにそこから北行60歩の所に、仏がここで東向きに坐り、初めて法輪を転じ、拘驎ら5人を度した所がある。その北20歩の所は、仏が弥勒のために授記した所である。その南50歩はエーラーバットラ龍が、「私はいつこの龍身を免れることができましょうか」と仏に問うた所がある。これらの所には皆塔を建ててあり、今も現存している。中に二つの僧伽藍があり、いずれも僧が住んでいる。
[註]
【曠野】『南宋本』は「名曠野」、『北宋本』は「多曠野」とある。曠野はアータビカの訳。阿托婆拘、阿臘婆、林野などとも訳す。諸本には、ここにおいて釈尊が曠野鬼を教化された説話が見る。位置未詳。パトナ~ベナレス間のバルパに推定する説もある。
【カーシー国】原文「迦尸国」の音写。今のベナレス地方一帯。
【バーラーナシー城】婆羅捺城。波羅奈、波羅痆斯とも訳す。今のベナレス。初転法輪の霊場ムリガダーヴァ(鹿野苑)に近く、また多くのヒンズー教徒がこの町のガンジス河畔に集まり、古来宗教都市として著名である。
【仙人鹿野苑精舎】仙人住処、仙園、鹿苑ともいう。ムリガダーヴァは今のベナレスの北にあるサールナートで、多くの仏跡がある。
【法輪を転じ】鹿野苑は初転法輪(しょてんぼうりん)の霊場として名高い。釈尊はブッダガヤで成道の後、最初にムリガダーヴァに赴き、かつて苦行を共にした喬陳如・カウンディンヤ(拘驎)、頞鞞・アシュバジット(馬勝)、跋提・バドリカ(小賢)、十力迦葉・ダシャバラ・カーシャパ(起気)、摩訶男拘利・マハーナーマ・クリカ(摩訶男)の5人、いわゆる五比丘を説法し仏弟子とされた。この5人は釈尊の父浄飯王が太子に奉待させるため派遣した人々であったという。初転法輪説話は諸本に見える。
【弥勒に授記】弥勒菩薩は滋氏(じし)と訳し、阿夷多(あいった)とも号す。釈尊は鹿野苑で処比丘を集め、弥勒は今兜卒天(とそつてん)で天人のために説法しているが、4000歳(人寿56億7千万年)の後、この世に下生して成仏し、釈尊に代わると予言され、その記別を授けられたという。
【エーラーバットラ龍】原文「翳羅鉢龍」の訳。伊羅鉢、伊羅鉢多羅とも訳す。この龍は過去に伊羅草を損じ、その果報によって龍身となり、常に人身に還りたいと願っていた。迦葉仏に会って釈尊の出世を教えられ、釈尊に会うと直ちに龍身脱出の法を尋ねた。仏は仏道に帰依し修行を続ければ、弥勒菩薩出世の時、人身に還り得ようと諭したという。