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大宝浦(大宝の浜)

2024.08.17 05:44

https://murauchi.muragon.com/entry/2771.html 【西の高野山 大宝寺は弘法大師(空海)ゆかりの地、大宝浦(大宝の浜)が目の前に広がっていた】より

西高野山と呼ばれる大寶寺は唐から帰国した弘法大師(空海)が三論宗を真言宗に改宗して、真言宗最初の道場とした古刹です。

西高野山/西の高野山 大寶寺/大宝寺(だいほうじ)

大寶寺前の大宝浦(大宝の浜)が見えました!

大寶寺に向かい細い道を EV(電気自動車)を走らせて進みます

ここ福江島はゆったりとした時間が流れています 大寶寺に着きました

大寶寺(だいほうじ)

大寶寺は、大宝元年(701年)に来朝した中国僧道融が、上陸地として最初であった大宝の浜において、 当時地区の住民により奉られていた笹海(さざめ)の観音院をうつしたのが由来とされ、その後、 持統天皇(645年~703年)により勅願寺とされたという。 その後、第16次遣唐使(804~805年)と共に入唐していた空海が、帰朝の際に大宝に上陸し、大寶寺に滞在していた間に真言宗に改宗したといわれ、「西の高野山」と称されるようになった。

毎年10月17日には、弘法大師の縁日とし、本堂前庭において、当代法印による真言密教の護摩法要が 豪壮に挙行され、島内外から多数の人々がお参りする。

この寺には最澄が自ら彫られ、奉納された十一面観音など貴重な物が数多く収蔵されており、 中でも県有形文化財に指定されている「梵鐘」が有名である。

また大寶寺・奥の院の小高い丘の上に「へそ神様」と呼ばれる石塔があり、その下方にある穴に、 子どもが生まれるとその健やかな成長を願い、へその緒を紙に包み島内外から収めに来ていた。

なお、大寶寺の一角には神社があり、この言代主神社の秋祭りの本祭には、 国選択無形民俗文化財〔昭和54年(1979年)〕に指定されている「砂打ち(ずなうち)」がある。 この祭りは、浜の真砂を集落中に打ち撒き、悪霊・悪疫を払うとされている独特の祭である。

大寶寺の護摩法要  大宝砂打ち(昭和52年/1977年)

大寶寺の由来  大寶寺目の前の大宝漁村センターは閉鎖されていました

漁業が廃れてきている感じです・・・

大寶寺参拝の前に、空海が降り立ったという大宝の浜に下りてみます

大宝の浜に転がっていた丸い石

第16次遣唐使船で唐に渡った空海(弘法大師)が遣唐使の役目を終え、日本に帰朝しこの浜の上を歩いたという史実は歴史ロマン以外の何ものでもありません。

空海がこの浜に立ったのは西暦800年頃のことです。その空海の勇姿を知るのはただこの白波だけなのです。命がけで唐に渡った日本の若者達がこの浜に降り立ったのです!!

向こうの山も空海たちをやさしく見守ってくれていたと思います本当にやさしいです、日本の山河は。砂の中に手を入れると心が落ち着きます

白濱仁吉功労記念碑という石碑が大宝の浜を見渡すように建っていました

"離島振興の慈父" 白濱仁吉功労記念碑

白濱仁吉(しらはま にきち)先生顕彰碑文

"離島振興の慈父"というのは離島の人々からすると最大限の賛辞ですよね、白濱仁吉先生

大寶漁港修築之碑

2つの石碑が大宝の浜を見下ろしています

右側の石碑は白濱仁吉先生の後ろ姿に見えてきませんか?

白濱仁吉功労記念碑の碑文は長崎県知事 高田勇書のようです

大宝の浜

漁港から陸の方を眺めた景色

それでは大寶寺に参拝します

「西高野山」 国指定重要文化財 "西の高野山" 大寶寺

大寶寺の山門

大寶寺の境内

子安弘法大師

弘法大師が玉のような赤ちゃんを抱っこしています♪♪

劇的な文章が綴ってあります!!あなたもぜひ読んでください!!

子安弘法大師

お大師さまが四国を巡錫の途中、旅姿の女人がたいへん難産で苦しんで居られました。この様子を見ては哀憐の涙留め難く、お大師さまは尊い秘法をもって、お加持をなされますと今まで命も絶えんばかりの難産は不思議や安らかに玉のような子供が生まれ、そのうぶ声は清く高らかにみ仏の世を讃美し奉るかのように、谷々峰々へ響きわたり、お大師さまは我手に抱かれ、健やかに育つよう祈られました。子安大師の御霊徳にすがりて子宝、安産、子孫繁栄などみ仏のお慈悲を心として幸福な家庭・人生をとの御誓願であります。

「うぶ声は清く高らかにみ仏の世を讃美し奉るかのように、谷々峰々へ響きわたり」という部分、ドラマチックです!大感激です!!

大寶寺本堂

大寶寺不動堂

境内の一番奥から小高い丘の上にある奥之院に向います

この坂道を上ると奥之院です

大寶寺奥之院

子宝地蔵尊(すがり金仏さま)

子寶地蔵尊(すがり金仏)

いいお顔してますねー

臍神さま参道

臍神さま参道、誰もいません。

大寶寺うつくしいお寺です

あっ!五重塔が見えました!

大宝寺奥の院 五重の層塔

臍神さまです!!

へそ神様(五重の石塔)

奥の院の小高い丘の上には「へそ神様」と呼ばれる五重の石塔があり、子どもが生まれると、島の人々は健やかな成長を願って紙に包んだへその緒を石塔の下にある穴に納めたといいます。

五島市観光協会より引用

微笑ましい風習ですね。

子供が生まれ、育つというのはこの島の人々にとってとても大切なことだったのでしょう

大寶寺とお別れです高野山真言宗 心の伝道ポスター「祈りと共に 苦難を乗り越える」

「他者(ひと)を許せば 心が楽になる」大寶寺境内で元気よく鯉のぼりが泳いでいました

"マイフェバレイトドリンク" 愛のスコールを体内に注入します

さあ「井持浦ルルド」まであとわずかです


https://misakimichi.com/archives/1080 【大宝寺  五島市玉之浦町大宝】より

福江港ターミナルから県道49号線と県道384号線により富江経由か、県道27号線と県道164号線により二本楠経由で玉之浦町中須に出て玉之浦町大宝まで行く。

富江経由は海岸部を通るので、急カーブが多い。後者が道が整備され、早くて楽である。

大宝寺は集落の海岸部にあり、「西の高野山」といわれ、遣唐使渡航時代の空海ゆかりの古刹。寺は改築されていたが、古い梵鐘は県指定有形文化財である。

境内で長崎市鍛冶屋町清水寺にあるのと、まったく同じの「奇縁氷人石」を見た。

次を参照。  https://misakimichi.com/archives/277

長崎県HP「長崎県の文化財」及び五島市観光協会HP「五島市観光情報サイト 五島」による説明は次のとおり。写真は上のが県指定、下のは新しい梵鐘。

大宝寺の梵鐘(一口)  県指定有形文化財・工芸品

指定年月日 昭和39年3月16日 所在地 南松浦郡玉之浦町大宝郷633 所有者 大宝寺

鐘身をつつむ輪郭は肩からやや張りのある曲線の裾広がりになり、下方で垂直にくだって均整のとれた姿をみせる総高1mほどの鐘である。上帯は素文、乳区には円錐形の笠をつけた乳が4段4列に配されている。そして、撞座は八葉蓮弁で、竜頭の長軸方向へ配置されていて下帯も文様がない。

池の間と縦帯に銘文が陰刻されていて、「大日本国関西路利肥前州 五嶋珠浦弥勅山大宝寺」にはじまり、最後に「応安八年歳次乙卯二月十八日友瓚書之 大工豊前小蔵 藤原顕宗 十方檀那 院主 賢仙」とあり、豊前小倉の鋳造師藤原顕宗が作者であることが知られる。なお縦帯には「大願主幡州多賀郡西林寺住増信」ともあり、かかわりの人々の海の道を介してのつながりがしのばれる。

西の高野山・大宝寺  ▽福江から車45分

空海ゆかりの古刹

大宝寺は約1300年前の大宝元年に創建された。弘法大師が遣唐使と共に帰朝の途中、ここに立ち寄って真言宗最初の道場として布教した由緒ある古刹。西の高野山と云われている。大宝寺の梵鐘の鐘銘には播磨国多賀郡西林寺の僧が渡唐に際して、航海安全を祈願して大宝寺に寄進したと記されている。

鋳造した工匠は芦屋釜冶金工の流れをくんだ豊前小倉の藤原顕宗で応安8年(1375)の作。鋼製で、総高95・5cm、口径56cmある。貴重な工芸資料であり、日本と大陸との航海路の歴史の上からも重要な資料と評価され、県の文化財に指定されている。


https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1691 【三論宗】より

ジャパンナレッジで閲覧できる『三論宗』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

三論宗

さんろんしゅう

仏教の一宗派、南都六宗・中国十三宗の一つ。インドの竜樹の『中論』『十二門論』とその弟子の提婆の『百論』の三部の論書を所依として立宗しているので三論宗という。インドでは中観宗という。宗義は仏教の根本的な哲学である般若皆空・諸行無常で代表される空の哲学を根幹としている。他宗では経の価値の高下を説くのに対して、この宗では人々を導く方法において一切の経典では区別はあるが、元来は執着を離れるためである点で、同一価値を持つとするが、特にこの世界の現象そのものには実体がない、すなわち空であるという点を強調している点に特徴がみられる。インドでは四世紀中期ころから盛行をみ、中国へは五世紀の初め鳩摩羅什(くまらじゅう)によって『百論』『中論』『十二門論』が漢訳され、研究された。のち道生・曇済・法朗を経て、法朗の門下より隋の嘉祥大師吉蔵を出した。三論宗という宗の組織体系を与えたのは吉蔵で、吉蔵を宗祖とする。吉蔵は釈迦の教理は唯一理の顕揚で、二諦八不の理を終極の思想とし、破邪即顕正すなわち諸宗の偏執を取り除き、中道の理を顕すことを本旨とした。日本への伝来は吉蔵の弟子で聖徳太子の師である高麗僧恵灌に始まる。恵灌は推古天皇三十三年(六二五)に三論を伝え、飛鳥元興寺に住し、のち河内国井上寺に移ったが、大化二年(六四六)に宮中で三論を講じた。この恵灌の法脈より入唐求法僧智蔵が出で法隆寺に留住して学徒を教導して盛んとなり、のちこの法流を元興寺流と称した。一方智蔵に三論教学を学んだ道慈は、大宝二年(七〇二)に入唐留学し、吉蔵の法孫元康より三論宗を受学し、大安寺を平城右京に創建するが、天平九年(七三七)四月に大般若会を創始して、三論宗を弘めた。この法流から善議・安澄・勤操などの学僧が輩出したが、この流れは大安寺流と呼ばれた。法相宗とともに古代国家の仏教の根幹を形成した。天平十九年二月の『法隆寺伽藍起并流記資財帳』『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に三論衆と別三論衆、同年の『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』および延暦十三年(七九四)五月の『弘福寺文書目録』には三論宗・別三論供田の名称がみえ、少なくとも法脈所伝と教理の相違に基づくと推定される二学派の存在したことが認められる。三論宗の名の初見は『正倉院文書』の天平勝宝四年(七五二)閏三月十八日付の「六宗厨子」彩色に関する「充厨子彩色帳」で、第三厨子が三論宗とあり、同年八月二十四日の東大寺三論宗牒にもみられるが、前年五月の経疏出納帳に「六宗布施法」とあり、すでに三論宗は六宗の中に包含されたとすべきで、学派の成立は天平勝宝三年で、東大寺においては大仏開眼供養会を目標として成立をみたと思われる。「无相之宗教」といわれた当宗は法相教学に押されて学徒減少し衰微したようで、延暦十七年・同二十一年・同二十二年など再三にわたって三論宗復興が計られ、大同元年(八〇六)正月に至って、太政官符を以て五宗の年分度者十二人のうち、三論宗は成実宗専攻僧一人を含めて三人と定められ、成実宗は教理の類似から三論宗の付宗となった。弘仁四年(八一三)正月の御斎会において勤操は「三論ハ是レ祖君ノ宗」と説いて教理を宣揚し、西大寺玄叡は『三論大義鈔』を著わし、願暁はまた『金光明最勝王経玄枢』を著作したが、その門下に聖宝が出でて、東大寺内に東南院を建て、三論宗の本所となり延〓・観理などが輩出、延久三年(一〇七一)宣旨を以て元興・大安二寺の三論宗を吸収し、以後覚樹・永観・慧珍・珍海などが出で、鎌倉時代には聖守が出で、室町時代中期には英憲・英訓の学匠が出でたが、衰退の一途をたどり江戸時代末に至って衰亡した。

[参考文献]

『三論祖師伝集』(『大日本仏教全書』)、『三国仏法伝通縁起』(同)、井上光貞「南都六宗の成立」(『日本古代思想史の研究』所収)

(堀池 春峰)

©Yoshikawa kobunkan Inc.

改訂新版 世界大百科事典

三論宗

さんろんしゅう

普通には中国,日本の仏教宗派の一つとされる。インドからチベットへ流伝した中観派に対応するものとして,中国仏教においては三論学派があった。クマーラジーバ(鳩摩羅什)晩年の訳になる竜樹(ナーガールジュナ)の《中論》《十二門論》および提婆(だいば)の《百論》の三論を主として研究・講義し,またその哲学にもとづいて禅観を実践する学僧たちの学統である。クマーラジーバ没後,辺境地域に流散していた学統が南朝後半期に摂山棲霞寺を中心に再統合され発展せしめられ,つづいて隋の嘉祥大師吉蔵によって南北両系統の三論学の伝統が集大成された。吉蔵は,当時姸を競っていた諸学派の中にあって,〈破邪顕正〉(有無いずれにも滞(とどこお)ることのない三論の玄義)こそが仏教の根本真理であることを確立した。しかし中国においては〈三論宗〉の語が用いられたことはない。日本においても奈良遷都以前から元興寺,大安寺などに〈三論衆〉があり,吉蔵の学統を伝えていたが,天平勝宝年間(749-757)になってはじめて東大寺において〈三論宗〉の学団が南都六宗の一つとして公的に確立されたと考えられる。以後,三論学派が〈三論宗〉と呼ばれるようになるのである。

[荒牧 典俊]