大寳寺と明星院
https://goto-acros.net/fudasyo/history.html 【五島札所の由来】より
古代より海の道の要として、また日本の 窓口として大海原のむこうにある異文化の国々と交流してきた五島列島には、とても多彩で個性豊かなものが数多く残されています。
当地は、804(延暦23)年に、空海(弘法大師)が遣唐使の一人として最後に旅立った地であり、五島列島には、大師ゆかりの地として、数多くの伝説なども残っています。特に、五島八十八ヵ所札所は、寺院が三十ヵ寺、そして五十八ヵ所が地蔵堂や観音堂などで、寺院のうち十二ヵ所が真言宗、十八ヵ所は浄土宗と曹洞宗で、宗派に関係なく札所は島の各地に点在して います。
1番札所である明星院は、806(大同元)年に空海が唐から帰国した折に参籠し、一条の喜ばしい光が差し込んだという吉兆から名づけられたといわれています。また、最後の88番札所である大宝寺も、空海が帰朝の途、この地に滞在し、日本初めての真言密教の講莚を行い、三論宗を真言宗に改宗したと言われている寺で、ここが結願となっています。
五島の札所巡拝をされる方は、四国と比べると、こじんまりとした地蔵堂や観音堂が多いという印象を受けるかと思います。しかし、誰でも受け入れてくれそうなこの素朴さに、近年、安らぎと癒しを求める巡拝者が増えつつあります。
明治19年明星院文書「八十八ヵ所」について
己断の人(自己の欲望を断った人)となり、心底か ら四悪趣に堕落することもなく、現在も次代も良い むくいを受けることも無い。
この理由で、誓願者があって当島(五島)に新四国札所を設置して、旧領主累代(歴代)の菩提(極楽往生を遂げること)、特に、盛成公、盛主公の御息災(ご無事)と延命、御家運の長久と御子孫の繁昌をお祈り申し上げ、下々のすべての人と良縁を結ばせる ために、こうして新四国札所を設置したのがその理由である。
即座に、末代有縁(末の世まで仏の縁につながる)の大導師である 高祖大師(弘法大師)に値過(出会えること)することこそ、たいそ う喜ばしいことです。
あなかしこ(謹んで申し上げます)
※居士(こじ)=出家しないで仏の道に志す人
https://asuhabetsunosekai.com/worship/fukue-island-myojoin/ 【大寳寺と明星院、遣唐使船最後の寄港地に残る空海の足跡】より
長崎県の西方に浮かぶ五島列島は、ユネスコの世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」で知られているが、その関連取材(こちらの記事を参照)で五島を訪れた私は、もう一つの目的地、弘法大師こと空海にゆかりのある「大寳寺(大宝寺)」へと足を運んだ。
その昔、仏教を勉強するため遣唐使に随行する形で唐へと渡った空海。ここ五島列島は、702年から838年の航路に使用されていた南路ルートの最後の寄港地だった。下五島に位置する福江島が主ではあるが、久賀島の田ノ浦にもその記録は残されており、716年の寄港記録は、久賀島を歴史に登場させる最初のきっかけにもなっている。
804年に空海が乗船した遣唐使船・第一船の寄港地も、久賀島の田ノ浦や福江島の岐宿町白石など諸説あるが、ここらで最後の準備をしながら風を待ったという。また空海は、806年の帰朝時にも、暴風雨の影響から福江島の玉之浦町大宝に漂着。この地にある「大寳寺(大宝寺)」が「西の高野山」と呼ばれるのは、ここで最初に真言密教が開かれたからである。ちなみに、空海と同じ804年に第二船で唐へと渡った最澄は、805年に対馬経由で帰国している。
目の前に海が広がる島の南西端に位置し、日本最古の大般若経や室町時代の涅槃図、県文化財に指定される梵鐘、日本三大秘仏の聖観音像など、貴重な資料が残されている大寳寺。701年創建と五島にある寺院の中では最も古く、真言宗に改宗する前は三論宗のお寺だった。1369年と銘ある五十層の石塔(通称:へそ神様)や、江戸時代初期に活躍した彫刻職人・左甚五郎が彫ったとされる猿の彫刻もあり、奥の院含めて見応え十分である。
福江島にはもう一つ、空海とゆかりのある寺が存在する。福江空港の近くに広がる田園地帯にひっそり佇む「明星院」は、五島における真言宗の総本山といわれているが、当時この場所に「虚空蔵菩薩」が安置されていることを耳にした空海は、唐で修行したことが日本の済世利民になるよう、本堂にこもって真言を唱えたという。
そして、満願の日の夜も明けきらぬ暗闇の中に一条の光が差し込んできたことから、この光が虚空蔵菩薩を象徴する明けの明星と考えた空海は、仏の知らせともとれるその瑞兆を心から喜んだという。このような経緯から、空海はこの寺を「明星庵(のちに明星院と改名)」と呼ぶようになった。
インド仏教の影響も見られる明星院は、本堂入り口の上部の飾り彫りが象であることも特徴の一つ。御堂の格天井には、狩野派・大坪玄能による花鳥画を中心に121枚の仏教画が描かれており、その四隅には、天界随一の美声をもつ迦陵頻伽が配置されている。この手法は、迦陵頻伽と中央に位置する龍を合わせて極楽浄土を表現しているというが、この空間に足を踏み入れると、虚空蔵菩薩に智慧を説かれているかのような厳かな空気とその叡智の美しさに圧倒される。
また、国の重要文化財に指定される銅像如来立像は、飛鳥から奈良の時代に作られた薬師如来と考えられているが、現在、この仏像は秘仏となっており、残念だが目にすることはできない。ただ、この時代の仏像が、遣唐使船最後の寄港地だった福江島にあることに意味がある。前述した大寳寺とともに五島で最古の歴史をもつ明星院は、私たちにその歴史的意義の大きさを教えてくれる。
空海は、仏教の勉学に励んだ唐での2年間で、真言密教以外に古代キリスト教の一つ、ネストリウス派の景教についても学んできたといわれている。空海が開いた真言密教が景教と関係あることは、総本山である高野山もどうやら認めているようだが、これには唐へ渡る以前から接点のあった秦氏の影響もあると考えられる。そして、のちの宣教師ザビエルは、日本における布教の難しさをここに感じ取ったのではないだろうか。
私自身はどの信仰も持っていないが、教会に関してはかれこれ20年以上、不思議な縁を感じてきた。そのため、日本と景教の関係を知ったときの喜びといったら⋯⋯。あの日はようやくスタート地点に立てた気がして、本当に感慨深かった。とはいえ、まだまだ知らないことも多いので、今後いろいろと考えが覆ることもあるだろう。今回の五島列島における空海の足跡もそうだが、歴史はすべてつながっている。このような場面にまた遭遇できることを、今後も楽しみにしている。
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◯つれづれ日誌(令和5年8月30日)-高野山訪問記ー真言密教の祖「空海」の世界②
あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか(1コリント3.16)
前回は、誕生から唐へ留学するまでの空海の求道時代を概観しました。今回は苦難の航海の末、唐に渡って「恵果」から真言密教の奥義を伝授され、後継者としての「灌頂」(金剛界灌頂、胎蔵界灌頂、阿闍梨位灌頂)を授かったことの意味、ならびに空海が体系化した真言密教とは何かについて解説いたします。
【唐への留学-恵果から灌頂を受ける】
前回述べた通り、804年(31才)、空海は長期留学僧(20年)として唐に渡ります。修行中の空海は、奈良県にある久米寺で密教の経典「大日経」を知り、密教の本質を学ぶべく、唐に渡る機会を探っていました。
<唐への留学>
空海は無名の一沙門(修行僧)だったので、20年の自力の「留学生」でしたが、仏教界で既に確固たる地位を築いていた最澄は官費による短期の「還学生」でした。最澄は785年授戒され正式な僧となり、比叡山で修行し、797年には宮中の「内供奉十禅師」に任命され、桓武天皇の厚い信頼を受ける高名な僧侶でした。
一方、修行中の空海は、夢で大日経こそ空海が求めている経典だと知らされ、奈良県にある久米寺で密教の中心経典『大日経』との運命的な出会いをすることになります。そして大日経の意味、即ち密教の本質を学ぶべく、唐に渡る機会を探るようになりました。804年7月、肥前田浦を出航し、途中で嵐にあい難航しましたが、804年8月10日、福州に漂着しました。唐留学の4船のうち2艘は難波するなど、当時の中国への留学は正に命がけだったのです。
苦難の末、805年12月に長安に入り、西明寺を住居とし、印度僧般若三蔵から密教の理解に必要なサンスクリット語(梵語)を習得しながら密教の勉強に励みました。そして半年後には、真言密教の正式な継承者である青龍寺の恵果(けいか)に会いに行くことになります。
<唐の国際性と諸宗教>
空海が入唐した当時の唐は、世界帝国として繁栄し、西域を通りササン朝ペルシアの文化が伝えられ、ビザンツ帝国やイスラーム世界とも接触があり、シルクロード交易が行われていました。また周辺諸国と冊封体制を築き、朝鮮や日本からも使節や留学生が来朝し、特に都の長安は100万の国際都市としてのにぎわいを見せていたのです。
儒教、仏教、道教の三教は互いに競いながらそれぞれに発展しました。唐は、道教の祖ともいうべき老子が同じ李姓であることから道教を帝室の宗教として厚い保護を与え、仏教は中国独自の教典研究が進み、独自の宗派も生まれました。また儒教は王朝の統治理念として重視されていました。
唐文化の国際性を示すものに、「唐代三夷教」と呼ばれるゾロアスター教(祆教:けんきょう)、ネストリウス派キリスト教(景教)、マニ教があり、またイスラム教の流入がありました。祆教・景教・マニ教はいずれも西アジアのササン朝で信奉されていましたが、ササン朝の滅亡と共に、新しい拠点を東方に求めました。またイスラム教は、ムスリム商人とともに伝わったものと言われています。
ネストリウス派キリスト教の景教は、エフェソス公会議(431)において異端とされたのち、シリア・ペルシアへと拠点を東に移しながら教会を維持し、中国には,唐の太宗治世の635年、ペルシア僧のアラホン(阿羅本)を団長とする伝道団が長安に到着しました。太宗は宮中に迎え、その経典の翻訳を勅許し布教を勧め、3年後には長安の義寧坊に寺を建立しました。唐では景教と呼ばれ、その寺院は「大秦寺」と言われました。大秦はローマを意味し、781年には景教の流伝を記念した「大秦景教流行中国碑」がたてられています。
明治末に来日したアジア研究家の英国人E・A・ゴルドン夫人は、1851年英国の名門に生まれ、多年ビクトリア女王に女官として仕えた人であり、キリスト教と仏教の根本同一を確信し、その研究のため中国・朝鮮を調査し、明治末期には日本を訪れました。ゴルドン夫人は、仏教とキリスト教の根本は同一であるという「仏基一元」の研究者で、真言宗と景教の関連性を確信し、高野山奥の院に長安にあった景教の記念碑「大秦景教流行中国碑」のレプリカを建立しました。景教碑の隣には、1925年に京都で死去したゴルドン夫人の墓石があります。
ゴルドン夫人はオックスフォード大学に入学し、比較宗教学を学びましたが、同門に日本入留学生高楠順次郎がいて、その交友が後に夫人と日本を結びつけるきっかけとなりました。夫人は日本に在留し、そのテーマとする「仏基一元」の研究にとりかかり、仏教もキリスト教も元は一つ、同根であることを実証しようとするもので、8世紀の頃、唐の長安に建てられた大秦景教碑の複製を高野山に建てたのも、その研究の一環でした。
筆者もゴルドン夫人の「仏基一元論」には大いに共感するものです。特に真言密教の本仏である大日如来は、キリスト教のGod(神)と同視できる神概念で、すべては大日如来の顕れであるという世界観を視覚化した曼陀羅は、さしづめ神を中心とした天使界・人間界・万物界のキリスト教の世界観と類似性があり、大変興味深いものがあります。空海の真言密教に、他宗教に対して比較的寛容な姿勢が感じられるのも、このような包括的な世界観故ではないかと思料するものです。
このような唐文化の中で、空海は長安で「大秦景教流行中国碑」の碑文を書いた僧である景教徒の景浄に会っており、空海は中国で景教について少なからず学んだと思われます。空海は、61才で死に就こうとするとき、 「わたしは弥勒菩薩のそばに仕えるために入定(死ぬ)するが、 56億7000万年ののち、弥勒と共に再び地上に現われるであろう」と語ったと言われ、一種のメシア思想を持っていました。弥勒とは、へブル語のメシアを意味し、 原始仏教にはなかった景教の再臨信仰と同じものです。真言宗では、法要の最初に胸の前で十字を切るとか、 高野山奥の院御廟前の灯篭に十字架がついているとか言われており、景教の影響がみられることは確かです。
しかしながら、唐代、845年、道教を深く信仰した武宗によって行われた仏教弾圧事件である「会昌の廃仏」で仏教は大弾圧を受け、また、仏教と共に、長安を中心に盛んであった「唐代三夷教」(マニ教・ゾロアスター教・景教)も排斥され衰退していきました。
<空海、真言密教の灌頂を受ける>
さて空海は、806年 5月、密教の第七祖である唐長安青龍寺の「恵果」を訪ね、以降約半年にわたって師事しました。当時、密教は唐で全盛期で、金剛智、不空という密教の行者が中国にきて皇帝の厚い尊敬を受け、恵果は不空の承継者でした。
恵果は空海が既に十分な修行を積んでいることを初対面で見抜き、即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は6月に胎蔵界灌頂、7月に金剛界灌頂を、また8月には阿闍梨位灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する「遍照金剛」(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられたというのです。当時恵果の弟子は千人もいたといいますから、その弟子を差し置いて真言密教の正式の承継者になるというのですから、空海はよほどずば抜けて優れた宗教的資質があったようです。
ちなみに、「灌頂」(かんじょう)とは、菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏のくらいに達したことを証明することであり、密教においては、頭頂に水を灌(そそ)いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のことをいいます。キリスト教で言えばさしづめ「洗礼」の儀式にあたるでしょう。
また恵果は、長安の官寺・青竜寺の和尚で、金剛頂系と大日経系の二つの密教体系を習得した大唐でも唯一の僧であり、空海を金剛智 →不空 →恵果と伝えられた後継者として真言密教第八世法王の灌頂を与えました。また伝法の印信である「阿闍梨付嘱物」(仏舎利、金剛尊像など8点)、袈裟や供養具など5点の計13点を与えました。
恵果は、金剛と胎蔵の密教体系を本来は一つのものであると考え、両部を融合させて論理化することを望んでいましたがついに果たせず、その異能を見込んだ空海に己の宿願を委ねたと言われています。恵果は、玄宗皇帝に気に入られていたインド僧不空の弟子であり、空海は自身が不空の生まれ変わりであると信じていた形跡があります。
恵果は、空海が入唐した時期にはすでに高齢で病床に伏しがちで、己の法統を伝える後継者を求めており、空海の英才を耳にして自院の門を叩くことを心待ちにしていました。恵果は空海への灌頂を見届けるように、805年12月15日入滅しました。
【大日経について】
さて真言宗が拠り所とする経典は、『大日経』『金剛頂経』『理趣経』で、法要の中でよく唱えられるお経は『般若理趣経』『般若心経』『観音経』などです。また経文に節をつけて唱えるお経 「声明」(しょうみょう)は広く知られています。そして真言宗で根本経典とされる「大日経」は、『大毘盧遮那経』(だいびるしゃなきょう)ともいい、大乗仏教における密教経典で、八世紀に漢訳されました。では真言密教の根本経典であり、空海が修行中に出会った「大日経」とは如何なる経典でしょうか。 前述の通り、『大日経』とは『大毘盧遮那成仏神変加持経』(だいびるしゃなじょうぶつじんべんかじきょう)、略して『大毘盧遮那経』(だいびるしゃなきょう)、といい、大乗仏教における中心の密教経典であります。
かって空海は、18歳にして一人の沙門(修行僧)と出会い、「虚空蔵求聞持法」という行法を授かって以来、将来を約束された大学を飛び出し、山岳修行の日々を過ごしていました。その折り、夢のお告げを受けた空海が久米寺を訪ねて『大日経』と出会って心打たれ、その完全なる理解のための師を求めて入唐求法を決心したと言われています。大日経の内容は難解で空海が発見するまで日の目を見ることが無かった経典ですが、その内容の大切さを痛感した空海は激しく求法の心を動かされました。
大日経は7世紀半ころにインドで成立し、八世紀に、インドから「善無畏」など一行の共訳による漢訳、チベット語訳が相次いで成立しました。しかし、梵文(サンクスリット)原典は現存していません。大日経は、すでに奈良時代に、おそらく玄昉らによって請来され、書写されたことが『正倉院文書』の写経目録にあります。漢訳『大日経』は、全7巻36品(章)で、この内最初の第1巻から第6巻の31品が中核で、第7巻5品は、仏・ 菩薩 ・諸天などを 念誦 ・供養する方法や規則を記した供養儀軌(くようきぎ)で善無畏が別に入手した梵本を訳して付加したものと見られています。
大日経では宇宙の真理を神格化した大日如来が、諸菩薩の代表である金剛薩埵(こんごうさった)の質問に答えるという形式になっています。内容としては真言宗の理論の「教相」と、実践の「事相」部門から成り立ち、教相の部分では金剛薩埵の問いに対して毘盧遮那如来が菩提心を説くなど、密教の理論的な根拠が説かれています。また事相の部分では胎蔵界曼荼羅の描き方や真言、密教の儀式などが詳細に説かれていますが、これは師僧からの直接的な伝授が無い限りは完全に理解出来ないとされ、そういった「師子相伝」であるが故に密教と呼ばれるのです。
「教相」に相当するのは「入真言門住心品」で、密教の理論的根拠が説かれており、前記したように、毘盧遮那如来と金剛薩埵の対話によって真言門を説き明かしていくという、初期大乗経典のスタイルを踏襲しています。「入真言門住心品」とは「真言の門に入る心の在り方を説く章」というような意味であり、実はこの第一章が「大日経」全体の教理のほとんどを説き明かしているのであり、以下の35章はその応用編というべき「儀軌」(その経典独自の具体的な修行法や曼陀羅の描き方などのマニュアル)の部門であります。従ってこの第一章の「入真言住心品」が『大日経』全体の最も重要な教理を解く鍵となります。
その要諦は、金剛薩埵の問いに対し、毘盧遮那如来が一切智を解き明かすことにあり、例えば「菩提心とは何か」を次のように説くところにあります。
「仏の言(のたま)わく、菩提心を因と為し、大悲を根本と為し、方便を究竟と為す。秘密主、云何(いかん)が菩提とならば、謂(いわ)く実の如く自心を知るなり」
つまり、因の菩提心は心であり、根は大悲であり、究竟(物事の最後に行きつくところ)は方便であると示します。菩提心には、白浄の信心(大日如来の一切智智をわれわれがすべて具有するという確信)、菩提を求める心、菩提の心、の三つの意味があり、要するに、菩提とは「実の如く自心を知ること」(如実知自心)であり、自心の空性をさとることであるというのです。
悲は大悲であってすべての人びとに対する絶対の慈愛であり、これが一切智智を得る根だといいます。方便は人びとを導き救う手だてであって、具体的には菩薩の六波羅蜜の実践行、すなわち布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧であり、これがそのまま一切智智を得る目的であるとします。つまり、悟ろうとする心「菩提心」から始まり、心の十の修行段階「十地」を経て、次第に喜びと満足感を得たものは、悪い煩悩の種を幾世代にも渡って撒き散らすものに代わって、より良い種を世の中の全体に撒くのだ、ということです。
以上の「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とする」というのは、「三句の法門」とよばれ、この品(章)の根幹をなしています。またのちに空海は「十住心体系」を確立した基礎を示しており、一方では真言密教の実践者の心の向上過程を説くとともに、他方では、あらゆる思想、哲学、宗教を世間と出世間とに分けて批判して、綜合仏教の形をとっています。
以上、「入真言門柱心品」には密教の主要な教義がほとんど説かれており、その教理を貫いて根底にあるのは中観派で説く「空の哲学」と言われています。以降、大日経では大日如来と金剛薩埵の質疑応答が続きます。
また前回も述べましたが、大日経には「三密」「三業」の教えがあり、三密とは仏の身(身体)、口(言葉)、意(心)によって行われる三つの行為のことで、三業とは人間の身体の行為である身業(動作)、言語表現である口業(言葉)、心のはたらきである意業(意思)の三つの行為のことです。人間の三業は仏の三密と感応することにより大日如来と一体となることで「即身成仏」(生きながらに仏になる)できるという教えが大日経にあります。そして仏の身口意は凡夫の及ばぬ高い境地なので、これを「密」といい、それぞれ道元の只管打坐は「身密」、法然と日蓮の唱題は「口密」、親鸞の信心は「意密」と言えなくもありません。
【真言密教について】
前記の通り、真言密教の基本経典は大日経でありますが、この項では真言密教とは何かをより具体的に解説いたします。
<空海と最澄の密教観の違い>
空海と共に、最澄も天台宗だけでなく密教を唐から持ち帰りましたが、先ず空海の説く密教と最澄が理解した密教の違いについて見ておきたいと思います。
普通、仏教では釈尊を中心にしていますが、密教の場合、釈尊もありながら中心にしている仏は「大日如来」です。しかも、釈尊には言葉で説いた教えの他に言葉で説かれきれない秘密の教えがあると考えられており、その秘密の教えが最も重要であるというのが、密教の考え方です。一般的な仏教として、天台法華経などいろいろな宗派がありますが、それらを超えた最高の教えであると自分たちを位置づけているわけです。 お経としては大日経や金剛頂経などの経典がありますが、一番大切なのは、むしろ書かれていない、言葉を超えた秘密の教えだというのです。
そして空海と最澄は密教の捉え方が違いました。要するに最澄のほうはあくまでも天台宗が中心で、天台宗の中に密教を位置付けました。この後、天台宗では密教をどんどん取り入れていって、いわゆる「台密」と呼ばれるものが盛んになりますが、それでもやはり中心は天台宗で、それを盛んにするために密教を使っていくような位置づけでした。
しかし空海の捉え方は違います。真言宗は密教と顕教(密教以外の仏教)を厳然と分けます。密教の対語を「顕教」と呼び、釈迦が言葉で説いた教えを指し、天台宗も、釈迦が言葉で説いた教えの一つであります。密教は顕教を否定はしないけれども、それを超えたところに密教があると考えています。即ち空海は、密教に対して、密教以外の仏教を顕教といい、密教は秘密の教えで顕教は顕になった教えであるというのです。
左・最澄 右・空海肖像画
こうして何を中心と見て、最高の教えにするかというところで、空海と最澄はまったく違うことを考えていたので、やはり最終的には絶交することになってしまいました。
<空海の密教>
さて空海は自然の中に仏を見、そして自然の中の仏を説く仏教は密教であり、密教の中心経典は大日経だというところにたどり着きました。密教への開眼です。
空海は、既存の仏教を宇宙の本質を穿っていない「顕教」と断じ、宇宙の胎内(大日如来)に入って真理との一体化を目指す密教こそが真の仏教と考えました。正に「梵我一如・即身成仏」、即ち家庭盟誓8番にある「神人愛一体理想」の世界です。 1コリント書3章16節に「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」とある通りです。
仏教学者のひろさちや氏(本名:増原 良彦)は、著書『空海入門』(中公文庫)の中で、「修行を積んで、その挙げく仏陀になれるという本来の仏教の考え方に対して、先ず仏陀の中に飛び込んで、いきなり仏陀になりきって生きる在り方も考えられる」(P57)と空海の密教の本質を説明されています。ひろさちや氏曰く「顕教は修行を積んで仏になるための教え。密教は、いきなり仏になって、そのまま、仏になりきって生きるための教えだ」と。つまり、はじめに神ありきのヘブライズムの本髄である「神への宗教から、神からの宗教」への大転換です。
密教では、沈黙の大宇宙仏を華厳経の主である「毘盧遮那仏」(東大寺大仏)と呼ぶのに対して、雄弁の大宇宙仏を「大日如来」と名付けます。この大日如来は雄弁に真理を語られますが、その言葉は宇宙言語であり象徴言語であるというのです。その言語をマスターした者だけが理解できるというのであり、その意味で一般大衆には秘密であります。密教とは、この秘密仏教の意であって、特別な修行によって象徴言語をマスターせねば分からぬ仏教であります。一方、釈尊が理解可能なように大宇宙の真理を人間語に翻訳して下さる仏教が顕教であるというのです。(『空海入門』P122)
<密教完成者としての空海>
空海は、仏教の呪術分野として多分に雑多な状態にあった従来の密教(雑密)を、教義の矛盾を解消して整合性ある体系としてまとめ上げ、インドにおいてそれぞれ個別に成立した智を説く金剛頂系と理を説く大日経系という二つの体系を融合させ、本家のインドや中国にもなかった独自の思想体系を作り上げました。
822年の空海の『平城天皇灌頂文』は、極めて荘重な文体と言われ、奈良の六宗(三論宗・成実宗 ・法相宗 ・倶舎宗 ・華厳宗 ・律宗 )を挙げて、それぞれの概略を述べ、すべてを批判し、すべての諸法を分別し真言密教の要点と優位を示しました。またその集大成として『秘密曼陀羅十住心論』とその概略である『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)を著しました。
密教は毘盧遮那仏を崇拝する華厳仏教より発展し、密教が最高の教としました。最澄の天台仏教が、鎌倉時代、浄土(真)宗、日蓮宗、禅宗など多くの宗派を生み出しましたが、絶対者と自己との神秘的合一、即ち「我即大日」「即身成仏」を旨とする 空海密教は、それ自体が完結した体系として、鎌倉時代に宗派的な発展はありませんでした。
ひろさちや氏は、著書『空海入門』の中で、もともと密教は庶民仏教で、大衆の俗信、ヒンズー教の神々、祈祷、占いなどを取り込んで700年ころインドで成立したとし、密教化とは庶民化であるとしました。真言宗は密教の宗派ですが、空海はこの密教を持ち帰り、密教に教理体系を与え密教の完成者となったと記しています。
平たく言えば、ようするに天台宗などの顕教は、修行を積んで仏になるのに対して、密教では先ず仏の世界にどぶんと飛び込み、いきなり仏なりきってそのまま生きるというのです。前記した通り、顕教が神への宗教であるとすれば、密教は神からの宗教と言え、空海は大日如来から出発しました。
ここで空海が開いた「真言宗」とはどういったものかを要約しておきます。
空海が開いた真言宗では、大日如来が本尊で、「即身成仏」が大切な教えとされています。即身成仏とは、今この世に体のあるうちに仏になれるという教えです。そのために必要な修行が、本来持っている仏心を呼び起こす「三密」というもの、即ち自身の「身」(体の行動)、「口」(言葉)、「意」(心)の3つを整えることが欠かせないと説かれています。
「三密」とは、密教の最も重要な理念であり、大日如来の身体活動(身)と言語活動(語)と精神活動(意)の三つのことを言い、そしてそのブッダの三つの活動のエネルギーを、自らの身体活動、言語活動、精神活動に注入して、ブッダとひとつになることで最高の叡智を獲得し、そしてその能力を自分のものとする修行を「三密加持」(さんみつかじ)といいます。
具体的には手を組み合わせてそのブッダを象徴する形を作り(これを印契という)、口にそのブッダを象徴する真言を唱え、心の中でそのブッダと一体化する行であり、それは「三密加持」の行がひとつの瞑想行であることを示しています。これら三つの行為は人間の理解を超えているので「密」といいます。大日如来の三密は永遠不変に放出され続け、あらゆる時空を超越して、生きとし生けるものの世界に真理の言葉「真言」の教えを広めているというのです。
この真言密教の三密加持は、キリスト教の信仰告白と瓜二つです。ローマ書10章9節に「心で信じ口で告白して救われる」とありますが、カトリックにも「告解」(悔悛の秘蹟)というサクラメントがあります。洗礼によって洗礼前の罪は許されることになっていますが、洗礼後犯した罪はこの儀式の中で清算していくというのです。先ず心で自らの罪を悔い改める「悔悛」、次に口で罪を言い表す「告白」、そして身体で罪を償う「賠償」の3段階からなっています。これは正に意・口・身の三密そのものです。
またよく真言僧が火を炊き上げて加持祈祷を行いますが、これは煩悩や罪業を火と共に燃やし尽くし、文字通り大日如来と一つになるということを意味する祈祷法であります。
<両界曼陀羅について>
最後に密教独特の世界観を図示した両界曼陀羅について言及しておきます。両界曼荼羅は、密教の中心となる仏である大日如来の説く真理や悟りの境地を視覚的に表現したもの であります。
梅原猛著『最澄と空海』(小学館文庫)には、「曼陀羅とは、世界の秩序を図式的に表現したもの」と記されています。梅原氏曰く、「曼陀羅には大きく金剛界曼陀羅と胎蔵界曼陀羅とがあり、金剛界曼陀羅が陽の原理、男性的原理を示すのに対し、 胎蔵界曼陀羅は陰の原理、女性原理を示すという解釈もあるが、金剛界が空間的世界の所相を示すのに対し、胎蔵界は時間的世界の秩序示すといってよいだろう。つまり宇宙は空間と時間の二つの相を持ち、その相を二つの曼陀羅であらわしたといえよう」( P327)
即ち、曼荼羅は密教の悟りの境地である宇宙の真理を、仏や菩薩を配列した絵などで視覚化したもので、中でも両界曼荼羅は、密教の二大経典(両部の大経)である『大日経』と『金剛頂経』の教えを表したものであります。両界とは、真言密教で説く、胎蔵界と金剛界というふたつの世界であり、胎蔵界を代表する経典が大日経で、金剛界を代表する経典が金剛頂経であります。 大日経は大日如来の説法についてまとめたもので、その真理、つまり悟りの世界について説き、金剛頂経は大日如来の真理を体得して、悟りを開くための方法について説いているもので両界はふたつでひとつであり、そのため両界曼荼羅も必ず対で掲げられています。
胎蔵界曼陀羅の特徴 として、女性の胎や大悲 、静 、理を現し、金剛界曼陀羅の特徴 として男性的な智や動を表すと言われています。胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の概念や違いについて、杉山勝行・森田義彦共著『空海の奥義をイエスの教えで解く』には「胎蔵界曼荼羅は世界が完成した姿(如来の胎内の世界)を描いたものであり、金剛界曼荼羅は、人間が完成して大日如来と一体となるまでの道筋を表している」(P53)という説明があります。
この曼陀羅は世界は大きく四種の存在によって構成されています。第一は如来、即ち仏であり、その中心は大日如来で、その回りに釈迦や阿弥陀など様々な「如来」がいます。この如来の次に観音や文殊などの「菩薩」がいて、三番目にこの如来や菩薩を守護する不動明王などの「明王」が取り囲んでいます。そして毘沙門天や弁財天や大黒天などの「諸天の仏」 が並んでいるという構図になっています。これが正に曼陀羅の世界観であり、秩序であるというのです。
高野山の壇上伽藍の金堂には、御本尊の阿閦(あしゅく)如来を中心に、右に胎蔵界曼陀羅、左に金剛界曼陀羅が掛けられています。
高野山金剛峰寺・両界曼荼羅図 (左・金剛界曼荼羅 右・胎蔵界曼荼羅) 平安末期
以上、空海の唐での歩みや当時の唐の国際性、空海が恵果から正式な後継者として真言密教第8世法王の灌頂を与えられたこと、そして、大日経について解説すると共に、そもそも真言密教とは何かについて論及しました。
次回は、最終回として、帰国後の空海の歩み、高野山を真言密教の聖地として開山したこと、そして空海の残した影響と宗教界の位置付けについて論考したいと思います。(了)
上記絵画*空海与恵果図(中国・王西京画)