潜伏キリシタン
https://shinkamigoto.com/tour/spot/history_culture/world_heritage?wovn=ja 【世界文化遺産 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産】より
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、キリスト教が禁じられている中で長崎と天草地方において、日本の伝統的宗教や一般社会と関わりながら信仰を続けた潜伏キリシタンのあかしとなる遺産群になります。それらの遺産は国内に宣教師が不在となってキリシタンが「潜伏」したきっかけや、信仰の実践と共同体の維持のためにひそかに行なった様々な試み、そして宣教師との接触により転機を迎え、「潜伏」が終わりを迎えるまでの歴史を物語る12の構成資産からなります。これらが長崎と天草地方の半島や離島に点在しているのは、大航海時代にキリスト教が伝わったアジアの東端に当たる日本列島な中で、最も集中的に宣教が行なわれたからにほかなりません。
新上五島町では頭ヶ島の集落が構成資産となっています。
12の構成資産とは
原城跡
キリシタンが「潜伏」し、独自に信仰を続ける方法を模索することを余儀なくされたきっかけとなる「島原・天草一揆」の主戦場跡。
平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
キリスト教が伝わる以前から信仰された山やキリシタンが殉教した島を拝むことによって信仰を実践した集落。
平戸の聖地と集落(中江ノ島)
中江ノ島は禁教初期に処刑が行なわれた島で、後に殉教地として、拝まれ、島内で湧き出す水を「聖水」として汲む行事を行なう場所となった。
天草の﨑津集落
漁村特有の生活や生業に根差した身近なものを信心具として代用することによって、信仰を実践した集落。
外海の出津集落
キリスト教由来の聖画像をひそかに拝むことによって信仰を実践した集落。教理書や教会暦をよりどころとすることによって信仰を実践した。
外海の大野集落
神社にひそかに祀った自らの信仰対象を拝むことによって信仰を実践した集落。
黒島の集落
平戸藩の牧場跡の再開発地に開拓移住することによって共同体を維持した集落。
野崎島の集落
沖ノ神嶋神社を中心とした神道の聖地であった島に開拓移住することによって共同体を維持した集落。
頭ヶ島の集落
病人の療養地として使われていた島に開拓移住することによって共同体を維持した集落。
久賀島の集落
五島藩の政策に従って、島の未開拓地に開拓移住することによって共同体を維持した集落。
奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)
禁教期に移住によって集落が形成され、解禁後に「潜伏」が終わったことを可視的に示す教会堂。
大浦天主堂
宣教師と潜伏キリシタンの接触という、「潜伏」が終わるきっかけとなる「信徒発見」の場所。
「潜伏キリシタン」とは
それでは、ここで「潜伏キリシタン」とはどのようなものか説明します。
キリスト教禁教期の17~19世紀に日本において、社会的には普通に生活をしながら、ひそかにキリスト教由来の信仰を続けようとしたキリシタンのことを学術的に「潜伏キリシタン」と呼びます。
そして、彼らの「信仰を実践するために独自の対象を拝むという試み」と、「共同体を維持するために移住先を選ぶという試みを」を併せて、「潜伏キリシタンの伝統」と呼びます。
なお禁教期よりも前にキリスト教に改宗した人々のことを、同時代の日本ではポルトガル語由来の「キリシタン」と呼びました。また、キリスト教が解禁(黙認)となった19世紀後半以降も、引き続き潜伏キリシタン以来の信仰を続けた人々のことを「かくれキリシタン」と呼びます。
頭ヶ島の集落とその歴史
伊能図に見る頭ヶ島
頭ヶ島は縄文時代などのきわめて古い時代の遺跡はありますが、その後近世に至るまで人の生活した記録は残されていません。いわゆる無人島でありました。時代がずっと降り、江戸時代の後半を過ぎると、1813(文化10)年に伊能忠敬による測量がここ頭ヶ島でも行なわれました。出来上がった伊能図を見ますと、現在の頭ヶ島大橋の付近に家(屋根型の記号)の形がわずかにあるだけです。周囲に耕作地が表現されていないことから、おそらく漁業関係の小屋など一時的な施設ではないかと推測されます。
写真:伊能図の頭ヶ島
伊能図の頭ヶ島
写真:現在の頭ヶ島航空写真
現在の頭ヶ島航空写真
前田儀太夫による開拓
その後1858(安政5)年になり、前田儀太夫による頭ヶ島の開拓が試みられます。前田儀太夫はもともと久賀島出身の仏教徒で、上五島の有川に鯨組の関係で来ていました。儀太夫は家族を連れ、自ら頭ヶ島の開拓を試みると共に、開拓の協力者を募りました。しかし、当時の頭ヶ島は伝染病の患者の療養地として使われていたことから、協力者が集まりませんでした。翌1859(安政6)年になりようやく数組の家族が頭ヶ島に移り、開拓に加わることになりました。この家族はいわゆるキリシタンの人々で、大村藩の外海地域(現在の長崎市の外海地域)から五島列島に移り住んだ人たちです。
この頃から有人島としての頭ヶ島の歴史が始まるとともに、頭ヶ島におけるキリシタン集落としての歴史も始まりました。
写真:頭ヶ島の福浦地区
頭ヶ島の福浦地区
写真:前田儀太夫の墓(非公開です)
前田儀太夫の墓(非公開です)
禁教時代の集落
江戸幕府のもとではキリスト教は禁止されていましたので、彼らは宣教師などの指導者がいない中、密かに自分たちの信仰を続けていました。移住先の五島列島の中でも、元から住んでいる仏教の人たちから離れるように人が住んでいない山の中腹斜面や不便な入り江の奥地などに集落を開き暮らしていました。
そういったことでは、当時の頭ヶ島は伝染病の患者の療養地として使われていた場所であり、また周辺の潮流も早く、周囲の切り立った海岸地形から舟が着けづらい場所でもあったことから、人が近づきにくい条件が揃っていたため、キリシタンがひそかな信仰を続けていくためには、絶好の場所であったといえます。
写真:北魚目地域の江袋集落(キリシタン由来)
北魚目地域の江袋集落(キリシタン由来)
写真:北魚目地域の立串集落(仏教)と上立串集落(キリシタン由来)
北魚目地域の立串集落(仏教)と上立串集落(キリシタン由来)
前田儀太夫とキリシタンの関係
前田儀太夫が最初に入植したのは現在の福浦地区で、自らの拠点を置きました。儀太夫は頭ヶ島に入植したキリシタンと協力しながら開拓を進めますが、時間と共に頭ヶ島に移り住むキリシタンも増え、次第に頭ヶ島内の各地に開拓が広がっていったと考えられます。
当時の社会情勢から、仏教徒とキリシタンは厳しい関係にありましたが、前田儀太夫はキリシタンに対して寛容であったようで、このことは、現在の前田家の墓地において儀太夫の孫がカトリックに改宗し、仏教様式の墓碑とカトリック様式の墓碑が仲良く並んでいることからも類推することが出来ます。
前田儀太夫にとってキリシタンの人々は大切な労働力であると共に、小頭という役職を持ちながらも、小さな島で、共に汗を流す家族同様の気持ちがあったのかもしれません。
また、キリシタンたちにとっても開拓指導者としての儀太夫と行動を共にすることによってキリシタンであることをカモフラージュすることもでき、ひそかな信仰を続けるためには都合が良かったと考えられます。(前田家の墓所は個人所有のため見学出来ません。非公開です。)
キリシタン集落の形成
やがてキリシタンたちは、現在の田尻地区や白浜地区などに集落を開きます。田尻や白浜は比較的早い時期に開拓が進んだと考えられますが、特に田尻には石積みを駆使した景観が現在でも良く残されています。段畑の石積みはもちろん、石積みの水路や階段、石壁を積んだ小屋などがつくられました。キリシタンたちの移住元、ふるさとの大村藩の外海地域には石積みを駆使した集落景観がつくられましたが、移住先の頭ヶ島においても同様な石積みの集落景観がつくられました。これは自分たちの故郷の技術がそのまま伝えられたといってよいものです。キリシタンの移住は人だけではなく、文化的景観そのものまで伝えられたといえるのです。
白浜地区の谷あいの奥には現在、1919(大正8)年完成で石造の頭ヶ島天主堂が残されていますが、それ以前には1887(明治20)年頃に完成の木造教会堂が建てられていました。さらにさかのぼると、1867(慶応3)年に頭ヶ島に移住した上五島キリシタンの指導者、ドミンゴ松次郎の居宅があり、伝道所や仮聖堂を兼ねていました。すなわち、ドミンゴ松次郎の居宅跡の近くに現在の天主堂が建てられているのです。白浜地区の海岸付近から指導者屋敷の間にはキリシタンたちの家屋が並び、谷あいの一番奥まった場所に守られるように指導者屋敷がありました。また、北に向いた白浜の砂浜は現在その東側が1905(明治38)年頃に祝別されたカトリックの共同墓地になっていますが、明治時代の初め頃までは、浜全体が墓地であったようで、江戸時代に流行した病気で亡くなった人たちが埋葬された場所でもありました。したがって、キリシタンたちにとって、海岸そのものがあまり人の近づかない場所であったため、ひそかな信仰を続けるため、また、自分たちの組織の指導者を守るためにも非常に都合の良い場所であったのです。
写真:頭ヶ島の白浜地区
頭ヶ島の白浜地区
写真:頭ヶ島の田尻地区
頭ヶ島の田尻地区
信徒発見とドミンゴ松次郎の活躍
長崎では、1865(慶応元)年に大浦天主堂における「信徒発見」の出会いがありましたが、その情報は離島にも早々と伝わり、五島各地からも大浦天主堂に向かうものも現われました。上五島地域の宗教的指導者であったドミンゴ松次郎は五島の地に宣教師の派遣を願い出ましたが、実現まではしばらく時間がかかりました。
1867(慶応3)年に松次郎自身が鯛ノ浦の蛤から頭ヶ島に移住し、白浜集落の一番奥に居宅兼伝導所(仮聖堂)を構えると、大浦天主堂より待ち焦がれた外国人宣教師が派遣されました。この外国人宣教師(クザン師)が頭ヶ島に来ると、五島一円からキリシタンが集まり、ミサや洗礼、秘蹟を授かり、この時にはあたかも頭ヶ島は五島全体の信仰の拠点であるかのようになりました。
頭ヶ島は五島列島で一番東にあたり、向かいに見える平島は大村藩でありました。すなわち人の近づきづらい島でありながらも、五島藩の中では最も大村藩に近い場所であり、長崎の大浦天主堂に最も連絡が取りやすい立地でもありました。
このような頭ヶ島の立地条件も、潜伏キリシタンたちの活動に都合がよかったのではないでしょうか。
写真:ドミンゴ松次郎居宅跡の碑
ドミンゴ松次郎居宅跡の碑
写真:長崎の浦上にあるドミンゴ松次郎の墓
長崎の浦上にあるドミンゴ松次郎の墓
五島崩れによるキリシタンの捕縛
しかし、皮肉なことに、このような華々しく、平穏な日々は長く続かず、1868年、時代が明治を迎えると、久賀島から始まった「五島崩れ」という大規模な捕縛摘発が頭ヶ島にも押し寄せ、置き忘れたロザリオが仏教徒に見つかったことをきっかけに、頭ヶ島のキリシタンは全員捕まり、再び無人に近い島になりました。対岸の仏教集落で、算木責めなどの拷問にかけられた後、有川の代官屋敷に引き連れられ、3ヶ月に渡る厳しい取調べを受け、改宗を迫られました。
禁教高札撤去と教会堂建設
1873(明治6)年、ヨーロッパなどの諸外国から、キリスト教に対する厳しい弾圧の中止を迫られた明治政府は、キリスト教禁止の高札を撤廃し、キリスト教を黙認することとなった。条件付ながら、信教の自由を保障した「大日本帝国憲法」が1890(明治23)年施工されるまでは、解禁とまではいきませんが、見て見ぬ振りをするようになりました。
そのような社会情勢となると、頭ヶ島にも徐々に人が戻るようになってきました。1887(明治20)年頃には、日本家屋風の木造教会堂が建てられ、1910(明治43)年には現在の石造教会堂の建設が始まり、1919(大正8)年に完成しました。
このように現在の石造の頭ヶ島天主堂に至るまでには、移住開拓や捕縛など様々な苦労があり、ようやくここに安息に辿り着くことになるのです。
写真:頭ヶ島の白浜地区・頭ヶ島天主堂
頭ヶ島の白浜地区・頭ヶ島天主堂
写真:頭ヶ島の白浜地区・白浜共同墓地
頭ヶ島の白浜地区・白浜共同墓地
頭ヶ島の集落
頭ヶ島の集落は、前田儀太夫の開拓から五島崩れまで、非常に短い期間でありますが、それは視点を変えれば、潜伏的な信仰継承のために外海から五島への移住に始まり、移住を重ねた末にたどり着いた象徴的な島であるといえるのです。その始まりこそ頭ヶ島は小さな宗教的コミュニティーでありましたが、上五島地域の宗教的指導者であったドミンゴ松次郎が頭ヶ島に移住したことから、頭ヶ島は上五島全体あるいは五島における宗教的なコミュニティーの中心的な拠点になりました。後にはその指導者の屋敷跡付近に地元の石材を使った教会堂が建てられ、潜伏キリシタンの時代からの活動拠点がカトリックの時代へと継承されていることを示しているといえるのです。そこには、自分たちの信じるものが禁止された時代に、自分たちの密かな信仰、あるいは組織を守り抜くためのキリシタンたちの戦略とでもいうものが垣間見られるのです。
キリシタン移住の歴史的背景
写真:北魚目地域大瀬良から頭ヶ島遠景
北魚目地域大瀬良から頭ヶ島遠景
1797(寛政9)年、大村藩と五島藩で交わされた開拓移住協定(百八人の百姓貰い受け)を契機に大村藩外海地域のキリシタンはその信仰継承を貫くために、五島への移住を果たしましたが、移住した島内においても、地元仏教徒「地下」とのあつれきがあり、それを避けて信仰継承をはかるために2回、3回と移住を繰り返しました。このような繰り返しの移住においては条件の悪い土地を受け入れることが求められました。
条件の良い土地には「地下」が生活していることが常であったため、島内移住をすることは、条件の悪い土地に入ることと同じ意味を持ちました。しかし、その土地の持つ条件の悪さに反比例するように、潜伏信仰を継承するためには都合が良い土地であるといえました。その土地に「地下」がいないということが、余所から来たキリシタン「居付」にとっては都合がよく、周囲が無人であればさらに都合が良いということでした。そのような点からすると、頭ヶ島は周囲を早い潮の流れに囲まれ、切り立った海岸地形のため舟が付けづらい自然条件の悪い小さな無人島であり、さらには禁足地のような土地柄であったため、潜伏信仰の継承のためには最適な土地柄といえました。信仰継承するために移住を繰り返したキリシタンが求め続けた土地として最適であり、理想郷のような土地が頭ヶ島に象徴されるといえるのです。要するに頭ヶ島という土地は、五島キリシタンが信仰継承のために求め続けた安住の地の終着点であるともいえる場所なのです。
また、無人島を開拓した島で密かに守り続けられた潜伏信仰が、大浦天主堂の献堂と信徒発見という大きな出来事が契機となることで、ドミンゴ森松次郎を指導者とした五島キリシタンがカトリックに復帰するにあたり、短い期間でありながらも大きな働きをした五島側の拠点となったのです。長崎のキリスト教の歴史の中で、長崎・外海から信仰継承のために移住を果たしたキリシタンが、五島での長い潜伏信仰を耐え抜き、カトリックに復帰する前夜の重要な役目を担った拠点としても、頭ヶ島は重要な意味を持つものといえるのです。
頭ヶ島天主堂
(国指定 重要文化財)
頭ヶ島教会堂は1910(明治43)年、青砂ヶ浦教会を拠点にしていた大崎八重神父の発注により着工されたといい、約10年の期間を経て1919(大正8)年完成しました。
設計は数多くの教会堂建築を手がけた上五島出身の鉄川與助で、頭ヶ島周辺より産出される砂岩が使われた石造りの教会堂です。石壁の積み上げにあたっては長崎や地元の石工が関わり、地元信徒も参加しました。工事に足掛け10年もの時間を要したのは資金不足の中断があったからといわれます。
教会堂の壁面は切石を水平に積み上げ、表面を意図的に粗くしたルスティカ式(こぶ出し、粗石積)といい、目地まわりが意匠的に深く掘り込むように整形されているので、深い陰影を生み、より力強く、整然として見えます。正面には鉄川與助が好んで用いたといわれる八角形ドーム屋根の塔屋を設けますが、塔屋部分は本体部と比べるとバランスが不釣合いで、少し大きいような印象があります。これは設計変更で後から加えたためで、鉄川與助の手帳には大正8年に塔の部分を加えた旨の記述が読み取れます。よく見ると、正面の窓位置の不具合や飾り帯の食い違いが見られます。外壁の石材表面にはノミで「四九五」などと多くの漢数字が刻まれていますが、おそらくは石材の長さを示していると考えられます。(例えば四九五ならば4尺9寸5分)
室内は列柱をもたない単廊式の一室構成で、折上天井を二重の持ち送りで支えた独特のデザインで構成されています。この室内構成はデザインに変化をもたらすと同時に、柱を抜くことで小さい堂内を少しでも広く使いたいという意図があります。加えて、天井も持ち送りで効果的に上げているため、広く、高く感じられます。
頭ヶ島天主堂の大きな特徴のひとつは外観と内観の対比にあります。外から見ると石造りで力強く男性的に見えます。ところが、室内に入ると天井や持ち送りなど随所に花模様の飾りが配され、かわいらしく優しい女性的な空間に見えます。
また、室内では中央の古い祭壇にも特徴があります。この古い祭壇は建物本体からわずかに遅れた時期の製作ですが、デザインや大きさが、北魚目にある江袋教会の中央祭壇(大正時代新調のもので2010年に火災から復原)とほぼ同じデザインです。どちらも中央の屋根部分に八角ドームが載り、一番下段の花模様が日本的な植木鉢に植わっており、非常に独特で双方の関係に興味がもたれます。
ところで頭ヶ島の教会堂は何故、石を使って建てたのでしょうか。一説には発注者の大崎八重師が天草出身であり、天草でも採れる砂岩に着目したためともいわれますが、それだけが理由ではありません。
設計者の鉄川與助は頭ヶ島教会堂を造っていた時期までには盛んにレンガを使った教会堂を建設していました。頭ヶ島周辺の豊富な石材に着目したのは、ある意味自然ですが、ただそれだけの理由から石が使われた訳ではないようです。一見すると潤沢な資金で建設されたように見えますが、当時は建設資金に大変苦労していました。それでも、限られた資金で、立派で長持ちする教会堂を建設したかったはずです。そこで、地元で産出され、それほど高価でない砂岩に着目しました。また、単純な比較は出来ませんが、大人が両腕を広げた長さの石であれば、レンガを70~80個積まなくてはなりません。それは重く運搬や施工が大変であることを差し引いても、部材数が少ないため、レンガ積みよりセメントも手間も掛からないと考えられます。また、ステンドグラスが大柄なのも手間や部材数を減らすためかもしれません。さらに、単廊式の折上げ天井もそれほど手間も材料も掛からないように工夫されたデザインであるといえるかもしれません。頭ヶ島天主堂の建築費ですが、例えば大きなレンガの教会が当時の1万円から2万円ほどで出来たとすると頭ヶ島は千円から二千円ほどで出来たようです。頭ヶ島では建設資金が厳しいことから地元の石を利用したとしても、ただ身近に石材があるだけではあれほど立派な教会堂を作ることは出来ないはずです。ちょうど建設の時期が幕末頃から始まった頭ヶ島を含めた崎浦地域の砂岩を利用した石材業の最盛期であったことが幸いしました。崎浦の石文化が成熟していた時期であったことに加え、鉄川與助の優れたセンスがあったことから、少ない資金で立派な石造りの教会堂を作ることが可能であったのといえるのです。
https://www.nahakyokai.jp/history/ 【東回りのキリスト教について】より
聖書
最初は、お大師様の話から説明します。
空海はお大師様と呼ばれている。日本で最初に私立の学校を作ったのも空海、満の池という堤は空海が作った。1200年前に作った池が今も現役で使用されている。うどんを作ったのも空海。日本で最初に水洗トイレを作ったのも空海。私立の庶民のための学校を作った「綜藝種智院」と呼ばれた。
彼の最も大きな業績は日本に真言密教という宗教をもたらしたということです。真言密教は普通の仏教と違います。普通の仏教へ顕教という現れた教え、密教は秘技が多い不思議な仏教。
空海は、聖書影響を2段階で受けている。日本の仏教そのものも聖書の影響を強力に受けて伝わってきた。もともとの仏教の形を日本人は知りません。日本人が信じている大乗仏教は聖書の影響を受けたものです。
空海はさらに第二段階の影響を受けていたのです。空海は、遣唐使として中国の長安という都に行きます。唐の長安で爆発的に広がっていた宗教はキリスト教であった。中国ではこのキリスト教のことを景教と呼んだ。キリスト教の教派の一つにネストリウス派というものがありました。このネストリウス派のキリスト教が東へ東へと伝わってまいりまして、唐の時代の初期に中国の国内に広がっていきました。
「川口一彦氏の景教」、「久保有政氏の仏教の成立とユダヤキリスト教」、「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史シニアジョセフ,ケン,ジュニアジョセフ,ケン他」などの資料がある。空海は二段階でキリスト教の影響を受けている。
第一段階
日本人は、日本は仏教国だと思っています。また、自分のことを仏教徒だと思っておられる方は多いです。しかし、仏典を読んだ方はあまりいません。日本では、刑事ドラマで死んだ人を仏さんになったと言います。元々仏というのは、死んだ人のことを言ったわけではありません。これは、直接的な言い方をすれば、「目覚めた人」という意味です。何に目覚めたのでしょうか。真理に目覚めた人。あるいは悟りを開いた人。ですから、仏という言葉は、悟りを開いた人間に対して使う言葉であった。
紀元前6世紀に釈迦という人が真理に目覚めました。そこで、釈迦は仏陀と呼ばれるようになったのです。それで、最初は、悟りを開いた釈迦のことを仏と呼ぶようになっていた。では、釈迦が開いた悟りとは何でしょうか。彼は、人生は苦であると言いました。彼は、その苦を四苦八苦という言葉で表現しました。最初の4つの苦は、生まれてくる苦しみ、老いていく苦しみ、病んでいく苦しみ、死んでいく苦しみを指します。しかし、生まれてくる苦しみは何を意味するのでしょう。それは、人は生まれてきたから、苦しみ、生まれてきたから、病気になり、生まれてきたから死ぬ。死んだらどうなるのか。釈迦が問題にしていたのは、死んだらまた生まれ変わる。そしたら、苦しみのやり直しをずっとしていくことが悩みだった。永遠に輪廻を転生していくことは何と疲れ果てることだろうと考えました。お釈迦様は、もう2度と生まれ変わりたくないと考えました。2度と生まれ変わらないようにするためにはどうしたらいいんだろうかと考えました。2度と苦しまなくするにはどうしたら良いのか考えた。その解決方法がまさに天才的である。彼は、苦しんでいる自分がいるから苦しむと考えた。苦しんでいる自分を消したら苦しみを感じなくなってしまうと考えた。問題は、自分を完全に消せるのかということです。釈迦はできると考えました。完全に自分を消した状態のことを涅槃と呼びました。涅槃というのは、聖書がいう天国みたいな場所を指すのではありません。涅槃は自分を完全に打ち消しさった心の状態を言います。どうしたらそれを消し去ることができるだろうか。プロセスがあります。この世に存在しているものは全てうつろうものであること。それゆえにそれは存在していないのと同じなのだということを悟ることによって自分を消すことができるというのです。一切は空である。今あるものも全てなくなってしまう。チリになってしまう。ということは元々ないのと同じことである。全ては実態がない。あると思うがそれはないのだという。仏教の元々の教えは、全てがないというところから出発するので、無神論です。神なんかいないのです。私という存在もあるように見えて実はないのだと教えます。そして、霊も魂もない。無神論、無霊魂の哲学。これが初期の仏教です。全てはないということがわかれば、苦しみもないし、苦しんでいる私の存在もないのであるという哲学です。しかし、問題があります。言葉では、苦しむ自分がないのだったら苦しみを感じなくて済むわけですが、現実はそういうわけに行くだろうか。理論では理解できます。しかし、それを実践することができるでしょうか。それができる方は、お釈迦様のように極めて例外的な人しかいないのではないかと思われます。このような涅槃の哲学に立って物事を理解できるのは、本当に優れた方々しか無理だと思われます。
一世紀になるとこの原始仏教が大変貌を遂げます。一世紀にインドにキリスト教が入りました。これが、大問題でした。ヨーロッパと東アジアをつなぐ交易ルートをシルクロードと言います。このシルクロードは紀元前二世紀に開通しました。この交易ルートはだんだん増えていきまして、最終的には7ルートに増えます。インドというのは、アジアとヨーロッパをつなぐ丁度中心にありました。ヨーロッパのコスモポリタンな文明がどんどん流入してきます。このインドに物資を運んでくる人たちの中にクリスチャンがいました。
一世紀にトマスとバルトロマイがインドに宣教に行きます。バルトロマイはヘブライ語で書かれた聖書をインドまで運んでいます。イエスキリストが復活して24年後紀元55年にインド南西部のマナバル海岸というところに行って、7つの教会を建て上げます。ケララ州にトマス協会というのがあります。トマスのお墓があります。トマスはインドでつるぎに刺されて殉教したと言われています。トマスは、西海岸だけでなく、東海岸にもいきまして、その地方の王や民衆がたくさん信じます。奇跡の伴う伝道でした。短期間にインド南西部および南東部に広がっていきます。
二世紀に入りますとアレキサンドルクレメンスという人が西暦185年にパンテウスという宣教師がインドに行きます。インドに着つくと既にたくさんのクリスチャンがそこにいたという報告書を母国に送った。バルトロマイが持って行ったヘブライ語のマタイの福音書がまだそこに置いてあったと書き留めています。インドは、第二次世界大戦後独立します。ラジュンドラブラサト大統領が、演説でこういった。ヨーロッパの国々がまだキリスト教国家になっていない時代に使徒トマスがインドにやってきて多くの人々にキリストを宣べ伝え多くの人がキリストに従って行った。ヨーロッパよりも早くて深いということは何という光栄なことでしょうと演説しています。私たちは、キリスト教と言ったら欧米の宗教と思うのですが、そうではありません。欧米よりもだいぶん早くアジアにキリスト教はきたのです。多くの人がイエスキリストを信じました。これで、衝撃を受けたのがインドの仏教です。釈迦が出たのが紀元前6世紀です。
キリスト教がインドに来たときに仏教は低迷期にあった。なぜ、仏教は低迷したのか?お釈迦様が語った哲学は一般庶民にはハードルが高すぎたのです。お釈迦様の教えを実践できる人は、出家できる人だけです。厳しい修行に耐えることができる人。頭脳明晰で、瞑想する力があって観念の世界で生きることができるという人。こういう人だけが釈迦の弟子になれた。しかし、一般人にとっては手の届かない教えになってしまった。何かに縋るのではなくて、自分に縋りなさい、自分の悟りが全て、というのは、日々の苦しみの中にあっって悩んでいる人にとっては、慰めになりません。
その時にトマスたちが伝えたのは、重荷を負って疲れている人は、私のところへきなさい。私があなた方を休ませてあげるという教えでした。トマスが伝えたのは、永遠の神、永遠の創造主、この宇宙の真理そのものである方。万物の第一原因者。私たちの救い主であるイエスキリストのことを宣べ伝えました。人々は、それに飛びついていった。このままでは仏教は存続の危機にさらされます。そこで、全部キリスト教に持っていかれると危機感を抱いた仏教は、紀元後に大変貌を遂げるのです。
AD二世紀に大乗仏教というのが誕生します。この大乗仏教が日本に伝わった仏教です。原子仏教とは根本的に内容の違う仏教に変わってしまいました。どのように変わったかと言いますと、無神論であった仏教が一種の有神論に転換します。釈迦が始めた仏教は、無霊魂、無神論。全てが無でした。
しかし、大乗仏教は、神という言葉は使いませんが、超越的存在による救済の内容に変わってしまいました。そこに、無神論やむ霊魂ではなくて、人々を救ってくれる偉大な仏が登場します。大毘盧遮那仏(ダイビルシャナブツ)と言います。真言宗では、このダイビルシャナブツのことを大日如来と言います。真言宗以外の仏教は、大毘盧遮那仏といいます。大日如来というのは奈良の大仏さんのことです。大日如来というのは、目に見えない存在。宇宙の中心にあって永遠の存在で真理そのものであるもの。これを大日と言います。これは、元々太陽神です。
古代の人々にとって宇宙の中心は太陽でした。これは、目に見えないものですが、目に見える形にかたどったものが大仏です。でも、内容そのものは、聖書が語る内容にだいぶん近づいています。最初は、無神論の無霊魂の自分の悟りが全てだったのに、仏は人間を超越した存在なり、格上げされて永遠の存在に意味が変わって行ったのです。
二世紀のインドにマシバゴーシャという仏教詩人が現れます。この人は、最初は仏教に対しては批判的であった。仏教の論客と討論して負けてしまいます。そして、仏教に帰依しまして布教を始めます。そのやり方がそれまでとっていた固い教えではなくて詩とか歌とかお芝居を使って仏教を伝えていきます。その彼の不況によって大乗仏教が大勢の人に信仰されるようになって行ったのです。
彼は、釈迦の伝記を書いた。釈迦滅ご600年経っているのに資料もないのに書いているのです。その内容は福音書の内容がそのまま少し変更を加えて表現されているのです。お釈迦様は菩提樹の下で悟りを開く前に三つの誘惑を受けて撃退したとか。子供が2枚の銅貨を釈迦に捧げるとかいう話が盛り込まれております。また、釈迦が生まれる前に女預言者によって予言されるとか、処女降誕で釈迦が生まれるとか釈迦の生涯の中で30歳まででブランクになっています。このように福音書の中にある記事が釈迦物語の中にたくさん入っているのです。福音書を底本に釈迦物語を書いたと言って良いでしょう。
つまり、偽りの釈迦伝記です。釈迦は、私に縋ってもダメだよ、私に縋ってもダメだよ、私に祈ってもダメだよ、救いはないが悟りはある。自分の悟りです。と言っていたにもかかわらず、釈迦伝記ではいつの間にか釈迦は救い主に入れ替わっているのです。お釈迦様が祈ったら答えてくれる。唱えたら答えてくれる存在になりました。いつの間にか救い主に変身しているのです。なぜ、そんなことが起こったんでしょう。
聖書の影響です。大乗仏教は、仏教の中に福音書の内容をどんどん取り入れて生き延びてきた新たなる仏教です。変質した仏教です。空海が唐に行って学んだ仏教は原始仏教ではなくて、大乗仏教だったのです。
空海は聖書の影響を受けて作られた大乗仏教を学んで、まずそこで聖書の影響を受けます。空海は讃岐出身で三男坊でした。31歳で遣唐使として中国の長安にいきます。
この当時、唐で最も盛んだった宗教というのは、景教です。そして、その景教で最も大きい教会が長安にある大秦寺でした。大秦という言葉の意味は、ローマ帝国を表します。ローマことを意味しました。
当時の長安は、キリスト教だけではなくて、ゾロアスター教、ユダヤ教、バラモン教などいろいろな宗教がありました。その中で最も大きな教会堂が大秦寺でした。ローマからシルクロードを通って長安まできました。それは、ローマの教え、大秦寺なのです。
空海が長安に着いたのは紀元804年でした。その169年前紀元635年に景教の宣教師オロペンという人が21人のクリスチャンたちを引き連れて唐の太宗(たいそう)という皇帝に謁見します。この太宗という皇帝は、開明的な方でありまして名君と呼ばれていました。真に良いものであったならば外国のものでも受け入れていくという考えの持ち主でした。
オロペンは直接太宗皇帝に伝道します。この世を創った天の帝がおられる。皇帝よ!あなたはこの世界の皇帝ですが、天には天帝がおられる。この天の帝は人間を愛し、人間をお造りになり、人間を救うために救い主となってこの地上に来られました。人間の罪の身代わりに十字架上で死んでくださり、神なので三日目に蘇られたのです。そして、私たちを天にあるご自分の宮殿に永遠に迎えてくださる方なのです。という単純な福音を宣べ伝えた結果。皇帝は非常に心震えました。
そして、これほどの真理は儒教の中にも仏教の中にもないと言いまして、皇帝自らが景教を信じるので唐の国民よ朕に学べ、朕に倣えということで景教のクリスチャンに聖書を唐の人たちがわかるように聖書翻訳をやってくださいとお願いしました。3年後の638年には全国民にみことのりを発布します。
この真理は計り知れず、その清さは極め難い、故に多くの民衆にこれを伝え、たみを罪から救いなさい。ということで、唐の10の州全てに宣教師が派遣されまして、10の全ての州に大きな教会堂が作られました。小さな町町や村村にも教会ができるようになりました。
その様子を詳しく書いた碑文があります。140年後に石に文字を刻みつけて碑文ができます。この碑文のことを大秦景教中国碑と言います。長いので景教碑と通常いいます。
この景教碑が立ってから23年後に空海が長安に行きます。この碑文と空海の居住地は目と鼻の先であった。そして、大秦寺がありました。
キリスト教会に空海が通ったという記録はありません。大乗仏教の経典は、サンスクリット語で書かれていました。それで空海はサンスクリット語を教えてくれる人を探しました。
教えてくれた人は、般若三蔵という人でした。この人はカシミール出身者であった。この般若三蔵に伝道していたのが景浄という人でした。そして、ついに般若三蔵は景教に心酔します。
この般若三蔵と空海はサンスクリット語の学びで色々と語り合い、話し合い、永遠の世界の議論を交わすようになります。そして、誰が人類の救済者なのかを論じ始めた時に、空海は仏陀だというのです。般若三蔵はナザレのイエスだと言います。
結局空海は、景教徒にはなりませんでした。しかしながら、議論を通じて景教の情報をたくさん得たのです。そして、彼が景教から得た情報を真言密教の中に散りばめていきます。
真言密教というのは、ゾロアスター教やバラモン教やいろいろな宗教を取り入れて作られた混合宗教の仏教です。空海は、亡くなろうとしている時に、弟子たちに対してそう悲観するなと言って慰めます。私は、弥勒菩薩のそばに侍るために死ぬのだと言います。56億7000万年後に弥勒と共に再び地上に現れると言います。56億7000万年後に登場する未来の菩薩が弥勒菩薩です。その弥勒が人類が救い主として来る時に自分は復活すると言っているのです。
聖書の終末論そのものである。聖書の終末論が空海が死に打ち勝つために取り入れられている。どうしても、取り入れなければならなかったのです。空海の間違いは、他のイスラム教や異端の宗教と同じ間違いを犯したことです。聖書の言葉にいろいろなことをくっつけて自分なりの個性を出してこれが最高だと思ったでしょうが、それは過ぎたることなのです。
それで問いたい、真言密教は仏教でしょうか。
空海の師匠は恵果と言います。空海が、真言宗の信徒になるとき灌頂(かんじょう)を授けられます。灌頂は水を頭の上に3回かけることです。これは仏教的な意味はない。これは、景教でバプテスマを受ける方式と一緒。滴礼である。
儀式の前に横三つたてひとつきる。これは、景教の十字架の印である。1週間が7日というのも空海が持ち帰った教え、空海の教えで、わたしたちの心をとらえるものは、そのルーツは聖書なのです。仏教の教えで感動するものは、釈迦の教えではなくてそれは聖書の福音からきていると言えます。空海が景教をきく200年前に日本に景教の教えは伝わっている。
実は、聖徳太子のブレーの中に景教徒がいたとわかっているのです。昔、流行った若者の無気力、六無主義など涅槃の境地に通じるものです。しかし、これらは社会を作ることができません。むしろ、人生を破壊すると思われていました。
救済者が人間には必要なのである。無神論からの釈迦の出発は、結局真理に至ることはなかったのである。神は本当におられる。その救い主がいないという涅槃の境地は最大の不幸の状態をもたらすのかもしれない。