夢
夫のチネイザンを受けて、じわじわとデトックスが起こっている。
チネイザンは臓器に働きかけて氣を流し、各臓器に溜め込まれた感情エネルギーを排出すると言われるマッサージ。
フィジカルな施術しかできない人もいれば、ちゃんと氣に働きかけられる人もいるそうで、夫はエネルギーの部分を働きかけられる部類の人らしい。
練習台になる時、私は蓮の子守をしながらなので施術中は微細な感覚にどっぷり浸かることはできないのだけれど、施術を受けて眠る時に、デトックスされたエネルギーを夢の中で体験した。
私は何度か過去生を見たことがある。
その時と同じような感覚。
その場にいてその瞬間を完全に体験している感覚。
足の裏の感覚や小さな音、雑踏、その空間の匂い、細かいところまでリアルにその場に起こってそこにいる感覚。
久しぶりにそれを夢の中で体験した。
私は戦争のような混乱事態の中で子どもを失ったお母さん。
死んだ子どものことを悲しむことも許されず、子どものために泣いてくれる人もいず
突然、不慮の事故で半分殺された息子の死を目の前にしてただそれを受け入れその場を去った。
それをふと雅人君らしき人に告白し、その途端にしくしくと涙が出て
大声を出すわけでもなく、声を押し殺して泣いていた。
やるせない悲しさと諦めが混ざっていた。
そこで現実の私は目を覚まし、それでもずっと泣いていた。
身体の中の感覚はまだその時代に残ったまま。
いつかの混乱時代に戻ってしまうかわからない。
そうなったら、家族のささやかな幸せなんて簡単に政府に踏みにじられる。
いのちを紡いでいくことの尊さなんて簡単に犠牲にされてしまうのだ。
私にとってどんなに大切なことも、大切にされなくなる瞬間は突然に訪れる。
雅人君もスッと目を覚ましたので、しばらくハグをして泣かせてもらった。
「簡単に損なわれてしまうものだからこそ、家族で過ごせる瞬間を本当に大切にしたい。」
そう伝えて、ふと横で眠っている息子を見た。
すると彼はスッと起き上がってハイハイをして私に笑いかけて、キスをしてきた。
それからちょっと泣いている私をずっとハグして笑顔をくれた。
いつもだったら、夜に起きたら大泣きなのに。
すごく穏やかに再び眠りに落ちていった。
夢は実は他にもあって、高校時代、コンペティションの世界で「勝つ」ことを目標にダンスを作らされていた時代の感情にも向き合わされていた。
「勝つ」ために作る、「勝つ」ために練習する。
その体験があまりに強烈だったために、私はそれが自分の中から湧き上がった欲望なのかと疑っていたけれど、今日の夢の中で完全にそれが「外的操作で思い込まされていた」ことがわかった。
本来の私の中にそういう希望(「勝つ」ためにダンスをしたいという感覚) は全く無かった。
そして、ダンスの中では抜け出たとは言え、
日常の些細なこと、仕事の些細なことに、まだその「コンペティション」な感覚が邪魔をして
本来の自分のやりたいことが少しだけ曇ってしまっていることがわかった。
そのコンペティションというものが、戦争という形で強烈に夢の中に現れたおかげで
コンペティションが起こしている「優劣」「勝利」「敗者」「敗北」という
社会にいたら「当たり前じゃ無いか。」で片付けられる認識だけど
「その認識のタネがある限り、世界の認識は変わらないよね。
戦争のある世の中は終わらないよね。」
というところを見せつけられて、ショックを受けてしまった。
「そうか、私自身が小さくともコンペティションの感覚を持っていることと、世界から戦争がなくならないことは繋がっているのか」
私の根っこの方がそれに氣がついて、そういうものを避けるようになったのだな、と。
そういう体験を通して、ふと自分の中の「恐怖」の感覚が手放せて
「あぁ、やろう!」
「あぁ、やりたい!」
と、やりたいことをやる勇氣、氣力が湧いてきた。
体力がなくなっていても、筋力がなくなっていても。
以前と同じように軽やかに動けなくても。
感覚が鈍感になっていても。
一人でコンペティションをして
「恥ずかしい」とか「もう、できないかも」なんて尻込みするのはやめればいい。
そんなことが一晩に起こって、泣いたり笑ったりしていた。
私たち夫婦は仕事の目標を「世界を少し優しく素敵にすること。」に置いている。
そこだけは忘れないようにしようと決めている。
自分の仕事、経済活動が、環境を破壊することや、人体に負荷を与えることになるべく繋がらないように。
自分の注いだエネルギーが世界をよくしようという意図のもと発動するようにと、仕掛けをするようにしている。
そうしておかないと、コンペティションの世界に飲み込まれてしまいやすい世の中だから。(他人を見る限り)
そして、そうするようにまってから、当たり前のようにそういう設定で生きている人たちとするすると出会うようになってきている。
それでも、自分の中に、まだあるコンペティションな感覚は、私の素直な欲求を邪魔したりする。
純粋にやりたいことをやるということは簡単そうに見えて難しい。
だからこそ、そこを見つめることに意味があるのだと思った。
私はまだまだ削ぎ落とすことができる。
夫の施術を通して、そこに向き合えた。
チネイザンおそるべし。