城巡り2022年~23年
ここ数年、お城に行くことが増えています。まったくアップしていなかったんですが、それももったいないのでサクッとまとめてみました。
●越前大野城
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大野城(福井県大野市)は旧国名から越前大野城の別名を持つ。
織田信長より越前一向一揆を平定した恩賞として越前国大野郡の内の3万石を与えられた金森長近が、1576年、最初に居城とした戌山城の近くの亀山(大野盆地の小孤峰)に城郭を築き始め、築城に4年間を要し1580年に竣工した。
城は1775年に焼失し、1795年には天守を除いて再建されたが明治維新後に破却されている。
昭和に再建された越前大野城は、竹田城(兵庫県朝来市)、備中松山城(岡山県高梁市)と並び、城(城跡)が雲海に浮かぶ「天空の城」の異名がある。
毎年10月から4月の特定の気象条件がそろうことで「天空の城」となるが、1年間で10日前後しか見られない風景となっている。
●丸岡城
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丸岡城(福井県坂井市)は現存12天守の一つ。
福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い独立した丘陵に築かれた平山城である。近世に山麓部分が増築され、周囲に五角形の内堀が廻らされていた。安土桃山時代に建造されたと推定される天守は重要文化財に指定されている。
北陸地方で現存する天守は丸岡城のみである。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から現存最古の天守とも呼ばれていたが、福井県坂井市教育委員会の調査で江戸期の寛永年間(1624 - 44年)に建造されたことが判明し、同委員会が2019年3月26日に発表した。
1576年:柴田勝豊が坂井平野東部の独立丘陵である丸岡に城郭を築き拠点を移す
1624年(寛永年間):現在の天守が建造されたとされる
●苗木城
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苗木城(岐阜県中津川市)は、中津川市内を東西に流れる木曽川の北岸に聳える城山(432m)にある。木曽川から山頂の天守跡までの標高差は約170mあり、自然の岩山の地形を有効に生かして造られた山城であった。
苗木城の特徴として、岩山という地形に制約されて利用できる平坦な土地の確保が困難であったため、巨岩等を利用した上での建物の建築方法(懸造)であったこと、また石垣には多種類の積み方が見られることが挙げられる。
天文年間(1532年~1555年)に遠山正廉が高森に苗木城を築く。
本丸・二の丸・三の丸などの石垣や大矢倉跡・風吹門跡・綿倉門などの門跡、堀が残っている。天守台や大矢倉の石垣、馬洗岩など巨大な自然石が複数箇所で利用されているのが特徴。菱櫓台の下に千石井戸と呼ばれる井戸が残る。大手口道は長さ500m、高低差150mあり「四十八曲り道」といわれている。
●荒木城
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荒木城(兵庫県丹波篠山市)は、標高404m、比高170mの山頂に位置した山城。城の南麓を東西南北に街道が通っており交通の要衝となる。『丹波志』によると城主は荒木氏綱といい、1578年4月、明智光秀が滝川一益、丹羽長秀とともに攻めた「荒木山城守城」がこの荒木城と考えられる。
『信長公記』によると、4月10日、明智方により水の手が止められたことで落城した。
●籾井城
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籾井城(兵庫県丹波篠山市)は標高390m、比高140mの山上に立地し、東・西・南方向への展望に優れている山城。多紀郡籾井荘を支配した国人・籾井氏の居城で、東には京都に向かう京街道、南には摂津に向かう摂津街道があり、それらが交差する要衝に位置した。
1577年10月、多紀郡の入口にあたる籾井城は、丹波攻略を狙う織田信長の家臣・明智光秀によって攻められ、同年11月には落城した。
落城時の城主は『丹波志』では籾井春重、『籾井家系譜』では籾井綱重とされる。綱重は籾井城の東に位置する安口城を隠居城として次男・綱正とともにそこに入城しており、籾井城は綱重の嫡男・綱利が守ったが、籾井城落城の際に綱利は自刃したという。
また、明智光秀書状によるとこの時光秀が落城させたのは「籾井両城」であり、籾井城と安口城を指すとみられる。
●福知山城
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福知山城(京都府福知山市)は、市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から臥龍城の別名を持つ平山城。
現在の縄張りは明智光秀がおこなった。東から西に流れる由良川が天然の堀となっており、北側には土師川と合流する標高40mの台地に築かれ展望のよくきく地である。東、北、西は断崖で要害の地でもあった。
室町時代福知山地方の国人塩見頼勝が、八幡山の脇に掻上城を築城したのが始まりと言われている。
明智光秀は、織田信長の命をうけ丹波国征討戦を開始、これに敵対したのは赤井直正・波多野秀治連合軍で、塩見信房は赤井・波多野連合軍に加担していた。当初は赤井・波多野連合軍は「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる戦術で明智光秀軍を撃退したが、赤井直正が1578年3月9日に病死、波多野秀治の居城八上城が1579年6月1日に落城、赤井直正の居城であった黒井城も同年8月9日に落城した。
その後明智光秀は丹波国を平定。福智山城と改名、近世城郭へと修築。
関ヶ原の戦いの論功行賞により福知山城に有馬豊氏が入城。山陰道を押える要衝地にあるこの城を、豊氏は近世城郭として改修を行い現在に残る姿とした。
●駿府城
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駿府城(静岡県静岡市)は、江戸初期には大御所政治(駿府政権)の中心地となった。
14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川館が築かれ今川領国支配の中心地となっていた。
1585年から徳川家康により、駿府城は近世城郭として築城し直された。この時に初めて天守が築造されたという。そして翌1586年に家康が、自身が17年過ごした遠江国浜松城から駿府城に移った。
江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、駿府に隠居した。政治的影響力を持ち続けた家康は大御所と呼ばれた。このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が完成した。
1607年に、城内からの失火により、完成して間もない本丸御殿を焼失したが、その後直ちに再建工事が開始され1610年完成した。天守台は、石垣上端で約55m×48mという城郭史上最大級の規模であった。天守曲輪は、7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となった。
●高松城
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高松城(岡山県岡山市)は讃岐高松城と区別して備中高松城とも呼ばれる。羽柴秀吉による水攻めで有名である(備中高松城の戦い)。
城の形式は梯郭式平城で、石垣は築かれず土塁によって築城されており、城の周囲は低湿地帯でこれらが天然の堀を形成していた。
築城時期ははっきりしないが、備中一円を治めていた戦国大名三村氏の命により備中守護代石川氏が築いた城である。
1582年、織田信長の家臣・羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され、高松城攻め(備中高松城の戦い)にかかった。高松城の周囲は沼地に囲まれ難攻不落とされていたため、攻城戦は持久戦となった。5月に入り黒田孝高の献策により、城を堰堤み、低湿地にあった高松城を水没させる「高松城水攻め」を開始。折しも梅雨時で堰堤内には水が溢れ城は水没した。
●岡山城
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岡山城(岡山県岡山市)は、標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された平山城。
戦国時代に、備前東部から興って、美作、備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われた。旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。その中の石山にあった石山城に宇喜多直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造された。これが岡山城である。
城の縄張は基本的には梯郭式となっており、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる平山城となっている。言いかえると本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張である。そのため旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用したとされる。さらには郭の代りとして、「後園(後楽園)」が築かれたともされる。
後楽園は、水戸・偕楽園、金沢・兼六園とともに、日本三名園として並び称される。
天守は4重6階の複合式望楼型で、出入り口は付属している塩蔵に設けられている。元禄時代の古地図からは、五重の濠に囲まれた城郭と、南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ城下町の姿がうかがえる。
岡山城には本丸の模型が展示してあります。
かなりしっかり作りこんであり、テンション上がります!