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自然の摂理は永遠平和を保証する

2024.08.22 06:38

https://weekly-haiku.blogspot.com/2019/06/5_16.html 【自然の摂理のまま】より

菊田一平

角落ちし鹿の眼の澄んでをり  藤本夕衣

角が無くなった後の鹿がどんな表情をしているのか実は知らない。十年ほど前になるけれど奈良公園の鹿の角切りを見るには見た。

幔幕を張り巡らせた会場に勢子に追われた鹿たちが次々と逃げ込んで来て、投げ縄で捉えられては地面にねじ伏せられて行く。三、四人の印半纏を着た人たちに寄ってたかって押さえつけられ、角切りの一連の流れ作業の果てに囲みを解き放たれた鹿たちは戸惑うような仕種を見せながらも一様に仲間たちのいる方へと駆け出して行った。あの鹿たちの目には突然自分の身に起こったことへの驚愕と自由になった不思議さ、あるいは安堵の表情はあるだろうけれども、「澄んでをり」の「澄む」とは距離があるはずだ。

多分、夕衣さんの鹿は強制的に角を切られた鹿ではなく自然と角が抜け落ちた野生の鹿なのだろう。そういえば、おととしの冬、琵琶湖の北の菅浦へ吟行にいった。湖岸の多くの家の物干しの竿掛けが見事な鹿の角だった。だれかが裏の山から拾ってくるらしいよ、と教えてくれたけれど、賤ケ岳につづくあのあたりの鹿たちは自然の摂理のまま角が生えたり落ちたりして歳を経て行くのだろう。結衣さんはまさにそんな鹿たちの目の在りようを素直に詠んでいる。


https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/57_kant/index.html 【名著57 永遠平和のために - NHK】より

「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」という哲学史に残る名著を著し、近代哲学の骨格を築いた18世紀の哲学者イマヌエル・カント(1724 - 1804)。彼が確立した哲学は「ドイツ観念論」と呼ばれ、今も多くの人々に影響を与え続けています。そんなカントが最晩年、戦争が絶えないヨーロッパ情勢を憂い、「世界の恒久平和はいかにしてもたらされるべきか」を世に問うたのが「永遠平和のために」です。終戦記念日を迎える8月、この本をあらためて読み解きたいと思います。

「永遠平和のために」が書かれた18世紀のヨーロッパでは、国家間の紛争が頻発。民衆たちが戦争を忌避し平和を希求する一方で、国家間のエゴが対立しあい、一部権力者たちによる軍備拡張や戦費の増大がとめどなく進んでいました。巨大な歴史の流れの中では、戦争を回避し、恒久平和を実現することは不可能なのかという絶望感も漂っていました。そんな中、「国家」の在り方や「政治と道徳」の在り方に新たな光をあて、人々がさらされている戦争の脅威に立ち向かったのがカントの「永遠平和のために」です。そこには、「常備軍の廃止」「諸国家の民主化」「平和のための連合創設」など、恒久平和を実現するためのシステム構築やアイデアが数多く盛り込まれており、単なる理想論を超えたカントの深い洞察がうかがわれます。それは、時代を超えた卓見であり、後に「国際連盟」や「国際連合」の理念を策定する際にも、大いに参考にされたといわれています。

哲学研究者、萱野稔人さんは、民族間、宗教観の対立が激化し、テロや紛争が絶えない現代にこそ「永遠平和のために」を読み直す価値があるといいます。カントの平和論には、「戦争と経済の関係」「難民問題との向き合い方」「人間の本性に根ざした法や制度のあり方」等、現代人が直面せざるを得ない問題を考える上で、重要なヒントが数多くちりばめられているというのです。

番組では、政治哲学や社会理論を研究する萱野稔人さんを指南役として招き、哲学史上屈指の平和論といわれる「永遠平和のために」を分り易く解説。カントの平和論を現代社会につなげて解釈するとともに、そこにこめられた【人間論】や【国家論】、【政治論】などを学んでいきます。

朗読を担当した斉木しげるさんからのメッセージ

成績は「否」であった大学での哲学。

君は哲学にむいていない、よって来年も取ってはならん、という事である。

そんな私が大哲学者カントを演ずることになろうとは。

それはそれとして・・・

難解至極と思われた哲学も、月日を経ることにより学ぶ機会にも恵まれ少しはわかるようになりました。「難解である」こと自体を面白がるってのも大事ですな。

第1回 戦争の原因は排除できるか

頻発する国家間の紛争によって、平和秩序が大きくゆらいでいた18世紀ヨーロッパ。人々は、国家間のエゴの対立による「戦争の脅威」に常に直面していた。世界の恒久平和はどうやったらもたらされるのか? カントは、その根源的な課題に向き合い解決するために、自らの哲学的思考を駆使して「永遠平和のために」を執筆した。「常備軍の廃止」「軍事国債の禁止」「内政干渉の禁止」といったアイデアを提言した平和論だが、それは単なる理想論ではないかと批判されてきた。萱野稔人さんによれば、そうした見方は誤りであり、カントの人間本性への鋭い洞察が込められているという。第一回は、「永遠平和のために」が生み出された背景やカントの人となりを紹介しながら、現代にも通じる、戦争の原因を排除する方法を読み解いていく。

第2回 「世界国家」か「平和連合」か

恒久平和を維持するシステムとして「諸国家による平和のための連合」を構想したカント。それは、戦争のない理想状態とされてきた「世界統一国家」を断念する消極的ともいえる提案だ。なぜ「世界統一国家」という積極的な提案ではだめなのか? そこには、人間や国家についてのカントの鋭い洞察があった。世界統一国家への統合は、異なる文化、価値観、言語という個別の事情を超えて、特定の強者の文化や価値観が一方的に物事を決定するという大きな抑圧を生みかねない危険性が必然的に生じるのだ。第二回は、カントが提示した「平和のための連合」の理念を読み解くことで、人間にとって「国家とは何か?」「民族とは何か?」といった根源的な問題を解明する糸口を見つけるとともに、恒久平和を実現するシステムとはどんなものかを考察する。

名著、げすとこらむ。◯『永遠平和のために』 ゲスト講師 萱野稔人

哲学的視点から戦争と平和を考える

今年も八月十五日の終戦記念日がもうすぐやってきます。思い起こせば、日本は戦後七十年以上もの長きにわたり、幸いなことに一度も戦争をせずに済んでいます。しかし、世界に目を移せば、民族間の対立や宗教の違いによる紛争やテロが今もあちこちで頻発していて、とても平和とは言いがたい状況が続いています。一見、平和に思える日本であっても、いつ戦争の火種が降りかかってきても不思議ではないかもしれません。毎年この時期になるとテレビや新聞、雑誌で、戦争や平和をテーマにした特集が多く組まれますが、戦争を過去のものとせず、常に「戦争とは何か」「平和とは何か」と問い続ける姿勢は大切です。

平和や戦争というと政治学の領域の問題ととらえられがちですが、哲学の分野でも戦争の問題は古くから論じられてきて、これまでも多くの哲学者が「人間はなぜ戦争をするのか」「平和な世界をつくるためには何をすべきか」について深く考えを巡らせてきました。十八世紀のヨーロッパを代表するドイツの哲学者イマヌエル・カントもその一人で、そのものズバリの『永遠平和のために』という本を書いています。今回の番組とテキストでは、この本を読み解きながら、この世から戦争を永遠になくすためには何をすべきなのかを、みなさんと一緒に考えていこうと思います。

カントの著書としては『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』が特に有名ですが、正直なところ、この三冊はあまりに抽象的で難解すぎて専門家でさえも手を焼くほどです。おそらくほとんどの人が、いざ手にとって読もうとしても最初の数頁ページを読んだだけで断念してしまうでしょう。

このようにカントの著書には難解なものが多いのですが、今回名著として取り上げる『永遠平和のために』は、抽象的な問題ではなく現実の社会をテーマに書かれているので、他の著書と比べると比較的読みやすい内容となっています。分量的にもコンパクトで、文庫本の日本語訳で一二〇頁足らず。内容をきちんと理解しようとすれば、それなりに時間がかかってしまいますが、文字を追うだけなら一時間もあれば読めてしまいます。現在、数種類の日本語訳が出版されていますが、今回は光文社古典新訳文庫の『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』(中山元訳)に収録されたものをもとに解説していきます。

『永遠平和のために』の原著が出版されたのは一七九五年。そう聞くと「二百年以上も前の古くさい哲学書に今さら読む価値があるの?」と感じられるかもしれません。しかし、この本が書かれたのはヨーロッパが近代社会の幕開けを迎え、民主主義国家の原型がつくられた時代です。それゆえにこの本には、現代にも十分通じる提言が示されています。読み方によっては「戦争と経済の関係」「難民問題との向き合い方」「憎悪の連鎖をどう断ち切るか」といった、現代社会が直面している問題を考えるうえでのヒントもみつかります。

さらに平和や戦争について考察されているだけでなく、カント哲学の核心というべきものが随所にちりばめられているのも、この本の特徴です。ひとことで言えばカントは「人間の理性の可能性」(われわれは何を知りうるか、理性のもとで何をすべきか)というものを考え続けた哲学者ですが、この本を読んでいくと、彼の考えた「理性」、とりわけ「実践理性」というものがどんなものなのかがおのずとわかってきます。つまり、カント哲学の入門書としても読むことができるのです。

ただし、最初に断っておきますが『永遠平和のために』は、〝愛が地球を救う〟といった「ラブ&ピース」的な理想論が書かれている本ではありません。読み終えたからといって、自分が善い人間に生まれ変わった気持ちになれるわけでもないし、未来への希望が湧いてくるわけでもありません。「人間の本質とは何か」「国家・社会とは何か」──そこまで踏み込んだうえで、理論的に永遠平和を実現する方法を考察しているのがこの本なのです。

哲学的な視点から戦争や平和を考えると、これまで気づくことのなかった「人間や社会の本質」がみえてきます。そこにこそ、この『永遠平和のために』を読む本当の意味があります。

第3回 人間の悪が平和の条件である

カントは、平和論を構築する上で「人間の本性は邪悪である」という前提に立つ。理想主義者ととらえられてきたカントのイメージを覆す論だが、さらに衝撃的なのは「人間の本性が邪悪だからこそ、自然の摂理は永遠平和を保証する」という論を展開することだ。これは一体どういうことか? 自然状態では他者と衝突して自分の権利や利益が侵害されかねないため、人間はルールを作ってそれを他者に守らせたいと考える。このとき自分だけはそのルールに縛られたくないと考えるが、最終的には、自分の自由や権利が一部制限されたとしても、全員が同じルールに従う方が「結果的に自分の利益が最大化する」という結論に至るというのだ。もともと人間に備わったこうした傾向性をうまく利用して、法や制度、経済システムを設計していくことが肝要だという。第三回は、「人間の本性は邪悪である」ことを前提としたカントの平和論が、「自然の傾向性」を生かしながら、どうやってその「悪」を抑止するのかを明らかにしていく。

もっと「永遠平和のために」


第4回 カントが目指したもの

【朗読】

「恒久平和」を実現するために、カントは、根本にさかのぼって「道徳と政治」の関係を深く考察する。カントは「道徳」の根本が「無条件でしたがうべき命令を示した諸法則」であることを解明し、既存の「良心に基づく道徳」というイメージを覆す。つまり「道徳」は良心の問題ではなく、「普遍的なルールとしてあらゆる人の利益や都合を保証するために活用されるもの」だというのだ。この前提に立てば、たとえ自分の欲望を最優先する悪魔が国家の成員であったとしても、ルールに従わざるを得なくなるメカニズムを構築できるのである。第四回は、カントが確立した「倫理学」も交えながら、人間が戦争を避けるための政治と道徳の在り方や人間の在り方を探求する。

こぼれ話。

哲学は「現実」をクリアに分析する道具である

カント「永遠平和のために」はずっと気になっている本でした。しかし、自分の中にあるトラウマが、取り上げることを躊躇させていました。実は、プロデューサーAは某国立大学の文学部哲学科出身。カント「純粋理性批判」は哲学史上最も重要な著作とされていましたから、哲学を学ぶ学徒としては、一度は読み通してみようと何度もチャレンジしました。が、全く歯が立ちませんでした(一応通読はしたのですが)。カントの著作は私の手に負えないと思い込んでいました。また、この難解な哲学は、テレビというメディアで紹介するのが難しいのではないかという思いもありました。

ところが、そこに一筋の光明がさします。2014年に出版された「闘うための哲学書」という対談集で、哲学を研究する気鋭の若手二人、小川仁志さんと萱野稔人さんが「永遠平和のために」について侃侃諤諤の議論を戦わせていたのをみて、「こういう視点ならば、十分に番組化できるのではないか」という強い印象を抱きました。それほどまでに、お二人による白熱した議論は、カントの平和論が今の世界に通じると思わせてくれたのです。

萱野稔人さんに関していうと、デビュー作「国家とは何か」から著書をよく読ませていただいており、私も学生時代に親しんだ、フーコーやドゥルーズ=ガタリといった現代思想の巨匠たちの理論を見事に応用した国家論を展開していて、「哲学を使って現実社会を分析する」という手法が脳裏に焼きついていました。その後も、「日本のジレンマ」「英雄たちの選択」などで放たれる鋭いコメントがいつも刺激的で、いつか講師にお迎えしたいという思いも抱いていました。

萱野さんの読みの特徴は、原典にきちんとのっとりながらも、今までにない新しい視点を出してくるところ。正直、萱野さんへの取材の中で、「理想主義者カント」というイメージががらがらと崩れていきました。そして、番組を通して、全く新しいカント像を示すことができるな、と確かな手ごたえを得ました。

萱野さんの解説の中でとりわけ印象的だったのが、「『永遠平和のために』という本は、現実にある問題をとことんまで考えつめたときに、それが結果的に『哲学』になっていたという代表的な本だ」と語っていたこと。「哲学というものは、私たちが近づきがたい抽象的なことばかりを考えているわけでない。私たちが普段手触りをもって感じているような事柄も、つきつめていくと哲学になっていくのだ」。私が、学生時代に肌で感じていたにもかかわらず、忘れていた原点を思い出させてくれるような解説でした。

思い出したのは、萱野さんがパリ第10大学で哲学者エティエンヌ・バリバールに師事したという経歴。バリバールに関する著作も学生時代に読んだのですが、国家や社会というものを、当時流行していた「表象」や「言説」といった抽象的なものに還元するのではなく、あくまでも「実体的な運動」として捉えようとした哲学者でした。萱野さんも、バリバールの影響もあって、「現実の中で哲学する」という姿勢を貫かれているのではないかと感じました。

「哲学」を私たちの生活とは関係のない抽象的なものとして忌避することなく、むしろ、私たちが生きる現実をクリアに分析してくれる道具と考えること。そんな視点を萱野さんの「永遠平和のために」の解説から学ばせていただきました。