【浅草②】新吉原町
町名:新吉原町
読み方:しんよしわらちょう又はしんよしわらまち Shin-Yoshiwarachō or Shin-Yoshiwaramachi
区分:総称
起立:江戸期
廃止:1958(昭和33)年
冠称:なし
現町名:台東区千束三・四丁目
概要:新吉原各町の総称。前段は吉原町を参照のこと。
新吉原は江戸城の北に当たるところから「北里(ほくり)」、「北廓」とも呼ばれ、芝居と並んで江戸町人文化の主要な舞台となった。浅草日本堤から衣紋坂のある五十間道を下った所が新吉原の大門口で、廓は「大溝(おおどぶ)」、「お歯黒溝」と俗称される堀に囲まれ、南北の長さは京間で135間(266m)、東西は180間(351m)、総坪数2万767坪(7万9,776㎡)であった。
新吉原の町の区画は、元吉原とほぼ同じであるが、元吉原時代に廓内の所々に散在していた揚屋を、新吉原では1箇所に集めて新吉原揚屋町として新設した点が異なっていた。さらに寛文年間(1661~1673年)に新しく伏見町と堺町(明和年間(1764~1772年)に閉鎖。ただし、小夜衣の放火が1781(天明元)年9月なので詳細は不明)を新設した。大門を潜ると仲之町を挟んで右手に江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目、左手に伏見町、江戸町二丁目、堺町、角町、京町二丁目という順で並んでいた。仲之町の突き当たりの堀に面した所を「水道尻」(水戸尻、水吐尻とも書く)と呼び、廓の南側の堀に面した所を、西から東へ順に「西河岸(「浄念河岸」ともいった)」、「天神河岸」、「羅生門河岸」と称した。
新吉原の遊女人口は享保(1716~1736年)~天明年間(1781~1789年)にかけて2,500人位、寛政(1789~1801年)~天保(1831~1845年)は増加して5,000人前後、さらに弘化年間(1845~1848年)には7,000人にも達し、幕末には再び減少して約4,000人となった。
1872(明治5)年、娼妓解放令が出されたが、公娼制度は明治期以降も存続、終戦後の1946(昭和21)年、公娼廃止がGHQにより指令され、遊郭は「特飲街」と名を改めた。1958(昭和33)年、売春防止法の施行によって、新吉原は消滅した。
撮影場所:新吉原町