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Kazu Bike Journey

Ride in Kyushu Day 19 (3/1/19) Sotomi District 外海地区

2019.01.04 06:27

Catholic Kurosaki Church 黒崎教会

Karematsu Shrine 枯松神社

Shitsu Church 出津教会堂

Former Shitsu Aide Centre 旧出津救助院

Monument of Silence 沈黙の碑

今日は世界遺産に登録された隠れキリシタンの里の一つの外海地区に行く。長崎からは峠を越えて、海岸沿いのアップダウンがある。キリシタン禁令で過酷な弾圧の中、250年という長い何世代にわたって信仰を持ち続けた村民達の村がある。長崎県全域で同じような隠れキリシタンの村がいくつもあり驚きだ。平戸、五島列島、島原、長崎外海地区が主な隠れキリシタンが発見された場所。何故、長崎なのかの疑問が出てくる。私見ではあるが、先に訪れた大村城の時に触れたが、大村純忠の影響が大きいと思われる。大村純忠の領土であった長崎はさながらキリスト教国とも言ってもいいぐらいキリスト教が主宗教で宣教に対しての積極的な支援で各地に教会が建てられた。島原はキリシタン大名の有馬氏が治めており、ここもキリスト教が盛んであった。平戸は松浦氏でキリシタン大名ではないが、長崎港が大村純忠によってポルトガルに開港されるまでは、平戸が対外港で、キリスト教布教も許され、多くのキリシタンがいた。五島列島はここもキリシタン大名の五島氏が治めていた。先に触れたキリシタン弾圧があった今の大村市からは、この五島列島に移住したキリシタンが多くいた。このようにキリスト教がその後存続できる程、浸透し日本人の中で指導できる者も育成されていた。つまり、キリスト教が生活に入り込んで、ベースが出来ていたと思う。

もう一つは大村藩 (外海地区を含む) と平戸藩(五島列島も含む)は開藩から明治まで其々、大村氏、松浦氏が藩主を務め、家臣にもキリシタンがいたであろうし、他の地域より、キリシタンに対しての対応はマシであったかもしれない。

更に、外海地区や五島列島は藩庁からかなりの距離があり、徹底的な監視は難しかった事もあるのではないか。

キリシタン側では表面上は仏教徒となったが、色々な工夫をし信仰を継続していた。

黒崎教会 Kutosaki Catholic Church 

まずはこの教会を訪れた。キリシタン禁止令が明治6年に事実上廃止された後、公にキリシタンを名乗れ、海外からの宣教師も布教活動を再開した。ここで驚くのは、明治政府も6年間は弾圧を続けていたことだ。国際社会から人権弾圧や宗教の自由を指摘され禁止令を停止した。

黒崎教会は1879年(明治12年)に出津町(しつちょう)へ赴任してきたフランス人宣教師のド・ロ神父によるもの。建設は資金難で住民が作業も手伝い苦難の末、計画から約23年の歳月を経て完成。海岸から山の中腹に民家が広がっておりその山の麓にこの教会がある。村のシンボルのような存在だ。

遠藤周作の「沈黙」のトモギ村がこの黒崎村でこの黒崎カトリック教会も登場している。

枯松神社 Karematsu Shrine

黒崎カトリック教会の近くの山の中にこの枯松神社がある。神社ではあるがこれはキリシタンの集会場であった。神社とは表向きだけで、隠れキリシタンがここで礼拝を行なっていた。「隠れキリシタン」は禁教令廃止後、世に公表した後、二つの異なる行動を行った。正式にカトリック教徒に登録したもの、カトリック教徒になる事を拒んだもの。前者を「隠れキリシタン」と呼び、後者を「カクレキリシタン」と表記する。この枯松神社に集っていたキリシタンは「カクレキリシタン」が多くいる。当初はカモフラージュのための神社であったが、年月を経ることで神道や民間宗教と融和してしまい、カトリックの教義からはかけ離れてしまった。ただ、先祖から受け継いだ大切な宗教と認識された。この「カクレキリシタン」にはカトリックの教義は排他的で厳しすぎると映った。

神社の脇に墓跡がある。石板を敷いたの。キリシタンしかわからない墓だ。もう一つは現在住んでいる住民の墓、仏教形式のものと、形は同じだが全く仏教形式でないもの二つが混在している。写真は後者の墓で、葬られている人は戒名ではなく洗礼名が書かれてあった。

出津教会堂 Shitsu Church 

黒崎教会と同じくド・ロ神父が建設。明治12年に大浦天主堂からこの出津に赴任してきて明治14年着工、15年完成。ド・ロ神父は多くに教会を建設している。明治元年 彼が28才の時に来日。キリスト教の布教活動だけでなく建築や土木、医療、教育など様々な産業や文化を外海の人々へ教え、地域の社会福祉に大きく貢献した。大正3年(1914) ド・ロ神父は74歳で逝去。28才で来日して以降、故郷フランスへは一度の帰郷すらしなかった。日本への布教に一生を捧げた人生だった。


出津救助院

ド・ロ神父は明治16年(1883)に、この近くに女性のための授産施設として出津救助院を建て、教会と往この細道を往き来していた。今は歴史の道と呼ばれている。救助院は年始休みで閉館しており、外からしか見れなかった。この地方特有の平らな石を積み重ねた石垣の上に立っている。

村の中も独特の石垣で囲まれている。

沈黙の碑 Monument of silence

遠藤周作の「沈黙」にちなんだ沈黙の碑。若い頃に読んだが今でも「ころぶ」のが尊いのか、それも超越し、他のキリシタンの来世を信じころぶべきでないのが信徒なのか今でも難しい問題だ。ただ、どちらであれ信仰を持ち続けたことは確かだ。遠藤周作は大きな問題をテーマにした。ころぶ=棄教とされているが、そうではないのだろうが......

 『人間がこんなに哀しいのに主よ海があまりに碧いのです』 と刻まれていた。

ここからもう一つ海岸線の峠を超えると大野教会というド・ロ神父が建てた教会がある。ここにも行く予定だったが、既に4時近くになっている。黒崎教会堂の手前に夕陽が丘という道の駅があるのだが、来る時に67才のライダーと1時間以上話しをしたので時間が足らなくなった。暗い中、歩道のない山中の国道は走りたくないので大野教会訪問は断念。帰路につく。大野協会の写真はインターネットで借用。

知り合ったライダーさん。長崎弁で話をしてくれた。ヤマハの450ccを改造、飾りを施している。飾りにはほとんどがハーレーの名がある。初めはハーレー製かと思った。もう15年以上乗っているそうだ。メーターを見ると約8万キロ。すごいですねというと、メーターは2周目なので18万キロ。びっくり。毎週ライダー仲間との話を楽しみに乗っているそうだ。平日は他の仲間は仕事なので、週末が待ち遠しい年金生活と笑っていた。67才だがまだまだ元気そう。80までライダーを続けるのだろう。

ライダーさんとあった道の駅夕陽が丘そとめ。ここにも遠藤周作文学館がある。今日は休館。左下の写真のにかすかに軍艦島がみえる。軍艦島も行ってみたかったが、行きたいところはきりがない。

帰路に三島というやはり隠れキリシタン地区で初船出の準備か終わったのか、新年で飾られた漁船団が停泊していた。