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粋なカエサル

蕎麦の話④ 蕎麦と寺院3「深大寺」

2019.01.04 01:00

 仏教のどの宗派も大なり小なり蕎麦とのかかわりを持ったが、千日回峰行最後の百日間の命の糧の蕎麦、修業時代の親鸞聖人の伝承「蕎麦喰木像」など天台宗は特に強い関係があった。江戸での天台宗の最高の寺は東叡山寛永寺。ここでは蕎麦の栽培もおこなっていた。

「寛永寺は寺領1万790石という、大名なみの石高だが、栽培されている蕎麦も稔れば、相当な収穫だろう」(鈴木道彦【一茶の友人で文化・文政の江戸俳壇の代表者】)

 寛永寺は、蕎麦打ちの技術でも先進的だった。岩手県のわんこ蕎麦、島根県の出雲蕎麦とともに、日本三大蕎麦の一つとされるのは「戸隠蕎麦」だが、戸隠で蕎麦搔きや蕎麦餅ではなく蕎麦切りが始まったのは、寛永寺から蕎麦切りの技術を学んだことことによる。また、現在も東京の蕎麦のメッカとなっている「深大寺蕎麦」も、江戸時代に華やかな脚光を浴びるようになったのは寛永寺のおかげである。寛永寺は開山の祖・天海和尚のあとは、歴代寺主に法親王(出家後、親王の宣下を受けた皇子の称)が就任し、明暦元年(1655)以降はその門跡【もんぜき】(皇族・公家が住職を務める特定の寺院の住職)を輪王寺宮と尊称した。そのなかでも識見人柄ともに世評が高かったのが、元禄3年(1690)から正徳6年(1716)まで門跡だった公弁法親王。食への造詣の深さでも定評があったが、ある時深大寺から境内で栽培した蕎麦を献上された。召しあがった法親王はこう言って感心された。

            「真に風味甚だ他に異なり美味である」

 さらに法親王は、幕閣の高官や諸大名にも吹聴されたため、深大寺蕎麦の名声は一気に知れ渡ることになった。『蕎麦全書』(寛延四年【1751】)は「深大寺蕎麦の事」のなかで、こう述べている。 「多年信濃そばとて人々賞翫して最上の品とす。然るに、近年武州府中深大寺境内より作り出せる物、至極の品なり・・・至極よろし、その色潔白にして、その味至極甘美なり。」

 ただし、正真正銘の深大寺蕎麦の作付地は極めて少なく、収穫量は限られていた。『江戸名所図会』も、深大寺蕎麦についてこう記す。

「当寺(深大寺)の名産とす。これを産する地、裏門の前少しく高き畑にて、わずかに八反一畝(約2430坪)程のよし。都下に称して佳品とす。」

 しかし、深大寺蕎麦を使っていると言えば、客を惹きつけるのにこのうえない宣伝材料になっる。江戸の蕎麦の集散地四ツ谷では、信州から取り寄せた蕎麦を深大寺蕎麦に仕立てたようだ。

  「名物のそばやなりとて銭金(ぜにかね)も むしやうにのびる深代(大)寺なれ」

 「売り上げが伸びる」を「そばがのびる」にかけた十返舎一九の狂歌である。  究極の蕎麦を「終(つい)蕎麦」と言ったようだが(「通(つう)の蕎麦」にも掛けている)、正真正銘の深大寺蕎麦を味わうためには、江戸から遠い(七里)深大寺まで出かけて行かねばならなかった。

             「終蕎麦と聞(きき)ても遠し深大寺」

 美味しいだけでなく、巧みな棒さばきでの蕎麦打ちも演出していたようだ。

               「深大寺棒の上手を客に見せ」

(深大寺蕎麦 『江戸名所図会』)

(深大寺 『江戸名所図会』)

(国宝「深大寺釈迦如来像」)

(「そば守観音」深大寺)

(深大寺そばの看板を掲げたそば屋と茶見世 『七福神大通伝』)