言葉(ロゴス)としての俳句
Facebook尾崎 ヒロノリさん投稿記事
おはようございます。
『存在はコトバ』
どんなに見た目のよい言葉を発しても……、「コトバ」の働きが十分でないと言葉は、相手の心に届かない。
誰が見ても同様のことを認知する記号的な意味を表現するだけなら言葉で事足りるが、語り得ないものを相手に伝えようとするとき、「言葉」を越えた「コトバ」の力が必要になる。
ここでいう「コトバ」は「ロゴス」のことをいう。
「ロゴス」とは、言葉を超えたもうひとつの言葉。言葉に命を与えるもの。
私達の日常も言葉より「ロゴス」をより一層に身近に感じて暮らしています。
「大切なことは言葉に出来ない」と米津玄師も謳ったが、
言葉を伝えるとコトバが伝わるでは全く違う……。
だから私は自分の足や耳や見たこと感じたことを出来れば、生のコトバの魂を音に乗せて、伝わるようにしたい。
実感として……文字づらだと受け手の感受性や精神状態などにさらに影響され、誤解されることがあります。
自分の足で耳で目でなど……まずは自分自身で感じることが大切です。
素敵な一日になりますように
https://blog.goo.ne.jp/blue1001_october/e/e9bcf3c5b6ca86fabedbb70fef775f4e 【言葉(ロゴス)としての俳句・短歌─「ぶるうまりん」16号の特集と同15号の編集後記】より
「ぶるうまりん」16号の特集Ⅰは、「言葉(ロゴス)としての俳句・短歌」で、8/29日(日)の15号発送時に、原稿依頼書を送付した。古代ギリシャでは、「ミュトス」(語り伝えられるもの。伝説・伝承・神話など)に対して、「ロゴス」は世界を構成する言葉、論理として使われてきた。(これが西洋の哲学の源流である。)つまり俳句と短歌における「ロゴス」とは何かを、韻律(切れ)・間テクスト性・身体性などの観点から、自由に論じ、あわせて俳句と短歌におけるロゴスの差異についても、ご高察をいただきたい、というのが原稿依頼の趣旨。俳句と短歌のジャンルにおいて、その第一線で先鋭な活動をする、気鋭の俳人・歌人に原稿依頼をしたけれど、幸いなことに両者とも「諾」のご返事をいただいている。また、恒例の「自選作品50句(首)」は、内外ともにキャリアと実力のある最前線の俳人と歌人が作品を寄せてくれることになった。原稿締切まで約40日の期間があるけれど、いったいどのような原稿がいただけるか、楽しみである。
また同号の特集Ⅱは、2010年7月24日(土)、福聚山常圓寺(東京都新宿区西新宿7-12-5)で行われた「第2回俳文コンテスト」授賞式とシンポジウム「俳文の未来」の総括である。ちなみに「俳句界」10月号に、渚の人の小文(レポート)が掲載されるが、それを敷衍したスタイルで「ぶるうまりん」16号に総括の記事が掲載されるわけだ。英語部門の総括が湯浅信之氏(広島大学名誉教授)、全体と日本語部門の総括が二上貴夫氏(NPO法人其角座継承會理事長・「ぶるうまりん」同人)のお二方に原稿依頼をしたけれど、これも「諾」のご返事をいただいている。2010年12月中に発行されるので、「乞うご期待」である。参考のために、「ぶるうまりん」15号の編集後記(渚の人執筆)を転載してみよう。(改行は本ブログのためで、原文にはありません。)
拙稿のテーマは、「『俳句的小説』から俳句へ」である。「俳句的小説」とは夏目漱石みずからが『草枕』を、そういっているのだ。しかし、今日『草枕』は、一般的な小説として世間に行き渡り、ほとんどの人が「俳句的小説」とは思っていない。それでは「俳句的小説」とは何か、というのが今回の特集の企画発想のポイント。私が初めて『草枕』を読んだのは、高校生のときで、以来折につけて何度も読んでいる。読めば読むほど、深遠な世界が広がり、私の貧しい頭脳に鋭い刺激をあたえてくれる。本文に書いたとおり、カナダの天才ピアニスト、グレン・グールドは、死の枕元に二冊の本を置いていたけれど、その一冊が『草枕』だった。(もう一冊は『聖書』。)彼は、三十五歳のときにこの本と出合い、亡くなるまで繰り返し読んでおり、後にラジオ番組に出演し、自分自身で要約編集して、朗読までした。その際、西洋的なモダニズムの危険性を説きながら、『草枕』を「二十世紀の小説の中でも、最高傑作の一つ」といったというエピソードが今に伝えられている。
また、グールドは『草枕』にいくつかの書き込みをしていたほかに、「志保田の娘のノート」と題する三十七ページにわたるタイプを残していた。それによると、トーマス・マンの「『魔の山』のモティーフの絵画的移行」が『草枕』であるという。「志保田の娘」は、むろん魅力的な女性「那美」のことなのだが、とうぜんのことながら、グールドもこの「那美」につよく魅かれていたのであろう。『草枕』は、小天(おあま)温泉の温泉場という桃源郷を舞台にしている。一方、マンの『魔の山』は、ハンス・カストルプ青年が、第一次世界大戦前のスイスのダボスのサナトリウムを訪れる場面から始まる。いうまでもなく、ここも桃源郷なのだ。
夏目漱石は俳人として出発し、生涯に約二五○○句を残した。その数の大半(約一○○○句)は熊本時代に創作したものの、いわゆる修善寺大患(明治四三年)のときも俳句を作り続け、これは大正五年に亡くなるまで続く。<別るゝや夢一筋の天の川><秋の江に打ち込む杭の響きかな><骨の上に春滴るや粥の味>などの絶唱ともいうべき修善寺時代の俳句は、今なおその輝きを失っていない。小説家として大文豪の不滅の地位を確立した漱石であるけれど、いわばその中枢の奥の奥に俳句が存在していた事実は、決して否めない。漱石は『草枕』の第一章で「恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。然し自身がその局に当れば利害の旋毛に巻き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。従ってどこに詩があるか自身には解しかねる」と記している。このことばの裏には、やはり俳句が厳然とあるように思う。俳句=非人情とすれば、『草枕』の世界に、そのまま当てはまるのかもしれない。
漱石は四九歳、また漱石の『草枕』を何よりも愛したグレン・グールドは、五○歳で亡くなるという悲劇が重なる。漱石が逝去してから、九十有余年、グールドが逝ってから約三十年経過するとはいえ、私には二人が、まだどこかに生きているような気がしてならない。
https://daenizumi.blogspot.com/2011/01/blog-post_14.html 【俳句と川柳における「言葉派」】より
「超新撰21」の竟宴で高野ムツオが「言葉派」という用語を用いたのが印象的だった。高野は「ニューウェイブ」以前の俳句の傾向をそう呼んだのだが、現代川柳においても「思い」よりも「言葉」から出発する川柳を「言葉派」と呼ぶことがあるので、高野の発言はとても興味深かったのである。
俳句における「言葉派」とは、飯島晴子や阿部完市などのことを指すらしい。
「ぶるうまりん」16号(2010年12月発行)ではちょうど「言葉(ロゴス)としての俳句・短歌」という特集を組んでいて、飯島晴子や阿部完市などについての言及が見られる。
たとえば小倉康雄の「貴俗としての俳句・短歌」では、言語について「実用的な伝達手段=非詩的言語」「文学的な虚構などを構築するために用いられる非実用的言語=詩的言語」に二分しながら、詩的言語に関して飯島晴子の次のような言説を引用している。
「散文の言葉は内容を伝達すれば役目の終る、いわば道具だが、詩の言葉は言葉自体が目的であり、いつまでも存在し続けるものである」(「詩の言葉」、『葛の花』所収)
「言葉の向こうに、言葉を通して、現実にはない或る一つの時空が顕つかどうかというのが、一句の決め手である」(『飯島晴子読本』)
小倉の引用している飯島晴子の作品は次の2句である。
吊柿鳥に顎なき夕べかな 飯島晴子
月光の象番にならぬかといふ
また、土江香子は「物質であり精神である俳句」において、意味を拒否する俳人として阿部完市を挙げ、次のような句を取り上げている。
水色はごくんと言いLはからだ 阿部完市『地動説』
川岸ごらん郡上八幡小駄良川岸 『純白諸事』
純粋にあゆをならべてはこわす 『軽のやまめ』
故西脇順三郎氏訳つるのことば 『水売』
「花神現代俳句」の『阿部完市』(平成9年)には加藤克巳の「阿部完市とその俳句・覚書」という文章が収録されていて、阿部の特質を次のようにとらえている。
「彼の俳句は、意味の結合、構成ではなく、非意味を提示し、非意味を表記する、そこから何かの存在を一瞬とらえようとするのであろう」
「また、言葉は、句は、ひとつひとつ独立したものとして、なるべく論理的結合をさけ、結合以前にあらしめようとする」
「阿部完市にあっては、意味が先行して、それをことばで綴って表現するのではなく、ことばが先行し、言葉が詩を発見する」
以上のような飯島晴子と阿部完市の論作に加藤郁乎を加えれば、俳句における「言葉派」の輪郭がほぼ見えてくる。「言葉派」という捉え方が俳句界でどれだけ定着しているのかは分からないが、「俳句における詩的言語の追求」「言葉は意味に先行する」「非意味」「脱意味」などにその方向性があることは間違いないだろう。
詩的言語をそれぞれの詩型で追求するとき、そのジャンル固有の問題と遭遇する。
それでは翻って、川柳における「言葉派」にはどのような問題性があるだろうか。
そもそも川柳において「言葉派」という表現を最初に用いたのは誰なのかについては曖昧であるが、『現代川柳の精鋭たち』(北宋社・2000年)の「編集後記」に樋口由紀子が〈「言葉」より「思い」が先行してきた今までの流れの中からあらためて言葉の力を信じる世代が出現してきた〉と書いたあたりを嚆矢とするだろう。また、堺利彦も現代川柳の傾向を「言葉派」あるいは「新言語派」と呼んでいたように記憶する(その出典をいま特定できない)。
言葉には意味があるが、言葉自体は意味に限定されず、意味に先行するものである。けれども、用いられた言葉は意味にしたがって理解され、解釈されてしまう。詩的言語として発せられた言葉が伝達手段(非詩的言語)として理解されてしまうのである。けれども、非詩として理解されることが川柳にとって常にマイナスかというと、必ずしもそうとは言いきれない。川柳はそのような二律背反をかかえこんでいる。「川柳の意味性」といわれる所以である。樋口由紀子は、あざ蓉子の俳句と自分の川柳とを比べてこんなふうに書いたことがある。
「あざの俳句はさっといさぎよく空高く飛んでいく風船で、私の川柳は風船の紐に紙やおもりがついているために、いつまでたっても空高く飛べず、粘り強く低空飛行を続けている。紙やおもりは意味である」(「華麗なるテクニック」、「豈」34号)
このような「意味性の錘」を外す方向に現代川柳は進んでいるように思われるが、「意味性の錘」をどこまで外せるかはまだ分からない。意味性に限定されない「言葉の力」をどのように使うか、その微妙なバランスについて、攝津幸彦の次のような発言がある。
「以前は自分の生理に見合ったことばを強引に押し込めれば、別段、意味がとれなくてもいいんだという感じがあったけど、この頃は最低限、意味はとれなくてはだめだと思うようになりました。そのためにはある程度、自分の型を決めることも必要でしょうね。高邁で濃厚なチャカシ、つまり静かな談林といったところを狙っているんです」(1994年12月「太陽」特集/百人一句)
「自分の生理に見合ったことば」と「意味性」の間でどのような地点に着地するか、実作者が苦労するところだろう。私たちは攝津の「静かな談林」をも乗り越えるような、新たな表現を切り開くべき地平にさしかかっているのではないだろうか。