俳句の「ゆゆし」〜命と死〜
Facebook新田 修功さん投稿記事 生命の力にゆだねて生きる……⁉️🌲
読書セラピー「賢者の一言」 ウェイン・W・ダイアー
木を観察して、木に存在する知力について考えてみるとよい。
その知力のおかげで、木は木の形をして生きているのだ。
木はたんなる形以上のものだ。木には木を生かしている生命力がある。私たちはその生命力を目で見ることができない。しかしながら生命力は実際に存在しているのである。
「最高の人生」を手に入れる人がやってあること より
………………………………✨✨✨
生きものだけでなく、木や石などすべてのものに生命力が宿っています。
もちろん、私たち人間もその力のおかげで生きています💁♂️
この力は、地球や月、太陽や宇宙の運行を司る力と同じです🌏🌞🌖🌟
この力こそ、「神」であり、「いのち」であり、「愛」なのです。
「神さまなんて信じないよ」なんて言う人にも、この力は宿っているからこそ、生きていられるのです。
なにか特別な神を信仰したり、スピリチュアルなことを勉強しなくても、すべての人が例外なくこの「力」のおかげで生きています。
頭でアレコレ考えすぎないで、この力に身も心もゆだねて生きることが、古今東西の賢者たちが説いてきた、生きる極意だと思います。
今日も読んでくれてありがとう🙏😊💕
https://haiku-new-space03.blogspot.com/2023/01/dazzle-haiku-67.html 【DAZZLEHAIKU67[加藤楸邨] 渡邉美保】より
その冬木誰も瞶みつめては去りぬ 加藤楸邨
「その冬木」のことは一切描写されていないのだけれど、読者には読者なりの「その冬木」が目に浮かぶ。
寒空の下、木はすっかり葉を落とし冬らしい姿になっている。木の瘤も顕わになったその冬木は、平然と空に向かって立っている。漠然とだが、その木には逞しい生命力が宿っているように感じられる。昔からずっとそこに、意志を持って立っているかのような佇まいの、「その冬木」なのだ。
その冬木の立つ道を、多くの人が通り過ぎてゆく。その冬木を見つめるが、その木に触れることも、木を抱くこともなく、寒い道を足早に立ち去っていく。
掲句、「誰も嘳めては去る」というシンプルな表現で、冬木の存在感と、冬ざれの寒々とした光景が描かれている。
作者は「その冬木」をじっと見つめ、「瞶めては去る」人々と、その冬木との間の、一瞬のかすかな交流を感じているのだと思う。
〈岩波文庫『加藤楸邨句集』(2012年/岩波書店)所収〉
https://note.com/da4_men2/n/n7afcffb46cdb 【俳句の「ゆゆし」〜命と死〜】より
死を悼む言葉として、古代からある言葉に「ゆゆし」という言葉があります。初出とされているのは『万葉集』の巻二、新編国歌大観番号199番の挽歌です。最初は死者に対して憚りを含んだ敬意を示す言葉であったのですが、時代が降るにつれて意味が増えていきます。遠慮の気持ちは、「恥づ」のようにネガティブな意味の方向、すなわち不浄へと変化し、程度が「甚だしい」ものになります。さらに時代が降ると、この世のものとは思えない神がかりな人物を生と死の境界として畏敬することから、「この世のものとは思えない」ほど「素晴らしい」になったりと、意味が幅広くなりました。「ゆゆし」は死生観の変化を示す言葉として、良い物差しになっているように思います。
ウェブの古語辞典で意味を見てみましょう。数字が大きくなるほど、時代が降ります。
1.おそれ多い。はばかられる。神聖だ。
2.不吉だ。忌まわしい。縁起が悪い。
3.甚だしい。ひととおりでない。ひどい。とんでもない。
4.すばらしい。りっぱだ。
引用:ゆゆしの意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典
(https://kobun.weblio.jp/content/ゆゆし)
ゆゆしの意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典
ゆゆしの意味。・形容詞シク活用活用{(しく)・しから/しく・しかり/し/しき・しかる/しけれ/しかれ}①おそれ多い。はばか
kobun.weblio.jp
意味の変遷を眺めていると、立派な人が亡くなり、その功績を讃える挽歌をスタートにして、死を見送ることに対する感覚がどういう経過を辿っているのかが、よくわかります。
俳句のゆゆし
季語とは何かについて考えている時に、ふと「命の文学」という言葉がよぎり、生について詠むこと、死について詠むことについて整理していたのですが、俳句で死を直接悼む表現は難しいなと思い至りました。
死を悼む言葉が原義である「ゆゆし」が、俳句でどのように表現されているのかが気になったので、ちょっと見ていきましょう。
若者の踏み跡ゆゆし輪樏 佐藤瑠璃
木枯のひと村ゆゆし大根注連 中勘助
火祭の山彦ゆゆし秩父人 佐藤春夫
土豪の門ゆゆしく雪の坂踏ませ 瀧春一
瑠璃句。輪樏(わかんじき)は雪の上を歩く履き物です。生命力に溢れた若者の痕跡を見ながら、雪上の静かな雰囲気にちょっと不吉な印象がよぎります。
勘助句。大根注連は一方が太く、次第に細くなっていくしめ縄で、神棚に供えるのが一般的だそうです。神聖のハレの日の荘厳さと、寂しい冬の村の対比が思い浮かびます。
春夫句。これも神聖の意味合いで作られているようです。今の秩父では、長瀞火祭りとして新暦の3月上旬に祭りを行うそうですが、春を告げる祭りとして宣伝されています。山彦という超越的な存在の加護を得て生命力に満ち溢れていく様子に、俳句らしさを感じ入ります。
春一句。立派という意味合いに読めます。歴史を積み重ねた家の死の蓄積と雪を踏む感触の取り合わせが、冷たさ、寒さを強調します。
例句を読んでいきましたが、(過去の)死の荘厳さもありながら、力強さや生命力にも目を向けて詠んでいる印象を受けました。眼前の死を悼むという性質のものが例句としてすぐに参照できませんでした。生命に関する距離感は、季語と同じような位置付けです。あと、「ゆゆし」は雪や冬との取り合わせが多いですね。ちょっと面白いです。
AIのゆゆし
ちょっとした好奇心ですが、AI一茶くんでは「ゆゆし」を表現できているでしょうか。データベースを調べてみます。
少年の可愛ゆゆしや赤とんぼ AI一茶くん (-26.822)
花野ゆく人の心のゆゆしさよ AI一茶くん (-26.991)
散る花に齢のゆゆしさありにけり AI一茶くん (-27.011)
(※()内の数字はGPT-2 対数尤度)
尤度(ゆうど)の高い(コンピュータの理想に近い)句を三句引用しましたが、こっちはダメですね。「ゆゆし」の原義と作意が噛み合ってなくて、言葉が浮いてしまっています。二句目はまさか、AIが人の心を死んだものとして畏れ多いと思っているのか……? ともかく、AIの作句の成長は多作多捨を待つしかなさそうです。
まとめ
記事では、「ゆゆし」の語義と、俳句の用例を見ていきました。
本来は死を悼む「ゆゆし」という言葉が、俳句では死の歴史や命あるものの輝きとして表現されることがあり、俳句は直接的に死を悼むのに向いていないように思いました。
散る花や高音の鳴らぬ中華鍋
雪解してベンツの轍ゆゆしきよ
仮想の追悼句を作ってみましたが、死そのものを尊ぶというのは、ちょっと難しいです。悲しみを悲しみのまま表現することは難しく、口語的、散文的に表現するなど、やりようによっては上手くいきそうですが、格調高く作るのであれば、「生の否定/死の仄めかし→悲しい」という取り合わせで作るのが穏当であると思います。