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天体の音楽

2024.08.29 06:44

http://moon21.music.coocan.jp/ronbun10.html 【音と言葉の力 インターナショナル・ウィンタースクール 2002年3月6日】より

1 音楽の力

 「音楽 music」という語は、もともと音楽や学芸の女神ムーサ(英語ではミューズ、musa,muse)に由来する語である。そうしたムーサの女神を称える音楽を宗教や哲学の根幹に置いたのがピュタゴラスである。 古代ギリシャの哲学者であり、数学者であるピュタゴラスは、哲学の必須科目に数学と音楽を置いた。なぜなら、ピュタゴラスによれば、万物のアルケー(始源・原理)を探求する哲学には、万物のアルケーを理性的・合理的に認識する数学――万物は数の組み合わせによってできているから――と、万物のアルケーを感性的・直感的に体験する音楽は不可欠の哲学探究の道であったからである。

 音楽は原理的には数学的に構成されている。宇宙が数学に構成され、均衡や調和を持っているように、音楽も数学的に構成され、和音の配列によって調和を表現することができる。それは、宇宙の調和の模造であり、模写であり、プラトン的な言い方をすれば、イデア的な実体の写像である。ピュタゴラスは、天体が一つの調和ある構成を持っているということは、そこで「天体の音楽」が奏でられているということだと考えた。「天体の音楽」とは宇宙音楽ということである。

 ピュタゴラスはまた音楽が魂を浄化する力、カタルシスの作用を持っていることを指摘した。そこで、ピュタゴラスの哲学の学校あるいは教団においては、コーラス(合唱)は大変重要な実践的かつ原理的意味を持っていた。なぜならそれは、宇宙のアルケー(原理・始源)をパトスにおいて体験し、魂を浄化させる術(わざ)だったからである。ピュタゴラス的な考えからすれば、音楽が持つ浄化力は万物の数学的な構造に裏付けられた宇宙そのものの持つ自然治癒力であったといえる。

 あらゆる芸術形式の中でも、音楽はもっとも霊的な表現形式であり、芸術形式である。それが、イメージを一瞬のうちに表出できる唯一の表現形式であり芸術形式だからである。 例えば、絵や彫刻は、作者のイメージを作品化するまでには、それを表現する素材や道具を含め、綿密な手続きと修練がいる。彫刻に至れば、それはいっそう顕著になる。言い方をかえると、音楽がもっとも天上的で霊的な表現形式であり芸術形式だとすれば、彫刻はもっとも地上的で物質的な表現形式であり芸術形式であるといえよう。比喩的にいえば、音楽は「軽い」芸術形式であり、その反対に、彫刻は「重い」芸術形式なのだ。地上の重力にもっとも忠実なのが彫刻なのである。

 音楽、特に楽器を用いないで歌う、いわゆるアカペラの歌は、思うことをその場で即表現することができる。よく訓練された古代の歌い手は、ほとんど神がかり的な即興的な歌の歌い手でもあった。今も、中国の山岳地帯に住む少数民族の中には、日常的なコミュニケーション手段として即興的な歌をその場で作り、歌う。日本の沖縄にも即興的な歌の作り手=歌い手が今なお少数だがいる。伝承された定型的な歌と、その場に立ち現れる即興的な生成する歌の両方をシャーマン的な歌い手は歌うことができた。それは古代ユダヤの詩篇の作者も古代日本の歌謡の担い手も同様であった。

 「旧約聖書」には、音楽の始祖ユバルの物語、預言の音楽、祈りの歌、哀歌、労働歌、儀式音楽、音楽治療のことなどが記載されている。とりわけ、少年時代のダビデは竪琴の名手で、その楽の音でサウル王の鬱病を癒したと記録されている。「サムエル記上」(16-23)に、「ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた」と記されているが、のちにイスラエルの英雄となり、王となるダビデは竪琴の名手としてサウル王のもとに呼ばれた。ダビデは神に選ばれた竪琴と歌の名手だったのである。

 こうした信仰や儀礼・儀式を含む宗教と音楽との関係は、時代がさかのぼればさかのぼるほど密接不離の関係にあった。時代が下っても、例えばカトリックの代表的な宗教音楽といえるグレゴリア聖歌の詩篇唱は、ユダヤ教の詩篇唱に基づいており、キリスト教の音楽の中にキリスト教が成立する以前の宗教音楽の影響が見られるのである。 このような、宗教と音楽との密接不離の関係は、古代インドにおいても古代中国においてもほぼ同様であった。古代インドにおいては、天啓経典「シュルティ」とされたヴェーダは、神々への讃歌や祭歌や呪歌などで構成されているが、「リグ・ヴェーダ」「サーマ・ヴェーダ」「ヤジュル・ヴェーダ」「アタルヴァ・ヴェーダ」の四ヴェーダに記録された詩篇(歌謡)は歌唱させたものが多く、特に「サーマ・ヴェーダ」は古式を伝え、日本の仏教音楽の声明の起源ともされている。

 古代中国においては、特に孔子以降の儒学者が聖人君子の道として「礼楽の道」を掲げたために、音楽と人間形成との関係はきわめて道徳的な意味合いをおびるようになった。儒教においては、「礼楽」は仁の具体的表現とされ、「楽」が天地の調和を感受・感応し、それによって人と人とを融和させる力と作用を持つことを強調した。「礼楽の道」はそれゆえ人格を円満に完成させた聖人君子のたしなみとされた。こうして、「礼楽」を修めることは君子の徳を積む重要な道徳的実践とされたのである。 儒学以前に、「歌」の文字の基本形は「可」の字で、それは祈りの器「さい」と、その器に木の枝を振りかざす形を表しているという。おそらくそれは、木を依り代として神がかり状態になって振りかざすシャーマニズム的な「振る舞い」から来るものである。つまるところ、「歌」は、本来、神がかり的な「振る舞い」としてとらえられていたのである。

 ところで、儒教においても老荘思想や道教においても、「天」の音楽としての「天楽」の概念は、音楽の理想型・理念型と考えられた。天地宇宙には妙なる楽が鳴り響いていると考えられたのである。仏教において、極楽浄土に妙なる「音楽」が鳴り響いていると考えられたように。それは心地よい陶酔的なハーモニーであると考えられた。宗教音楽の多くは、それぞれの民族文化や宗教文化においてとらえられた調和的な理想世界の音楽的写像である。 極言すれば、世界は音楽なのであるから、音楽体験は宇宙体験であると同時に、宇宙をして宇宙たらしめる根源的な存在を感得する宗教体験でもあった。その音楽の力は、音・響きの力と言葉を伴う歌の力の両方を持っている。

2 日本最古の音・石笛

 さて、日本最古の文化は、約12000年前から2400年前まで1万年近く続いた縄文文化である。縄文文化は、縄目を持った独特のダイナミックな紋様や装飾を持った土器文化によって特色づけられる。その縄文文化の音と響きは、石笛と土笛に代表される。この石笛と土笛が現在解明されている日本列島の最古の音である。わたしが吹く石笛は、石自体はアイルランドのアラン島で拾ったものであるが、その音色は縄文時代の石笛とほとんど同じである。

 この石笛は、神道の身体行法や儀礼において、今日でも演奏されることがある。2001年3月に、わたしは『元始音霊 縄文の響き』と題するCDブック(CD付き本)を出版した。そのCDを少し聴いていただきたい。 CDの録音された音だけでなく、実際に、生で聴いてみるとどうか、今から少し演奏してみたい。みなさんは、この音から何を感じとっただろうか。この音から宇宙の深遠や霊的世界の微妙な感覚を感じとっただろうか。 石笛は、何のために演奏されたかというと、神霊や死者の霊魂を呼び出したり、鎮撫するためであったと考えられる。その石笛の独特の響きが日本独自の伝統芸能である能の横笛の能管に受け継がれている。特に、能管の「ひしぎ」という、独特の高乱下する乱調な音色と響きは石笛の響きにその起源を持つ。

 神道系の「霊学」と呼ばれる学統においては、神懸りをする方法として石笛の演奏が利用されている。その音は神懸りを誘引する神秘不可思議な力を持つと考えられたのである。例えば、日本の著名な作家・三島由紀夫は、小説『英霊の声』の中で、神道家の主催する「帰神(かむがかり)の会」で、盲目で白皙の美青年が神主となって「帰神(神懸り)」の儀式が行われる場面を描いている。審神者と呼ばれる神の言葉の審判者が「神韻縹渺」と石笛を吹く。幽冥界にとどくかのようなその音色に美青年の表情が次第に変化し、入神状態となって、まったく本人とは異なる声音(こわね)で言葉を語り始める。そして、二二六事件で処刑された死者の霊や特攻隊の死者の霊がかかってきて、天皇に対する恨みの言葉を吐き出す。 実は、三島由紀夫はこの『英霊の声』を執筆するにあたって、霊学を学び、「鎮魂帰神法」という神道霊学の身体技法を学んだ。石笛の説明として、三島由紀夫は『英霊の声』の中で、次のように記している。

 石笛は鎮魂玉と同様、神界から奇蹟的に授かるのが本来であるが、かりに相当のものを尋ね出して用いてもよい。ふつうは拳大、鶏卵大の自然石で、自然に穴の開いたものを用いるが、古代の遺物はおおむねその穴が抜け通つている。 (中略) 石笛の音(ね)は、きいたことのないひとにはわかるまいと思ふが、心魂をゆるがすような神々しい響きを持つている。清澄そのものかと思ふと、その底に玉(ぎょく)のやうな温かい不透明な澱みがある。肺腑を貫ぬくやうであつて、同時に、春風駘蕩たる風情に充ちている。古代の湖の底をのぞいて、そこにいろくず魚族や藻草(もぐさ)のすがたを透かし見るやうな心地がする。又あるひは、千丈の井戸の奥底にきらめく清水に向つて、声を発して戻ってきた をきくやうな心地がする。この笛の吹奏がはじまると、私はいつも、眠つていた自分の魂が呼びさまされるやうに感じるのである。

 毎朝、神棚に向かって石笛を奉奏する私からすると、この三島由紀夫の石笛の音色についての記述は、実に言い得て妙な表現だと思う。とりわけ、「清澄」と「不透明な澱み」の両極を的確にとらえている点は鋭い。確かに、石笛には天上的なコスモスと地下深いカオスの両方が宿っている。その清澄と混沌が石笛の魅力である。

3 石笛と音霊と神道霊学

 その三島由紀夫の石笛観に影響を与えた近代の神道家・友清歓真は、『霊学筌蹄』「第六章 音霊法」の中でこう述べている。

 あはれ、音霊(オトタマ)ほど世に奇しびなるものは無い。世の一切の活動が音霊によつて起り、世の一切の生命が音霊と偕に流れてゐる。久遠の過去より久遠の未来に流れてゐる。故に古の聖人は礼楽によつて世を治め、天岩戸も音霊によつて開かれた(これは余の 創説)。一切心、一切物の根元が電子よりも更らに玄のまた玄なる極微霊子(一霊四魂)であり、それが直ちに生命であり、それが直ちに音霊(オトタマ)、数霊(カズタマ)である。

 物の根元が一霊四魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)という玄妙な「極微霊子」で、その極微霊子が同時に「音」の霊子でもあり、また「数」の霊子でもあるという。友清にとっては、音と数とは霊的根元の二つのすがた相である。古の聖人が礼楽によって世を治めること、また、天岩戸に隠れた天照大御神を再び呼び帰したのも、高天原の神々の笑い声であったこと、すなわちそれらが音霊のはたらきによる奇しびであったことを友清は指摘する。さらに続けて彼は次のように言う。

 宇宙が数霊で組織されてゐるから宇宙の現象が数霊の雄走(ヲバシリ)によつて予知さるゝ如く宇宙が音霊で経緯されてあるから宇宙の一切が音霊の雄走によつて動かさるゝのである。言霊(コトタマ)も音霊であるが、人間の口腔より出る音霊を言霊と云ひ、それ以外の一切の音声を音霊と狭義に解されてゐる。宇宙間には時として所として音声のない処はない。人間の地津魂(クニツタマ)の耳の聴き得ざる時にも、人間の天津魂(アマツタマ)の耳が聴き得る音声が存在する。宇宙そのものが音霊そのものである。科学は音覚(聴覚)の器官は耳であると教へる。解剖学では外耳中耳内耳の三つに分けて説明し、音波の振動が内耳の粘液を伝はつて聴神系を刺戟する道順に就ても可(か)なり複雑に教へて呉れるが、実は皮膚にも毛髪にも足の裏にも耳がある。耳といふものは額の両面と壁とにのみあるわけでは決してない。故に電車内に並んで座してゐる若い男女は初対面で又一切沈黙してゐても、実は盛んに会話を交へて居るものである。

 ここで友清歓真は非常に面白いことを言っている。まず第一に友清は、音霊と言霊とを区別する。人間の口から出る音声ないし音霊が言霊で、あとの一切の音声は音霊である。第二に、日本密教・真言宗の開祖空海が『声字実相義』の中で述べたのと同様に、宇宙そのものが音霊であるといい、人間には、地津魂(クニツタマ)の耳と天津魂(アマツタマ)の耳の二種があるという。第三に、大きくいえば、耳はその二種に分けられるが、具体的には皮膚にも毛髪にも足の裏にも耳がある、つまり全身に耳があるというのである。それゆえ、友清歓真にとっては、聴覚とは単に五感(視・聴・嗅・味・触)の一感覚ではなく、根本感覚とも全身感覚とも呼びうるものなのである。第四に、「音霊は即ち数霊」であり、それは「惟神(かむながら)なる自然的規律」であるというピュタゴラス的な考えを提示している。ピュタゴラスにとって、音楽が浄化(カタルシス)の技法であったように、友清にとっても「音霊法」は浄化(カタルシス)の技法なのである。友清歓真はさらに『古神道秘説』の中で次のように述べている。

 修法の根本を正しい神の信仰と音霊の修行において居るのが吾党の本領であり特色であります。音霊を以て我を清め、他を清め、家を清め、国を清め、天地を清め、一切世界を清め人とするものであります。

 それではいったい、この「音霊法」とはどのように行われるものなのか。それは次のようにいたって簡単である。

 つまり「音」を聴いているだけ。静かに一定の音を聴いて気を鎮めるだけのことです。 (中略) 音を聴くと申しましても音楽のようなものを聴くのでなく、変動のない一定の音を聴くのです。瀧の音、小川のせせらぎ、雨の音、浪の音、なんでもよい。石笛をもってエクスタシーの状態に導かれ、時計の音を聴くという簡易の法をもって人々の病苦を救い、さらにそれが縁となって幾多の霊感能力者を出すに至つた。

 音霊法とは、「変動のない一定の音を聴く」、ただそれだけの修法である。「正座して三十分内外静かに聴いて居ればよい」だけで、あとは何も必要ない。坐法も自由なら、呼吸法も普通のまま。ただ、姿勢を正しくすることは必要で、「まつすぐに坐して自然と下腹部に元気が充満するやうな姿勢、気持ちが必要で、そのつぎには首が前に傾かぬやう顔をまつすぐに立てること」に気をつけることが必要だという。食後二時間くらいが修法に適し、事情が許せば、三、四十分間ずつ、一日三回くらい修行するのが望ましいとされる。雑念が去来してもあえて払いやろうとはしないで、「雑念妄想のあるがままに時計の音を聴いて居る」といいという。 本田親徳が再興した帰神法では、審神者か他の者かが石笛(いわぶえ)を奏して、その幽玄なる音霊の響きによって神主を神がかりの状態に導き入れる。その本田親徳の弟子である佐曽利清は、単に時計の音を聴くというだけの簡単至極の修法で数千人の病苦の者を救ったという。そしてさらに音霊法は、「保健治病といふ方面に奇験がある」という。疲労回復、治病、保健衛生、悪習の矯正のほか、他者に対しても有効に作用すると友清はいうのである。 それではなぜ音霊法にそのような効果があるのか。友清は次のように述べている。

 病人には誰でも大概の場合、ホビア(Phobia)といふものを脳の白質層(無意識界)に灼きつけられて居り、これは皮質層(意識界)の奥に頑張つて居るのですから、普通の説教や気の持ちやう位ゐではどうすることも出来ませんが、それが「音霊」をやつてゐると次第にうすらいで行くのを感じます。ホビアがうすくなれば病苦は軽快に向ふのです。又た、音霊法をみつしり修行して居ると、自律神経を調節します。体内の生活機能で此の神経の干渉を受けないところはありません。此の自律神経(植物性神経、交感神経)が神ながらに調節せられますと、ホルモンにも密接な交渉をもつて居りまして、全身的にからだの「ぐあひ」があたりまへになつてくるのであります。全身の活動の根本機関は心臓でありますが、心臓も調節されて来ますから、「からだ」全体のぐあひがよくなるのです。「音霊」を修行して居て心臓が調節されることは誰にでも直くに自覚されます。 (中略) とにかく「音霊」を修して居りますと、心臓機能や自律神経が適当に調節せられまして体内の過剰蛋白や其他の毒素が尿素や其他のものに化して体外に輩出せられ、からだのぐあひがよくなつて行きます。日本書紀では天神の垂示に「平心」といふ文字がキヨキココロとよまれて居りますが、「おとたま」を修して居りますと必然に「平心」となりますので、精神的にもいろいろのありがたいことがあり、苦労せずに自然と菩薩道の実践者となるやうなわけであります。 (中略) 要するに「音霊」の法を修行して居れば誰でも直ぐに心の「安定」が得られるのであります)。

 友清歓真は、音霊法の効果について、右のような生理学的かつ心理学的説明を加えている。自律神経機能やホルモンや心臓機能のはたらきが調節されて、病因となる毒素が体外に排出され、その結果、生理-心理的にも「平心」=平身の安定状態に達するという。こうした説明は非常にわかりやすく近代的なものであるが、友清は、こうした一種の科学的説明のほかにも、インドの観音菩薩のはたらき、また岩戸開きにおける「かぐら」の音霊のはたらきなどに関連づけて、音霊法の効果を説いている。「一切のものの中で何が一番清浄かといふと音である」と強調する友清歓真にとっては、ピュタゴラスが音楽を修めることによって魂の浄化(カタルシス)をはかったように、そしてまた古代中国においても音楽をもって礼儀の根本としたように(礼楽)、語義本来の意味での「音楽」こそ心身の浄化をはかるもっとも有効な方法なのであった。

 このような音霊法の浄化力は、心身機能の活性化、正調化にのみ効果を持つものなのではない。治病、心身回復のほかに、いわゆる霊能力や神通力の獲得にも効果があるという。注意しておきたいことは、友清の説く音霊法が、「意味のない音」、単なる音の響きに聴き入ることによってのみ修せられる点である。 また友清は、音霊法の霊験について『古神道秘説』の中で、音霊法の大目的は、人間の本性である「直霊」を開発して「清明」の境地に達することであると力説する。そしてそのことが結果的に神通力の獲得やはたらきにもつながるのであるという。 音霊法の主目的が、根本神性たる「直霊」を顕現させ、「顕幽不二の清明心」を徹見することにあることを主張した後で、友清は、この修法が、水の洗礼、火の洗礼に次ぐ第三の洗礼であることを強調している。そしてこの第三の洗礼たる「音霊の洗礼」が「神々の経綸による最後のラツパ」であるとまで断言する。

 次に、「音霊のみそぎ(浄化)」について触れておこう。「霊学は浄心を本とす」とは、霊学中興の祖本田親徳の強調したところであるが、それでは、どのようにすれば「浄心」を得ることができるのか。友清歓真はこの問いに対して、「罪けがれ」を浄めることによって「浄心」を得ることができるという。殺人や諸々の犯罪などの物質的罪けがれはもちろん、怨恨、不平、驕慢、嫉妬、勝他の念、一切の病的観念(ホビア)ばかりでなく、善を愛し悪を嫌う心持ちや自分の妄想のやまないのを反省し悲嘆する気持ち、陰徳を積む高潔な心ばえ、師友を尊敬する心ばえ、反省しへりくだる心ばえ、道念、世の中の腐敗を悲しみ堕落を憤慨する心などもまたいつか知れずに罪けがれになる場合があると友清は述べている。この指摘は重要である。 このような、人間生活において必然的に生起する「罪けがれ」を浄める方法が「みそぎはらひ」である。このみそぎはらひとは、単に火をかぶったり、祓への祝詞を唱えたりすることだけではなく、「根本は精神上の問題であり霊魂(たましひ)の浄めを基礎とせざる行事は邪行」である。

 そして究極、この「みそぎはらひ」を行なう有力な実践方法が音霊法なのである。「音霊を以て我を清め、他を清め、家を清め、国を清め、天地を清め、一切世界を清めんとするものであります」と強調した友清にとって、音霊法とは何よりも世界の一切万象を清めようとする浄化の技術なのである。かくして、「みそぎ」においても、表と裏の二義があると友清歓真は『天行林』の中で、通常の「みそぎ」すなわち表のみそぎが水であるのに対し、幽祭のみそぎすなわち裏のみそぎは音霊であるという。みそぎの伝は、黄泉国から中津国に帰って来た伊邪那岐(いざなぎ)命が「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)」で身心に付着したけがれを川の清流で清めたという記紀神話の話に由来する。一般的な理解では、水による清めの行事とされている。

 しかし、このような一般的理解とまったく異なる見解を友清はさし出し、祓いの祝詞である天津祝詞の中の「橘の小門の阿波岐原」という地名を「タチハナの音」という音霊として解釈する。その「裏の秘義は――音霊の祓へ」だというのが友清歓真のみそぎ説の核心である。友清はさらに、「タチハナノ音」とは日本語における「アオウエイの五大母音」だという。このようなとらえ方は、友清歓真独自のものであるが、こうとらえることによってミソギの新しい意味世界が開けたともいえる。

 こうして友清は、「祝詞も神楽も石笛もおころびも拍手も鈴も神招琴(かむをぎこと)も神依板(かみよりいた)も悉く音霊の神法(かむわざ)から出たもの」と位置づける。そして何よりも、「この音霊のみそぎによりて天照大神も生れまし給ひしことを根本として本統の神の道は立つ」ことを力説するのである。音霊法を何より重視する背景には、上のような神話理解、みそぎ理解、音霊理解があったのである。

 さて、もう一つ、友清の音霊観で重要な点は、音霊と笑い、音霊と岩戸開きとを関連づけている点である。音によって世界の暗黒を解き放ち、光明をもたらすと主張するのである。 日本神話では世界の暗黒は、太陽神アマテラスオオミカミの復活によって光の世界に蘇るのだが、その蘇りを引き出すきっかけとなったのは、祭祀と祝詞と、昨年講義をした舞踊神の女神・アメノウズメの舞踊と、それを見た神々の笑い声の力であった。友清は、「地上を喜びの笑ひに満たすことが政治や宗教の至極の理想である」と述べている。また、「笑わぬ善人よりもよく笑う悪人と友人になりたい」と主張する。

 なぜそれほど笑いが大事であるかといえば、いうまでもなく、笑いが天岩戸開きや直霊の開顕に直結するからである。つまり、笑いとは、それ自体、音霊法の修法ともいえるのである。すなわち、笑いには清めの力があるということなのである。それゆえ、友清が、「祈祷や神法道術や音霊法は『岩戸びらき』をやるために行なはれる」というのも、岩戸開きの大浄化へとすべてが連動していくからである。笑いの音霊論ともいえるこのような見解は、現代の文化状況に対して、啓発的な内容を持っているといえよう。

4 言霊と真言

 ところで、日本文化の大きな特性の一つは和歌の伝統、例えば短歌や俳句・歌謡などの短詩型文芸にある。そしてそれは根本的に日本の音楽文化や、言葉に霊的力が宿ると考える「言霊」の思想と切り離せない。日本で最も古い短詩型文芸の書は、八世紀半ばに成立した『万葉集』という歌集である。ここには5000あまりの歌が収録されているが、その中に「日本は言霊の助ける国、言霊の幸はう国」という歌がある。

 言葉に霊力や魂が宿っているという観念は、世界のいろいろな宗教文化に見られる。例えば、旧約聖書の冒頭には神が「光あれ!」という言葉を発することで光や世界を創造するさまが記され、新約聖書の「ヨハネによる福音書」では、「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。その言葉が人となった」と記されている。ここには言葉の霊的力が示されている。古代日本人は、言葉の霊的力は、神話や歌や祝詞などの儀礼の言葉や呪文の中に宿っていると考え、さらには日本語そのものの中にその力が宿っていると考えた。そして、その「言霊」の考えが仏教の中でも、とりわけ密教の真言哲学と結びついて、日本の中世には、和歌がそのまま真言陀羅尼であるという「和歌即陀羅尼説」に結実する。従って、そこで和歌を歌い、詠むことは「言霊」の実習であり、真言陀羅尼の実習でもあった。

 日本で初めて、真言陀羅尼について明確な思想を展開したのは、密教僧・空海である。9世紀に活躍した日本真言宗の開祖・空海は、彼の言語哲学と真言哲学を表わした著作『声字実相義』の中で、「声」とは響きの本体であり、「字」は名の表現であり、それは必ず「実相=本質(大日如来)」を現わしていると述べ、それが実相、すなわち真実の姿なのだと主張する。また、空海は、声とは「真実ないし語密」であり、字は「言名」、実相は「身密」であると説く。つまり、声字とは三密中の口密であり、実相は法身の身密であり、それが意密によって連関づけられた時に声字はそのままに実相となり、同時にそれは衆生が本来的に己の内に宿している本質でもある、と空海は説くのである。 この所説を空海は頌(詩)に表わして、

五大にみな響あり (五大皆有響)

十界に言語を具す (十界具言語)

六塵ことごとく文字なり (六塵悉文字)

法身はこれ実相なり (法身是実相)

と記している。すなわち、宇宙を構成する地水火風空の五大要素はみな音響を発している。そして地獄界から仏界に至るまでの十界には声によって起こった十種の言語文字があり、仏界を除く九界の言語は妄語、仏界の文字のみが真実語(秘密語)である。両者の違いは、絶対的・固定的なものではなく、言語の起こってくる根源の意味を覚るかどうかにかかっているとされる。つまり、五大の音響、十界の言語、六塵の文字をすべて根源的存在である法身大日如来の姿の流出と覚るかどうかにかかっているというのである。声字は流動変化してやまない宇宙そのものであり、同時にそれは大日如来の身体に他ならないと考えるのである。

 このような、宇宙にあまねく音響・言語・文字がいきわたり、一大シンフォニーを奏でているという汎言語主義が、そのまま法身大日の顕現態であるとする汎大日主義に即座に連動するところに空海の真言哲学の特徴がある。「真言」の観念が後に日本の宗教的言語観の一つの核となるのは、それが草木も言問うと見た古来の言語生命観をより一層徹底させ、宇宙の声音すべてに拡大し、その音声を普遍言語の具体的・個別的顕現と解したところに「言霊」観念と通底するものがあったからである。 空海はまた、日本でもっともよく知られ、かつよく読誦される経典『般若心経』の密教の立場からの注釈書『般若心経秘鍵』の中で、次のように述べている。

真言は不思議なり

観誦すれば無明を除く

一字に千里を含み

即身に法如を証す

行行として円寂に至り

去去として原初に入る、

三界は客舎のごとし

一心はこれほん こ本居なり

 真言とは無明を除く不思議な功徳を持つ「光の言語」すなわち「大日如来の言語」なのである。それは、曼荼羅がそうであるように全宇宙を包摂する超言語として理解されていたのである。このような「真言」観がわが国の言語思想に多大な影響を与えることになった。 さて最後に、その日本語で語られる言霊や真言陀羅尼の代表的な言葉を一緒に実修し体験してみたい。その実修を通して、各自が何を感得するか、試してもらいたい。

5 言霊と真言の実修

1)大祓詞(おおはらえことば)――心身および社会の浄化のために行う儀礼

2)祓詞(はらえことば)――浄化のための言葉

3)祓いたまえ清めたまえ――君の精神(霊性)が透明でありますように、君の思考が自由でありますように

4)ひふみ祓詞(はらえことば)(天の数歌)――数を唱えることによって宇宙の律動と共振する業 ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをたはくめかうおゑにさりへてのますあせほれけ

5)十言(とこと)の神咒(かじり)――太陽の女神の名を唱えることにより太陽の霊力をいただき融合する業 アマテラスオオミカミ

6)神ながらたまちはへませ――神のみ心・神のみ業のままにという意味の唱え言葉

7)般若心経の真言(神咒)――悟りの世界=彼岸に赴くためのマントラ ぎゃていぎゃていはーらぎゃていはらそうぎゃていぼうじそはか

8)不動明王の真言――宇宙の根源の法身〈真理の身体〉大日如来が一切の煩悩を消滅せしめるために使わし顕現した明王の霊力を称える真言 のうまくさーまんだばーざらだんせんだまかろしゃだそわたやうんたらたかんまん

9)弁才天の真言――水の女神サラスヴァティを称える真言 おんそらそばていえいそはか

10)観音菩薩の真言――三十三身に化身して衆生を救う菩薩を称える真言 おんあろりきゃそはか

6 神道の身体技法――Shinto Bodywork

1)禊の作法――水による心身と魂の浄化の業 祓詞斉唱 鳥船行事――イーエッ・エーイッ、エーイッ・ホ、エーイッ・サと唱える 雄健(おたけべ)行事――生魂(いくたま)・足魂(たるたま)・玉留魂(たまとまるたま)と腹の底から唱える雄詰(おころび)行事――国常立尊(くにのとこたちのみこと)と叫び、イーエッ・エーイッ(3回) 気吹(いぶき)行事――天の気・地の気を体内(腹内)に収める 禊行事――水の中で大祓詞を連唱

2)鎮魂帰神の身体技法

3)音霊法――時計の音やメトロノームの規則的で単調なリズムを刻む音に耳を澄ませ、音と合体する

7 神道儀礼における身体作法

1)膝進・膝退――膝をつきながら進んだり、退いたりする礼法

2)二拝拍手一拝――参拝時の正式の作法(坐礼と立礼の2種がある)

3)玉串奉奠――聖なる植物・神の木である榊を自分自身の魂と見立てて神に捧げる礼法

4)神楽――神人和楽の歌舞音曲・芸能

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