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成長は望む人にしか訪れない

2024.08.29 07:12

Facebook玉井 昭彦さん投稿記事

教えてください どこにいればいいのか 新川和江

教えてください どこにいればいいのか ときどきぼくは 不安でたまらなくなる

腰をうかして立ちあがり いまいる場所を うろうろと回ってみずにはいられない

どういうところなのだ ここは 世界のどこなのだ ここは 隣室には父母がいて

アルバムの中には 僕の幼い日の写真が貼ってあるけれど 小鳥がちょっととまっていった

小枝にすぎないのではないか 水夫が漂着した 島なのではないか ここは

ここへお掛け とつよい声で言ってください 宇宙の中で 地球が 夜と昼を どもることなく歌いつづけているように 鐘が ひびきの中心に吊るされているように 古い森を叫ばせた斧が 日暮れは きこり小屋の板壁に掛けられるように きょう坐り そして明日も坐っていい ぼくの居場所をつきつけてください まだすっかりは育ちきっていない ぼくの手で さわれるように 見えるように

新川和江『詩が生まれるとき』(みすず書房、2009年)より

(天声人語)かくれてしまえばいいのです

 〈ときどきぼくは/不安でたまらなくなる(略)いまいる場所を/うろうろと回ってみずにはいられない〉。この夏に亡くなった #新川和江さん の詩です。きみに以前見せてもらった教科書にも作品が載っていたので、名前くらいは聞いたことがあるでしょうか。

新学期が始まります。学校に居場所はない、誰も自分をわかってくれない。そんな不安や苦しさで今、いっぱいかもしれません。

でも人一倍、気を使うタイプのきみは、周りを心配させないように頑張ってしまう。だから余計にしんどい。いや、間違っていたらごめんなさい。

先日、朝日小学生新聞が「かくれてしまえばいいのです」というサイトを紹介していました。生きているのがつらかったら「まずは1回、かくれてしまいましょう」。こっちへおいでよ、と優しく手招きされた気分です。

中には、しんどさをやりすごす「ゲーム自習室」や、体験談を読める「センパイ横町」などがあります。居心地のいい世界を案内するのは「むかんけいばあちゃん」。

あなたとは無関係、だから何を話しても大丈夫と心をほぐしてくれます。親にも友だちにも言えないことを相談していい。そんなネット空間です。

この前会った時は、何もあげられませんでした。だから、#まどみちおさん の詩を最後に贈ります。

〈ぼくが ここに いるとき/ほかの どんなものも/ぼくに かさなって/ここに いることは できない〉。あなたはあなた。ただそこにいるだけで、すばらしい。

朝日新聞8月29日


https://ameblo.jp/suzuki3737/entry-12607558777.html 【新川和江「教えてください どこにいればいいのか」少年になって】より

少年になってうたってらっしゃいます。だから、今日は少年に逃げ込んで願って終わろうかな

なんて思いました。

この少年は不安な気持ちですが、不安な時代を生きているわけではないだろうな、なんて思います。この不安は誰もがときにつかまる生きるということ。そこから発するように思えますから。

でも、今は、リアルにどこにいればいいのか揺れ動きます。

それこそ、ここで遊んでいいのか これをおねだりしていいのか、 そのレベルで動く。

それは なんとかしたいなあそう思うことでちょっと前向きに床につきます。

山ほど寝ましたが、週の前半はきつくなる。がんばろうと思います。

教えてください どこにいればいいのか ときどきぼくは 不安でたまらなくなる

腰をうかしてたちあがりいまいる場所をうろうろと回ってみずにはいられない

どういうところなのだ ここは世界のどこなのだ ここは隣室には父母がいてアルバムの中にはぼくの幼い日の写真が貼ってあるけれど小鳥がちょっと止まっていった 小枝にすぎないのではないか 水夫が漂着した島なのではないか ここはここへお掛け とつよい声で言ってください 宇宙の中で 地球が 夜と昼を どもることなく歌いつづけているように

鐘が響きの中心に吊るされているように 古い森を叫ばせた斧が 日暮れはきこり小屋の板壁に掛けられるように きょう座り そうして明日も座っていい ぼくの居場所をつきつけてくださいまだすっかりは育ちきっていない ぼくの手でさわれるように 見えるように


https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/3147 【問  新川和江】より

われらに答があり得ようか われらにあるのは 永劫に問ばかりです 眼に見えぬ偉大なおかた うず高い計算書 帳簿のかげに太陽を紛失し ふとうろたえて きょう一日の疲労の廻転椅子をまわす時 期待に反いて背後はいつもがらんどうなのだ

人を捨てると すぐさま性急に走り去る電車 人はなにやら惨(みじめ)な気持になるけれど

そそくさと歩き出すのを忘れない それぞれに ちいさな答を求めながら 狭雑な裏町に夕霧がたちこめる 溝川の水は澱んで冷たいのに 橋の下 老人は何を飽かずに抄(すく)うのか

毀(こわ)れた花瓶 ふやけたぼろ靴 そんななかからちょろりと匍(は)い出す たったひとつのざりがにが欲しいため ダイヤルを廻すX 金属性のノブに手をかけるZ 燐寸(マッチ)を探す彼 言葉を失くす私 どこかでけたたましく鳴りわたるベル 吠えやまぬ犬

てるてるぼうずを小枝に吊るす少女や 鉛筆の芯をほそくほそく削りたがる一年生や

手術衣に手を通す外科医 結核病棟の窓々 きのこ雲……

爪のように はこべのように われらの問は のびるばかりです それでも尚食い足らずのどんらんなおかた絵本『永遠』(地球社、1959年)所収。

〈新川和江文庫5 睡り椅子/絵本『永遠』〉(花神社、1988年)に拠った。

◆カメラが近づき、また遠ざかるようにして点描されて行くのは、仕事に追われ倦み疲れた人びとの姿。

大人たちにも問いはある。それどころか、問うことをやめたくなる日々の中で、問わないのは人間として生きることをやめるに等しいことを知っている――それがどんなに小さな問いであろうとも。

◆子どもの問いは大人に向けて発せられるだろうけれど、では大人たちの問いは誰に向ければ良いのだろう。

詩人はその相手として、仮に「眼に見えぬ偉大な/どんらんなおかた」を想定してみる。

その「おかた」が実在するかどうかは問わない。

問わずにいられぬ以上、それに答を与える存在を仮に措くのでなければ、やりきれないからだ(――「答えがある」と仮に想定することと、実際それが得られるかどうかは別のことだ)。


FacebookHideaki Ogasawara『らいふさぽーと』 投稿記事

*老いはみんなに訪れるけれど、成長は望む人にしか訪れない*

世界最高齢、88歳のモデルであるダフネ・セルフさんを知っていますか? 最愛の夫の死後、70歳でファッション誌「VOGUE」に復帰し、一流ブランドのランウェイで今も活躍されています。

シワもシミもあるけれど、20代の頃より楽しいと語るダフネさんの ありのままの自分を愛するための言葉をお届けします。

歳を取ると、あたり前ですがシワもシミも増えます。体もどんどん弱ってきます。

それでも、年齢を重ねれば重ねるほど、美しく輝いて見える人がいます。私は、そんな人たちの持つ「美」とは、これまで歩んできた人生の経験と、経験によって授かった知恵が、その人のオーラになったものだと思います。

そういう人たちは、目の奥の輝きが違います。それに、表情も生き生きしています。さまざまな経験を積んだ人の顔というのは、それだけで魅力的です。

先日思い立って、beautyという単語を辞書で調べてみました。そこには、「美しさとはさまざまな資質の組み合わせで、見た目にも、心にも、五感にも喜びをもたらす」とありました。おもしろいですよね。

辞書の言うとおり、ビューティーとは表面上の美しさだけを指すのではないと、私は思います。心と外見は常にリンクしていて、それはつまり、自分がこれまで歩んできた人生が、はっきりと顔に映し出されるということです。

歳を取りたくない、と言う人がいますが、私にはどうもわかりません。ちっとも怖がることじゃないのに、と思います。それはいま言ったような理由からで、つまり年齢は私にとって、ただの数字でしかないから。

英語にはこんなことわざがあります。

「老いは誰もが通る道、成長は選んだ人が通る道」

老いはみんなに訪れるけれど、成長は望む人にしか訪れない。つまり、どう成長していくかはその人次第、ということ。

私の大好きな言葉です。


https://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/kannsya.htm  【感謝の瞑想】


Facebook加藤隆行さん投稿記事【「ありがとう」への心を込め方】

「ありがとう」は感謝の言葉。だから人に贈る言葉だと思っていました。「ありがとう」と伝えたら、相手が嬉しい。もちろん喜んでくれる相手を見て自分も嬉しい。

でも「ありがとう」は、それ以上に自分に対して伝える言葉でした。

「ありがとう」って言える人がいる「ありがとう」って言える仲間がいる「ありがとう」って言える仕事ができている「ありがとう」って言えるご飯が食べられている「ありがとう」って言える環境にいられているこれらすべてが“ある”という「豊かさ」を十分に味わうために

「ありがとう」と言う言葉を自分に伝える。

「お前の「ありがとう」には心がこもってない」小学校の先生に言われたことを根に持っていました。w

社会人になって先輩に同じことを言われた時、いまだガキのままだった自分に愕然とするとともに機嫌がムッと悪くなりました。

でもこんなんじゃいけない。でも「ありがとう」に心の込め方がわからない。

「ありがたい」は「有り難い」と書くんだよ、なんてことは誰もが聞いたことあると思います。でも以前は聞いても「へー」ボタン押すだけで右から左へスルーしてました。

ボクは子どもの頃からずっと体調不良をかかえて生きてきて昨年はかなり体調が悪くほとんど寝て暮らしてました。

でも今年に入ってからいろんなめぐり合わせがあってまた新しい治療もよく効いてぐんぐん体調がよくなったのです。そしたら、ある日のある瞬間になんの痛みも痒みも苦しみもなく

ただ心地よく「息が吸えている」ことに気がついてだーーー、って涙がでてきた。

ああこれが「有り難い」だ、そう思いました。

ずっと病気だったので「ない」にしか意識が行かなかった。人からなにか施してもらっても

自分はシンドいのだから「当たり前」人一倍がんばって生きているのだから「当たり前」

ゴーマンにも心のどこかでそう思っていた。

カタチだけは「ありがとう」とは言えるようにはなったけどそこにココロはこもっていない。

ただまあそれも、自分の状態を考えたらしかたなかったなと思う。

でも、息が吸える「有り難さ」がわかったら あれも「有り難い」 これも「有り難い」

「有ることが奇跡」「有ることが豊か」そんな気持ちがぶわーっとでてきた。

「ありがとう」って言える人がいる「ありがとう」って言える仲間がいる

「ありがとう」って言える仕事ができている「ありがとう」って言えるご飯が食べられている

「ありがとう」って言える環境にいられている「ありがとう」って言える健康が、ある。

「有ることが難しい」その奇跡を確認し本当に「有り難い」 => だから「有難う」これが、心のこもった「ありがとう」。

「ありがとう」は感謝を伝える言葉であり「ありがとう」は「豊かさの奇跡」を知る言葉。

だから言えば言うほど、感謝はめぐり、奇跡が起こる。

小林正観さん、「ありがとう」の意味

50歳も超えて、やっとなんかわかりましたわ。って思ってたとたん昨日はまたムッとしてたけどね(笑)

そんなもんだ。これを読んでくれている読者さんも、本当にありがとう(^ω^)