ZIPANG-9 TOKIO 2020あなたは砺波・散居村の屋敷林(カイニョ)と四季折々の景観をご存知ですか⁉(その1)
編集前記
砺波平野は大河・庄川の扇状地です。
約500年前から開拓が急速に進み、広大な大地と豊かな水環境のもと、江戸時代初期の砺波郡は石高20万石を誇り、加賀藩100万石を支える穀倉地帯となっていました。
その集落の景観は、農家が点々と散在する散居村を形成し、全国でも珍しい風景が今に残っており、散在する農家は暴風、防雪などに役割を持つ屋敷林(カイニョ)に囲まれています。
屋敷林の緑と天を突くような樹勢は、春は田植え後の水鏡のような水田に、
秋は黄金色の稲穂の絨毯に、冬は一面の銀世界に調和し、四季折々に魅せます。
砺波平野、散居村、屋敷林(カイニョ)、四季折々の景観、どの季節をとっても日本を代表する景観の一つであることは間違いないものと想います。是非、富山・砺波にお越しいただき、直にご覧いただきたいと想います。
早苗田に映る農家は日本の誇る貴重な宝
むかしの農家は、ほとんどの家は茅で屋根をふき、土と切藁をこね混ぜた壁を塗り、エンナカ(いろり囲炉裏)で藁や枯木を燃やして煮炊きし、
それなりに合理的で満たされた思いで暮してきた。
例外もあるが、家は東向きで、オモテラ(南側)の角が座敷であり、次にオイ(広間)があって土間のニワがあり、ウランカタ(北側)の角が便所になっていた。
やがてオイの後ろの北隅にナガシ、次にチャノマ、次にヘヤと並ぶようになり、農村の家造りの基本間取りとなっていった。
いま、早苗の田に影を映している白壁の土蔵は、南風にあおられる炎を恐れて東南の隅にたて、納屋を東北の隅に配した。
永年、先人が造りあげてきたこの景観こそ、日本の誇る貴重な宝である。
散居村とは
富山県の西部に位置する砺波平野は主に庄川と小矢部川が形成した扇状地です。
およそ220キロ平方メートルの広さに屋敷林に囲まれた約7,000戸を超える家(農家)が点在する散居村が広がっています。
砺波平野の散居村の成り立ちは、それぞれの農家が自分の周りの土地を開拓して米作りを行ってきたことに由来します。農地が自分の家の周りにあることは、扇状地上での田植え後の朝夕の水の管理、施肥などの管理、刈り取ったあとの稲の運搬など、日常の農作業をするためにはとても効率の良いことでした。
また砺波平野の散居村の特徴としては、それぞれの家の周りに屋敷林をめぐらせてきたことです。この地方では屋敷林は「カイニョ」と呼ばれ、冬の冷たい季節風や吹雪、夏の日差しなどから家や人々の暮しを守ってくれました。
スギの落ち葉や枝木などは毎日の炊事や風呂焚きの大切な燃料として利用されました。またスギやケヤキ、タケ等は家を新築する際の建材や様々な生活道具の用材としても利用されました。
このように昔の散居村の人々は、自分の家の周りの農地を耕して米や野菜を作って生活し、日常生活に必要な資材を屋敷林から調達するという、きわめて自給自足に近い生活を送ってきました。
散居村という集落形態は、砺波平野で暮らした先人たちが、自然に働きかけて自然との共生を図って残してくれた知恵の結晶といえるものです。
1.散居村の成立
砺波平野を流れる庄川は、かつては主流と幾筋もの支流に分かれており、その流れの変遷によって長い間をかけて扇状地を造ってきました。この扇状地では地表の土層が薄く、その下は砂や小石が堆積していますが、ところどころに土がより堆積した表土の厚いところが形成されていました。
その周りより少し高いところ(微高地)に家を建て、洪水の害が及びにくい周囲の土地を開墾していったのです。
扇状地の水田は「ザル田」と言われるほど、水持ちが悪く米作りに大切な水の管理が大変でしたが、庄川からの表流水が豊富であったため、水を引くことが比較的容易でした。
近世に入り加賀藩の治水事業によって庄川本流の流れが固定され、支流の川跡を基幹用水として利用し、その用水より網目のような小さな用水路網が造られていきました。この用水路網の整備によって、さらに廃川地の開拓が進み、散居村が広がって近世末の砺波郡は27万石の穀倉地帯となっていたのです。
冬の季節風や春のフェーン現象による強風などから家を守る防風林
屋敷林には、スギ、ケヤキ、アテ、タケその他多様な樹種が植えられた
2.屋敷林(カイニョ)の役割
屋敷林は開拓の当初、原生林の一部を残したのが始まりと言われ、冬の季節風や春のフェーン現象による強風などから家を守る防風林などとして、重要な役割を担っています。
屋敷林には、スギ、ケヤキ、アテ、タケその他多様な樹種が植えられました。
●スギは水を好む樹木で、降水量の多い砺波平野では良く生育します。
●落ち葉や枝木は燃料となり、成長した樹木は建築材料としてかつて利用されました。
●実のなる木や花の咲く木も植えられ、下草には食用や薬草になる草本類も育てられ、屋敷林は農家の自給自足の暮しを支えました。
3.用水の生活利用
●用水は水田に水を引くとともに、かつては扇状地平野では地下水位が深く井戸を掘ることが難しかったので、多くの地域では家の敷地内に小さな水路を引いて、炊事洗濯や飲み水として利用されました。
川には自浄作用があり、加えて人々は水を大切に扱ったので、下流まできれいな水が流れていました。
4.散居村の変化
古くは日本各地にも散居村が多く成立しましたが、農作業の都合により、次第に農家が集まって集村化する傾向が一般的でした。
散居村が成立した近世初頭から現在まで、砺波平野でも散居村の形態がくずれかねない状況がありました。
●加賀藩の「田地割」は、年貢を課す農地の状態に公平を期すため「くじ引き」で耕作地を定める制度でした。しかし、人々は農地を交換し合って自分の家の周りに土地を集めるように努め、加賀藩もそれを認めていました。
●第2次世界大戦後の「農地改革」によって多くの農家が自作農となり、家の周りの農地を私有するようになり、一層米作りに励みました。
●昭和30年代後半から「ほ場整備事業」が始まり、水田は大型化・直線化し、新しい農道や用水路の整備が行われましたが、大型化した農地となっても交換分合が行われて家の周りに農地は保有され続けました。
●現在散居村の形は残っていますが、工場・住宅団地の混在化が進んで形態が崩れる地域が増えたり、住民の生活様式が大きく変わり、兼業化・組合化など農業経営の方法も変わる中、農業と散居村との関連性が次第に薄くなっており、貴重な散居村や屋敷林が減少しかねない状況が危惧されています。
5.散居村の保全と地域づくり
昔の砺波地方では「タカ(土地)を売ってもカイニョ(屋敷林)は売るな」という言葉がありました。現代の暮しの中では屋敷林の大切さが見失われ、強風による倒木の恐れ、落ち葉の処理や枝打ちに手間や費用が掛かるため、家の増改築などをきっかけに伐採をする家が増えています。
散居村の景観にとって、屋敷林の減少は大きなマイナスとなっています。散居村は砺波平野の長い歴史と風土の中で育まれた貴重な文化資産です。景観条例の制定や枝打ち支援事業の実施など、行政・地域・住民全体で話し合い、保全していく取り組みが進められています。
となみ散居村ミュージアムとは
となみ散居村ミュージアムでは、散居村を歴史と景観・民俗・古民家・現代生活のコンセプトを4つの館で表現しています。
それぞれの建物で様々なことを体験して学んでいただけます。
情報館(歴史と景観)
散居村の歴史を学ぼう
情報館は砺波地方の伝統的な家屋様式のひとつである「マエナガレ」をイメージした建物です。施設利用の受付窓口や学習・写真パネルなど散居村を楽しく学べる施設です。
見学料:無料
民具館(民俗)
国の重要有形民俗文化財に指定された民具の展示と企画展の開催
民具館では国の重要文化財に指定された砺波地方で古くから使われた農具や生活用具など約1,000点を展示しています。
入館料:個人100円/20名以上の団体80円(身体障害者手帳の所持者及び介助者は無料)
伝統館(古民家)
散居村の代表的な家屋様式のひとつ「アズマダチ」
見学料:無料
散居村は、個々の家が点在しているため、冬の季節風、夏の暑い日差しなどを防ぐため屋敷林(カイニョ)が植えられています。
その屋敷林の中にある家屋は、江戸時代の砺波地方では「寄棟造」の茅葺き屋根で、平均的には20~30坪の建物でした。
明治時代頃から富裕層の農民の中には、大きな切妻屋根に葺き替えて妻側に家の玄関を設けて妻面の束や貫を意匠的に組んでその間を白壁にぬる「アズマダチ」と呼ばれる見事な造形の建物に改築しました。
「アズマダチ」の名の由来
散居村の家屋を見て回ると、ある共通点があることに気付きます。それは家の正面(正面玄関)が東を向いていることです。
東を向いている理由は、砺波平野の冬の季節風は主に南西から吹きます。そのため屋敷林は南西側を特に厚く覆っており、朝日の上がる方向でもあり、入口は屋敷林の少ない東側に配置しています。
家が東(アズマ)側を向いていること、武家(アズマ)風屋敷をまねたことからとも言われています。
「屋敷林」と「アズマダチ」をじっくり見学
伝統館は、大正時代~昭和初期の「アズマダチ」を昭和30年代の雰囲気そのままで移築した建物です。
「アズマダチ」正面の白壁、「ワクノウチ」の構造、「ゲンカ」の土間、昔ながらの「ナガシ」など昭和世代にとっては懐かしさを感じる雰囲気です。今では少なくなった建物で、昔の暮らしの様子をじっくりと見学いただけます。
伝統館の納屋で昔、体験教室が行われていました。
当時参加されたことのある方は、きっと懐かしい想い出がこみ上げてくることでしょう。
交流館(現代生活)
となみ散居村ミュージアム「交流館」伝統家屋のアズマダチを現代風にリノベーション
「アズマダチ」を現代の生活様式にリフォームした多目的の建物
見学料:無料
「アズマダチ」は、長い月日をかけて砺波平野の風土に適して進化してきた建築様式です。交流館は、伝統的な「アズマダチ」の構造を生かし、将来にわたって2世帯・3世代同居を推進する新しい生活居住空間のあり方を提案したリフォーム建物です。
この各部屋はイベント・教室・会合など多目的にご利用いただけます。ぜひ様々な用途にご利用ください。
見直される柔構造建築
現代の一般住宅は、剛構造と呼ばれる建築洋式で建てられています。建物の壁も柱のように強固にし、家全体を一つの固まりとすることで、家を丈夫にしています。これに対し「アズマダチ」は日本古来の柔構造で建てられています。
柔構造は木の柔軟性で建物にかかる負荷を受け流す性質があり、最大の特徴は、耐用年数が長いことです。長く住める建物として見直されています。
施設の利用者向けとしても設計されています。
交流館は、例えば飲食に関するイベントにも対応できるキッチンに加え、座敷・フローリング張りの洋室を備えており、和の教室から、軽音楽などの教養教室まで様々なことにご利用いただけます。
となみ散居村ミュージアムを利用されたい方へ
となみ散居村ミュージアムは、部屋単位でご利用いただけます。
ご予約される場合は一週間前までに予約日、予約されたい部屋名とご利用時間帯を、所定の利用許可申請書によってお申し込みください。
お問い合わせ
電話番号(仮予約)電話:0763-34-7180
余滴
見はるかす 散居を見おろすケアポート
見はるかす 散居を見おろすケアポート
国道156号から閑乗寺中腹への取付道路をのぼりつめると、「ケアポート庄川」にたどりつく。
庄川町が平成元年(財)日本船舶振興会の補助をうけ、高齢者福祉モデル事業として採択し、30億円余りをかけて、同4年3月に竣工した。
地域における福祉の拠点施設として、老人保健施設、ディサービスセンター、在宅介護支援センター、老人福祉センターの四つの機能を持つ社会福祉総合施設である。
裏の小高い野外ステージにのぼって眺めると、広大な建物の彼方に岩黒から金屋田ん圃、その先に農家が点在する風景もまた美しい景観である。
慧眼の人が遺した「雅の館」
庄川民芸館
ケアポート庄川の向かいに、片山等記念庄川民芸館収蔵庫がある。勾配のある坂道の中程に建つ総欅の風雅な門を入ると、美しいなまこ壁の建物が右手にある。かつての民芸館である。
社長片山等氏は、稀に見る民芸愛好家で、慧眼の人であったが、平成12年5月にお亡くなりになり、生涯、事業の傍ら収集され、公開されていた「庄川民芸館」を収蔵品ごと町へ寄付された。
町では、片山氏の遺志を多として、水記念公園にできたふれあいプラザを「片山等記念庄川民芸館展示場」と定めて、ひろく一般に展示紹介することになった。今は収蔵庫となったなまこ壁の館も欅の門も、見事なたたずまいである。
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
となみ散居村ミュージアム 〒939-1363 富山県砺波市太郎丸80 電話:0763-34-7180
砺波市役所 〒939-1398 富山県砺波市栄町7番3号 電話:0763-33-1111(代表)
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
今帰仁村 今泊のフクギ屋敷林及集落景観
(なきじんそん いまどまり)と読みます。
今泊集落は、豊かなフクギ並木の屋敷林が残る集落であり、馬場跡など歴史的資源も多く有します。また、今帰仁城跡のふもとに位置することから、今帰仁城跡からの眺望の対象となる集落でもあります。
フクギが立派な天然の門となっています。家はフクギに守られてその奥に!
したがって、豊かなフクギ並木屋敷林や、伝統的な地割を保全し、建築物や工作物はフクギ並木の高さを越えない高さを基本とします。さらに集落内道路については、排水溝の設置の仕方や、海を守るための下水処理対策を検討し、フクギに囲まれたのどかな集落道として相応しい道路景観の形成を図っています。
また、今帰仁城跡からの眺望に配慮し、大規模な屋根や派手な色彩の建築物など眺望に影響を与えるようなものは避けるよう努めています。
今帰仁村 今泊のフクギ屋敷林及集落景観について
文化的景観の保存状況と基本方針
「今帰仁村 今泊のフクギ屋敷林及び 集落景観 」 は、各屋敷をフクギ で仕切った 屋敷林の集落景観が保たれ、今帰仁城下から集落(今帰仁ムラと親泊ムラ)移動の歴史に由来する集落形態と民俗文化が色濃く残されています。
また、「 今帰仁村今泊のフクギ 屋敷林及び集落景観 」 の価値を踏まえ、成り立ちやそれを支えてきた構成要素を良好な状態で継承することを目的とした基本方針を定めています 。
特に 、保存計画対象範囲の景観の 保全活用 を図るために、次の5項目を基本方針として定めています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 文化庁 重要文化的景観選定 「今帰仁村 今泊のフクギ屋敷林及集落景観(沖縄編)」~あなたは、もうご覧になられましたか~
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6523216
新潟県「関川村」の見どころ
新潟 関川村 冬の渡邉邸
渡邉邸
米沢街道における豪商・豪農・大庄屋の屋敷。昭和29年(1954)には国の重要文化財に指定されました。広さ3,000坪の敷地に石置木羽葺屋根の母屋、6つの土蔵、国指定名勝の庭園があります。
関川村の歴史・文化
関川村は日本海側と内陸を結ぶ交通の要衝にあり、先史時代より荒川沿いに道ができて発達してきました。
今から約500年前、米沢の戦国大名、伊達種宗(たねむね)が羽越国境の大里(おおり)峠を開き、そこにつながる道が次々と整備され、十三峠ができました。
十三峠
鷹の巣峠-榎峠-大里峠-萱野峠-朴ノ木峠-高鼻峠-貝淵峠-黒沢峠-桜峠-才ノ頭峠-大久保峠-宇津峠-諏訪峠
米沢街道
米沢街道の歴史と概要
「越後米沢街道」は、山形県置賜地域と新潟県下越地域を結ぶ約70kmの街道で、13の峠があることから「十三峠」と呼ばれています。十三峠は1521年(大永元年)に伊達14代の種宗(たねむね)により羽越国境の大里峠が開かれたのが始まりで、江戸時代にかけて順次整備されました。
この街道を通って米沢方面に運ばれる荷物を「上り荷」といい、塩、鉄、魚、お茶などが運ばれ、越後への「下り荷」は小国蔵米、織物の原料・青麻(あおそ)・煙草・漆・蝋燭などが運ばれました。
1996年黒沢峠、大里峠、鷹の巣峠が「歴史の道百選」に、2008年「越後米沢街道・十三峠」が日本風景街道に登録されました。
明治時代 米沢街道十三峠を旅した英国の女性旅行作家 イザベラ・バード
旅行記「日本奥地紀行」の著者イザベラ・バードは、明治初頭、横浜から函館まで東北地方の旅の途中、十三峠を歩きました。バードは明治11年(1878年)7月11日新潟県関川村沼、7月12日小国町市野々(いちのの)、7月13日川西町小松に宿泊しました。十三峠の山中では「大きな山岳地帯に難儀したこと」が記されるとともに、米沢平野を「東洋のアルカディア」と称したことが有名です。
新発田または村上の城下町を起点にこの十三峠を越え米沢城下町に至る街道は米沢街道と呼ばれ、その宿駅として、また荒川舟運の拠点として盛えたのが関川村の下関・上関です。
その中心地には国指定重要文化財「渡邉邸」と「佐藤邸」、県指定文化財「津野邸」、村指定重要文化財「東桂苑」と四つの豪壮な建物が並び、江戸~明治期の街道の風情を今に伝えるこの街並みは平成19年「美しい日本の歴史的風土100選」に選ばれました。
渡邉邸
米沢街道における豪商・豪農・大庄屋の屋敷。
昭和29年(1954)には国の重要文化財に指定されました。広さ3,000坪の敷地に石置木羽葺屋根の母屋、6つの土蔵、国指定名勝の庭園があります。
渡邉邸について
廻船業、酒造業や新田開発で財を築いた豪商・豪農の館で、いまだ江戸時代のたたずまいを鮮明に残しています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-7 TOKIO 2020 新潟県「関川村」の見どころ(1)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/41047920
大したもん蛇まつりって!?
メインイベントの大蛇パレードに登場する長さ82.8m、重さ 2t の大蛇は村民の手作りで、竹とワラで作った世界一長い蛇としてギネスブックに認定されています。
まつりのメインである大蛇パレードは、毎年8月の最終日曜日に開催され、その前夜には、夜空を彩る花火大会、秋の気配を感じながらの盆踊りが開催されます。
光兔神社
光兔神社では光兎大神(こうさぎおおかみ)を祀られていて飛躍・躍進、子孫繁栄、子宝などのご利益があります。
境内にはたくさんのウサギの置物や授与品(御守など)があり見るだけでも楽しいパワースポットです。
光兔神社「癸と卯」
<癸の意味>
「癸」は雨や露、霧など、静かで温かい大地を潤す恵みの水を表しています。
十干の最後にあたる癸は、生命の終わりを意味するとともに、次の新たな生命が成長し始めている状態を意味しているそうです。
「種子が計ることができるほどの大きさになり、春の間近でつぼみが花開く直前である」という意味だと言われています。
<卯の意味>
「卯」は穏やかなうさぎの様子から安全、温和の意味があります。
うさぎのように跳ね上がるという意味があり、卯年は何かを開始するのに縁起がよく、希望があふれ、景気回復、好転するよい年になると言われています。
また、「卯」という字の形が「門が開いている様子」を連想させることから
「冬の門が開き、飛び出る」という意味があると言われています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-7 TOKIO 2020新潟県「関川村」の見どころ(2)関川村の光兔神社&ギネスブックに認定「竹とワラで作られた世界一長い蛇」54集落が力を合わせて地方創生
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/41066477
風景は人間界の民度を表す、物質文明から心の文明への元
富山平野を通るとなんだか当たり前の景色なのだが気分が良い。
この日本の何処にでもある田園と白黒グレーの民家と鎮守の森とお寺と遠くの青い山の景色がある限り、日本の未来も、また良い観光客も来てくれるだろう。
筆者の場合、人工物が天と地の間のスカイラインが、あらゆるものが融和している良い風景だと、屋外も室内も食べ物も何にでも、幸せに想う。
景観は、天空海大地、山川草木、自然と衣食住も、人工物が互いに響き合って、発酵し、人の心が幸せになる、心の文明の源である。
重ねて真の日本文化は田舎にあり
名高い伝統の彫りもの、鋳物の奥深い感性があらゆるものに、製品にも工場のモダンデザインにも室内にもアート全体に奥深い感性が各所に行き届く富山。
また見渡す限り広大な砺波平野の屋敷林を見ると、それぞれ一つが、一家族が生きる最も理想的な地上の小さな国のように、独立した豊かな心を感じる。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-9 TOKIO 2020 「安らぎの 心の文明」へ 「発酵文明」の提唱 1 −3 【寄稿文】 一舟・光秀
https://tokyo2020-9.themedia.jp/posts/54547727
富山県まで流れている庄川の最上流にあった村が現在の「荘川」
晩秋の荘川の里
荘川の歴史
江戸時代末期までは、現在の「荘川」と世界遺産の「白川郷」は一つの村で、「白川郷」と呼ばれていたそうです。
はじめて知りました!
富山県まで流れている庄川の最上流にあった村が現在の「荘川」で、下流の村が現在の「白川郷」だそうです。明治に入り白川郷が二分割され、先に下流の村が「白川郷」と言う名前を登録され、困った上流の十八ヶ村は、かって白川と呼ばれていた川に荘園が出来て庄川と呼ばれたので、村の名前を「荘川」と名づけたそうです。
飛騨弁を研究されている大西佐七さんによると「飛騨で最も早く開けたのが、現在の荘川・白川郷のある地で、平安末期に藤原氏が白川荘という荘園を所有していた。」とのことです。
日本一!30頭の連獅子が舞う
山々が真紅に染まる10月、町内各神社より30頭の獅子が集まり、山里の郷愁を想いおこすかのように、壮大な舞をくりひろげます。
町内の人々が集まり、1頭につき3名、笛、太鼓他、総勢120名が獅子の舞を披露します。 ふるさと祭りの目玉として獅子の共演を考案し、各神社にお願いされたところ、30頭の獅子が集まり、行われるようになったそうです。
30頭の獅子は同じように見えますが、各神社により特徴があり、頭(かしら)の形状、舞い方が微妙に違い、それを見比べるのも楽しみの一つです。
ここまでたくさんの獅子が1度に舞うことは日本全国を見ても珍しいです。
連獅子の舞いは午前・午後の2回披露しますのでどうぞお楽しみに。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「白川郷の上流 飛騨高山の奥座敷 水と桜と自然の郷【荘川】」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/1772486
渓流釣りの名人 曰く「魚は森を見てとれ」
昔から飛騨では「小坂おんなに馬瀬おとこ」と言われています
馬瀬村 全景
日本のほぼ中央、南飛騨の山間、南北28km(七里)に10の集落がつらなり、 馬瀬川が貫いて流れる森と清流の里。 「馬瀬七里十里五十淵」という不思議な言葉を口にすると、岩と淵瀬がつくる 変化に富んだ水辺の風景と、自然と調和した暮らしが浮かんできます。
歴史 環境
馬瀬川の源流にある竜馬峰(高山市)は、天駆ける竜馬が眠ると伝えられ、「飛騨」の語源となったとも言われています。
馬瀬地域の南端にあたる西村地区は、下呂温泉の幸田地区と郡上を結ぶ街道が通り、古くから人の往来がありました。平安時代末期には、源義平(悪源太・源頼朝、義経らの長兄)が平治の乱に敗れて馬瀬の地に落ち延び、再起を期して兵を募集したと古い社の縁起に伝わります。
江戸時代は、集落に口留番所が置かれて、飛騨と美濃を行き来する人や物資に税を掛けました。大屋根の益田づくり民家や繭蔵など、養蚕で栄えた名残が残り、山村ながらどこか余裕が感じられます。
生物多様性
馬瀬川には天然あまごやイワナをはじめ、最近では少なくなったゴトチ(ヨシノボリ)、カジカなどの魚類が見られます。動物は、野生のサル、シカ、イノシシによる獣害に悩まされており、環境の変化によって増えすぎた野生動物個体数の調整や、人間との共生が模索されています。
植物は、渓流魚付保全林に固有の植物があり、非常に貴重です。夏には集落の外れから西村ダムにかけてホタルが乱舞します。
源流の村
馬瀬川は東海三県の水瓶です。馬瀬川の下流には、東海三県約1,100万人に生活用水や農業、工業用水を供給する「東海の水瓶」岩屋ダムがあります。馬瀬地域には、名古屋市を中心とした多くの人々に生命の水を届ける源流の村として、水源を守る矜持があります。
渓流釣りの名人が「魚は森を見てとれ」と言うとおり、馬瀬川の鮎と美しい村には深い関係があります。 森は湧水を生み、魚の棲み場や餌となる昆虫を生み、水と土は川に流れてプランクトンやコケを育てます。馬瀬は森林面積が95%を占める山村ですが、実にその1/4以上を魚を育てる「渓流魚付き保全林(けいりゅううおつきほぜんりん)」に指定して、守る取り組みを行っています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「まさに桃源郷! 下呂温泉の山むこうに日本で最も美しい村があります~貴方もきっと武陵の漁夫の気持ちに~」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/1307190
一生幸福でいたかったら、釣りを覚えなさい
全国から釣り人が集まる…馬瀬川 鮎友釣り
「一日幸福でいたかったら、床屋に行きなさい。」「一週間幸福でいたかったら、結婚しなさい。」 「一ヶ月幸福でいたかったら、良い馬を買いなさい。」「一年幸福でいたかったら、新しい家を建てなさい。」「一生幸福でいたかったら、釣りを覚えなさい。」というのが中国の古い諺にありますが、昨日、馬瀬川について紹介したところ、早速、関東の釣りガールのクラブの方たちから連絡を頂き馬瀬川の釣りや鮎に関してもっと詳しく教えてほしいとのことでした。
そこで急遽、本号は馬瀬川の鮎釣りについて紹介したいと思います。
最近の日本は、仕事、スポーツ、趣味、どの分野においても大和撫子の活躍が目覚ましく、男よりも頼りになる存在になりつつあります。(失礼)