「十戒って何ですか?」
出エジプト記19章1-9節、20章1, 2節
19章
1. エジプトの地を出たイスラエルの子らは、第三の新月の日にシナイの荒野に入った。2. 彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山を前に宿営した。
3. モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。
4. 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。
5. 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
6. あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」
7. モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをすべて、彼らの前に示した。
8. 民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主の言われたことをすべて行います。」それでモーセは民のことばを携えて主のもとに帰った。
9. 主はモーセに言われた。「見よ。わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む。わたしがあなたに語るとき、民が聞いて、あなたをいつまでも信じるためである。」それからモーセは民のことばを主に告げた。
20章
1. それから神は次のすべてのことばを告げられた。
2. 「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
礼拝メッセージ
十戒シリーズ ①
2024年9月1日
出エジプト記19章1-9節、20章1, 2節
「十戒って何ですか?」
日本の各地で大変な被害をもたらしている今回の台風10号ですが、北陸に住む人間からしますと、いつまでふらふら・のろのろしているのだろうか…? いつ頃こちらにやって来るのかと、やきもきさせられ、翻弄される一週間でした。大雨や暴風が激しければ、今日の礼拝を中止せざるを得ないのかとも考えていました。
そんな先週、空いている時間に福井県立美術館で開催されている「古代エジプト美術館展」を見てきました。平日でも多くの来館者でいっぱいでした。展覧会は今日までで終わりのようです。これから「十戒」を礼拝で語っていくにあたり、出エジプト記の舞台となった古代エジプトの宗教や文化、ファラオの姿の一端に触れて、刺激を受けたいと思いました。
一番感動したのは「キュービット尺」という展示品でした。出エジプト記の後半には、契約の箱や幕屋などの寸法の単位としてキュビト(44cm)が、繰り返し登場します。まさにそのキュビトを測る尺の一部(石でできたもの)が目の前にありました。「聖書の言葉は真実だ!」と感動しました。
他にも、古代エジプトからローマ帝国時代までの歴史年表をじっくり眺めました。事前に、モーセが生きていた時代は、紀元前13世紀頃であったことを調べました。それからさかのぼること430年前、あのヨセフを頼ってヤコブ一族がエジプトに避難して来たことを思いながら、エジプトの歴史年表を見ました。驚いたことは、有名な巨大ピラミッドを造らせたクフ王などは、紀元前26世紀頃の人だったということです。
アブラハムも飢饉から逃れるために、エジプトに一時避難しています(創世記12:10~)。遊牧民として天幕生活をしていたアブラハム、またその孫のヤコブや12人の息子たちがエジプトを訪れた時には、高さ150m近いピラミッドがそびえ立っていたのです。王宮もその他の建築物も巨大で絢爛豪華だったでしょう。足がすくむような思いをしたのではないだろうか…。
そんなエジプトの絶対的最高権力者ファラオに向かって、モーセは「この民を去らせよ」と闘ったのです!主なる神様が付いていてくださらなければ、決してなし得なかった民族脱出(救出)大作戦でした。
エジプトで奴隷としてこき使われ、重労働をさせられていたイスラエルの民。彼らのうめき、嘆き、泣き叫ぶ声を神様は聞かれます(出エジプト2:23~)。アブラハム・イサク・ヤコブと結ばれたご自身の約束(創世記15:12~、46:2~)に忠実に、神様はイスラエルの民をエジプトから救い出してくださいました。神様はモーセを通して10の災いをエジプトにもたらし、あの強情なファラオの鼻をへし折られました。
それでも「出て行ったイスラエル人を取り戻そう」と、追いかけて来たファラオとその軍隊。彼らは、開かれた海の中を歩いて渡ったイスラエル人を追って、そこに飛び込んだ結果、元に戻った海の底に沈んでしまいます。驚くべき奇跡・奇跡の連続でした。何もない荒野の道中にあって、安息日以外の毎朝、神様は美味しいマナを降らせてくださいました。岩から飲み水も出してくださいました。昼は雲の柱、夜は火の柱と、主なる神様がともにいてくださることを見せてくださっていました。
そのイスラエルの民が、シナイ山のふもとにやって来ます。そこで神様は呼びかけました。
19章3-6節モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」
ここには、「わたしはあなたの神だ。わたしがあなたをあのエジプトから救い出した。大切に大切にあなたたちをここまで導いて来たんだよ。わたしはあなたを愛している。あなたはわたしの特別な宝物だ!」といった神様の愛がこだましているのではないでしょうか。
神様のこの愛に応えて、イスラエルの民は言います。19章8節、民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主の言われたことをすべて行います。」
そして与えられるのが、あの「十戒」であり、それに続く「律法」なのです。20章1節から、
それから神は次のすべてのことばを告げられた。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
私たちは「戒め」とか「法律の条文」とか「ルール」といった言葉を聞きますと、どうしても堅苦しいもの、私たちの自由を奪い、縛り付けるもの、窮屈な生き方を強いるもの、本音(現実)とは違う建前(お役所が決めた厳格な原理原則)。そんな負のイメージを持ってしまいやすいものです。
しかし「十戒」(新改訳聖書では『十のことば 』と表されている:出エジプト記34:28、申命記4:13、10:4)は、私たちを押さえつけるためのものではなく、これまでの出エジプト記の流れを見れば分かるように、「あなたを愛しているよ」という神様の思いに応えて、人の側も「主よ、私たちもあなたを愛します。あなたに従います」と答える。それに対して神様が、「そうか、うれしいよ。じゃあこの約束に従って共に歩んで行こうね」と結んでくださった契約のことばなのです。互いの愛を確認した上で、「それから」(20:1)と告げられた「十のことば」です。
人間の歩みに例えれば、結婚の際の誓約のようです。夫と妻が「愛し合います」と誓い合う。その時、「健やかな時も病める時も、富める時も貧しき時も、愛して変わることなく、互いに敬い合い助け合い、最後の日まで相手に対して誠実であることを約束します」と契約を結びます。それは相手を服従させるもの、拘束するものではありません。互いに愛を深めていこう、築き上げていこうという約束です。
神様もそんな思いで、大きな愛をもって私たちと10の約束を交わしてくださいました。それは私たちがこの世にあって、神様とともに幸せに、安全に、良い生き方をしてほしいと願う親心からでした。
たった一つの神様との重要な約束を、すでに破ってしまった私たち人間です(禁じられていた善悪の知識の木の実を食べてしまった…)。それなのに、なおも神様は私たちのために10の約束を与えてくださったのです。「裏切ったあなたたち人間には、もう期待できない。もうあなたたちは信頼できない」とはおっしゃらず、なおも「期待しているから、信じていくから、この約束のうちに生きてくれ」と与えてくださった10のことばなのです。
「十戒」のそれぞれの「~してはならない」という言葉は、明らかな禁止命令です。けれども、これは冷酷無比な命令ではありません。「もうあなたは、~する必要はないんだ」。「あなたが、~するはずがない」といった意味が含まれているのだそうです。例えば最初の戒め、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(20:3)には、あなたは本物(あのエジプトからあなた方を救い出したまことの神)をもうすでに知っている。だから他の神など求める必要がない。他の神に心をなびかせるはずがない、といった期待・信頼が込められているのです。
それぞれの家には、家のしきたり・ルールがありますよね。子育てをしていると、親は子どもたちと約束をしたり、ルールを決めたりします。子どもから見れば、ときに窮屈に・理不尽に思うこともあるかもしれませんが、多くの親はこの子のために、この子のより良い未来のためにと願いながら、期待しながら、その子に与えられている可能性を信じて、約束を交わします。愛しているので、大切に思っているので、良い子に育ってほしいと願うのでルールを与えます。
我が家は、誇れるような状態…とは正反対で、適当に、ほったらかしにしながら子育てをしてしまっているのですが、夜、遊びを終える時間だけは、親子でルールを決めています。明日が学校という日の前日は「夜9時になったら、ゲームやテレビを終わりにして、お風呂に入ろう」と決めています。それは、なるべく睡眠時間を確保して、翌朝、良い状態で目覚めてほしい。学校で元気に遊び、勉強してきてほしいと願っているからです。
目の前のこと、少し先のことしか見えない人間の親であっても、子どものために良かれと思うルールを設けます。ならばなおさら、遠い未来のこともすべてをご存知であられ、あなたのために一番良いことを知っておられる神様が、あなたのためにと用意してくださるルール、この10のことばは、どれほど素晴らしく、完全なものであるでしょうか。そうに違いありません。そんな期待をもって、来週から10の約束を一つひとつ見ていきたいと思います。
最後に、この世に生きる私たち人間に、神様が「十戒」を与えてくださっている意味を三つ確認します。
① 罪と悪に満ちている世の中で、それでも私たちが安全に平穏に秩序を保って生きていけるように。
罪人である私たちは、何が正しいことか分からなくなってしまいました。悪に歯止めがかからなくなり、人間社会は混乱しています。神様は、そんな私たちの悪にブレーキをかけるため、十戒を与え、正しいこと・良いことを求める心を残してくださっています。さらにこの世で、上に立つ人たちをお立てになり、彼らを通して法律を定め、それに背く人たちを罰する権威を人に与えてくださいました。
ローマ人への手紙2章14. 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。15. 彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。
② 私たちが、神様の愛に応えられない、逆に背いている罪人であることを悟らせ、キリストの赦し・救いを求めさせる養育係・教育係の働き
パウロは、「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。」(ガラテヤ3:24)と語っています。十戒の戒め一つひとつ、さらに主イエス様が解き明かされた戒めのさらに深い意味「心の中でも犯しているならば同罪なんだ」ということを知らされる時、私たちは、自らの決意・意思・行動によってでは、神様の前に「義」とは決して見てもらえない罪人であることを知らされます。自分によってではなく、キリストの赦しにすがる他ないことを知らされるのです。
③ 罪の奴隷(やりたくない悪をやめることができず、正しいことを実行できなかった状態)から解放された人が、解放してくださった神様に感謝し、喜んで仕えていくために。神様の喜ばれる新しい生き方:神を愛し、隣人を愛して生きる指針として。
先ほど交読したマタイの福音書5章、イエス様が山の上で語られた教えにも、「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」とあります。神様を敬い、正しい生き方を求め、それを世の中で実践していくために。イエス様によって新しく造り変えられた人には、「地の塩・世の光」としての使命が与えられています。十戒はそのための大事な指針です。
祈りましょう。