違和感なく受け入れられるものか、否か?
https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2024/05/25/kiji/20240525s00001173404000c.html 【松尾貴史 裏金“ゆるゆる”改正案の自民党に「このままでいて」と思うワケ 「自滅まで…」】より
[ 2024年5月25日 15:33 ]松尾貴史
俳優の松尾貴史(64)が25日、TBSラジオ「ナイツのちゃきちゃき大放送」(土曜前9・00)に生出演し、自民党派閥の裏金事件を受けて審議入りした政治資金規正法の改正案についてコメントした。
衆院政治改革特別委員会は23日、与野党が提出した改正案の質疑を開始。政党から議員個人に支給される政策活動費などをめぐり、大甘な自民党案が厳しく批判された。
現在の政策活動費について、使い道を公開する義務がなく、裏金の温床となっている。しかし、自民党案では領収書の保存義務も公開義務もないままで、大まかな項目別の支出額しか公開対象となっていない。「外交の関係などさまざま使途の公開になじまないものもある」との説明だが、野党からは「やましいことがあるのか」と言った声も聞かれている。
自民党の“ゆるゆる”案について、松尾は「あまりにもひどいじゃないですか?」と指摘。「何でも結局OK、やったふりということですよね。なんちゃって連座制みたいなものも。不祥事を起こしている側が、ルールを作るっていうことで仕事しているふりって、おかしくないですか?犯人が“じゃあルール変えようぜ?”って言ってるわけですよね」と、与党とはいえ事件を起こした側が、ルール作りを主導する様子に違和感を口にした。
さらに松尾は、民間企業が不祥事を起こした際、厳しい業務停止命令などが科されたケースを複数列挙。「そこまでしなくてもというこをやるわけですよ。そうしたおかげで、傷が浅く、早く回復できるわけ」と一定の理解を示した。その上で、「自民党はまったく逆のことをやっているわけですよね。ちょっとずつ小出し小出しに、ごまかしごまかしに、今やってることをまだ続けられるように、というまやかしのルールを出してくるから。もっともっと傷が深くなると思います」と問題視した。
しかし、松尾は自民党の現在の体質について「このままでいて欲しいなと思う」と、真逆の願望を口にした。「このまま、自滅するところまで、選挙の時に国民がお仕置きするところまでいかないと。だから、もうこれでいいんじゃないの?という皮肉ですけどね」と、その真意を明かしていた。
Facebook船木 威徳さん過去の思い出投稿記事【 どうしようもないメディア 】
私が時々訪れる某温泉で、昨日も、いい気分でお湯に浸かりながら、たまたまかかっていたテレビを見ていました。
あるコメンテーターが「国が、徹底的に、人流をコントロールし指示に従わない飲食店には、法的な強制力を使ってでも徹底的に取り締まりを行うべきでしょう…」って、どこまで「お上」に媚びたいの?
「人流」とは、なに?君たちは、庶民を、どこか高いところから眺めて、高みの見物でもしているつもりなのか?と、情け無くなり、テレビを消そうと思ったけれど、温泉だから、消せない。笑「東京都では、過去最多の感染者」は、ウソ。
都内の死亡者がほとんど出なくなったら「死亡者数」には、全く触れなくなりました。
しょうがないので、メディアもいまは、「重症者」をネタにしていますが現場の医師たちから内情を聞いている身としては報道されていることはデタラメに近い。
今更、テレビというメディアの是非など考える意味もないのです。いまや、テレビ、新聞の地位は、日本以外の国では非常な勢いで凋落の一途を辿っており、アメリカでは「テレビが生き残るとしたらニュースかスポーツしかない」と言われますがそれも、ネットの専門チャンネルに奪われるだろうと思います。
その昔、マスコミは権力の監視装置だと言われていました。そのような理想など、もう望むべくもないのが現実ですが、それでも、まだまだ、「テレビ」を信じている比率の高い日本人だからテレビそのものの延命策はあると考えます。ただそのためには、最低の条件として
●「事実」を正直に、正確に伝えること。
●国、あるいはそれ以上の権力におもねるならメディアの存在意義はないことを知ること。
●一般市民が持つ知識量を過小評価しないこと
●意見が対立する専門家を公平に入れること…。
そんなことを考えながら温泉に入っていたので全然疲れが取れません。
ちょうど1年前の記事。
〜王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり
1年前この日の思い出を見る船木 威徳2020年7月28日 ·【 私たちが「支配される」方法 】
(6/29の投稿に加筆)
「どうかくれぐれも、あなた自身の良心を集団や組織の価値感や理想と取りかえたりしないようにしてください。肩書きが立派で偉そうにしながら、大衆を煽動する人がどんなにすばらしい言葉を使って感動的に演説していてもです。
そんなものとあなたの良心を取りかえたとたん、容易に全体主義への道が開け、その先には
血まみれの戦争が待っているからです」~ヘルマン・ヘッセ(「書簡」1951)
目に見えるやお金、家や身の回りの高級品はもちろん、土地や、ファンド、株もそう、家族、友人も、同僚もそうです。なにひとつ、だれひとり、個々人に当然の権利があって、「所有している」わけなどない。すべては、同じ時間や空間を共にできた貴く、不思議な縁があるだけです。勘違いしてはいけません。この地上にいることを許された、何十年かの間、ギフトとして身の回りに「いただいている」にすぎないのです。
それを当然だと思うから、自分の力で手に入れたのだと考えるから失うことがとんでもなく怖くなるだけ。
つまり執着するから、不安も強くなりますますモノや人を周りに置いておきたくなるのです。
一部の人たちは、「知識」が大事だと言います。脳みそのなかの知識はだれにも奪われないから。どんな不況、恐慌にあっても、ゼロからお金をはじめとする何かを生み出すのは「知識」だから。それも、一理あると思います。
私も「知識」があれば、どんな時代にあっても、なんとかやってゆけると思っていました。
しかし、いまは、知識を軽んじるわけではないけれど、「知識だけでは充分ではない」と思うのです。ひとつのできごとについて、あまりにも多くの情報が容易に、手に入りすぎます。
そして「情報=知識」だと考え、情報を集めれば、これからどうすればいいか、どのように生きてゆけばいいかが見えてくると訴える人も多いように感じます。でも、ほんとうにそうでしょうか?コロナのマスクの要否について、まったく正反対の結論を言う科学論文さえたくさんあります。まったく正反対の考え、情報を、やまほど集めて、そこにどんな知識を見いだしたらいいのでしょう?
いまほど、「自分で考え、自分の考えを柔軟に変えてゆく」ことを求められる時代もなかったのかも知れません。情報、知識などいくら集めても、そこにはなんの安心も得られないのです。自分で考える。考え続ける。
自分の心の深いところで、違和感なく受け入れられるものかどうかを何度も吟味する。
自分で考えても、どこかしっくりこない、
自分の心が受け入れかねる考えなら、他人の意見などいったん置いておき、自分がもっとも落ち着ける考えが残るまで考えるべきだと思います。
結局は、だれがどう言ったところで、その人は、私たちの選択になんの責任もとりません。
炎天下、周りの「みんな」に合わせてマスクをして、熱中症で倒れたところでだれも、責任はとらないし、とれるわけがないのです。
少し前の都知事選では、多くの立候補者の訴えを聴いていて、冷静にその内容を考えるだけで私は、毎日、空恐ろしい気持ちになっていました。どのみち、この世に、純粋な意味で「私のもの」などなにひとつない。愛着は持っても、執着は少ない方がいい。ただ、ひとつだけ、手放したくないもの、私が絶対に手放すべきではないと考えるものこそ自分の『思考』と、それによって作られた『信念』ではないでしょうか。
私は、小さな時から、自分の親をはじめ、多くの大人が言うことに大した意味は感じてこなかったし、暴力をもって脅されても、自分の考えを変えることはしませんでした。子どもの時から、なんとなく感じていたのは、親でさえ、私の人生になんの責任も取れないということ。
「絶対にこれが正しいのだから、こうすべきだ」などと、親はもちろん、教師や上司、友人でも誰か他人に言えるはずがないのは当然なのです。
だから、自分の人生で、おそらく「自分のもの」である、自分の思考や信念を、貯金やただの知識よりも大事にしなくてはならないと思います。社会は、意図されて、私たちに考えることをやめさせ特定の主義や方針を巧妙に受け入れさせようとします。
そのために、バカバカしいくらいに同じパターンで不安、恐怖を利用して、あおり続けるのです。もちろんそこには、絶対に「偶然」などありません。
いま、もっとも露骨に進んでいる操作は私たち、ごく普通の市民を徹底して、「バラバラにする」ことだと思います。人びとをバラバラに「分断」して、少しずつ少しずつ、ひとり一人の頭のなかまで支配してゆくのです。
私は、この問題だらけの世界、欺瞞や搾取、分断と争いに満ちている社会を、それでもすばらしいと感じるし、生まれてきてよかったと日々感じています。
1日でも長く、この地上の生活を楽しんで笑顔で過ごし、去ってゆきたいと思います。
他のだれにとっても、私の人生はほとんどなんの意味もないだろうし、私の人生には、私しか責任は取れない。私が自分で楽しもうが、不安におびえて過ごそうがすべては私次第で、だからこそ人生は面白い。そうは言っても、自分が楽しいだけでは、もったいない。
私がこの世に生まれてきた意味、わずかでもこの世界に価値をもたらし、それによって笑顔になれる人が生まれる喜びも、存分に味わって死にたいと思います。
できれば、生きられるだけ生き延びたいです。だから、私は決めています。
自分が正しいと信じることを 自分の考えを否定されることは一向構わないけれど
(何十年も前から、さんざん否定されてきて、そんな他者の意見など痛くもかゆくもない)
それを「手放すよう強要されても」いっさい従うつもりはありません。
人類の歴史で、いくつかの感染症の大流行がおきそのたびに大騒ぎをしては、結局おさまってゆくことが繰り返されてきました。ウイルスが自然発生したかどうかはともかく、ほとんどの国の対策を見ていて、そこで形成される(させられる)大多数の意見やそれをリードするのに利用されている言説を見ていても、やはり同じことではないでしょうか。
不安、恐怖をあおり、人びとを「バラバラ」にすることを徹底して繰り返している。
なぜ人びとがバラバラになるのでしょう?これは、非常に巧みに仕組まれたことなのでよく知っておかねばならないところなのですが、
●人はそもそも「生き残りたい」という本能があるから
●人には「他人を自分に従わせたい」という強い欲求があるから。なのだと、私は考えています。自分が食べるため、子孫を残すために、相手から力でモノや権利、命を奪っていた時代と違い、現代では、自分のまわりに少しでも多くのモノや人をおいて、少しでも不安を減らし、
恐怖を克服した気持ちになることが「生き残れる」確率を増やす戦略のように勘違いさせられているからなのではないでしょうか。
少しでも強い(ように見える)者、権力者の方針に従うこと、その考えを信じること、さらには同じ行動を取る者同士が集まりそれが社会の多数派だと思い込むことで「自分は生き残れるはずだ」と無意識に感じそう感じることを常に、求めるようになるのです。
だから、考えが異なる者たちが作るグループは対立しやすくなります。
自分が「これが生き残りのための最善の道だ」と考えることの正反対を言われると、徹底して抵抗するのです。なぜなら、相手に負けたら生き残れないかもしれないという不安・恐怖が常についてまわるからです。
「ワクチンを打たないやつのせいでウイルスが世にはびこるのは許せない。全員に接種を義務にすべきだ。」という人たちがいます。今回の新型コロナでも、ワクチンを待ちわびる人たちは相当数いるのだと話していて感じます。
しかし、普通に考えてみてほしいのです。もし「ワクチンが有効で、まったく無害なもの」なら打ちたい人が打てば、自分は感染しなくなるのだから打たない人など無関係どころか、
「ワクチンを打たないなんて、バカなひとね」で終わる話ではないですか。
それこそ、ワクチンを打たなかったがために感染症にかかり、重症になったり死んだりすると
しても、打たなかった本人のせいのはずです。だが実際には、効果が100%のワクチンなどこの世に存在しません。そうすると、たとえ50%の効果であっても「国民全員が打てば、流行は大幅に抑えることができるだろう。それをしない人間が多いから感染の終息が遅れるし、ワクチンを打たない人が感染したことで、ワクチンをせっかく打った人にうつし、その人が死んだら、ワクチンを打たなかった人の責任だ。どうしてくれるのだ。」という意見が必ずや出てくるに決まっています。
一方「ワクチンを打たない派」は、「効果が100%で100%安全なワクチンなどこの世に存在しないし、その副反応で死亡する人さえいるのが事実。インフルエンザワクチンさえ国が責任をとりたくないと、義務接種のあつかいをやめたくらいなのだ。そんな毒を身体に入れて異常が起きたら、ましてや死んでしまったら、それこそ誰が責任を取ってくれるのだ?」となります。科学的な事実として、このとてつもなく低い重症化率、死亡率で、ワクチンを作る意義はまったくないはずで「接種を義務化する」など、誰に言わされているか、誰が儲けを山分けするのかというレベルの話に過ぎないと私は思うのですが。
(製薬メーカーが資金を投じて、ワクチンを作るのは好きにすればいいのだけれど、実際に感染者の致死率が10%くらいになれば後遺障害を絶対におこさない、一時的な副反応だけなら
「ほぼ安全で、変な混ぜものをしていないなどの事実を完全に公表し、それをしない企業を
徹底して裁いてくれる、つまりは、一部の者たちがケチな金儲けの具にしないで、政府が国民を徹底して守ってくれる」という条件がクリアされるならだまっていても、ワクチンを受ける人は出てくるだろう、というのが私の意見です。)
なぜなら、みんな「生き残りたい」からです。
それでも、そこまでされたとしてもどのみち、意見の対立するグループは残るでしょう。
なぜなら、先に述べたように、人には「他人を自分に従わせたい」という強い欲求があるので、どこまでいっても、相手の意見をなんとか論破し、こちら側の方針に従わせようとし続けるでしょう。終わりのない、こっけいな「闘い」です。
だから、私たち、普通の市民は、負けてしまうのです。
ひとつの国や、ひとつのコミュニティのなかに意見の対立などあるのが当たり前だし、活発に意見をしあえることが、本来の好ましい人びとの姿ではないのでしょうか。
そして、感情ではなく、事実に基づいた公平な判断で、誤っていたら学ぶ、分からないことは、互いに究明する努力をする。どちらが正しい、勝ち負けなどと子どものようなけんかをしている場合ではないし、人や企業がみっともない私利私欲で動いている場合ではない。
だからこそ、人の集団がひとつになれて、進歩もするわけだし、なにより、「全体の生き残りの確率が上がる」はずなのです。
私たちを都合よく、コントロールし、思いのままに働かせ、富を奪い、あげくに、命の選択までするという「支配者」たちがいるとするなら、こうしたさまざまなできごとを、冷静に考える時間や場を奪うために人と人とのつながりを分断し、分派させ、好きにさせてしまいかねないのです。
そうされないために、私たちは、数では圧倒的な多数なわけですから「●人はそもそも『生き残りたい』という本能がある。
●人には『他人を自分に従わせたい』という強い欲求がある。」という、私たちの、ときに弱点となり、利用されかねない、自分たちのありかたをよくわきまえて、本当の敵に対しては、ひとりひとりの『思考』と、それによって作られた『信念』を互いに尊重した集団として向かうべき時がきていると私は信じているのです。
あらためて繰り返しますが私は、自分が正しいと信じることをそれを「手放すよう強要されても」いっさい従うつもりはありません。
それがいわゆる抗いようのない権力であり信念を変えるよう強いられても従いません。たとえ、そのために自分の命が奪われても。もちろん、私も長く生き延びたいです。この世界に生まれることのできた幸せをもっと味わって過ぎ去っていきたいと思います。
それでも、こんなことを改めて考えなくてはならない「そんな」世の中になってゆく不気味さを日々感じています。が、しかし、私はただ誰かに命じられるがままに、家に籠もって、
自分だけ安全な場所、安心できる空間にとどまることには、なんの価値も感じません。
社会がどんなになっても、人は、自分で考え、信じたとおりに「行動してこそ」、人であり続けられるのだと私は信じています。
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「行動せずにいると疑念や恐怖が生まれる。行動すれば自信と勇気が生まれる。恐怖を克服したいなら、家でじっと考えるだけではいけない。外へ出て忙しく過ごさなくてはならない。」
~デール・カーネギー(1888-1955アメリカの教師、自己啓発、対人スキルに関する各種コースの開発者)
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~王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり