戦前関東の男声合唱連盟
(1). 戦前の東京六大学合唱連盟
前記事では,昭和初期に関西学生合唱連盟が活動し,それが関西合唱界のレベルを統制した,という長井の見解を紹介した。ではそのころ関東(東京)の状況はどうだったのか?
東京の男声合唱連盟といえば,思い浮かぶのは東京六大学合唱連盟。その定期演奏会は,東西四大学のそれと並ぶ男声合唱界のビッグイベントで,関西在住の私は残念ながらライブで聴いたことないけど,選曲に各団の個性が現れた聴きごたえ抜群の演奏会。昔はうっかり東京六大学「男声」合唱連盟などと口を滑らせると,叱られたものだ。日本サッカー連盟はJapan Football Associationだけど,英国サッカー協会はFootball Associationと言うようなものか。
昭和26年(1951年)から準備され,翌年に第1回の演奏会を開催,2018年の演奏会は67回目となる。実は(東京)六大学合唱連盟が戦前にも結成されたことは,wikiに簡単に紹介されているけど,あまり知られていない。ここでは音樂倶楽部昭和11年4月号所収の小野幸「大学の合唱団」を中心に,当時の記事や山口隆俊氏のメモを参考にまとめる。小野がどんな人か分からないが,当時の大学合唱団の練習や新勧風景を述べており,内部事情に詳しい人のようだ。
小野によれば,六大学合唱連盟については昭和5年(1930年)頃から話されていた。関西大学合唱連盟の第1回演奏会があった年で,これが刺激になったのだろうか。昭和6年ごろから早立帝明法慶(小野の記載順)で六大学合唱連盟を作る動きが表面化してきた。「帝」は東京帝大だから,構成メンバーは現在と同じ。法政大学アリオンコールのホームページにある「法政大学アリオンコール70年史」には,「昭和7年(1932年)6月24日 法政大学新聞 第24号」の記事写真があり*,小さくてはっきりとは読めないけど,「6月16日に,法政・慶応・明大・立教・帝大・早大が連盟を作り秋に定期合唱会を開催する」と報じている。
* http://arionchor.com/history/cn42/pg780.html
このとおり進めば昭和7年の秋に演奏会となっていたはずだが,そうはならず,今度は昭和7年12月26日に六大学合唱連盟が成立されることが,新聞報道された。今で言うプレスリリースである。メンバーは「早大声楽部,立大グリークラブ,明大合唱団*,法大声楽部,慶応ワグネル,帝大音楽部」と変わらない。トップは文部大臣(鳩山一郎か?)という意気込みである。
* 明大合唱団はこのとき混声合唱団になっていたが,直前まで男声合唱団だった。もともと「混声合唱団を作るために立ち上げた男声合唱団」だったので,混声になる前提で話が進んでいたのだろうか。時代が違うが,戦後の関西六大学男声合唱連盟では参加していた京都大学男声合唱団が途中から混声での参加を要請,反対され脱退したのとは対照的だ(同団は京大合唱団の男声部でもあった)。
設立の発表会は昭和8年(1923年)1月28日午後1時から日比谷公会堂で開き,引き続き第1回演奏会を行うことになった(同時に行うか,別にするかは議論があった)。6校による合同演奏曲目は「神の栄光(ベートーベン),皇帝(本邦初演),荒城の月,ふるさと(オナルティン),ハイデンレースライン(ウェーバー),懐かしのワイオミング(大中寅二)」そして「本邦初演のJean Louis NicodéのDas ist das Meer」だった。その他,早立,帝慶,明法の2校合同演奏がある,とされている。
合同演奏は全て原語で歌われる予定で,指揮は上野(東京音楽学校)の澤崎先生(声楽科主任教授だった澤崎定之(1889-1949)と思われる ),練習場は明大地下室合唱団練習場および帝大音楽部練習場であった。
合同演奏曲について,「神の栄光」または「自然における神の栄光」はDie Ehre Gottes aus der Natur,元はピアノ伴奏つき歌曲(op.48-4)のようだが,男声・混声でよく歌われ,女声3部の楽譜もある。「皇帝」は,小野によればMax BruchのDem Kaiser,つまりDas Lied vom deutschen Kaiser (op. 37)と思われる。
次の4曲を収めたガリ版刷り男声合唱曲集があり,この演奏会用につくられたものだろう。「荒城の月」は,徳山璉編曲の単声三部合唱。「ふるさと」オナルティン曲はグリークラブアルバムにも「オナーティン曲,オリオンコール編曲,作詩者不詳」として収録されているが原曲不明*。原曲・原詩不明だが,原語で歌われたのか? 「ハイデンレースライン」はウェルナーの「野ばら」,「懐かしのワイオミング」大中寅二編はSomewhere in old Wyoming。大中寅二(1896-1982)は同志社大学卒業の作曲家・オルガニストで,大中恩のお父さん。このころ,「アニイ・ローリー」や「アロハ・オエ」など世界の民謡を男声合唱編曲していた。
* 複数の楽譜によると作曲者はOnartinでロシア的な名前に聞こえる。このころ男声合唱で「ふるさと スゥエーデン民謡」を歌った記録はあるが,作曲者のクレジットがなく同じ曲か分からない。果たして?
ジャン・ルイ・ニコデ(Jean Louis Nicodé,1853-1919)はドイツの作曲家で,Das ist das Meerは交響曲「海」作品op.31の第2部。この曲はオーケストラ,オルガン,ソロ,男声合唱を用いた7部から成る大曲で,その第2部「Das ist das Meer (これが海だ)」が無伴奏男声合唱曲である。
今から見てもなかなか野心的な合同合唱であるけれど,残念ながら予定の1月には開催されなかった。小野によれば「練習は初めの中は各校ともに可成よく集まっていたが,何としても発表会が一月末日では試験に関係するからと云い出す人々が多数に出て来た」ためで,連盟設立に奔走した4年生は卒業までに開きたいと考えたが,結局,4月以降の一学期まで延期した。しかし,それもまた延期になり,結局,六大学合唱連盟の演奏会は開かれることがなかった。残念なことに本邦初演の予定だった「皇帝」も「これが海だ」も,その後演奏された記録は見当たらない。
昭和8年(1923年)そうそう,関東男声合唱連盟が設立され,六大学のメンバーも加入した。その第1回演奏会として昭和8年6月21日に「日独交歓合唱演奏会」が開かれ,六大学合唱連盟の有志が参加し,定期演奏会に代えることでなんとか面目を保った。
ということで,次回は関東男声合唱連盟について述べるが,この連盟はそもそも「日独交歓合唱演奏会」のために成立されたもので,その後は目立った活動はなかった。
なお,小野幸は,この記事の中で六大学の合唱団につき簡単に紹介している。面白いので,そのまま紹介する。パルメンメンネルコールという名は,戦前よくでてくるのだけど,東京帝大の男声合唱団だったらしい。今ではコールアカデミーしかないと思うが,どこかの混声合唱団になったのだろうか?
(2). 関東男声合唱連盟
戦前結成された東京六大学合唱連盟は,結局一度の定期演奏会を持つことなく,関東男声合唱連盟に「吸収」されたことを述べた。この関東男声合唱連盟については,今まで何度となく言及してきた山口隆俊についてまず説明しておく必要がある。以下,「同志社グリークラブ30年史・50年史」「男声合唱団 東京リーダーターフエル1925 55年史 (以後「55年史」とする)」などを元にまとめる。
山口が出版した「男性の歌」The Songs of the Male (大正15年)
山口隆俊は,明治32年(1899年)11月13日大阪市道修町に生まれ,同志社中学に入学後ジュニアー・グリークラブを創立。同志社大学でグリークラブに入部,大正10年(1921年)~12年は指揮者を務めた。大正14年(1924年)に卒業,日本人による最初期の男声合唱曲集「男性の歌」を共益商社から出版。大正14年(1925年)に東京リーダー・ターフェル・フェラインを創立,初代指揮者に就任。以後多数の合唱曲を日本語訳し初演した。また,当時の音楽雑誌に主としてドイツ合唱に関する多数の合唱論文を発表した。「MännerchorやMale chorusは男声合唱ではなく,男性合唱と訳すべき」が持論。
山口は創立した合唱団の名で分かるようにドイツ音樂とリーダーターフェル運動に「傾倒」した人だが,きっかけは同志社グリークラブで感じた課題にある。
「此頃からグリーの進路が難しくなった。今迄は何を歌っても聴衆は喜んで呉れたが,もう飽きが来て喜ばなくなったので選曲に苦心を感じた。初代の人々の味わなかった苦心である。此を打開する為,ドイツ合唱曲を研究し始め,直接外国から楽譜を取寄せることに努力した。しかし,当時の一般人は未だドイツの高尚的合唱曲には無知であり,アメリカ合唱曲のみを愛唱していた」
確かに当時の演奏曲目をみると「Laugh, Boys, Laugh」「The Cooper's song」「Call John」「Uncle Sam's Party」など英語圏の歌が多く,「男性の歌」に収録されている曲もある。
大正11年(1922年)の夏,山口達5名は約2ヶ月の渤海黄海一周演奏旅行を行い,一人あたり200円の分配金をもらった(別にグリーに300円を基金として持ち帰った)。現在の貨幣で約15万円であり,山口は「音樂のものは音樂へ」と考え「英国版グローブ辞典」5冊を買い,この辞典を探索することでメンデルスゾーンの男声名作のコレクションを得た。山口は「更らに後の東京リーダーターフェルの誕生ともなり,独逸男声合唱界への開眼となった」と述べている。研究の成果か,大正11年(1922年)11月28日の同志社イブにてグリークラブ35名はメンデルスゾーンの「Festgesang an die Künstler (芸術の使徒へ捧げる祝祭歌)」op.68を本邦初演した。
創立直後から活発に演奏活動をした東京リーダー・ターフェル・フェラインは*,昭和2年(1927年)から昭和4年にかけ3回の「男性合唱の夕べ」,今で言う定期演奏会を開催,山口はそのプログラムをニュールンベルグのマイスタージンガー教会内にあるドイツ合唱者博物館に送った。
「これが当時の館長で後にドイツ合唱連盟の事務総長になった,ブルノー・ブロンカの注意をひき,日本合唱運動について書くことをたびたびすすめてきたので,日本合唱史をかいて送った。ブロンカは1931年2月に連盟週報にそれを発表,ドイツ対外文化協会からは君たちのレコードを送れ,放送をする,と申込みを受けた」(合唱界 vol.2(1958) no.6)
当時のNHKは全て生放送だったため,堀内敬三の助言で放送協会に装置設置の意見を申し述べたが間に合わない。
「一方この申込みに応じるのはターフェルだけであってはならないと,当時都内にあった12の男声合唱団の参加を求め,関東男声合唱連盟ができてその実現にあたった」。
これが関東男声合唱連盟設立の目的であり,一言で言えば山口が日本の男声合唱を録音しドイツに送るために創立した。個人的な情熱と合唱界に掛ける思いのために生み出したもので,会員相互の親睦だとか合唱祭的な演奏会を開くこと等は主目的ではなかった。
* 東京リーダー・ターフェル・フェライン(以後「東京リーダー・ターフェル」)創立の話は昔の合唱雑誌の秋山日出夫の記事や「55年史」に詳しい。少し補足すると,大正14年4月4日に開かれた同志社グリークラブの東京公演(東北演奏旅行の一環)のとき,山口が曲目解説したことが発足のきっかけとなった。山口がクリスチャンだったため,当初は讃美歌(グノーの「栄光」旧賛美歌439番)や,「男性の歌」などを7名で歌っていた。昭和元年,山口が指導していた「慶應義塾ガブリエル合唱団」が「学生に熱なきため退き,熱心なる学生2-3名を誘い」人数を増やした。当初は特に名前はなかったようで,「東京リーダー・ターフェル・フェライン」を名乗ったのは昭和2年の「合唱大音楽祭」に出場する際から(東京はドイツ語表記のTokio)。エルベ博士著「民族文化として見た男性合唱発達史」やユリアス・バウス著「ドイツ男声合唱史」等を研究の末名付けた。日本語では「東京歌机協会」。戦争中横文字が使えなかった時は「卓聲会」としていた。
以後,山口が残した資料を元に関東男声合唱連盟及びその成果(目的)である日独交歓合唱演奏会,そしてドイツに送った録音について述べる。資料はコピー不可だったため,閲覧し抜き書きしたものによる(資料に個人情報が含まれたためで,公開不可という意味ではない)。間違いがあれば私の責任。
東京リーダー・ターフェルの他に,オリオン・コールなど一般男声合唱団,そして東京六大学のメンバーなどを中心に15団体がメンバーとなっている。先に山口が「12の男声合唱団の参加を求め」とあるものより多い。細かくいうと,明治大学合唱団や東京労輔合唱団*は混声合唱団でもあったからかもしれない。東京大学の参加団体は音楽部ではなく,パルメン・メンネルコールになっている。
* 東京労輔合唱団は正式には東京市労務者輔導学友会合唱団。戦前,労務者輔導学級として文部省は労務者に対する成人教育を行い,おそらくそのサークル活動。山口はこの合唱団の指揮者でもあった。昭和7年の男性メンバーは「トップ13名,セカンド15名,バリトン16名,ベース11名」と当時としては多い。活動には東京市教育課から年間30円の補助があった。
これらのメンバーにより音楽会を開催し,その曲目をレコード(SP)に吹込みドイツに送るべく活動していく。戦前の男声合唱演奏会として大きな催しだったこの日独交歓合唱演奏会,開催に至るまでの過程やチケット販売状況から収支まで,かなり詳しいことがわかった。ほかにあまり例がないことと思うので,詳しく紹介する。
月報に記された活動で注目したいのは,新作邦人男声合唱曲を公募したこと。「4分内外のもの」を昭和8年(1933年)3月15日締切,結果を4月1日に「月刊楽譜」などで発表する,としていた。結果,十数件応募があったが,佳作がなかった。山口は「男声合唱を知らない作曲家の曲である」と評している。当時は合唱団の方でも男声の曲が少なく「合唱になっていさえすれば(混声の譜面でも)なんでも歌う」風潮だったから,お互いに男声合唱曲に関する理解が少なかったのだろうか。ドイツから譜面を取り寄せ研究していた山口にしたら,残念な結果だった。
結局,邦人曲は橋本國彦と宮原禎次に委嘱することになった。言い換えると,この二人は「男声合唱を知っている作曲家」となるはずだが,昭和5年の山田耕筰編「日本合唱曲集 (世界音楽全集9)」を参照すると,橋本には男声三部のカノン「ビール樽」があるものの(グリークラブアルバム3にも収録),宮原には混声四部または女学校用教材として作られた同声三部の曲しかない。橋本も宮原も30代前半,実績ある本居長世や藤井清水ではなく若手を抜擢したということだろうか。
曲目は後に詳述するが,日独交歓合唱演奏会の構成は,関東男声合唱連盟の合同曲と,3団体による単独演奏からなる。3団体はオリオンコール,東京リーダーターフェルフェライン,ポリヒムニア・コールだったが,「競演合唱祭で優秀な成績である」等を理由に国民音楽協会の小松耕輔が手紙で推薦している(昭和8年3月12日付)。連盟内で話し合うより,権威ある外部機関からの推薦のほうがまとまりやすいと考えたのだろうか(おそらく事前打ち合わせしたはず)。
「競演合唱祭で優秀」が本当か検証してみる(次表)。コンクールだけが全てではないとはいえ,実力的にはオリオン・コールがトップで,小松清(小松耕輔の兄)が指揮するポリヒムニア・コールが急成長中。
かくして昭和8年(1923年)6月21日,日比谷公会堂にて日独交歓合唱演奏会が開催された。プログラムは,筆写したものを「男声合唱団 東京リーダーターフェル1925 55年史」掲載の写真を参照し,原型に近い形にした。
演奏曲目について,ベートーベンの「神の栄光」は明本京静訳。明本京静(1905-1972)は作詞家・作曲家でこの他にFrie Kunstの訳がある。ポリヒムニア・コールを指揮したこともある。
ツェルターの2曲は,前年昭和7年 (1932年)は1832年に亡くなったカール・フリードリヒ・ツェルター(Carl Friedrich Zelter)の百周年にあたることから,同年11月26日(土)に「Zelter百年祭」を開くに当たり山口が訳したもの*。原曲は「うるさき人々」が「Frühlings Musikanten (春の音楽家)」,「藪井竹庵國手でござる」は「Sanct Paulus war ein Medicus (聖パウロは医者だった)」。一曲目は忠実に訳されているが,二曲目は「聖パウロという医者が胃病を治すには酒だという手紙を書いた」という原詩が分かりにくいので,山口が「日本風に」作詞した。国手は医者の尊敬語または名医を意味する。以上3曲はドイツの曲だが,全て訳詞で演奏された。この点については後に考える。
百年祭の楽譜には「全國男聲合唱聯盟」と記されており,当初は全国的な連盟活動にする案があったのかもしれない。当時の交通や通信状況を考えると短期間でまとめるのは難しく,関東に絞ったのは正解だろう。なお,この演奏会は「55年史」に出てこず,団内演奏会か有志の集まりだったのかもしれない(正直,今でもZelterはよほどの男声合唱好きにしか知られていない)。
合同演奏は,山口は「三百五十人に近い男声合唱」とするが,当時の新聞写真をみると200名程度,連盟登録メンバーを単純に足すと276名。写真に全員は写っていないことを考えると,250名程度だったのだろう。
* ちなみにシューベルトが亡くなったのは1828年,昭和3年(1928年)-4年が「シューベルト没後百年」に相当する。
休憩を挟んで単独団体演奏。ドイツの曲と日本の曲を1曲づつ演奏するが,日本の曲は全て新作となった。
まずオリオン・コールから。この団体は吉田永靖を団長とするが,定まった指揮者は置かなかった(1934年5月17日のラジオ放送時の解説)。そのため,シューベルトの「我が里(Dar Dörfchen, op11-no.1)」は山口が翻訳・指揮し,橋本の曲は作曲者が指揮した。
橋本国彦の「男声合唱とピアノへの小協奏曲」は放送されたとき(後述)の新聞解説によれば,「この作品は男声合唱を一つの楽器と見て,ピアノと組合せて小協奏曲形式につくられたもので,三楽章から成っているが今日は第二楽章から演奏する。合唱を楽器として取扱ったのであるから,歌詞はない,普通の楽器味えない音響効果を上げている」とある。ピアノは合唱曲では伴奏と位置づけられることが多いが,この時点でピアノと合唱を対等に(というより,むしろピアノが主に)扱った構想,それを反映するタイトル,ヴォカリーズと言い, 大変モダンな曲らしいが,楽譜が出版されたのか,またオリオン・コールによる全曲の演奏があったのかも分からない(増田研「戦前の男声合唱団・オリオンコール」には,日独交歓演奏会の記録しかない)。なんとか再現してみたい曲の一つである。
東京リーダーターフェルは,山口の指揮でヘーガーの「幻を追いて (注: Schlafwandel, op.18)」と,山口が作詩し藤井清水に作曲委嘱した「海」を演奏した。
Schlafwandelはヘーガーがチューリッヒ男性合唱協会に送ったもので,信時潔は昭和4年に出したステファン・クレール「楽式論」で「夢遊」と訳し紹介した。東京リーダーターフェルは昭和5年(1930年)5月18日に「夢遊」としてこの曲を本邦初演したが,山口は「『幻を追いて (砂漠の行進)』と訳すべきでは」とし,昭和5年11月6日の第2回「男性合唱の夕べ」では「幻を追いて」と変更した。
詩を送った山口の手紙を読むとヘーガーを強く意識している。「バラード『海』連歌の形式にて」と記し,「ヘーガーの作曲『死せる民(注: Todtenvolk,op.17)』北欧の八甲田山の如き軍隊の雪中死の歌『 幻を追いて 』の形式をまねて短歌の形式でかいて見ました」「海は人生を,船は人間の心です」としている。手紙から,小松清や明本京静も藤井とコンタクトしていたことが分かる。また,「演奏会も六月に延びましたる故」と当初はもう少し早くに予定されていたらしい。
この曲に限らず,山口は印刷の後も歌詞を見直し修正するようで,「海」についてはほぼ全て修正された楽譜が残っている。練習中に修正したのか,練習後に修正したのかははっきりしないが,この曲は昭和9年(1934年)の日本作曲年鑑や昭和32年(1957年)の「秋山日出夫男声合唱曲集1」に収録されており*,それらではオリジナルの歌詞であるため,恐らく後に修正されたのであろう。
* 秋山の曲集は6まであり,東京リーダーターフェルのレパートリーを中心に戦前の曲を多数収録しているので参考になる。合同曲の「うるさき人々」「藪井竹庵國手でござる」「新暁」も収録されている。ただ解説がなく,伴奏ある場合はカットされているのが難。秋山は歌い手だったので,伴奏付き楽譜を所有していなかったためだろう。
単独演奏最後は,ポリヒムニア・コールが小松清の指揮でシューベルト「夜の合唱森にて」と宮原の新作「槍持ち」を歌った。シューベルトの作品は「夜の合唱 (森にて)」,つまり「Nachtgesang im Walde,op.139」のことで,これも山口訳。ホルン伴奏付きの男声合唱曲だが,東京リーダーターフェルの昭和4年(1929年)の第1回「男声合唱の夕べ」で演奏したのが,おそらく本邦初演(ただしピアノ伴奏)。ホルン伴奏ではこれが初演かもしれない。津川主一が昭和37年(1962年)に出版した「シューベルト男性合唱曲集」(音楽之友社)でこの曲を「森の夜の歌」と訳し,「いまだ嘗て演奏されたことはない」としているのはしたがって誤り。
宮原の「槍持ち」については情報がない。1965年に音楽之友社から出た「宮原禎次合唱曲集」も女声合唱のみ収録されている。
再び合同で外山国彦指揮で宮城道雄「新暁」とワグナーの「巡礼の合唱」。「新暁」は島崎藤村の詩に宮城が曲をつけたもので,編曲は山口が行ったらしい。演奏会の時は,写真から読むと,6-7名の琴が伴奏した。後日ドイツに送るためビクターで録音した際は,宮城と牧瀬喜代子の2名が担当した。ドイツではこの曲が一番評判良かったらしい。このレコードは市販されたらしく,国会図書館の「歴史的音源」で聴くことができる。演奏者は「日本男声合唱連盟」になっている。
演奏会の締めくくりは国歌合唱となっているが,これは現在のような斉唱ではなく,本当に合唱だっただろう。明治32年に「祝日大祭日 唱歌重音譜」が共益商社書店から出版され,東京音楽学校編の「君が代」公式合唱譜が存在した。これは混声を想定されているが,その後,国民音楽協会や共益商社書店から出版された「国民男声合唱曲集」「日本男声合唱曲集」には男声合唱譜が掲載されている。
さて,この演奏会ではドイツの曲も全て日本語で歌われた。「戦前の東京六大学合唱連盟」の小野のコメントのような資料によれば,原語歌唱は大学や旧制高等学校でそれなりに行われていた。ドイツに録音を送るのに,なぜドイツ語歌唱にしなかったのだろう?
下手なドイツ語もどきで歌うのはよろしくない,という考えたのかもしれない。現在では外国語の歌は外国語歌唱が当然だけど,正直言って,意味の理解もあやふやで原語の発音等やフレーズのニュアンスも表現できないカタカナ原語歌唱に,どれぐらい意味があるのか疑問あるのは確か。もちろん,欧州語の強弱アクセントと日本語の高低アクセントは異なるわけだけど,訳詞が充分練られているなら,それで歌うのも一案に思える。山口が一度作り上げた訳詞を見直しているのは,そういう意味があったのではと思う。東京リーダーターフェルでも山口は全て訳詞で日本語で歌わせていた。
この演奏会がどれぐらいの規模で行われたのか,入場券や収支に関する報告が残っているので下表にまとめた。戦前の合唱演奏会に関する貴重なデータである。収支報告は秋山秀雄(後に日出夫と改名)。
まず入場者について。出場団体,ドイツ大使館や文化協会,プレイガイドや楽器店(楽譜店)に割り振っている。当時,既にプレイガイドと呼ばれていたことは初めて知った。個人名の丸山鶴吉は政治家だが,どういうつながりで協力しているのか分からなかった。
チケットは2円,1円,50銭の3種類あり,当時の物価で1円は現在の1500円程度らしいので(米価換算),S席3000円,A席1000円,B席750円は現代の感覚とさほど違わない。
実売は(「御援助」という言い方が面白い)合計743枚,50銭席が圧倒的。会場の日比谷公会堂は「4階建ての建物。座席数は1階1,052席,2〜4階1,022席,車椅子対応席11席の計2,085席」らしい。人数的には1階席で十分収容できるがどんな運営だったのか。
収支では,会場使用料が高く,以後楽譜の印刷代,伴奏者への謝礼と続く。印刷は「齋藤楽譜謄写印刷所」で作成された。合唱祭の課題曲もここで印刷されており,当時の有名な楽譜印刷所だったらしい。目につくところでは,入場証(チケット)を約8000枚と収容能力の4倍刷っている。消防法が厳格な現在では考えられないが,40年ほど前はホールの定員以上の枚数を発行することはよく行われていた。全員は来ないので,その分が収益になるという,ちょっと浅ましいが合唱団運営には切実な考え方である。
収支がともに500円程度,現在の価格で75万円程度の演奏会となるが,これは当時の合唱演奏会としてどんなものなのか。東京リーダーターフェルの第1回~第3回の同様のデータ*があったので,それと比べてみる。第1回と第3回の入場者は470名程度(第2回は290名)なので,確かに日独の740名は規模が大きいといえる。
* 東京リーダーターフェルの演奏会場である東京YMCA会館(女子青年会館)は昭和4年の落成なので,最新のホールで演奏会を開いている。「下足番」への小使(チップ?)があることから,靴や下駄を脱いではいる形だったらしい。
収支を見ると,第2回は「不入り」だったので,第3回は恐らく小さいホールを借り,入場料を80銭から50銭に値下げし集客アップを図っているようだ。「撒きプロ(グラム)」は今で言うチラシにあたり,演奏曲目が全て書かれている。当日用プロもあるが,面白いのは「曲目解説」は別刷りで,部数が違うので必要な人だけ持っていく形だったのかもしれない。「55年史」には第1回の「曲目解説」が収録されており,山口による懇切丁寧な解説が読める。
第2回の「徳山氏謝礼」は,「合唱指導 山口隆俊」とならんで「声楽指導 徳山璉」とされている徳山璉(たまき)のことで戦前のバリトン歌手だが,この書き方からすると今で言うボイストレーナーにあたりそう。戦前にボイストレーナーを置くことが一般的だったのかははっきりしない。昭和20年台に声楽家の楠瀬一途氏が関西学院グリークラブや前田幸市郎氏が指揮する合唱団でトレーニングを始めたのが嚆矢とされている(と,楠瀬氏が自著に記している)。