vol.83「井伊直弼」vs 「徳川斉昭」について
井伊直弼と聞けば「安政の大獄」で、吉田松陰らを粛正しまくった悪いイメージがありますが、調べてみれば、そこまで悪い人ではないとすぐ分かります。たぶん「大獄」って言葉が強烈すぎるのと「桜田門外ノ変」で殺されたことからも、暗殺されるほどの恨みを買ってた悪い奴、という風な印象になってしまったのでしょう。
これまでも、5th綱吉や、田沼意次なども、犬公方だの賄賂だのといった悪印象ワードとセットにされたことで、永く誤解されてきた人物は多々おりまして。近年の研究によって見直されて来ていたりもしますが、まだまだ世間から汚名払拭しきれていないようで、困ったものです。まあ、本人は死んでるから気にならないでしょうけども。
反対に、本当は悪い奴なのに過大評価された者や、神格化された輩もいるのでしょう。本当の歴史を知るって、難しいものなのですね。その点、徳川斉昭に関しては、調べれば調べるほど悪いとこしか出てこなくて、どんどん嫌いになること請け合いなので、現時点でこやつはもう紛れもなくヴィラン確定です。
ゆえに、井伊直弼サマ推しの目線でこのバトルを解説させていただくことを、ご了承ください。後に、さらによく調べて、バカ斉昭にはバカ斉昭なりの信念などがあり、私に誤解があったとなった場合は、また別記事にて訂正とお詫びをしますが、たぶんそんな日は来ないでしょう。
⚫︎ そもそも誰が悪いのかってーと
バカ斉昭というモンスターに内部を掻き乱されなければ、徳川幕府は助かったかもしれない、と何度も書いてきた。これは私の見解ではなく、多数の有識者さんらのご意見を転載したまでのこと。(バカとは書いてなかったですが)
つまりは、こいつを黙らせられなかった前任の堀田正睦が悪い。バカ斉昭の攘夷運動なんぞビシッと跳ね除けて無視しとけば良かったのだ。
けれども、それを言うならバカ斉昭を隠居から解き放った阿部正弘も悪い。むしろバカ斉昭に意見を仰いで復活させたから、こうなってしまったのではないか。阿部ッチの優遇が、バカ斉昭を図に乗らせたのは間違いない。
でも、そんな事態にしたのは12th家慶が大事な時に死んだせいだ。家慶のとっつぁんがしっかりしてれば、そして子供らが早生しなければ、バカ斉昭の出る幕は無かったのだ。てことは、お世継ぎ候補を若くして死なせまくった大奥にも責任があると言えばある。白粉を塗りたくってたせいじゃろが。
しかし、その前に水野忠邦がもっとしっかり改革をやっとりゃ、また状況は違っていた。あいつが急ピッチ過ぎたのも悪い。いや、それを言うなら11th家斉の時代が長過ぎて、ダレまくったのが悪いのだ。だから大塩平八郎さんも堪忍ならずキレたのではないか。
そして、ビッグダディ家斉が、バカ斉昭の水戸藩主就任を防げなかったのが元凶でもある。あの時に何とかしてれば、バカ斉昭に幕府をグチャグチャにされずに済んだ。てことは、やはり家斉が悪いのだ。あのオットセイ将軍め。
いや、待てよ。ビッグダディ家斉はただの駒であり、真の黒幕はグランパ治済だ。そもそも治済劇場のせいで田沼意次が失脚したのだから。田沼オッキーの時に、100年早く開国へ向けて準備を始めてりゃ、歴史は大きく変わっていた。ならば、諸悪の根源はグランパ治済と言えよう。
されども、そんなグランパ治済を産んだのは、8th吉宗であり、吉宗が将軍になったのは7th家継がすぐ死んだからだ。てことは、罠にハマって7th家継政権をひっくり返された絵島が悪いのか。それとも、6th家宣を殺したインフルエンザが悪いのか。
だが、その前に5th綱吉が自分の子供に後を継がせようと長々居座ってたのも良ろしくないし、4th家綱が徳川直系の子を残せなかったのも悪い。5thは保科正之にしときゃ良かったんだ。出自は悪くとも、血は家康の孫なんだから。
だいたい、家康から始まる3代が、諸藩からちゃんと年貢なり税なり徴収する仕組みを作らなかった初期設定ミスが痛い。つまるところ、結局もう家康が悪い。なんなら徳川が豊臣を討ったのが悪かったのかもしれん。ああもう分からん!
そんなミスや運命の悪戯が連鎖して、すべてのツケが井伊直弼サマの肩に重くのしかかっている。目の前には開国を迫る諸外国、背後には攘夷、攘夷とうるさい身内ども。どうする直弼サマ?
⚫︎ 急転直下の決着劇「不時登城事件」
安政5年(1858年)4/23、井伊直弼が大老に就任。すると、直弼サマは天皇の許し(勅許)無きまま6/19に日米修好通商条約の調印を強行。6/20には一橋派に理解を示す老中、堀田正睦と松平忠固を罷免し、代わりに幕権擁護派を新老中に据えて体制を固める。そして世継ぎ問題も13th家定ボーから「紀州の慶福(家茂)にするで」と6/25に発表させることをまとめる。なんて仕事の早い直弼サマ。
6/24朝、万策尽きた一橋派の福井藩主「松平春嶽」は、彦根藩邸を訪れて登城前の直弼サマに違勅調印を詰問し、さらに将軍継嗣の発表を延期するよう要求した。直弼サマは自身の袂をつかんで引き止めようとする春嶽を振り切り、江戸城に登城した。
この後、春嶽は後を追うように江戸城に登城。さらに、怒り狂ったバカ斉昭が、尾張藩主、水戸藩主を引き連れ共に江戸城へ押しかけ、直弼サマや老中を面詰して、違勅調印や将軍継嗣問題についての責任を追求した。まさに絵に描いたようなクレーマーっぷりである。
しかし、直弼サマらの老獪な応対の前に何の成果も得られず、かえって定日以外の日に突如登城し、大老や老中を面詰して江戸城内を騒がせた不始末を問われる結果を招いた。いわゆる「不時登城事件」である。
さらに、将軍が決めた後継ぎに堂々と文句を言ったのは、もはや謀反と受け取られても仕方がない。なんの戦略もなしに、ただ押しかけてギャーギャー言うだけのバカ斉昭に、共に引き連れられた面々も「あ、終わった」と悟ったことだろう。
翌6/25、直弼サマは一橋派の機先を制して、紀伊慶福(家茂)の将軍継嗣決定を発表。また、「不時登城をして御政道を乱した罪は重い」と、不時登城を強行した松平春嶽に隠居・急度慎という厳しい処断を下したほか、バカ斉昭に謹慎、尾張藩主に隠居、水戸藩主に当分の間登城禁止を申し渡した。
(松平春嶽 隠居 / 徳川斉昭 謹慎→隠居)
これに端を発して、直弼サマが反対派の公卿・大名から尊攘派の志士に至るまで、100余名に対して大弾圧を加えたのが「安政の大獄」である。かくして、南紀派 vs 一橋派の対立は決着がついた。直弼サマだって、したくてやったんじゃない。そうせねばならない局面で、嫌な役回りを務めたまでのこと。そう、悪いのは、、たぶん家康なのだから。
「水戸もない 尾張大根に 味噌をつけ
越前めしも 食へぬ世の中」
水戸家や尾張家が策動失敗でミソをつけ、一膳(越前)めしにもありつけないと、越前家の春嶽の失策をあてこすった狂歌である。
⚫︎ 島津斉彬のクーデター未遂
だが血の気の多い攘夷派は、うじゃうじゃいる。一橋派であった薩摩藩主「島津斉彬(なりあきら)」は、直弼サマに反発し、藩兵5000人を率いて上京して朝廷を守護しつつ、違勅を正し一橋派の復権を指示する勅諚を得た上で幕府と対峙することを計画。その名も「率兵上京計画」。どっかのギャーギャーバカ斉昭とは大違いの恐ろしい戦略である。これをやられたらさすがの直弼サマでも大ピンチである。
ところが、同年7月に鹿児島で出兵の調練中の水当りが原因?で斉彬が急死してしまう。あまりに唐突なリーダーの死に、西郷どんはじめ薩摩藩士たちは「えーーー!?? 嘘でしょーー!?? 泣」である。これにて出兵計画は見事に頓挫する。斉彬死後の薩摩藩の実権は、お由良騒動で斉彬と対立して隠居させられた父「島津斉興(なりおき)」が掌握し、薩摩藩は幕府の意向に逆らわぬ方針へと転換することとなった。(島津斉彬 退場)
もしも、斉彬がこの時に死なず、計画通りクーデターを起こしていたら、安政の大獄の本格始動はなかったと思われる。さすれば、処罰されず救われた命も多々あったろうが、かと言って攘夷路線で列国らと戦争になったらなったで、どれだけの命が失われたかも計り知れないわけで。
どちらが正しいのか、まったくもって分からないが、、
とりあえず家康が悪い。
家康「、、んなこと言われても250年先のこととか知らねーし。つか、だいたい俺の幕府そんな長く続くとは思ってなかったもんよ」