vol.84「安政の大獄」について
さあ、来るよ来るよ、安政の大獄が!
勅許も無しに通商条約結んじゃった幕府に対して、攘夷民は怒り心頭だ。でもよぉ、普通によく考えたらさ、攘夷なんてしても勝ち目ないんだから自殺行為じゃんよ。ひとまず開国して貿易して技術力とかの差を埋めることに集中したらいーじゃんか。つー話なのに、ジョーイジョーイうっせーんだよっ! つかオメーラ幕府の力が弱まったからって、ここぞとばかりに日頃の鬱憤をぶつけてきてるだけだろ! よーし、そこまでナメられちゃあ仕方ねぇ、幕府の本気を見せてやっよ!!
⚫︎ 火に油を注いだ「戊午の密勅」
戊午の密勅(ぼごのみっちょく)は、日米修好通商条約の無勅許調印を受け、安政5年8月8日(1858年9月14日)に孝明天皇が水戸藩に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜した事件である。安政5年7月にも同じく幕府に宛て勅諚を下したが、その返信が無い状況が1ヶ月にわたって続く中、同様の勅諚を下しても効果が見込めないことから、勅諚を諸藩に直接下すことになった。最有力候補は薩摩藩であったが、1ヶ月前に開明派藩主の島津斉彬が急死したばかりであったため、次点で水戸藩および長州藩に下されることで朝議が決した。
会社に例えるなら、会長が社長をすっ飛ばして部長や課長に直接指示を出すようなものであり、しかもその内容が社長方針とは違うものと来ている。これには直弼サマもついにブチギレ。
「幕府の本気、、とくと味わうがよい! ヤツを、安政の大獄を解き放てー!!」
こうなったらもう誰にも止められない。幕府をナメた孝明天皇に対しても、鎌倉時代に承久の乱で島流しにされた後鳥羽上皇の例をほのめかしつつ、今回の密勅に関わった側近らを落飾(頭を剃り仏門に入れて隠居)させるよう、鬼の圧をかける。ビビリまくった孝明天皇はこれを受け入れ、しぶしぶ実行。手痛い仕打ちに泣き寝入る。
もちろん朝廷関係者以外の密勅に関わった者や、一橋派の残党らに関しては「幕府総出でやりますね♡」と、片っ端から次々と捕えて切腹や死罪にガンガン処してく。その数なんと100人以上!
⚫︎ 自殺をはかる西郷どん
島津斉彬の「率兵上京計画」により、ひと足に京都で天皇とすり合わせをしようとしてた西郷どん。敬愛する斉彬の訃報を聞いて大ショック。そこへやってきました、幕府の本気。「どもー! 安政の大獄でーす! 一橋派の悪りぃ子はいねがー?」と鎌をフリフリ近づいて来ます。
西郷どんは、同じく一橋派の月照さんと一緒にあわてて薩摩へ向かって逃げるものの、あとちょっとで鹿児島ってとこまで漕ぎつけたのに「西郷ごめん、薩摩はもう幕府に逆らわない方針になったから、その月照さんは入れてあげらんないのよ、だし、、(ヒソヒソ声で)お前が処分しな」と言われ、立ちすくむ。「ん?どんしたん西郷どん?」と月照さん。
「月照さーん! すまんでごわすー! 泣」と月照さんを抱き抱えて船から海にダイブする西郷どん。心中です。無理心中です。まあ、たぶん同意の上だったんでしょうけども。ところが、なんと西郷どん、月照さんと共に死ぬつもりが、自分だけ蘇生が成功して息を吹き返し、生還してしまう。その後、薩摩藩は生き返った西郷どんを奄美大島に潜伏させ、名前も変えさせて、とりあえず幕府から隠したのであった。
(西郷隆盛 退場〜復活からの一回休み)
⚫︎ テロ計画を自らゲロる松蔭先生
幕府、許すまじ!と松蔭先生も激おこプンプン丸。「井伊直弼の子分の間部って奴を襲撃するから武器貸してください!」と長州藩におねだりするも「お前アタマおかしーんかっ!」と断られたところへ、来ましたアイツが。「どもー! 安政の大獄でーす! 松蔭先生にも容疑がかかってるので取り調べ室へ、いらっしゃーい!」と連れ去られます。
「松蔭さん、あなた梅田っていう危険な志士とつるんで、このヤバめの文章書きましたか?」
「いえ! 書いてないし、梅田なんて知りません!」
「嘘ついてないですね?」
「嘘ついてないです!」
「ホントですね?」
「はい! 僕が企てたのは間部の暗殺だけです!」
「、、、え?」
「、、、え?」
ということで松蔭先生、自ら間部暗殺計画をバラしてしまい、死刑が決定w。伝馬町牢屋敷にて首を斬り落とされて、この世を去りました。でも、間部暗殺計画はうっかりしゃべってしまったのではなく、彼の信条的に間違ったことじゃないから、あえて暴露した、という説もあり、松蔭先生のことだから本当にそっちだったのかもしれません。
(吉田松陰 退場)
⚫︎ 追い詰められた志士たち
「くそ〜なんて威力なんだ、安政の大獄、、斉昭様まで永久謹慎させてしまうとは、、(まあ、あの人は自滅した感じあるけど)さすが井伊の赤鬼、恐るべし、、」と悔しがっているところへ、直弼サマよりメッセージが。「オメーラ、天皇から戊午の密勅は幕府に返却しろって新しい勅命が出た(出させた)し、オレが預かるからさっさとこっち寄越せバカ。朝廷と幕府の命令に従わなかったら水戸藩とりつぶすからな」とのこと。
「ば、渡すワケねーだろ!」と「いやもう降参して渡そーよ!」がぶつかり合い、斬り合いにまで発展し、水戸内はもうぐちゃぐちゃのボッロボロ。「こうなったらもうあいつを暗殺するしかない!」と、井伊直弼暗殺計画を立案。時を同じくして、西郷どんと大久保利通が中心となって結成した「精忠組」なる激ヤバ仕上がりグループにも協力を打診。彼らもノリノリで暗殺計画に参加する意思を表明する。
しかし、その動きを察知した現・薩摩藩主のパパ「島津久光(斉彬の弟)」が、盛り上がってる精忠組に対して「ちょ待てよ! 兄貴の遺志はいずれ必ず引き継ぐから今はまだ、ちょ待ってくれ!」と、直々にストップをかけて、思い留まらせる。よって、暗殺計画は、水戸志士17名+薩摩志士「有村次左衛門」1名の実行部隊で行うこととなり、彼らは藩に迷惑のかからぬよう除籍した上で、着々と準備を進めてゆく。
この暗殺計画に関わらずとも、水戸にはもともと藩主斉昭を崇拝する「天狗党」なる過激派グループが存在する。天狗党とは「成り上がり者が鼻高々になっている」という意味が込められた蔑称で、つまり、ひとつの党の名称ではなく「天狗になっている者達」全般を指していた。天狗党と呼ばれる志士達の中心となったのは、斉昭のお抱え学者「藤田東湖(とうこ)」の四男・藤田小四郎である。藤田東湖は安政の大地震により死亡、藩主斉昭も永久謹慎させられ、グループの象徴を奪われた彼らもまた、幕府に大いなる恨みを抱きながら、復讐の機運を虎視眈々と狙っていた。
さらに、この頃、江戸では「武市半平太(たけちはんぺいた)」が、安政の大獄により土佐藩主を隠居させられ、怒りに震えていた。剣術の達人である半平太の門弟は120人以上。その中には、後に坂本龍馬と共に暗殺される武闘派の「中岡慎太郎」や、人斬り以蔵と恐れられる「岡田以蔵」もおり、やがて結成される「土佐勤王党」の母体となるのだが、それはもう少し後のお話。
かくして、安政の大獄によって幕府に文句ブーブー言うやつらを、ことごとく黙らした直弼サマでありますが、厳しい弾圧は激しい恨みを生み出すのもまた必然で。「精忠組」やら「天狗党」やら「土佐勤王党」やらといった過激派グループが、やがて反撃の狼煙を上げることに繋がってゆくのでありました、、とさ。
⚫︎ その一方で、勝海舟は、、吐いていた
日米修好通商条約のラスト手続きのために、アメリカはワシントンへと向かうべく、使節団77人の大部隊でポーハタン号に乗船。さらに「咸臨丸(かんりんまる)」という船で、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎らが並走して付いてゆくことに。
ところが、勝海舟さん、船酔いで吐きまくっては「ボート降ろせ! 俺は帰るー!」と、わめき散らしてたそうな。福沢諭吉とジョン万次郎以外、日本人の船員が全員船酔いでダウンしちゃって使い物にならず、同乗していたアメリカ人に操縦とか助けてもらいつつ、なんとか無事にアメリカ西海岸へ到着。
到着すると勝さんは「やったー! 日本人だけの手で海を渡ってアメリカまで辿り着いたぞー!」と大はしゃぎ。手伝ってくれたアメリカ人も「オ、オメデトございマース。。」と気を利かせて、事実が書かれた航海日誌を50年後まで公開禁止にしてくれる。これには福沢諭吉さんも「なんなんだコイツ、、」とドン引き。この船旅以来、勝海舟と福沢諭吉はメッチャ仲悪くなったとか。
(勝海舟 一回休み)