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藤の実のどれを引いても真昼かな

2024.10.12 06:51

https://blog.goo.ne.jp/takahisatt/e/acad734b853ec1c6f0831f5363ad5359 【藤の実を食べると・・・】より

テレビの旅番組で,東北地方の雪の山中で藤の実を採って,だるまストーブの上で焼いて食べるシーンがあった。案内の老人が「食べ過ぎると鼻血が出るぞ。」と笑っていた。その時は,「あ,藤の実は食べられるんだ。」と思っただけだったが,ある所で見事な藤の実と出会って,思わず食べてみる気になった。

 ビロードのような皮はかなり堅く,長さは20センチほどもあった。ウィキペデアによると,「花後に剪定すると実がならない。入手が困難でもちもちした食感は珍味となっている。江戸時代には貴重な糖質として重宝された。」とある。

 皮を剥いてみると,碁石みたいな豆が現れた。 インターネットで調べると「ほとんどの種類が毒です。 例外がたまたま食用にされたり、人間の絶え間ない努力により,無毒のものが作られてきました。 やたらなマメ科植物には絶対に手を出してはいけません。 昔の覚醒剤もマメ科植物から得られたくらいです。」とあった。

 光沢のある親指の爪ほどの実は丸々と充実しているが,食欲をそそられる形状ではない。「藤の豆は下剤として利用されます。 まあ,毒ですからね・・・。 食べたって話も聞いたことはありますが・・・」とか「藤の実は炒るなどして食べる事ができます。 僕は毎年,少量ずつですが,フライパンで炒って食べています。 ただし,あまり沢山食べ過ぎると,お腹を下す事があるので 食べる量は少量に留めて下さい。藤の種子はは,煎じて下剤にも使われるので・・・」などの情報がある。

 とりあえずフライパンで炒ってみるとちょうど銀杏を炒る時と同じようにパンとはじけたりする。皮を剥くと銀杏そっくりの実が出てきた。少し塩をふって食べてみると味も銀杏そっくりだった。毒性もあるとの情報もあるので5個ほどで止めたが,なんのなんの藤の実はかなりの珍味だった。


https://kigosai.sub.jp/001/archives/5222 【藤の実(ふじのみ、ふぢのみ)晩秋】より

hujinomi

【解説】

山野に自生したり、庭や盆栽で栽培される藤は、晩春、花が散ったあと、長さ十から二十センチほどの大きな豆莢をつける。それが晩秋になって完熟し、灰緑色の固い果肉になる。

【科学的見解】

フジは、本州から九州の平地や低山の林縁に自生するつる性樹木である。マメ科植物の果実は、乾燥すると鞘がねじれるため、その反動で種子を散布する。フジの果実は、大きいため、大きな音をたてて自発的に種子散布している。(藤吉正明記)

藤の実は俳諧にせん花の跡  芭蕉「藤の実」

藤の実に小寒き雨を見る日かな  曉台「暁台句集」


https://nobrin7.exblog.jp/23027141/ 【藤の実の隠れたパワー】より

寝室でサプライズが起きた!

 一日が終わり、さて寝るか・・・と寝室のドアーを開けてビックリ。写真のサヤと種が散らばっている。まず閃いたのが「ヤンチャねこ」の仕業?

 私の寝室の一角には自然の植物の実や種や面白いサヤなどがディスプレーされているのだが、それらはアクリルのケースに入っている。最近藤の実の房を柱に押しピンで留めていた。猫も小棚に乗れば楽に届く位置だ。ヤンチャ猫が興味を示してこれを齧ってバラバラにして遊んだ?

 私の寝室は10畳ほどあるのだが万遍なく飛散していた。タネに至ってはベッドを越えて頭の奥の下の方にも転がっていた。全部集めてみるとサヤの状態から推測して二つ足らない。柱には一つだけ無傷のものがぶら下がっている。

 これは猫の仕業ではないらしい。落ちているサヤは全て二つに割れており捻れている。ネジレを直そうとしても戻らないほど硬い。どうもこれは藤が自分ではじけたようだ。はじけた勢いでサヤも枝からは外れ飛んだのに違いない。

 見つからない二つのタネはタンスの上を滑って裏側にでも落ち込んだのだろう。厚みの薄いボタンのような形なのでどこにでもスベリ込める。

 これにあと三つがぶら下がっていた。藤の実の表面には産毛が生えている。この残った一つはこれからはじけるのだろう・・・いや、何か条件が合わずはじけ損なっているのかも知れない。

         Google で調べてビックリ!

 かなり大きな音を発して弾けるのだ。You Tube で画像と音が紹介されていた。大きな木にからまった藤蔓の下で収録、あちこちでバチバチ、バチバチと音を立てて弾けていた。高い位置ではじけて子孫を広範に残して行くのだ。

 植物は「動かない」という選択をした生物、よってタネは動くものに託すのが普通だ。動物や鳥に実を食べてもらい糞の排泄で遠くへと運ばせる。あるいは、身体にまとわりついて運ばせる。風や水の流れも利用する。

 少し話しが逸れるが、アルソミトラという亜熱帯の植物は風により種を最大500mくらいは飛ばす。そのためタネの形状は素晴らしい航空力学を有している。飛ぶ様は心が洗われるほど優雅でKAWABE博士から頂いた時はとにかく感動しまくった。タネは大小さまざまで形状も一定ではない。だから色んな場所に落ちる。よって発芽場所が偏らない。これが、30~40mの大木の頂上に直径40cmくらいのくす玉状の巨大な実をつけ、破裂したら何百というタネが飛翔する・・・神のなせる技を感じた。

 しかし、藤は他に頼らず自らの弾ける力だけで種を飛ばす。草ではゲンノウショウコやカタバミがそうだ。おそらく藤がこの手では最も強力ではなかろうか?高い所によじ登って弾ける訳だし。チャンスがあれば生の音を聴いてみたい。

           さらなる事実が・・・

 藤の実が青いうちは食べられる。と言うか食べてる人が居た。ただし毒がある。でも豆類は大豆であろうがエンドウ豆であろうが生のままでは毒があるらしい。しかし、毒キノコのように命を取るようなことはない。腹をこわし体調が悪くなると言ったところか?

 これは、豆にしてみれば食べられては困る訳で「食べたらヤバイよ!」の信号だろう。藤の実の毒だが、毒と薬は表裏の関係ゆえうまく使えば薬だ。藤の実には「シチシン」なる物質が含まれ、これが「禁煙薬」になり米国では許可されている薬らしい。ホンマか?

   最後に、私の寝室にある「植物の種&実のミニ博物館」を紹介

 私の寝室のドアーを開けるといきなりこのミニ博物館があります。問題の「藤の実」は画面左のギリギリに写っている柱に画鋲で留めてあったのです。バラけた藤の実はすでにアクリルケースに納めて仲間入りをしています。これらのタネや実は自分でGetしたものの他は、KAWABE博士から頂いた物や娘たちからプレゼントされた物たちです。

 これが「アルソミトラ」です。大きいのは500mからの飛翔を見せるとか・・・一番小さいのまで段階的サイズで大きな実の中に積層して納まっているのです。翼の廻りのオブラードのような部分はパラパラ破れ落ちたりしますが飛翔には全く問題ない。アバウトでありながらどの個体も優雅な螺旋を描きながら確実に風に乗ります。極小のはいささかキリモミ状態ですが高い樹木の上からですので滞空時間が長く、うまく風に流されて行くのだと思います。そう、このタネの飛翔は如何に滞空時間を長く保てるかに重点が置かれてる。宙に浮きながら風を待って運んでもらうのです。

 「ライオンゴロシ」と「世界最大級のドングリ」です。ライオンゴロシについては以下の「KAWABE博士から頂いた凶器植物」に詳しく載せています。


https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2339_13490.html 【藤の実 寺田寅彦】より

 昭和七年十二月十三日の夕方帰宅して、居間の机の前へすわると同時に、ぴしりという音がして何か座右の障子にぶつかったものがある。子供がいたずらに小石でも投げたかと思ったが、そうではなくて、それは庭の藤棚ふじだなの藤豆ふじまめがはねてその実の一つが飛んで来たのであった。宅うちのものの話によると、きょうの午後一時過ぎから四時過ぎごろまでの間に頻繁ひんぱんにはじけ、それが庭の藤も台所の前のも両方申し合わせたように盛んにはじけたということであった。台所のほうのは、一間けんぐらいを隔てた障子のガラスに衝突する音がなかなかはげしくて、今にもガラスが割れるかと思ったそうである。自分の帰宅早々経験したものは、その日の爆発の最後のものであったらしい。

 この日に限って、こうまで目立ってたくさんにいっせいにはじけたというのは、数日来の晴天でいいかげん乾燥していたのが、この日さらに特別な好晴で湿度の低下したために、多数の実がほぼ一様な極限の乾燥度に達したためであろうと思われた。

 それにしても、これほど猛烈な勢いで豆を飛ばせるというのは驚くべきことである。書斎の軒の藤棚から居室の障子までは最短距離にしても五間けんはある。それで、地上三メートルの高さから水平に発射されたとして十メートルの距離において地上一メートルの点で障子に衝突したとすれば、空気の抵抗を除外しても、少なくも毎秒十メートル以上の初速をもって発射されたとしなければ勘定が合わない。あの一見枯死しているような豆のさやの中に、それほどの大きな原動力が潜んでいようとはちょっと予想しないことであった。この一夕の偶然の観察が動機となってだんだんこの藤豆ふじまめのはじける機巧を研究してみると、実に驚くべき事実が続々と発見されるのである。しかしこれらの事実については他日適当な機会に適当な場所で報告したいと思う。

 それはとにかく、このように植物界の現象にもやはり一種の「潮時」とでもいったようなもののあることはこれまでにもたびたび気づいたことであった。たとえば、春季に庭前の椿つばきの花の落ちるのでも、ある夜のうちに風もないのにたくさん一時に落ちることもあれば、また、風があってもちっとも落ちない晩もある。この現象が統計的型式から見て、いわゆる地震群の生起とよく似たものであることは、すでに他の場所で報告したことがあった。

 もう一つよく似た現象としては、銀杏いちょうの葉の落ち方が注意される。自分の関係しているある研究所の居室の室外にこの木の大木のこずえが見えるが、これが一様に黄葉して、それに晴天の強い日光が降り注ぐと、室内までが黄金色こがねいろに輝き渡るくらいである。秋が深くなると、その黄葉がいつのまにか落ちてこずえが次第にさびしくなって行くのであるが、しかしその「散り方」がどうであるかについては去年の秋まで別に注意もしないでいた。ところが去年のある日の午後なんの気なしにこの木のこずえをながめていたとき、ほとんど突然にあたかも一度に切って散らしたようにたくさんの葉が落ち始めた。驚いて見ていると、それから十余間けんを隔てた小さな銀杏いちょうも同様に落葉を始めた、まるで申し合わせたように濃密な黄金色の雪を降らせるのであった。不思議なことには、ほとんど風というほどの風もない、というのは落ちる葉の流れがほとんど垂直に近く落下して樹枝の間をくぐりくぐり脚下に落ちかかっていることで明白であった。なんだか少し物すごいような気持ちがした。何かしら目に見えぬ怪物が木々を揺さぶりでもしているか、あるいはどこかでスウィッチを切って電磁石から鉄製の黄葉をいっせいに落下させたとでもいったような感じがするのであった。ところがまた、ことしの十一月二十六日の午後、京都大学のN博士と連れ立って上野うえのの清水堂きよみずどうの近くを歩いていたら、堂のわきにあるあの大木の銀杏いちょうが、突然にいっせいの落葉を始めて、約一分ぐらいの間、たくさんの葉をふり落とした後に再び静穏に復した。その時もほとんど風らしい風はなくて落葉は少しばかり横になびくくらいであった。N博士も始めてこの現象を見たと言って、おもしろがりまた喜びもしたことであった。

 この現象の生物学的機巧についてはわれわれ物理学の学徒には想像もつかない。しかし葉という物質が枝という物質から脱落する際にはともかくも一種の物理学的の現象が発現している事も確実である。このことはわれわれにいろいろな問題を暗示し、またいろいろの実験的研究を示唆する。もしも植物学者と物理学者と共同して研究することができたら案外おもしろいことにならないとも限らないと思うのである。

 これとはまた全く縁もゆかりもない話ではあるが、先日宅うちの子供が階段から落ちてけがをした。それで、近所の医師のM博士に来てもらったら、ちょうど同じ日にM氏の子供が学校の帰りに道路でころんで鼻頭をすりむきおまけに鼻血を出したという事であった。それから二三日たってから、宅の他の子供がデパートでハンドバッグを掏摸すりにすられた。そうして電車停留場の安全地帯に立っていたら、通りかかったトラックの荷物を引っ掛けられて上着にかぎ裂きをこしらえた。その同じ日に宅の女中が電車の中へだいじの包みを置き忘れて来たのである。これらは現在の科学の立場から見ればまるで問題にもなにもならないことで、全く偶然といってしまうよりほかはないことである。しかし、これが偶然であると言えば、銀杏いちょうの落葉もやはり偶然であり、藤豆ふじまめのはじけるのも偶然であるのかもしれない。またこれらが偶然でないとすれば、前記の人事も全くの偶然ではないかもしれないと思われる。少なくも、宅うちに取り込み事のある場合に家内の人々の精神状態が平常といくらかちがうことは可能であろう。

 年末から新年へかけて新聞紙でよく名士の訃音ふいんが頻繁ひんぱんに報ぜられることがある。インフルエンザの流行している時だと、それが簡単に説明されるような気のすることもある。しかしそう簡単に説明されない場合もある。

 四五月ごろ全国の各所でほとんど同時に山火事が突発する事がある。一日のうちに九州から奥羽おううへかけて十数か所に山火事の起こる事は決して珍しくない。こういう場合は、たいてい顕著な不連続線が日本海から太平洋へ向かって進行の途中に本州島弧を通過する場合であることは、統計的研究の結果から明らかになったことである。「日が悪い」という漠然ばくぜんとした「説明」が、この場合には立派に科学的の言葉で置き換えられるのである。

 人間がけがをしたり、遺失物をしたり、病気が亢進こうしんしたり、あるいは飛行機がおちたり汽車が衝突したりする「悪日」や「さんりんぼう」も、現在の科学から見れば、単なる迷信であっても、未来のいつかの科学ではそれが立派に「説明」されることにならないとも限らない。少なくもそうはならないという証明も今のところなかなかむつかしいようである。