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鈴木六林男

2024.09.04 03:55

https://www.youtube.com/watch?v=xzadcHeZmwY

https://koutenn.blogspot.com/2017/03/blog-post_27.html 【講演「鈴木六林男 人と作品」 岡田耕治】より

3月25日(土)午後から大阪俳句史研究会が伊丹市の柿衞文庫で開催され、「鈴木六林男 人と作品」というタイトルで講演いたしました。詳細は、「俳句史研究」に掲載されますが、冒頭の部分だけ。

〈私は1995年から2005年まで、鈴木六林男を代表とする「花曜」の編集長を務めました。俳句誌の編集といいますと、主宰や代表が内容に深く関わりますが、六林男師は「鈴木六林男に代わって本誌を編むこと」とおっしゃり、全面的に任せてくださいました。絶えず緊張感をもって毎月の誌面をつくって行きましたが、この10年間で、一度だけ六林男師に叱られたことがあります。それは、……〉

このあと、六林男師の11冊の句集を辿ることを横軸とし、写真の「鈴木六林男の技術」6点を縦軸として、内容を構成しました。六林男師の二人のご息女をはじめ、「香天」の皆さんが参加してくださいましたので、50人ほどの研究会となりました。大阪俳句史研究会の皆さんに感謝します。


https://chakolate.blog.fc2.com/blog-entry-884.html 【岡田耕治著『六林男 鈴木六林男の視線』 俳句】より

昔々、わが師匠黒田杏子の名著『俳句と出会う』を読んだ時、ある箇所で号泣したことがあった。「六林男語録に「璞は俳句の中で、立ったまま死にたい」があります。」という一文だった。

今回刊行されたこの本は、弟子である岡田耕治氏が勤務先の大阪教育大学での講義をまとめられたもの。

六林男を最も身近で見て来られた1人であろう氏の眼を通して、その作品を立体的に紹介、六林男の俳句精神の継承を試みられている。

岡田氏が集約された「鈴木六林男の技術」は、簡潔でありながら難しくもあるが、一つの指針としたい。

①多く読んで、やさしい言葉で、 ②自分を新しくしながら、 ③感じたことを書く。

④視座を低くして ⑤回り道をしながら ⑥その年のテーマに向かって書く。

    水あれば飲み敵あれば討ち戦死せり   五月の夜未来ある身の髪匂う

    降る雪が月光に會う海の上       天上も淋しからんに燕子花

    昼寝より覚めて寝ている者を視る    短夜を書きつづけ今どこにいる


https://blog.goo.ne.jp/yomado0406/e/03d75e46d572011223c5fa96135e3ea0 【断章 鈴木六林男】より

断章 鈴木六林男

 暗闇の目玉濡らさず泳ぐなり  鈴木六林男

この句に出会ったのはいつだったか。鈴木六林男という俳人のことなどなにも知らない頃だ。真っ暗な海を目玉が濡れないように、おそらく平泳ぎか犬掻きで泳ぐ男の姿が目に浮かぶ。しかしはたと気付く。「暗闇を」でもなく「暗闇に」でもない。「暗闇の」である。「暗闇の目玉」! 恐ろしい句だと思った。

鈴木六林男(1919年9月28日〜2004年12月12日 85歳没)

「俳句のもつ性格や要素のすべては虚しい」と鈴木六林男は『俳句の現在12鈴木六林男集 傢賊』(一九八六年)の「あとがき」で書く。これは鈴木六林男の戦場詠「海のない地圖」の句群が、戦争という圧倒的な暴力に曝された個人の絶望的な沈黙と、そこからでしか発することのできない唸りのような言葉(俳句)が、他者へと伝わるのかという不安を基調音としながら、俳句という形式のもつ不完全性への言及であるだろう。それは俳句という形式がもつ宿命のようなものである。

鈴木六林男の第一句集『荒天』(四九年)は十九歳から二十九歳までの句が収められている。その中でもっとも早い時期の句は「阿吽抄」の題名のもとに七十五句が並ぶ。鈴木六林男が応召する四〇年以前、二十一歳までに作られた句である。

 門燈はカンナを照らすために點く  六林男

の句はたとえば渡辺白泉の「街燈は夜霧にぬれるためにある」や、富澤赤黄男の「恋人は土龍のやうに濡れててゐる」の句に影響を受けているのはあきらかである。学生時代に西東三鬼に惹かれ、新興俳句運動に参加した鈴木六林男であるから、それは自然ななりゆきであっただろう。白泉と赤黄男の句は鈴木六林男十六歳のときの句である。

 旅愁とは靴音を聽く夜の暖房  六林男

 春のからす病院船は沖のもの 

など、どの句も新興俳句運動の中で詠まれたモダニズムの影が濃い句である。しかし後年の(戦後の、と言い換えてもよい)鈴木六林男の世界を暗示するかのような句も存在する。

 怒りつつ書きゐしはわが本名なり  六林男

 夜は夜の街にいかりて醉ひ戾る

『荒天』に収められた戦場詠は、四〇年に応召、中国大陸、フィリピン諸島を転々とし、四二年、バターン・コレヒドール戦での負傷により帰還するまでの三年間の句が収められている。

「海のない地圖」について鈴木六林男は「昭和十五年から同十七年夏までの中国大陸とフィリッピン・ルソン島に従軍中のもの。この三年間は人間性喪失の連続であったが、これはその期間のかすかな灯である」と『荒天』のあとがきに記している。

 遺品あり岩波文庫「阿部一族」  六林男

この名詞が三つ並んだだけの、おそろしく素っ気ない構成がもたらす緊迫感は衝撃的である。私たちはこの句が戦場詠と知っているから、戦友の死を詠んだものだと解釈するのが自然であるけれど、この句が一句だけ置かれたとき、私は戦場詠であると断言できない。先の大戦における数ある戦場の中でも地獄と言われた、フィリピンのバターン・コレヒドール要塞戦で鈴木六林男が詠んだ句を揚げてみる。

 うつうつと炮音に午が來てゐる    射ち疲れキニーネなりわかち嚥む  

 水あれば飮み敵あれば射ち戰死せり

次に富澤赤黄男の戦地での句を揚げてみる。いずれも句集『天の狼』(四一年)より。

 やがてランプに戰場のふかい諳がくるぞ 秋ふかく飯盒をカラカラと鳴らし喰ふ

 向日葵の貌らんらんと空中戰

ランプの句には「潤子よお父さんは小さい支那のランプを拾つたよ」の前詞が置かれている。この前詞も含め富澤赤黄男の、たとえ戦場句であっても新興俳句運動のなかでもっとも「詩人」であった彼の資質がよく表れていると言えるだろう。

翻って鈴木六林男の句は俳諧的でもないし、詩的でもない。極論すれば散文的表現である。リアリズムがそう感じさせるというよりも、戦場の徒労と倦怠、そして死と腐臭が詩的情感を拒絶する。鈴木六林男が置かれた戦場の絶望的な状況を表現するには、小説などという悠長なものを書く余裕などない。十七音という短詩形式こそがこの戦場の惨禍を記憶にとどめる有効な手段であった。

戦場の一瞬一瞬を切り取る鈴木六林男の散文的な感性こそが、わたしたちに戦場の徒労と倦怠を伝える。しかしその一句一句は、あるまとまりがなければ理解できないということにも繋がる。

鈴木六林男は自作解説で次のように書く。

「 倦怠や戰場に鳴く無慮の蠅

泣きたいのは人間であった。倦怠と死臭が充満していた。

 夕燒けへ墓標たてもう汗も出ない

一日の終りの、最後に残った仕事はいつも決まっている。ありあわせのもので、死んだ戦友の墓標をたてることだ。疲れ果て、汗も出なくなった人間と、明日からもう汗を出さなくていい戦死者の墓標を夕日が照らす。

 深夜砲聲斥候に行くと飯喰ひゐる

斥候が編成され、彼等は腹ごしらえをしていた。このうち誰が生きて還ってくるか。任務に関係のない者は、斥候隊が死の前に演じている食事の悲しい風景をながめていた」

この自作解説によって私はようやく鈴木六林男の置かれた過酷な状況を理解できたことになる。第一次戦後派作家の作品が戦争体験と戦後社会の現実に、真摯に対決しようとする文学であるとするなら、鈴木六林男の戦中・戦後の俳句もその系列に置かれてしかるべきではないかという思いが私にはある。

『荒天』の最終章「夜の手」(四五年から四七年までの句)の一句。

 深山に蕨とりつつ亡びるか

そして第二句集『谷間の旗』(五五年)の

 諳闇の目玉濡らさず泳ぐなり

この二句は過酷な戦争を経て、帰還した戦後社会への違和感を見事に表出している。

鈴木六林男の戦後は、「戦争と愛」へと向かうのだが、もう紙数がない。最後に八五年の句集『惡靈』のあとがきに引かれているヘミングウェイの言葉をここにも引いておきたい。

「およそこの世で作家といわれる連中は何を書いてきた? 五本の指で数えられるくらいのことだ。愛、死、労働、戦い。このどれかに必ず含まれるよ〈略〉戦争はもちろんだ。海もまた、しかり……」(『らん』94号より)