フレデリック・ショパン、出発を延ばした真実とは、その1、…思い出の教会で交わした眼差し…
「今になって、自分がいかにくだらないことをたくさん書いていたかに気づいた。
私の想像力が昨日からまだ懸命に働いていることがわかるだろうし、マズルカを踊っていたほど疲れていた私を許してほしい。
父と母、そして妹たちからも温かい挨拶が届いています。
ルドヴィカはちょっと具合が悪いけど、すぐに良くなると思う。
これらの生命のないものはお互いを知ることはできないが、どちらも私の友人の手から生まれたものであることは間違いない。」
コンスタンツァアからの手作りのプレゼントそしてティトゥスからの手書きの書簡、どちらも自分の愛する人の手から生み出された大切な贈り物とフレデリックは思っていた。
フレデリックの出発が遅れていることには
実はれっきとした理由があった。
ポーランド国外への旅券が発給されないからだ。フレデリックがティトゥスに出発を延期にしていることを書簡を書いていたのは9月の半ばだった。ポーランドから最初に何処へ行くか思案していたフレデリックだったが、パリで暴動が起きことを発端にヨーロッパ全土に騒乱が広がっていた。それが1830年7月27日 – 1830年7月29日にパリで起きた7月革命だった。
フランスでは復古王政のシャルル10世による言論弾圧に対し、パリ市民が蜂起した。これにより、ブルジョワ共和派(農民や労働者階級の中産階級)の支持を得て絶対主義体制が倒され、七月王政が成立した。この出来事は「栄光の3日間」と呼ばれ、シャルル10世は退位し、オルレアン家のルイ=フィリップが新国王として即位した。
七月革命はフランス国内だけでなく、ヨーロッパ各地にも影響を与え、ベルギーではオランダからの独立が達成された。(その先には、ポーランドやドイツでも蜂起を起こることになるが、これらは鎮圧されることになるのだ。
また、1831年にはイタリアのカルボナリが蜂起したが、オーストリア軍により鎮圧される。)こうした流れは世界を巻き込んでいく予兆であった、そして、それは貴族社会から
市民階級のブルジョワジーが台頭する過渡期をフレデリックが生きて行くことになる前兆でもあった。
ポーランドでは一般市民には旅券はフランスとイタリアには発給されず、オーストリアとプロイセン行きは発給された。また、政府が定めた者には一切のポーランド国外への発給はされなかった。
フレデリックは特別措置でウィーンへの旅券が発給された。
世界情勢を鑑みた父ニコラはフレデリックの出発を引き留めていた。それに、フレデリックには出発までに仕上げなくてならない
作品があったことも原因していた。
コンスタンツァアのために書き上げたピアノ協奏曲ホ短調作品11がようやく完成を見た。
1830年9月22日のことだった、ショパンは自宅に、ワルシャワを発つ前日のパヴウォスキ伯爵や、マウリッツ・エルネマン(1800-1866ドイツ出身の作曲家)、作曲家でワルシャワ劇場監督のクルピンスキ、作曲家ソリーヴァ、などを招いて、ライバル同士がどう顔を合わせるかを仕掛けた。
「クルピンスキーも来るし、ソリーヴァや音楽界全体も来る。エルスネルは別として、私は彼らをほとんど信用していない。そのイタリア人(ソリーヴァ)が私の協奏曲をどう見るかは興味深い。イタリア人(ソリーヴァ)が指揮者(クルピンスキー)をどう見るか、チャペックがケスラーをどう見るか、フィリップがエルスネルをどう見るか。
チャペックがケスラーを、フィリップがドブリンスキを、モルスドルフがカチンスキを、ル・ドゥーがソルティクを、そしてポレティコがポレティコをどう見るか、私は興味津々だ。
ル・ドゥーはソルチクを、ポレチロは私たち全員をどう見るか。歴史上、このような紳士たちが顔を合わせた前例はない。」とフレデリックは面白がっていた。
このお披露目試演会はティトゥスは来なかった。
招いた音楽家達は著名人の錚々たるメンバーだがフレデリックはエルスネル以外は当てにならない音楽人だと思っていた。
一番信頼していたティトゥスに的確な感想を述べて欲しかったフレデリックだった。
そして、最新の外交情報として、
「ルイ・マリー・レモン・デュラン(1786.11.4-1837.4.27)は、ワルシャワのフランス領事だったが7月革命でフランスの王となったルイ・フィリップに抗議しロシア政府に仕官しようとした」とフレデリックはティトゥスに伝えていた。
しかし、デュラン氏はフィリップスに忠誠を誓い、11月蜂起の後はフランスのポーランド亡命者のワルシャワ宛ての手紙を彼が仲介していたと言う説があり、
フレデリックの父ニコラスは彼はいい人だとフレデリックに話していた。
恐らく彼は自己愛が強い利己的な人間だったのだ、なぜなら、ショパンが間違えた情報を書かない人だからだ。つまりデュラン氏は誰の味方でもない利己主義だった。
フレデリックはピアノ協奏曲ホ短調作品11は完成したが、自分でも習得できないまま終わりそうだと不安に思っていた。そうかと思うと素晴らしい出来栄えに自画自賛してしまうのだった。そして、そのような
フレデリックの性質を責める人はエゴイストのティトゥスだとフレデリックは思っていた。
作品の出来栄えにはかなり自信があったフレデリックだが、出発前の心の整理がまだ出来ていなかった。考えがまとまらないフレデリックはワルシャワ市内を考え事をしながら歩いていた。
「考えがまとまらないときに君に手紙を書かなければならないのは残念だ。自分のことを考え始めると、ひどく気分が悪くなり、現実感がなくなることがよくある。何か興味のあることに視線を集中させていると、気づかないうちに馬に轢かれてしまうかもしれない。実際、2日前にも路上でそのようなことが起こりそうになった。」考え事をしながら歩くフレデリックはワルシャワ市内をかけまわる馬車の蹄の音すら耳に入らなかった。
出発を遅らせている第一の理由はフランスの7月放棄、第二の理由は協奏曲の完成、だとしたら、第三の理由は最愛の理想のひと、
コンスタンツァアとの別れ、なのだ。
第二と、第三は同じようなものだから
、フレデリックは恋愛のことは関係ないと強がりを言っていたが本当は一番の理由がコンスタンツァアかもしれなかった。
ワルシャワ市内をさまよい歩いていたフレデリックはコンスタンツァアのことが忘れられず、思い出の場所に別れを告げるかのように歩いていた。最後にたどり着いた先は気がつくとコンスタンツァアと指輪を交わした教会だった。
「日曜日、私は教会で突然、コンスタンツァアの思いがけない一瞥に打たれ、精神が麻痺した瞬間、建物から飛び出した。
パリス医師に会ったが、自分の混乱した状態を説明することができなかった。
犬が私の足の間を走り、私を転倒させたからだと言わざるを得なかった。
私が時々精神異常者に人からは見えることを考えると恐ろしい。
いくつか曲を書いたものをあなたに送りたいのだが、今日は書き写す時間がない。... 今日は休みの日なので、この書簡しか書けません。」
心の整理をつけるために教会へ行ったフレデリックが見たものは、初めてコンスタンツァアと出会った時のように、同じ席で祈る美しいコンスタンツァアの姿だった。
コンスタンツァアはフレデリックに気がつき
フレデリックを見た、自然に視線を交わしたコンスタンツァアの目には…
訴えかけるその視線を受けたフレデリックは息が苦しくなり耐えかねて教会から飛び出したのだ。
言葉を交わしたところで自分にはコンスタンツァアを救えないことはわかっていた、コンスタンツァアもフレデリックを救えないことがわかっていた、二人の気持ちが重なり合いフレデリックは、その瞬間から逃げるように走り出し、周りの物は何も見えなかった、何かにぶつかり転倒したフレデリックはハリス医師の家に逃げ込んだ。診断はなぜ転倒したかも定かでなく、精神的な病と告知された。衝撃的だったコンスタンツァアの眼差しはフレデリックの胸に生涯深く焼きついていった。