「宇田川源流」【日本万歳!】 日本の誇る神の領域である「日本酒」文化について一考察
「宇田川源流」【日本万歳!】 日本の誇る神の領域である「日本酒」文化について一考察
毎週月曜日は、「日本万歳!」をお届けしている。日本の素晴らしいところや日本の文化に関して、世界で称賛されているような記事を探し出し、その内容に関して様々な事を分析する連載である。日本のすばらしさというのは、日本人の国民性や精神性によって形作られているものであり、その内容に関しては様々なところに現れるものである。
基本的に「卓越したヒーロー」という者は、例えば大谷翔平選手のような、または藤井聡太棋士のような、三苫薫選手や久保建英選手の様な、日本人の精神性を持っていても、その同じ製紙遠征だけでは追いつけない、何らかの者があるというような感じに思える。もちろん、今年であればオリンピックの金メダリストもその中に入るが、しかし、日本人のすばらしさは、「負けた時の負けっぷり」にも表れているのではないかと思う。今年のオリンピックでは、阿部詩選手が撒けたときに号泣したさまを見て、多くの人が様々なこと行ったが、あえて言えば、日本人らしくはないという感じがあったが、逆にそれだけ日本人の期待を一身に受けて苦しかったのではないかという解釈もできる。その期待を受けた苦しさを全く表に出すことなく、競技が終わるまで何も言わずに耐えていたものが一気に噴き出したという解釈もある。それだけ期待してしまった日本国民も問題なのかもしれない。ある意味で「競技を楽しめなかった」という部分があるのかもしれないと思うと、少し同情の余地があるのではないか。しかし、阿部詩選手以外の人々から考えれば、負けたことも「自分の責任であり、応援してくれた人に申し訳ない」というようなコメントを残す。精一杯頑張ってそのコメントを、自分であれば出せるのであろうか。
さて、そのような特別な人は、、我々が同じ精神性を持っていてもなかなか追いつけるものではない。その様に考えれば、「もともと天賦の才能があり、本人がその才能を日本人の制止性をもって日本の環境と自分の努力によって掴み取った」ということであり、才能がもともとあった上に努力を重ねた結果である。もともと才能のない私には、到底不可能であるということになる。
しかし、「日本への賞賛」というのは、そのような「特別な人」だけではない。実際に日本への勝算は、「サポーターが掃除していること」や「日本の文化」「日本食」等、日本の文化や国民性が賞賛されている場合がある。これは、日本人のすばらしさそのものであり、また、ヒーローやヒロインといった特別な人二も、日本人ならば誰でも持っていると異様なすばらしさがある。
そしてその国民性ということに関しては、「日本人が作った商品」にも現れるのである。まさに日本人の作品、「日本製」ということが、世界で称賛されるのは、まさにこのような日本の国民性が現れているからではないか。
<参考記事>
日本酒 海外需要が新局面 輸出復調もまだら模様 訪日客需要は急増
9/5(木) 21:38配信 食品新聞
https://news.yahoo.co.jp/articles/ceab0d20efb5c4936505b2538058beb2716a1164
<以上参考記事>
日本の素晴らしい者の名k内「日本酒」がある。諸外国でも基本的には「SAKE」で通じるということが非常に素晴らしいものがあるのかもしれない。日本酒というのは「水」「麹」「米」と「製造する日本人の勤勉さ」の賜物であり、本当に芸術品であるという気がする。もちろん和委員やウイスキーなど、他のアルコール類が芸術ではないとは言わないが、日本人といえばやはり「酒」であろう。
あえて何回も書くが、日本人の場合は、「酒」は「飲みもの」「趣向品」であり、一方で神社での正式参拝などでは「三々九度」などの儀式に使う「神具」である。もちろん、キリスト教におけるワインも同じで、先例の時に赤ワインを「血液」というような感覚で口にするのであるが、日本人の場合は、「稲の神様の食べ物」というような感覚になっている。
キリスト教の場合は、「キリストの体の一部をいただく」ということで、神の僕になるということを意味する。もちろん「神の体や血液」ではない。神の啓示者であるキリストの血液をいただくことによって、キリストと同様に神の声が聞こえるようになるということがその儀式の中心であるということを意味していると聞いたことがある。もちろんそれが本当であるかどうかは不明であるが、もちろんそのような何らかの意味合いがあるのではないか。
日本の場合は、「八百万の神」であるのだから、当然にコメの中にも、そして米を生成して作った酒の中にも神がいる。ちなみに、稲の神は大和言葉で「サ」という。稲を植える女性のことを「サ」の「乙女」なので「サオトメ」というし、「サ」が座る椅子である「クラ」のことを「サクラ」という。同様に高貴な人の食事は「朝餉」「夕餉」というように「ケ」という。つまり「サ」の食事である「ケ」であるから「サケ」ということになる。神様を食べてしまうのかという議論もあるが、同時に、神様が食べているものと同じものを食べることによって、自分に宿っている神に力を与えるということを意味しているのである。ある意味で、「同じ釜の飯を食う」ということで、神様と同じ飯を食い、仲間として助けてもらうということが、日本人のすばらしさということになるのである。
そのために、「酒造り」は、当然に「神にささげる儀式」に乗っ取り、様々な言い合いを持つ儀式を経ながら現代に伝統を伝えている。もちろん、人間の手でできない部分は、「機械化」するが、それは、古代からの伝統や文化を捨てたのではなく、伝統や文化に従った機械を使っているということになる。多くの人は機械化するということを近代化とか、現代かというような感覚をするが、日本の場合は「機械にも神が宿る」ということを忘れてはならない。当然に、酒を造るた目の機械にも、酒の神や稲の神は宿る。
神そのものは、「稲の神」ということになるが、しかし、稲を育てるには「太陽の神」「水の神」「水をもたらす雨の神や雲の神」「風の神」「土の神」など様々な自然現象の神があり、なおかつ気温などのことが充分に必要になる。昔「米一粒に七人の神様が宿っている」(七人という言い方はおかしいのであるが子供に教える場合に使っていたのでこのような感じになっていたものと思われる)といわれ、当然い稲を育てるために必要な神様がすべてその中に詰まっているとされている。
その米を生成して「清酒」ができる。日本の神々は、穢れたものが嫌いなので、濁り酒ではなく「清酒」が重要なのである。それを飲むことによって神の力を授かるのである、
さて、現在になって、「神の食事」は、日本人の一般の飲み物になっている。当然にそのような文化に従ってできているのであるから、当然に「日本の食事すべてに適合するようにできている」ということになる。日本は「水」「塩」だけではなく「醤油」「味噌」などの調味料がありそれが地域や季節によって味が変わる。海に近いところと雪深いところで味が変わってきている。内陸部や寒い地方は、魚などを長く持たせるように塩をよく使うので、どうしても塩分の高い飲み物になる。そうすると「酒」が「塩分を和らげる」役目を果たす飲み物になる。味噌が主流のところでは甘めの味になり、また水によってもその内容が異なるのである。
さて最近外国人が日本酒の味を覚えてきて、値段だけで物事を判断してしまって飲んでいるようであるが、実際には「酒は値段ではなく、その場面や、並んだ食事に合わせて考える」べきである。例えば同じ刺身でも、「脂ののったマグロなど」と「淡白な味の白身の魚」「イカなどのねっとりとした甘みのあるネタ」「貝類のような歯ごたえを楽しめるネタ」等によって、酒は味が変わる。もちろん、そのネタ一つ一つで酒を変える必要はないが、同じ酒なのに全く違う味わいを組み合わせで楽しめるということをしっかりと知るべきではないか。その様に「酒」は「単に味わうだけではなく、その楽しみ方で相手のことがわかる」ということが最も重要な内容であり、その内容を見ることが、重要な内容になるのではないか。その様に「飲む人を選ぶ」という意味でも酒の価値が見えてくるのかもしれない。
実際に、国際的に酒を輸出するだけではなく、日本人のそのような文化や楽しみ方も、一緒に伝えてもらいたいものである。多分、世界は平和になるのだろう。