#せなみさ(上)
#ひまエニBL #湧霧
翌日の朝は晴れていた。指を伸ばして引っ張ったカーテンの隙間から透き通った光が漏れ出て、美原は思わず寝ぼけまなこを細めた。
控えめに寝返りをうち反対側を見ると、そこに想い人は居なかった。シーツと毛布は波打つように乱れていて、つい先ほど彼が脱け出して行ったらしいことは明白だった。
キッチンを覗くと、その人は先が細くなった銀のケトルで珈琲を淹れているところだった。美原がその横顔を見惚れたように暫く眺めていると、やがて時岡はふと気配に気づいてドアの美原を振り向き、にこりと微笑んだ。
「お早う。コーヒー、飲むだろ?」
「お早うございます。いただきます」
「ミルクと砂糖は?」
「いえ、ブラックで大丈夫です」
「へえ。君、ブラック飲むんだ」
「馬鹿にしてますか?」
「いや、そんなことないよ」
時岡は肩を震わせてくすくす笑うと、片方のマグカップに白い陶器のピッチャーからミルクを注いだ。
朝食の準備がすっかり出来ていた。大きな皿に二枚ずつのトーストとトロトロのスクランブルエッグに、焼いたウィンナーも添えてあった。
「砂霧、さん」
いただきます、と小さく囁いてトーストを手に取った時岡を真っすぐ見つめ、その正面の椅子に着いた美原は彼の名前を呼んだ。時岡の手がぴくりと動いて、こんがり焼けた耳に齧りつこうとしていた唇が止まった。
「…って、いつもこんなにちゃんとした朝メシ食べてるんですか」
「…そんなわけないだろ」
「じゃあ、俺のため?」
「それもあるし」
「し?」
「…浮かれてるんだよ。察して」
低い声でぼそりと言った時岡の目の下は薄桃色に染まっていて、美原の胸の中にじわじわと幸福感やら慈愛といった情が広がった。本当に昨夜俺はこの人と寝たんだ、という実感だとか、下の名前で呼ぶことを許された優越感だとか。
「砂霧さん、からだ、辛くないですか」
「ふ、大丈夫だよ」
時岡は穏やかに、僅かに照れたように笑った。これまで外で美原が見ていた、友好的だが隙を見せない完璧な笑顔とは違う、弛んで綻ぶような表情。
「湧、くん、は」
「…っ、はい」
「普段、朝ごはんって何食べるの」
「えっ…あ、朝すか? 日によってまちまちだけど…米好きなんで納豆ごはんとか食べますよ。納豆に卵とキムチ混ぜたりとか。あと、鶏むね肉」
「そっか。じゃあ米のほうが良かったか」
「いやっ、そんな! パンも好きっす。だし、こんなちゃんと用意してくれたってのがもう、すでに嬉しいっていうか。…浮かれてます、俺も。昨日めちゃくちゃ可愛かった砂霧さんとか、思い出しちゃうし」
美原がつるりと口走ると、時岡は眉を顰めて涙袋をぴくりと震わせ、忌々しそうに顔を歪めた。それが単なる照れ隠しに過ぎないことを、今の美原は知っていた。
「言っとくけど、君も随分可愛かったよ。必死になって抱き着いて来ちゃって、砂霧さん砂霧さんって」
「う…言わないでくださいよ、恥ずかしい…もっと余裕ある感じにしたかったのに」
「いいよ、君は。それくらいで」
そう言ってカフェ・オ・レを一口飲んでから、時岡は「俺はそれが嬉しい」と小さく付け加えた。美原はその少し下を向いた睫毛をまた見つめながら、自分が引き返し難いほど深いところまで降りてきてしまっていることを感じた。
深入りしてはいけない。そんなことは美原もわかっている。宮之原さんだってそう言っていた。時岡に関わるということは、彼の背後にある途方もない闇に自分も足を取られるかもしれないということを意味していた。
わかっていても、美原は目の前の男を愛おしく思うことを止められなかった。初めて見る表情が幾つ増えても、際限なくもっともっと彼のことを知りたいと思ってしまう。身も心もとうに時岡に溺れきっていた。どうせもう後戻りができない。手放すことなど出来やしない。
それなら、行き着くところまで行ってしまおうか。
窓硝子から溢れる光は白々しいほどに明るく暖かく、二人に降り注いでいた。
1
神に会える。
神が東京に来る。あさって。
朝からそのことばかりが脳内を占めていて、仕事が手に着かない。朝どころか、ここ一週間か二週間くらいの間じゅう、ふとした瞬間に降りてくる考えのほとんどは「もうすぐ入磨さんに会える」という一点ばかりだ。
相互フォローの入磨さんがSNSに「11/23の東京で新刊出します!間に合うかな~」と投稿したのは、二ヶ月くらい前のことだった。あたしはまだその頃、約二年間にわたる念願叶って初めて手にした入磨さんの湧霧本の余韻に浸っている真っ最中だったのに、たった三ヶ月でまた新刊を出すの? と帰宅ラッシュの電車の中で、スマホ片手に腰を抜かしそうになった。
前回の入磨さんの同人イベント参加は八月のインテックス大阪で開催された大型即売会で、神戸に住んでいる入磨さんにとって関西でのサークル参加は至って順当なのだが、あたしはどうしても遠征する都合が付けられなかった。入磨さんが『ひまエニ』で初めて出した本を、あたしは数週間遅れて通販でやっとお迎えしたのだ。それなのにまた新しい同人誌を出すと言う。供給を受け止めきれないだなんて、そんな贅沢な悩みがあって良いんだろうか。
そもそもこんなことになるなんて、去年の今頃はまだ想像もしていなかった。現代ノワール系漫画を原作とする『陽を待つエニグマ』、通称『ひまエニ』二次創作の界隈は今年に入るまで長らく斜陽、どころか砂漠状態だった。
あたしが小六の時に連載が始まって中学時代にドハマりしたひまエニは、連載開始から五年後にアニメ化するもワンシーズンのみで終わり、二期の制作はいつの間にか立ち消えた。さらにその次の年、あたしが高校三年の時には連載自体が終了して大団円の完結。SNSに日ごと集っていたオタクたちは見事な幕引きに納得し、寂しさを覚えながらも物語の終わりを祝福したが、しかしそうなればいずれは他のジャンル、要するに他の流行りのコンテンツに移っていくのが人の常というわけで、界隈からは一人またひとりとオタクが去っていった。
そんな中、ひまエニ界隈の中でも全盛期に比せばさらに縮小したBLカップリング「湧霧」愛好家の界隈に、突如として降臨したのが同人絵師の入磨さんだった。
さらにその後、幻となっていたアニメ二期の制作と放送が八年越しに決定し、散り散りになっていたかつてのオタクたちが泣きながら帰還し出したのが、今年の頭の話だった。
とっくのとうに連載が終了していた『ひまエニ』を、入磨さんが後追いのかたちでコミックス全巻を読破しアニメ一期を視聴して湧霧にハマったのは、もちろん再アニメ化の話が浮上するよりもかなり前のことだった。彼女曰くきっかけは至ってシンプルで、学生時代のオタク友達に「この漫画面白いよ」と薦められて読んだらしい。
ドハマりしすぎてアカウント作りました!初描きの宮之原さん[画像]
ほんまになんで今まで読まへんかったんやろ。。。リア友よ、教えてくれてほんまにありがとう。。。。とりあえず昨日コミックス全部読み終わって今アニメ追ってます
鴻ノ池さんと蓮加さん
幼馴染組かわいい~[画像]
美原くん好きすぎる…
時岡さんと美原くん
このふたりのコンビええな~[画像]
今んとこカプとしては湧霧と忠霧が気になってる
湧霧の、一見めっちゃ遠そうやのにお互いに無いものとか惹かれる要素があってきっかけがあったら一気に意識しそうな感じグッとくるな…てか10巻の香林会炎上事件編の2人アツすぎやし
湧霧[画像]
ドレスアップ風の湧霧[画像]
湧霧ってすごい サギリさんはミハラくんが今までの人生で会ったことない種類の人間すぎて面食らうけどその明るさとあったかさに救われるんやろうし、ミハラはミハラで下手したら主人公よりヒーロー体質やから飄々としてるサギリさんの昏さ儚さに触れたらほっとけへんくなるんやろな…
53話の湧霧[画像]
「湧霧」でワード検索してたまたま見つけた入磨さんの過去投稿を、あたしはその日のうちに遡った。その時まだ作られて間もないアカウントだったから、全部読んでもそんなに時間はかからなかった。
新規のファンが来てくれた。
しかも湧霧を好きになってくれた。
しかも、めちゃくちゃ絵が上手い。
なんだか気が引けて、どきどきしながらフォローした。翌日にはフォローバックされた。あたしと彼女は相互フォローになって、入磨さんのほうもあたしが書くほんの短い、ポエムみたいな些末な小説を読んでくれるようになった。そんなふうにしてもう二年近くが経つ。
もちろんそれまでだって、全盛期の頃からずっと、ひまエニや湧霧のファンアートを描いている凄い絵師さんはいた。あたしはイラスト投稿サイトに現存する湧霧の絵や小説は、たぶん誇張ではなく本当に全部見たと思う。
でも入磨さんの絵はあたしにとって、ただ上手いだけじゃなく、最初からずっと特別だった。どこが、と訊かれると言語化するのは難しい。たとえば線の引き方、構図の取り方、色の置き方、輪郭や目のかたち、そういう細かな要素の全部が全部、ああ好きだなぁ、と思う。スマホの専用フォルダに保存して、何度繰り返し眺めたとしても。日に何度かは必ずそらで入磨さんの絵柄の湧霧を思い浮かべるし、あたしの頭の中で架空の美原湧と時岡砂霧を動かす時はいつも、入磨さんの絵で動いている。
入磨さんは漫画も上手い。彼女が小説を書いたことはあたしの知る限りでは無いけれど、彼女が描く漫画の美原と砂霧さんの台詞は本当に生き生きしていて、どんな文脈に置かれていても紛れもなく、「美原湧」と「時岡砂霧」だ、って思える。
入磨さんの生み出す湧霧が、いつしかあたしの理想の湧霧になった。だから、入磨さんはあたしの神様なのだ。他にどんな上手な絵師がいても、入磨さんこそがあたしの唯一無二だ。
その入磨さんと、ついに東京ビッグサイトで会える。明後日のイベント、あたしはきっと真っ先に入磨さんのスペースに直行する。そして終わったあとの時間も、あたしが貰える。正確にはアフター、つまりイベントの打ち上げを、今回湧霧でサークル参加するもう一人の同人作家tsukimiさんと入磨さんとあたしの三人でやる。
いよいよ明日やぁ、東京。
画面の向こう、あるいは電波のその先で、まだ顔の見えない入磨さんが独り言のように息の混じった声で呻いた。寝る前にデスクトップの通話アプリを開いたら、入磨さんがオンラインでいつものサーバーにいた。
「ホテル、有明ですか?」
「それがなぁ、会場の近くは取れへんかってん。残ってるとこも全部高くて。せやから新橋にしてん。新橋ってホンマに行ったことないねんけど、どんな感じなん?」
入磨さんの声は低めでゆったりしていて、いつでも少し気怠げな響きがある。ときどき語尾を伸ばして、それがくぐもったようにちょっと下がる。
「新橋かぁ、あたしもあんまり行かないですけど、サラリーマンが飲み会してる街ってイメージですね。夜は酔っ払いとか多そう。でも明後日は祝日だから、そんなでもないのかな」
「そうなんや? 明日の夜ひとりでなに食べよう。ちるちゃん、明日は空いてへんもんな?」
どきん、と心臓が跳ねた。
「……明日~、は、ちょっと。職場の人と飲み会、前から決まっちゃってて」
「せやんなぁ」
「うぅ、ごめんなさい。ご一緒できればよかったんですけど」
迷った一瞬の間に脳がフル回転して、いっそ本当に飲み会を断ってしまおうかと考えた。明日は直属の上司が来る。隣の部署の部長も来る。よく仕事で関わる別のチームのマネージャーも。上司に、今度は絶対来てよと言われていたのを思い出した。
いや、職場の人間関係と入磨さん、どっちが大事なのよ? 入磨さんはあたしの神様なのに。
「いやいや気にせんといて。ちるちゃん忙しいんやから、そんな前日に言われてもって感じやんな。てか明後日は朝からずっと動きっぱなしになるんやし、なんか買うてホテルで食べて早めに寝よかな」
「それもそうですね。移動で疲れも出ますし、ゆっくり休んでください」
「でも、明後日ちるちゃんとtsukimiさんと会えるん楽しみやわ。湧霧のサークル、今回あんま多くないねんな」
「ねー。宮鴻、鴻宮とかはやっぱ多いんですけどね」
「主人公カプやし、やっぱそこは覇権やんか。tsukimiさんもたまに宮鴻描いてはるもんな」
「あたしも鴻宮より宮鴻派です。前結構見てました」
「わかる~」
ポロン、と音がしてサーバーにもうひとり入ってきた。米粒に可愛い手と足が生えて顔が付いた米粒の妖精のようなイラストのアイコン。今年のアニメ化をきっかけに新規参入した現役大学生の彼女は、宮鴻で明後日出ると言っていた。
「あ、コメちゃんやぁ。いらっしゃい」
「こんばんは、えへ、来ちゃいました。入磨さん明日東京入りですよね?」
「せやで~」
「早く寝なくていいんですか」
「ふふ、せやんな。なんか寝れへんくて」
「大丈夫でしょ、午後便だし」
「あ、そうなんだ。じゃあ大丈夫かもですね。てか、ちる子さん何でサークル参加じゃないんですかぁ。ちる子さんの湧霧本めっちゃ読んでみたい」
「ほんまやわ、何で出えへんのよ」
「やー……なんかすいません。でもほら、一応サークル参加ですよ」
「え? うそ」
「そんなん言うて、お手伝いやろ。お姉さんの」
入磨さんがあたしを詰るように、でも笑いを含んで茶化すような声音で言い、コメさんが落胆して「なんだ〜」とブーイングする。
「ですです。全然違うジャンルで売り子しますけど、補欠みたいなもんなんで。設営終わったらとりあえず入磨さんのとこ挨拶行っちゃいますね。コメさんのとこも」
「はーい、待ってますぅ」
態とらしく丁寧な調子の入磨さんに、コメさんがコロコロとした声で「待ってまーす」と重ねた。
九月に入磨さんが東京のイベントに参加を表明した時、実際あたし自身、今度こそ出るべきなんじゃないかと思った。あたしよりも後にひまエニに「沼った」入磨さんが、こんなに積極的に同人誌を作っているのに、あたしは何をしてるんだろう。だんだんと萎みつつあった湧霧界隈を少しでも盛り上げたかったから、大学生の頃になってようやく勇気を振り絞って小説を投稿し始めたんじゃなかったの。
どうなんだ、「ちる子」。
2
モニター隅のデジタル時計に目を遣ってもう十二時だな、と思ったその瞬間ぴったりに、数メートル先のテーブルで仕事をしていた向坂さんがスススと寄って来て「お昼行かない?」と声を掛けられた。もうちょっとキリが良いところまで作業したかったけどどうしようかな、まあいいか、と一瞬だけ考えて席を立った。
新卒から勤めている会社の良いところのひとつは、本社オフィス周辺のランチ事情が比較的充実していることだと思う。大学時代の友人なんかと話をすると、勤め先から徒歩圏内でパッと昼休みに行ける飲食店が少ないとか、あってもデイリーユースには高級すぎるとかいう話もよく耳にした。
ピークタイムでも早めに行けば安定して席を確保できるスパイスカレー屋が、向坂さんのお気に入りだ。元彼がスパイス狂いだったそうで、付き合っていた頃はもう見たくもないというほど都内のスパイスカレー店を巡ったり彼の手作りを食べさせられたりしていたらしいが、別れてしばらくすると再び彼女の体はスパイスを欲するようになってしまったのだと以前ぼやいていた。
「うわー。めっちゃ可愛い、この子」
カレーを待ちながら私用スマホを見ていた向坂さんが呟いた。あたしがちょっと首を伸ばすと、自然な流れで画面をこちらへ向けてくれる。SNSのフィード画面で、白い腹が露わになるほどのショート丈トップスにミニスカート、またはスカートに見えるパンツなのか判らないが、なかなかに攻めたファッションを纏った恐ろしくスタイルの良い黒髪の美女が不敵にこちらを見つめていた。
「確かに可愛い。てか細いなー。内臓入ってる?」
「入ってないよ、たぶん」
「で、誰?」
「来週デビューする新グルの子。平均年齢十七歳なんだって」
「若っ。何人いるの?」
「六人。ホントは七人だったんだけど、体調不良? か何かで離脱してるっぽい」
「ふぅん」
「日本人もいるよ。二人」
「そうなの? どの子?」
「えっとねー」
向坂さんは画面をタップしたりスクロールしたりして数秒見分したあと、「この子、と、この子」と言いながら最初の美女とはやや系統の違う美女を指さして見せた。
「へぇ、言われないとわかんないね。カッコいい系? クール、ってか強そう。他はみんな韓国?」
「ううん、タイの子もいる」
おまちどうさま、と南アジア系の店員がやって来て、意外に繊細な手つきであたしたちの前にカレーの皿を置いた。ふたつの皿には具沢山の黄色っぽいカレーライスが盛られている。
向坂さんはKPOPが好きで、しかも特に「推して」いるのは女の子のグループばかりだ。最初にその話を聞いた時は正直、ひょっとして同類だったりしないかなと淡い期待を抱いたのだが、そのあと彼氏とか元彼とか「将来」とか、の話をする彼女の口ぶりがド直球のヘテロだったのでちょっとがっかりした。それはそうで、別に女の子のアイドルが好きな女が全員バイかレズなわけではない。そんなことはわかっている。
アイドルが好きだとか、アニメや漫画が好きだとか、みんな昔よりもずっと言いやすくなったんだろうな、と思う。向坂さんみたいにキラキラしておしゃれな女の子も、平気で「私オタクだから」と口にする。あたしはそのビッグウェーブに微妙に乗り損ねた。中高時代を「地味なオタク女子」として教室の隅で過ごしたことにうんざりして、大学に入ってから「オタク」を完全に隠蔽することを覚えたら、もうちょうどいい「オタク」の出し方が判らなくなった。
「てか新グルもいいけどさ、向坂さんの推しちゃんは元気なの」
「え、ニンニン? 全然元気だよ。これ昨日のインスタの投稿。見て、このさ、髪上げてんのマジ可愛くない? 泡もくれたし。超ハッピー」
泡、というのは向坂さん曰く、KPOPアイドルがほとんどやっているバブルというファン向けの登録制有料アプリだそうで、普通のメッセージアプリのような感覚でアイドルがファンに向けてメッセージを送ってくれるらしい。ブログなんかよりはチャットのような感じで短文でも送れて、応答があるとは限らないがこちら側からも送り返せる。CD制作中の裏話だとか、撮影のオフショットとか、あとは普通に日記みたいに昨日食べたものの写真とか自撮りとか、そういうのを送ってくれたりする。
それってどういう感じなんだろうなぁ、とは思う。あたしもSNSでそこそこ好きなバンドとか芸能人とかインフルエンサーとかをフォローしたりしているけれど、本気で好きな「推し」が生きている人間だったことが今まで一度も無いから。
推しが生身で生きていて、本当に嘘偽りなく同じ空の下のどこかにいて、普通に息を吸ってごはんを食べているなんて。もしかしたらあたしの書いたメッセージを読んだり、あたしの声を聞いたり、あわよくばレスポンスをくれたりしちゃうかもしれない、なんて。
「松原さんは推し、作んないの? 楽しいのにぃ」
スプーンでちょっとだけ掬ったカレーを華奢な手首で可愛らしく口元に運びながら、向坂さんは無邪気にそう言った。「んー、あたしはあんまり、そういうのわかんないからなぁ」と、お決まりの台詞を吐く。
推し。推し、ね。推しカプ、ならいるよ。
強いていうならあたしの推しは時岡砂霧なんだろう。でも時岡砂霧単体が推しというよりはさ。それはもちろん砂霧さんのこと大好きだし、カッコいいし、めちゃくちゃエロいとも思ってるけど、やっぱり美原湧の隣にいる砂霧さんが一番、っていうかもう狂おしいほど好き、みたいなところはあるからさ。
昼休みのチャイムが鳴ったら、教室の後ろのほうに座っているチカちゃんの席にお昼を持ってマユと一緒に集まって、近くの適当な空いている椅子を借りて引っ張ってきて、一個の机に椅子みっつ、で寄り集まってお弁当を広げた。というか定期的に席替えをするのだから、別にいつもチカちゃんの席が後ろだったわけではないはずなのだが、高校時代のことを思い浮かべた時にあたしの頭にパッと浮かぶのはそういう光景なのだ。
あんなに毎日毎日一緒にお昼を食べて、昼休みの間中ずっと、何なら放課後だってずっと、その頃流行っていたアニメや漫画の話とか、オススメの商業BL漫画の話なんかをしていたはずなのに、チカちゃんとマユに会ったのは今のところ、卒業式が最後だ。チカちゃんは千佳子だからチカちゃんで、マユの漢字は確か麻優、だった気がする。それすら少し自信が無い。我ながら薄情なものだと思う。
「いや、ほんっとに聞いて。マジでブラセラがアツすぎる。もうウチ今、起きてる間ずっとセラ悠のことしか考えてないもん」
「セラ悠? マジ? 王道だね~」
「ブラセラってやっぱ良いの? あたしあんま興味湧かないんだけど」
「いやそれは食わず嫌いにもホドがあるっていうか、流石に損してるって。萌えの宝庫だよ?」
「や~でもさぁ……メインが兄弟関係なわけでしょ? それでカプ妄想ってなると、なんか近親相姦っぽくて気が引けるし」
「最初はそう思うかもしんないけどさぁ、慣れるとそこが逆にグッとくるようになるんだって」
「そんなもん?」
「えーてか、マユはカプで言うと何が好きなのよ。あ、待って。逆だったら怖い」
「だいじょぶ、逆ではない。私ミハ漣」
「あ~それ……はそれで良い」
「なんかさ、やっぱ何だかんだ言ってビッチ受けが一番刺さっちゃうんだよね」
「セナちゃんそれ好きだよねー。商業の趣味わかりやすすぎるもん」
「あとあれでしょ、セフレから始まってガチになるやつ」
「BLのファンタジーね」
「ファンタジー言うなって」
「まあ実際わかる。アツいよね。『別に本気とかじゃないし……』みたいなこと言いながら一人でモヤモヤしてんのが最高」
「てかビッチ受けってツンデレ受けとは違うの?」
「は? 全ッ然違うよ。BL学園初等部からやり直して」
そんな話を延々と、それはもう日が暮れるまでだらだら、いつまでも続けていた。それはそれで良い思い出だと、思えるのは嘘でもないのに、より鮮やかに瞼の裏へ迫ってくるのはどうしてチカちゃんやマユの名前の漢字よりも、実咲ちゃんの顔のほうなんだろう。
「ね~、瀬那ちゃんって何でそんなに現文の点数良いのぉ。ホントにすごい」
返却された答案用紙を握り締めた実咲ちゃんが、薄めの可愛い眉毛をハの字にして、鈴のような声でそう言ったのを覚えている。
「いや、あたしは逆に現文できるだけだから……そう言う実咲ちゃんはまた英語すごいじゃん」
「そんなこと言ったら私だって英語だけですし」
ちょっと唇を尖らせて拗ねた素振りで言う実咲ちゃんには全然嫌味めいたところが無いから不思議だ。彼女は帰国子女で、小学生から中学生の間くらいの三年間か四年間、カナダのバンクーバーにいたらしい。だから英語は、そんなに勉強しなくても得意みたいだった。かと言って国語は全然駄目なのかというとそんなこともなくて、実咲ちゃんはむしろ古文なんかは大好きだった。「和歌とか源氏物語とか、平安時代って素敵だし面白い」と言って、試験に出るわけでもないのに趣味で百人一首をほとんど覚えてしまったりしていた。人々のイメージ上の「帰国子女」みたいな、いわゆる海外かぶれみたいな感じではなくて、おっとりしていて誰にでも優しくて、あと華道部だった。
もっとしょっちゅうつるんでいた「いつメン」たちとは卒業したあと全然会っていないのに、実咲ちゃんとは大学一年生の終わりくらいに一度会った。彼女とは別々の大学に進んだけれど、SNSの投稿にコメントをくれたところからなんとなく会話が始まって、久しぶりに遊ぼうよ、という流れになったのだ。
「実はね、統也と別れたんだ。先月」
冬の割には暖かい夜だった。駅ビルでご飯を食べたあと、新宿駅南口のペンギン広場のベンチでホットココアの缶を両手で握りながら、実咲ちゃんは言った。
びっくりした。実咲ちゃんの言う統也、桐原統也というのはあたしたちの共通のクラスメイトで、本人によると高一くらいの頃から、ずっと二人は付き合っていた。
桐原くんも穏やかでのんびりしてシャイなタイプだけど、結構カッコいいほうだったからスクールカースト的な話で言えば割と上位のほうにいて、実咲ちゃんは実咲ちゃんで文句なしに可愛かったし、いつも仲良しでニコニコしていてお似合いのカップルだった。
「大学入ってからね、統也、なんて言ったらいいんだろ……ちょっと変わっちゃったっていうか。在学中に起業したいんだって。それは全然良いと思うし、私も応援したいんだけど、でもなんか……価値観変わっちゃったのかな。私が好きなこととか、やりたいこととか、『それって何のメリットあるの』とか『時間とお金の無駄じゃない?』とか言うようになって。前はそんなこと絶対言わなかったのに。なんかどんどん嚙み合わなくなっちゃって、私が悩んでる時もあんまり理解してくれなくて。そういうのしんどいなって思ってたら、向こうから『別れよう』って」
泣きはしなかったけれど、実咲ちゃんは寂しそうな瞳で静かにそう語って、あたしは「そうなんだ……」としか言えなかった。
うわー、桐原くんってそういうタイプになっちゃったんだー、ちょっと嫌だなそれー。
とは思ったけれどそこまで強いことは気が引けて言えないし、正直少し想像がつくような気もしてしまったのだ。大学入って、なんか自己啓発本とか読んで、変に感化されちゃったんだろうなぁ、とか。
「統也と別れてからしばらくは、ホントに悲しかったんだよ。私、統也と結ばれなかったら一生誰ともお付き合いできないし結婚もできないって思ってたの。だからもう、おしまいだーって」
「そんな……ことはないと思うけど」
あたしが遠慮がちに口を挟むと、実咲ちゃんはエヘヘと恥ずかしそうに笑った。
「ホントそうだよね、そんなわけないよね。大丈夫、今はわかってるよ。しばらく落ち込んだあと、これで良かったんだなって思ったの。何で私、勝手に自分で自分のこと縛ってたのかなぁって。だから、これからもっと自由に生きて、めいっぱい好きなことをしたいの」
そう言って、きらきらした目を私の顔にぐっと近づけた実咲ちゃんはやっぱり可愛くて、高校生の頃から何も変わらずずっと可愛くて、私は「良かった、立ち直って」なんて大人ぶったようなことを言いながら、ちょっとくらりとしてしまった。ジャスミンとバニラのような良い香りがした。マフラーからはみ出た、色素の薄い、柔らかそうな髪。別にお母さんかお父さんが欧米人とか、そういうのでもないらしいけど、実咲ちゃんは髪の毛が栗色っぽくて色白だ。その髪に触ってみたらどんなかなぁとずっと思っていたけど、あたしは触れない。
桐原くんなんかじゃなくて、あたしにすればよかったのに。あたしなら実咲ちゃんの好きなこと、やりたいこと、全部応援するし、なんでも力になるよ。悩んでたり悲しかったりする時はずーっと夜通しでも話を聞いてあげる。
なんてことは言えるわけもなく。
「なんか、瀬那ちゃんには何でも話せちゃうなぁ。不思議だね。私たち高校の時は、いつも一緒にいたってわけじゃなかったのにね。でも私は瀬那ちゃんともっとお話したいなー、もっと遊んでみたいなーって、ずっと思ってたんだよ。だって瀬那ちゃん、面白いんだもん。私が知らないこと、いっぱい知ってる」
そんなことを言った実咲ちゃんは別にあたしが居なくたって平気なくらい賢くて強い子なので、その後の大学生の間に彼女は一年間イギリスのオックスフォードに交換留学をして、学部を卒業したあとロンドンの大学院に進学した。イギリス文学の研究をしているらしい。ときどきSNSに、イギリスかヨーロッパなんだろうなという雰囲気のおしゃれな写真が上がる。それからたまに、彼氏なのかな、って感じの、金髪碧眼のキュートな男の子との仲が良さそうなツーショットも。
3
『陽を待つエニグマ』 長編漫画作品
ジャンル:ミステリー、サスペンス
青年向け月刊誌で約6年間連載された。舞台は現代の東京。個人で探偵業を営む宮之原を中心に、それぞれ異なる背景や過去を持つ登場人物たちの縁が混じり合いながら、巻き起こる難事件に挑む。彼らは時に暴力団、犯罪組織、秘密結社、カルト宗教団体など、社会の暗部にも切り込んでいく。
宮之原大洋(30)みやのはら・たいよう
178cm/70kg
犯罪心理学の学位を持つ探偵。皮肉屋でひねくれ者だが、内面には情の深さ、愚直さを併せ持つ。妹に関係する過去の事件に影響を受けて現在の職業を目指した。犯罪心理学者としてルポや論考を書くことを副業にしている。事件以外については大雑把な性格で、生活態度はだらしない。喫煙者。
鴻ノ池宗春(32)こうのいけ・むねはる
178cm/63kg
警視庁の科学捜査官。民間の立場にもかかわらず警察関係者に裏で頼りにされる宮之原に反感を持ち、ライバル視している。合理主義者だが、短気で神経質な面がある。科学や数学、統計に基づく論理的な視点を重視する。甘いものが好き。月に1度か2度だけ煙草を吸う。
時岡砂霧(29)ときおか・さぎり
177cm/67kg
時々現れて宮之原に協力するエンジニア兼データブローカー。実は犯罪組織と繋がりがある。一見すると物腰柔らかく社交的、人懐っこく他者と距離を詰めるようだがその実は計算高く冷静沈着。家族・親族との関係に憂鬱を抱えている。兄弟が多いが一人として仲は良くない。
長谷川忠善(36)はせがわ・ただよし
174cm/72kg
警視庁捜査一課の警部補。真面目で義理堅く、家族思い。情熱と男気があって気さく。弱いものに優しく、不正義に対して怒り反発する胆力がある。仕事になれば的確な判断力と行動力で、多くの事件を解決に導いてきた。妻と子どもがいる。プライベートの趣味の場で偶然時岡と会い、当初は互いの素性を知らずに友人関係になった。
美原湧(24)みはら・ゆう
180cm/73kg
新人刑事。長谷川とはバディの関係。真面目で情熱的かつ快活な性格。素直で聡明なため先輩らの指導を真摯に受け止め成長している。極端に肝が据わっており怖いもの知らずなため、危険な局面にもすぐに突っ込んでいってしまう傾向にある。古いハリウッド映画が好き。犬派。
喜多村蓮加(32)きたむら・れんか
158cm/52kg
法医学者。司法解剖が専門分野。鴻ノ池とは子どもの頃から実家が近所の幼馴染み。フェミニンな外見とは裏腹にがさつな口調でさばさばした性格だが、医学や薬学、法律の知識は一流。衒いのない優しさで遺族に寄り添う一面も見せる。宮之原のことを異性として意識している描写がある。
牧島澪奈(21)まきしま・みおな
165cm/50kg
宮之原が非常勤講師を勤める大学の学生。明るく好奇心旺盛で、学問にも熱心。本人はあまり自覚していないが観察眼と洞察力に優れており、時に周囲が驚くほど鋭い発言をすることがある。高校生の頃の親友との出来事をきっかけに、大学で犯罪心理学を専攻することを選んだ。
高級すぎずカジュアル、それでいて洒落感もありそうな丸の内の店を、あたしが予約した。あたしが幹事ってわけでもないと思うのだが、言い出しっぺのtsukimiさんと入磨さんと話していて、イベント会場は有明だし、入磨さんのホテルは新橋だから、夜は東京都心にしたほうがいいよね、となった。
「でも東京の店あんまり知らないなー。オレ……横浜市民だからよ……ちるちゃん、どう?」
「あたしも詳しくはないですけど、幾つか候補上げるとかは全然できますよ。会社の人ともそっちのほうで飲んだりすること多いし」
「頼もしいッ! じゃあ良さげなとこピックアップしといて」
「りょーかいです」
オンラインでtsukimiさんとのそんな会話があった結果、あたしが三、四軒挙げた店の中で、ドイツ系のビアバーのリンクを見た入磨さんが「ビールええな~」と軽く言ったのでそこに決まった。
明るめのブラウンに染めた髪を、普段の倍くらいの時間を掛けて丁寧に念入りにコテで巻いた。ベースが崩れないように下地を全顔に塗ったら軽くティッシュで押さえて、一番持ちが良いファンデーションを塗ってもう一度ティッシュで押さえる。そして特別な時しか使わないほうの、高いパウダーを叩き込む。アイシャドウの色は強すぎず控えめに、でも粉のキメは細かい、これもちょっと高いやつを。あたしの肌色に合う、オレンジ味の強いピンクのリップを引く。
高校を出て化粧を覚えたのは、「ダサいオタク」から「ちゃんとした一般女性」に「擬態」するためだった。でも今、あたしはオタクしかいない空間に行くために全霊懸けて化粧をしている。女の園の中で、少しでも綺麗だって、素敵だって思ってもらうために。
誰に?
お姉ちゃんのスペースにやって来る、見知らぬオタクに。コメさんに。tsukimiさんに。ひまエニでサークル参加している絵師さんや字書きさんたちに。
それからたぶん、あたしの神、入磨さんに。
「あっ、来た! ちるちゃん、こっち!」
明るく穏やかにざわめく暖かい店の奥で、壁際の四人掛け席の奥に座っていたtsukimiさんが私を見つけて手を上げた。そして手前側の椅子にこちらへ背を向けて座っていた入磨さんは、振り返ると私の顔を見て微笑んだ。
もはやずっと前のような気さえする今日の午前中に、初めて入磨さんの姿を目にした時、あぁこれが、この人こそが「入磨さん」なんだと心の底から納得した。あたしがぼんやりと想像していた「入磨さん」と、ほとんどギャップを感じなかった。
癖の無いさらりとした髪は黒くて、項にかかる程度のショートヘア。晴れた日の海のような、綺麗なブルーのニットを着ている。両方の耳たぶには雫のような形をした透明な石の揺れるピアス。すらっと細く、首も肩も手首も華奢だった。あたしが「入磨さん、ちる子です」と言って、彼女が嬉しそうに立ち上がった時、目線がすぅっとあたしよりも高くなった。メイクはそれほど派手ではなく、でもアイラインは濃いめに引かれていて、ちょっとマニッシュでクールな感じ。どこからどう見ても入磨さん。入磨さんの具現化。
そんな人があたしを見て、何度も聴いていたのと同じ声で「ちるちゃん、リアルでは初めましてやね。ほんまに会いたかったぁ」とゆったり言い、お花のようにふんわりと笑った。その瞬間のあたしの胸の中、の柔らかい部分、の揺らぎ、はちょっと言葉にならない。
「ね~ちるちゃん見てよコレ、ビール、死ぬほど種類ある。めちゃんこ説明書いてあるけど何書いてあんのか全然わかんねぇよ」
店の入口から見て手前側、入磨さんが座る隣の椅子に腰掛けたあたしに、tsukimiさんは正面から大きな冊子型になったメニューをこちらへ向けて見せてくる。
「えー、こんなの勘で選べばいいんじゃないですか。あたしこのヴァイツェンってやつにしようかな。一番スタンダードって感じ」
「とりあえず王道から攻めるタイプ? じゃあ私はこのボック。なんか知らんけど良さそう。入磨さんは?」
入磨さんはやたらと細かい字で度数やら解説やらが書かれたメニューを注意深く眺めてから、ひとつを指さして「私、これにする」と言った。ヴァルシュタイナー。軽い口当たりでのどごしがいい、と書かれている。
「おっ、そのココロは?」
「これ、いっちゃん度数低いから」
「えぇ? そこ?」
「私、お酒弱いねん」
「そうなの!? じゃあ何でビールがいいって言ったのよ」
tsukimiさんがおかしそうに笑った。
「や、弱いけど、ビールは一応飲めんねん。なんか、すっきりしてるから。あとカシスウーロンとか、そゆのも飲める。あ、シャンディガフも。でも一杯しか飲まれへん。それ以上いったら寝る」
「え~意外。入磨さんって酒豪なのかと思ってたわ。じゃあ入磨さん、この一杯しか飲めないんだ」
「せやねん。大事に飲まな」
「ちるちゃんはお酒強いの?」
「えぇ、どうですかね。普通くらいだと思います」
「そうゆう言い方しはる人がいっちゃん強いんちゃう?」
「それな?」
「違いますって、やめてくださいよぉ」
適当にザワークラウトとかソーセージの盛り合わせとか牡蠣のフライなんかを一緒に頼み、しばらくして店員が最初に運んできた三つのビールは、上に向かって広がるラッパのような形をした背の高い大ぶりのグラスに注がれていた。それぞれ色味が少しずつ違う。tsukimiさんのが一番濃くて、レンガのような赤っぽいブラウン。入磨さんのとあたしのは割と近いけれど、入磨さんのほうがやや薄くて透明度が高い感じがする。
「じゃあ、かんぱーい。みんなお疲れさま~」
「はーい、おつかれ~」
「おつかれさまです~」
かちかちとグラスをぶつけて各々一口目を飲む。tsukimiさんが豪快に「アーッ」という声を上げ、入磨さんは一杯しか飲めないというだけあって、心なしかおそるおそるといった様子でちびりと飲んだ。あたしは声には出さないけれど、働いたり動き回ったり挨拶回りしてそれなりに疲労したあとのビールは旨いなぁとしみじみ心の中で思う。
「でも私らさ、今日初めて顔合わせたんだよねぇ。なんか信じらんないんだけど。オレらずっと前からマブだった気がするぜ? 初めて会った気がしない」
「イメージ通りだったからですかね。みんなでもくりとかディスコードで喋ってたのの、そのまんまって感じ」
「確かに。それはある。あっでもー、ちるちゃんも入磨さんもチョー美人でビビッちゃった。なんかスイマセンって気持ちになった」
「なんでやねん。てかtsukimiさんやってめっちゃ可愛いし」
「なーにをおっしゃいますか」
誰を相手にしてもマシンガントークを繰り広げられるtsukimiさんと、ゆったりした調子ながら関西人っぽい軽妙さでぽんぽん応答する二人の会話はテンポが速くて、あたしは正直ときどき口の挟みどころを見失う。
実際tsukimiさんの言うように、イメージ通りだった。入磨さんは入磨さんだったし、tsukimiさんもtsukimiさんで、古着系の派手な柄物を好むらしい独特なファッションセンスとか、小柄で小動物っぽさがあるけれど見るからに気が強くて物怖じしない感じとか、まさに想像していた通りだった。彼女に関してはときどき顔の部分だけをスタンプで隠した服装の自撮りなんかをSNSに載せていることもあったので、最初から雰囲気のイメージができていたというのはあるが。
「でも湧霧は少ないけどさ、ひまエニ全体で言ったら結構出てたし、盛り上がってたじゃん。なんか感動したよね。宮鴻だとコメちゃんみたいな若い子も出てたワケだしさぁ」
「それはほんまに、新規の私でも思って、なんか感動してん。でも古参のtsukimiさんからしたらもっとやろ。ちるちゃんもか」
「あたしも正直、今までのイベント会場のひまエニの空気感、とかはよくわかんないんですよね。現地行くの自体、あたしはこれで二回目とかなんです」
「えっ? 同人イベント自体がってこと?」
「そですよ。大学生の時にお姉ちゃんの手伝いで初めて一回だけ行って。その時はでも、まだギリひまエニのサークル結構あった気がします。湧霧は三個か四個くらい出てました。誰だっけかな、確か全頭葉さんと、おにしめさんはいた」
「うっわ! 懐かしー、その名前。おにしめさんの湧霧漫画、神だったよねぇ。どこ行っちゃったんだろ、結局全然戻って来てくれてないじゃん」
「そのふたり、たぶん私も過去作とか漁っとった時に見たわぁ。てか絶対ブクマしてる」
そう、当然と言えば当然だけれども、ひまエニの連載が始まった約十三年前、くらいからずっとひまエニの二次創作をしている人たちはインターネットに居続けたのだ。そのうちのかなり長い期間を、あたしは見てきた。その間、現れて素晴らしいイラストや漫画や小説を投稿サイトに残して去り、二度と見なくなってしまった人も大勢いる。サイトに残っているならまだ良いほうで、消えてしまった作品もたくさんある。
「でもさぁ、ちるちゃんはホントいい加減イベント出よーぜ。お姉さんじゃなくてさ、ちるちゃん本人のサークルで。湧霧本出そうよぉ」
「うう……ホントそうですよね。なんか自分が信じられないっていうか。あたしが本なんて作れるほど書けんのかって思うし、需要あんのかって思っちゃうし」
「需要ならゼッテーある! し、本なんて最悪二ページ書いて折れば本になんだよっ」
「せやで~。てゆか、ちるちゃんが今までピクシブに載せてるやつ全部まとめて再録にしたってええんやし」
「えぇ……それ意味あります? 短編集みたいな感じ? 書き下ろしも少し足せばいいのかな」
「そうそう。紙の本になるってことが大事やねんから」
うーん、と唸って小さく溜息を吐いたあたしを、入磨さんがじっと横から見ていることにふと気が付いた。
「どうかしました?」
「ちるちゃん、ちょおこっち向いて。真っすぐ」
「え? は、はい」
tsukimiさんは頬杖を突いてこちらを見たままきょとんとした顔をしている。あたしも何か解らず、とにかく言われた通り顔を入磨さんに向けた。真正面から目が合って、どきんとする。しんと深い静かな色をしたダークブラウンの瞳。
「それ、ピアス? イヤリング? 左右で色違うんやね。わざと?」
「え、あ、イヤリングです。そうなんです、これ、湧霧のイメージのつもりで。右の水色のほうが砂霧さんで、左のオレンジが美原くん、みたいな」
「えーッ、嘘ォ! 気づかなかった! 超カワイイ~、私にも見して!」
あたしが今日ずっと付けていたのは、華奢なゴールドカラーの金具に短いチェーンが下がり、色の付いた丸いガラス玉が揺れるシンプルなイヤリングだった。別にキャラクターのイメージカラーが明確に決まっているわけではないけれど、なんとなく界隈の中で砂霧さんは淡い寒色系、美原くんはオレンジか赤かな、みたいな雰囲気はある。
「かわいい」
ふとすれば息さえかかりそうなほど傍で、耳に残る低く柔らかな声で入磨さんが言った。別に口説かれているわけじゃない、ほんの何気ない調子。ただ持ち物を、装飾品を可愛いって褒めているだけ。女子同士なら珍しくない、オタク同士だって珍しくない。
そう、たったそれだけ。
4
あたしが『ひまエニ』にハマったのは単に、中学生の頃のあたしが大型チェーンの古本屋で漫画を探して立ち読みなんかしていた時に、たまたま話題の漫画を見つけてページをめくってみたというシンプルなきっかけだった。
けどそもそも、あたしがオタクになったのは大元を辿れば明らかにお姉ちゃんの影響だった。六歳上のお姉ちゃんは根っからのオタクで、あたしが物心ついた頃には家にお姉ちゃんが親に頼んで買ってもらったり自分のお小遣いで買ったりして集めた漫画が山ほどあったし、テレビやパソコンの前に並んで一緒にアニメを観たりもした。
あたしはそっちは全然駄目だけど、お姉ちゃんは絵を描くのが昔から好きだったから、毎日毎日絵を描いて、彼女が中学生の時にはネットでイラストを公開し始めた。
イラストサイトに投稿を続けていくうちに彼女は「二次創作」という、海のように途方もなく深く広大な世界に足を踏み入れるようになった。キャラクター同士の、原作には描かれていない物語や関係性を想像ないし妄想する「カップリング」というカルチャーを知り、いわゆる「腐女子」の自我も芽生え、やがてお姉ちゃんの本棚には漫画の他に同人誌専用のコーナーができ始めた。
お姉ちゃんは四年くらい前、仕事で知り合った人と結婚した。お相手は同人活動にそれなりに理解があるけれど別に漫画やアニメのオタクって感じでもなく、映像制作のプロダクションで働いている、映画や音楽が大好きな優しい文化人のお兄さんだ。
そして当のお姉ちゃんはと言えば、フリーランスでグラフィックデザインの仕事をする傍ら別名義で老舗系人気ジャンルの二次創作同人作家をやっている。SNSのフォロワーが五千人か六千人くらいはいる、結構な大手アカウントだ。
「瀬那、ごめんけどそのおしぼり、の袋どけて」
「はいよ」
固めのプリン・ア・ラ・モードが名物の「昭和レトロ系」喫茶店で、お姉ちゃんが「ぬい撮り」に勤しんでいる。キャラクターがそれぞれ二頭身くらいにデフォルメされた可愛らしいぬいぐるみを推しカプでふたつ、いや二人並べて、おしゃれなごはんやスイーツや風景なんかと一緒に写真を撮るのだ。
「いい感じ。カワイイ~。よかったねぇ、京リオちゃん。プリンだよ~」
「よくわかんないけど、プリンアラモード食べてる京リオちゃんは可愛いかも」
「それアリ。後でそれで絵描こうかな」
「いいじゃん」
「てか瀬那、この前の売り子のおバイト代、何にするか決めた?」
「えーどうしよう……スックのアイシャドウパレットとかにしようかな」
「いいじゃん。あんただったらピンクとかコーラル系が合いそう」
この前の売り子、というのはもちろんあの十一月二十三日のイベントのことで、あたしはひまエニ界隈の相互フォローの方々へのご挨拶や自分の買い物をしつつも一応与えられた任務をこなしたから、お姉ちゃんが一万円前後程度なら何か好きなもの買ってあげる、と言ってくれたのだ。
そんな話をしながら、あたしはテーブルの上のお姉ちゃんのぬいを見下ろして、ちょっと羨ましいなぁなんて思っている。ひまエニ界隈ではぬい撮り文化はほとんど無い。そもそもぬいが公式グッズとして発売されていないからだ。アクリルスタンドはあるけど。
「あのあとアフター行ったんでしょ。あんた、そういうの初めてだったんじゃない?」
「そうかも。イベント一般参加した時に好きな作家さんにご挨拶したりとか、そのくらいはあったけど、ちゃんと腰据えてオフ会みたいなのは初めてだった」
「どうだった?」
「すごい楽しかったよ」
「ふーん、なんか結構あっさりしてんね」
「別にそういうわけじゃないけど」
「まあ、ネットの人間関係ってうまくやれてればいいけどさ、下手すると面倒臭いからね。しかも同人界隈は特に。深入りしすぎないように気をつけなよ」
「お姉ちゃんは前に何かあった? 面倒臭いこと」
「そりゃーもういろいろ。言い出したらキリないくらいたくさん」
まあ、それはそうだよね。お姉ちゃんほどバリバリ活動してはいないあたしでさえ、思い当たることはあるし。
ジャンル、つまり各コンテンツ、によって空気感は全然違う。子どもや若いファンが多いのか、大人のファンが多いのかによっても雰囲気や民度は違う。さらにカップリングごとに御山のボス猿のような、圧倒的に人気が高くてやたら発言力のある同人作家がいたりするのは珍しくないし、その人と仲が良いアカウントの集団があるとまさにボスとその取り巻きみたいになるし、誰と誰は仲悪いとか気まずいとか相互ブロックだとかも普通にある。
ひまエニに関して言えば、連載中の全盛期は若いファンが多かったし荒れることもあったけれど、今は再アニメ化による新規参入が多少あったとは言えある程度大人のファンが多いし、そもそもファンの母数が少ないので、落ち着いているほうだと思う。ただ、小さい界隈には小さいなりのデメリットがあったりするが。それこそtsukimiさんなんかは昔からいる人なので、湧霧界隈の中ではかなり存在感は大きい。
「やーでも、あたしは全然気ィ抜けないわ、年明けのインテも出るし、新刊出したいし」
「あそっか、インテあるんだっけ。大阪行くの? てかまた出すの?」
「行くよ。出したいっしょ、どうせ出るならさ」
「お姉ちゃんて凄いよね。普通に仕事も忙しいのに、そのバイタリティどこから出るの」
「まあ、もう十五年? もっと? それくらいずっとやってるし、ほぼ生きがいみたいなもんだし、ライフワークだし。自カプへの愛は無限に湧いてくるからね」
「それはわかるっちゃわかる」
「あとは、なんつーのかな。闘志? みたいなのもある。こう、メラメラと煮え滾るみたいな」
「闘志?」
トウシ、という音を聞いて、あたしがその意味を確認するように鸚鵡返しにすると、お姉ちゃんはキャラメル・ラテをひとくち飲んで少し考えるように視線を逸らした。
「なんかさ、負けてらんねえ、って思うんだよね。他の作家に。いや、負けてらんねえ、ってのはちょっと言葉が優しすぎるかも。全員あたしがブッ倒してやる、っていうほうが正しい。あたしはあたしの京リオの解釈にプライド持ってるし、あたしが一番最高の京リオを描ける、って気概でやってるから。沼の中でうまくやってくにはコミュ力も大事だからそれなりに交流もするし協力もするけど、本音の本音では全員敵だとも思ってる。あたしが京リオ絵師界隈の神になりたい」
「……神」
「そう、神」
まあホンモノの唯一神は、原作者様なんだけどね。
と、不意にパッとおちゃらけた口調に戻り、生クリームがたっぷり乗った艶々のプリンにスプーンをそっと差し込んだ。テーブルに並んだふたつのぬいは、つぶらな瞳でそれを見つめていた。
「それってさあ、承認欲求、ってやつ?」
おそらくあまり良い意味では使われないであろうその単語を、口に出すことをあたしは少し躊躇して、おそるおそる尋ねた。お姉ちゃんは意外にもあっさりと「そりゃそうよ」と即答した。
「それが全然無い同人作家なんて、存在するかな? 見て貰わなくてもいい、褒められなくてもいいって言うんだったら鍵付き日記帳にでも描いておけばいいじゃん。わざわざ個人サイトだのツイッターだのピクシブだのに公開して、同人誌作ったから買ってください、感想もください、なんて言ってるんだから、承認欲求マンマンに決まってるでしょ。見られるために、読まれるために描いてんだよ。少なくともあたしはそう思うけどね」
ノートパソコンを開いて、いつも文章を書くのに使っているエディタを立ち上げる。先々週にネタを思いついた湧霧小説が、冒頭三行だけで止まっている。それらしい単語をただ並べただけに見えてきて、ひどく空虚に感じた。三十分、か一時間くらい何か少しでも書いて、それから寝ようと思っていたのに、そこから先が何も浮かんでこない。ほとんど白い画面を見つめて頬杖を突く。窓もカーテンも閉め切った薄暗い部屋で、モニターの画面が煌々と光っている。
別に小説じゃなければいけない理由なんて無かった。ただあたしは絵が描けなかっただけだ。文字ならどうにかなるんじゃないかと思ったのだ。小説なんて書いたことも無かった。美原くんと砂霧さんがこういうことをしてたらいいなとか、こういう会話をしてたらいいなとか、ふたりでこういう場所に行っていたらいいなとか、そんなのを頭の中で何度も何度もイメージして、頭の中でふたりが喋って、それをどうにかこうにか文字に起こして。
そんなものをネットに公開していたら少しずつ読んでくれる人が増えた。ひまエニ界隈にもっとフォロワー数の多い字書きさんは大勢いるけど、あたしにもたまに「ちる子さんの湧霧大好きです!」とか、「新作とても良かったです!」とか「これからも応援してます!」とか言ってくれる人がいる。
そしていつしか、あたしの神様まで。入磨さんまで、あたしの書いた湧霧小説の話をしてくれるようになってしまった。最初はSNSで間接的に、タイトルやハンドルネームを言及して。それからリプやDMで、そして生の声で。あの、低いけれど穏やかで柔らかな声で。
ちるちゃんの小説って、綺麗よなぁ。なんて言うんかな、言葉選びが綺麗。語彙力がすごいわぁ。私、こんなん絶対書けへんもん。
ちるちゃんの書く湧霧って、あ~ほんまにそこに二人がおるんやな~って感じがするんよね。絶対どっかでほんまに生きとるんやな~って、そんな気がすんねんな。
え、その話、めっちゃええやん。ちるちゃん書いてよ。……え? ほんまに? 書いてくれる? よーっしゃあ。めっちゃ楽しみにしてるわぁ。頼みますよ、ほんま。
できれば、なるべく、たくさん読まれたい。褒められたい。この湧霧が最高だって、たくさん言われたい。お姉ちゃんの言ってることは解る。推しカプを盛り上げたいなんて綺麗で殊勝なことを言ったって、結局は承認されたいんだ。
でもあたしは今たぶん、それよりももっと強く切実に、入磨さんに承認されたい。入磨さんに褒められたい。あたしの書いたものを、入磨さんに、好きになってもらいたい。それさえ叶えば、入磨さん以外の誰かに全然面白くない、全然萌えない、つまんないって言われたって大丈夫。かもしれない。もしかしたら。
5
普段それほど残業が多い部署でもないのだけれど、今日はタスクが溜まっていたり会議が長引いたりで遅くなってしまい、やっとオフィスを出られたのは九時近くなってからだった。実家住まいなので母には夕方の時点で「今日は遅くなるから夕飯はいらない」とメッセージを飛ばしておいた。最寄駅まで帰り、駅前の安い饂飩チェーン店で簡単に夕食を済ませて家路に着く。
シャワーと最低限のスキンケアを済ませ、ドライヤーで髪を乾かし、歯を磨く。さあもういつ寝ても大丈夫、というところで、ふと自室の本棚の前にしゃがみ込んだ。あたしの同人誌コーナー。「薄い本」なんて俗称があるけれど、実際のところ厚い本も結構ある。要するに描く/書く側がどれだけの量を出力できるかなのだ。
十一月、あの手から直接に受け取った入磨さんの最新刊をそっと指先で引っ張って手に取る。白く柔らかそうに広がるシーツの上、差し込む陽の光を浴びながら美原くんと砂霧さんが向かい合って手を繋ぎながら眠っている表紙。『おやすみのキスを頂戴』。
元々眠りが浅い体質の砂霧さんが、原作でのとある事件をきっかけに不眠症が悪化する。でも恋愛関係になった美原くんと夜を共にすることが多くなって、美原くんの隣でなら驚くほどぐっすり眠れることに気がつく、という話。湧霧が好きなら泣いて喜ぶラブラブいちゃいちゃシーンもさることながら、ひまエニという物語の後半でようやく明かされだした砂霧さんの過去や家族にまつわる彼の心理描写にもかなり入磨さん渾身の力が入っていて、その繊細さには胸を打たれる。
ITの知識に長けた凄腕のフリーランスエンジニア兼データブローカーとして原作漫画に登場した謎の協力者・時岡砂霧が、日本の法律上かなり危うい位置に身を置いていることは最初から明らかだった。時には裏社会の人間と関わりを持っていたり、取引したりしていることを仄めかすような描写もあった。そしてついに、彼の実父が関東圏で最も大きな力を持つ指定暴力団「香林会」の若頭であることが判明したのは、単行本でいうと九巻のことだった。
砂霧さんには兄弟姉妹が、母親違いも合わせて五人いる。そのうち上の兄二人は、末端の構成員として香林会に直接関わっていた。他方で砂霧さん自身は実父やきょうだいや組織からは距離を置きたいと思っていたし、それにもかかわらず完全に縁を切れもしないことにずっと自家撞着を抱え続けていたのだ。
あなた、本当にこのままでいいんですか。ずっと死ぬまで、家族や血や組織に縛られたままでいいんですか。本当は逃げたかったんじゃないんですか。
あなたの人生はあなたのものでしょう。
違いますか、時岡さん。
それまで作中では常に冷静沈着で動揺を見せることがなかった時岡砂霧の隠れていた感情が、香林会総本部の爆破炎上を発端に連続発生した事件を紐解く過程で、一気に浮かび上がり始める。そんな中、自身の行動の選択に迷いを見せた砂霧さんに、十巻で美原くんが掛けた言葉だった。
はっきり言って公式における美原湧と時岡砂霧の関係性の描写はここが最も大きな山場なのだが、実際のところ、この瞬間に湧霧に「オチた」読者は少なくなかったと思う。言ってしまえば光と影、のような。
いや、そんな単純なことでもないんだよな。「あなたの人生はあなたのもの」、砂霧さんの一人称で言い換えれば「俺の人生は俺のもの」だなんてそんなありきたりな台詞は、その時までの彼の約二十九年間の人生の中で一度や二度または何度かは、きっと彼の心の中に浮かんでは消えたりしていたはずで。でもその瞬間、何度か顔を合わせたことがあるだけの刑事、砂霧さんにしてみれば国家権力の犬であるところの美原くんが、はっきりと声にして空気に乗せてくれたのだ。あまりにも真っすぐな言葉と瞳で。
物語は進み、最終的に香林会は事実上解体される。最大の対抗派閥だった関西の「藥師会」も含めて多数の犠牲者を出したものの、事態はひとまず収束した。単に幹部の息子だったというだけで、正式に盃を交わしていたわけでもなかった砂霧さんは事件後、家族とは実質的に絶縁した。裏社会との関わりを完全に絶つことは難しいものの、香林会の残部とはこれまで以上に距離を置くこととなった。
その間、彼らが何を思ったかは、詳細に言葉で語られてはいない。特に砂霧さんや美原くんは、主人公ではないから。私たちに見えるのは砂霧さんやキャラクターたちの行動や台詞や表情の動きのみで、その奥にあるものは想像するしかない。だからこそ、掻き立てられてしまう。
描かれていない余白の部分を想像して創作する、なんて言ったら少し聞こえはいいけれど、あたしたちがやっているのは所詮、ただの自分勝手な妄想だ。
そりゃあ、彼らの人生の選択だとか感情の動きだとかについて真剣に考えて考えて考え続けているのは本当だけど、突き詰めれば結局のところカップリングや関係性というものを軸にして、男男だろうと男女だろうと勝手に恋愛をさせて、時には多種多様な勝手な設定を加えたり作ったりもして、それらに「萌え」ている。どうしてそんなことをしているのかなんて解らない。でもあたしたちは夢想してしまうのだ、自カプの「攻め」と「受け」の会話を、心の交感を、肌の触れ合いを。
入磨さんの漫画の中で、砂霧さんは美原くんに「眠るのが怖いんだ」と打ち明ける。あれから恐ろしい夢ばかり見るのだと。
砂霧さんが家族と絶縁したのは砂霧さん自身が選んだことで、彼が長らく望んでいたことでもあった。しかし家族と絶縁なんて文字面だけは簡単だが、配偶者や子どもがいるわけでもない彼にとってそれは天涯孤独になったも同然なのだ。それに、「時岡砂霧」という名前は既に裏社会で知れ渡っているのだから、いつ香林会の残党や、彼に恨み憎しみを持つ者が危害を加えようとしてきても不思議は無い。
原作ではさらりと流されてしまうが、砂霧さんはそのすべての過程で何を思っただろう。何を考えただろう。辛くはなかっただろうか。
そして彼の隣にもし、美原くんが居てくれたなら。
ああ、全部妄想だ。あたしの、あたしたちの集団幻覚なんだ。
なんとなくアプリを開いたら入磨さんがオンラインになっていて、あれ、作業か何かしてるのかな、なんて思いながらチャットを飛ばしてみる。案の定「今作業しててん」「まだねえへんのやったら通話しーひん?」と返ってきて、一も二もなく了承する。
「こんばんは。遅くまで何の作業ですか?」
画面越しに声を掛けると、いつもの入磨さんの声が「ん~」と柔らかく伸びた。少しだけもう、眠そうかもしれない。
「作業、って言うほど本格的なやつちゃうねんけどな。ネタ出しというか、落書きしつつネームのネーム、みたいな」
「えー、また新刊ですか?」
「うん、まあ作りたいねんけど。とは言え次イベント出るんは来年の三月の春コミ大阪やろし、まだ先やんなぁ。年明けのインテに既刊だけ持ってってもええけど、なんかなぁって気ぃするし、ちょっとしんどいし。東京の方出るんも、楽しいけどやっぱ大変やしなぁ」
「それはそうですよね。東京来るってなったら交通費も宿泊費もかかるし」
「そうなんよ。せやからまあ、しばらくはゆったりやろかなぁって。でも描きたいものとかはぼんやりあるから、整理したりとか、イメージ膨らまそうかなぁみたいな、そんな感じ」
「なるほど~……えらいですよねぇ、入磨さん」
顔は見えないけれど、ふふっと息を漏らして入磨さんが笑った声が聞こえた。
「えらいとかいう話ちゃうよ。自分が楽しくてやってんねんから。だって私、人生で一番楽しいことがコレやもん」
「そういえば、入磨さんの私生活の話ってあんまり聞いたことないかも。あんまりプラベっぽい話ってしないじゃないですか? なんか、謎に包まれてます」
「あはは、そんなことあらへんよ。別に隠してるわけとちゃうねんけどなぁ。でもそんな、言っておもろいようなこと無いからさ」
そうかなぁ、ひまエニや湧霧の話やオタク活動の話に限らなくても、入磨さんが普段何してるのかとか、生活の中でいいなって思ったモノやコトとか、そういうのなんでも聞きたいし、知りたいですよ。
と思ったけれど、その発言はなんだかキモいんじゃないか、という気がして口から出る前に喉の途中で抑えた。
「……入磨さんってお仕事、何系なんですか?」
「歯医者の受付。かっこよく言うたら歯科助手」
「えー、初めて知った。仕事終わった、みたいなことたまに言ってるから、何かしてるんだろうなとは思ってたんですけど。歯科助手って、口の中洗浄したりとかする人ですか?」
「あ、ちゃうねん。それは歯科衛生士さん。歯科助手は患者さんの口腔は触れへんのよ。それ以外のことを全部やんねん。だから受付もそうやし、あとまあ事務処理とかカルテ作ったりとか、器具洗ったりとか」
「へえ、衛生士と助手って別なんですね」
「そう、でも私はフルタイムとちゃうの。非常勤。今は週三か、四回くらいかな。家から職場まで自転車で通っとる」
「だん……夫さん、いるんでしたよね」
これもSNSでほんの少し言及していたことがあったよな、と思いながら何気なく尋ねると、一瞬だけ間が空いたような気がした。
「そぉ、ダンナおる。ふつうの会社員。もう三年やな、結婚して」
さらっとした口調で入磨さんはそう言った。無邪気に「どんな人ですか?」とか訊いてみようと思ったけれど、そういうのってどこまで訊いていいんだろう、というラインが判らなくて迷った。
「……神戸って、どんな感じですか? あたし行ったことなくて」
それで結局、あまり当たり障りの無さそうな方向へハンドルを切った。
「神戸? んー、どんな感じやろ。案外小さいよ。でも私は結構気に入ってる。東京とか大阪に比べたら全然やけど、奈良に比べたら都会やなぁ」
「奈良?」
「あ、そうそう、私な、地元は奈良なんよ。大学入る時に神戸に来てん」
「え、あ、そうなんですね。奈良かぁ……中学の修学旅行の時に行ったっきりかも。奈良と神戸はどっちが好きですか?」
「んー……そやなぁ」
入磨さんは、やっぱり眠そうな声でのんびりと数秒考えていた。
「どっちもええとこやと思うよ。でも、最近は実家にはよう帰らへんなぁ。なんて言うんかなぁ、親とあんまり仲良くなくてな」
「そう、なんですね」
あ、今のはあんまりよろしくなかったかな。と、少し後悔した。それほど気にしていなさそうというか、さらっと流してくれた感はあるけれど。
どうしたらいいかな、何を訊けば困らせたり傷付けずに済むだろう。どうしたらこの人にもっと近付けるだろう。嫌われたくない、うざいって思われたくない。でも見てみたい、もっと、「入磨さん」の向こう側を。
「あの、たとえばなんですけど。あたし、神戸に遊び行ったりとかしたら、案内してくれますか?」
「えぇ? 当たり前やん、そんなん。するする。来てくれんの? 遠いで~、結構」
「行きたいです。全然、飛行機乗ればすぐだし。普段あんまり旅行とかしないから、逆にしてみたいっていうか。ほんとに行っていいんですか? 迷惑じゃないですか?」
社交辞令で言われてるかも、という疑念を拭いきれないままあたしが念を押すと、入磨さんは「迷惑なわけないやん!」と軽やかに笑ってくれた。
「普段あんま観光地とか行くわけちゃうから、ガイドとして良質かどうかはわからんけど。でも港とか、おすすめのお店とか連れてくし、普通にゆっくりちるちゃんと遊んでみたいわ」
神戸で、入磨さんと会う。ふたりで。
降り立ったことの無い地を想像して、そこに立つ入磨さんとあたしを想像して、変にどきどきした。
「ほんとに行きたいです。年明け、とかですかね。それは急すぎ? いつがいいですか?」
「年明け? 大丈夫やで。ほんまのド頭とかやったら厳しいけど、中旬くらいとかやったら全然。私よりちるちゃんに合わせるで。仕事、忙しいやろ? 言ってくれたら、こっちは割と合わせれると思うから」
「え、やった。嬉しい。じゃあ、仕事のスケジュール見て調整して、早めに連絡しますね」
「うん、そうして~。予定立てるから」
また入磨さんに会える。入磨さんが普段住んでいる街で。いつもどんな街で、どんなお店に云って、どんな空気を吸って、何を見て、暮らしているのか。彼女の近くに行ける。そう思っただけで、静かに胸の底から高揚してくる感情を覚えた。