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南方小麦牧場

#せなみさ(下)

2024.09.07 05:33


tsukimi @tsukimiYG  3時間

★湧霧忘年会スペ with入磨さん★

明後日12月29日(金)22時~

入磨さん(@imnotiruma)と一緒にアニメ2期を振り返ったり湧霧を語ったりするスペースやります!酒も飲むかも!ノープランだから超だらだら喋るし飛び入りもウェルカムなんで誰でも遊び来てねー!


 SNSを開いてtsukimiさんのそんな投稿を見た時、あたしはちょうど数分前に受け取った元カレ(仮)からの連絡にどう返信しようかと頭を抱えている最中だった。とりあえずtsukimiさんのポストにはハートマークの「いいね」を飛ばす。明後日の夜十時。どっちにしろこれは聴きたい。どっちにしろ、というのは、元カレ(仮)と会うにしろ会わないにしろ、ということだ。

 大学生の時に二ヶ月だけ付き合った男が、なぜ今更連絡を寄越してきたのかさっぱり理解できない。これが世間で言うところの、いわゆるザオラルというやつなんだろうか。でもあの人だって、別にあたしのこと、そこまで本気で好きだったわけじゃないでしょ? てか、もっと派手で陽キャの女が好きなんだろうし。知らんけど。

 奴が誘ってきた日程もなぜかちょうど二十九日だった。だいたい何でこんな年の瀬に。それくらいがみんな仕事納め済みだろうという目算だろうか。まあ、あたしの場合は事実その通りなんだけど。

 非表示ではなくてブロックしておけばよかったんだろうけど、そもそも彼のほうがあたしにたいして執着が無さそうだと思っていたし、実際にそれでこの四年か五年くらいの間何も言ってこなかったのだから、予想もしていなかった。そういえばリア友と繋がってるほうのSNSでは相互フォローのままだったっけ。真面目に見もしないけど。


『ひさしぶり』

『俺のこと覚えてる?笑』

『元気してるかなーと思って』

『久々会って飲みでも行かない?29とか』


 いや、何で?

 それが率直かつシンプルな感想なのだが。

 たった二ヶ月の交際だったとはいえ別に大喧嘩をして別れたわけでもなく、特に連絡する理由が無かったからしなかっただけで憎み合っているわけでもないから、「飲みでも行かない?」に対して「なんで?」と返すのも棘がありすぎるというか角が立ちすぎる、気もする。かと言ってこの男と飲みに行きたい理由も無いし、特に喋りたいことも無いし、楽しそうとも思わないし、どうせ割り勘だろうし、金と時間の無駄という気しかしない。

 普通に「もう予定あるから」「忙しいから」で適当に返せばいいか、と思い、心なしか重たい指先を動かして返信を打とうとする。そこでふと、「いや、でもちょっと興味あるな」と思った。

 あの人、今何してんだろう。どういう大人になってるんだろう。ちょっと面白いかもしれない、ある意味。二時間くらい、ご飯食べるだけ。どうせ盛り上がって熱い展開になることも無いだろうし、お互いそんなに面白くもないだろうから、それでさっと帰って来ればいい。

 だってちょっと未だに興味を持ってしまうのだ、あまり良くない意味で。あの実咲ちゃんを振って、あたしにちょっかいを出してきた男に。


 同じ大学の同じキャンパスに桐原くんがいるな、ということには割と最初の頃から気づいていた。そもそも卒業直前に、誰がどこどこに受かったらしい、どこ大に行くらしい、という話は学年の中でだいたい広まるし、一定以上のランクの大学の合格者は「祝!合格」のノリで職員室前に貼り出されていたので、別に驚きはしなかった。学部は違った。

 別に話したことが無い仲ではなかったので、学内ですれ違ったらちょっと手を振ったり、会釈くらいはしていたと思う。でも最初の一年くらいはそれ以上の関わりは無かった。冬に実咲ちゃんと新宿で会って話すまでは、彼女と続いているんだと思っていた。

 二年次に上がった春か初夏くらいの頃、学食でご飯を食べていたら、一人で使っていた二人掛けテーブルの正面の椅子を引いて桐原くんが座ってきた。彼はニコニコと無邪気そうな笑顔を浮かべて、「松原さん久しぶり」と言った。

「久しぶり……っていうか、学校ではちょいちょい会ってるじゃん」

「やー、でも、ちゃんと話したりとかはしてなかったじゃん。情コミだっけ?」

「うん。桐原くんは経営だっけ」

「そう。サークルとかは? 入ってんの?」

「国際交流のサークル入ったけど、あんま行ってない。どっちかっていうとバイトしてる」

「そうなんだ。何のバイト?」

「フツーに、カフェ」

「ふーん」

「……桐原くんは? サークルやってんの」

「俺? 俺もね、オーランに一個入ったんだけど今はぶっちゃけあんま行ってなくて。だから俺も一緒。バイトばっかしてる。バイトっていうか、インターンなんだけど」

 ああ、なるほどね。と、あたしは冬に実咲ちゃんが話していたことを思い出した。

 オーランというのはいわゆる「オールラウンドサークル」のことで、みんなでスポーツをやったりイベントをしたり旅行に行ったりなんでもオールラウンドに楽しみますということなのだが、要するに飲みサーというやつで、タチが悪い場合はいわゆるヤリサーだったりする。

 それにも飽きてしまい、彼が今ハマっているのが「インターン」というわけ。たぶんおおかた、極めて高い志を掲げたベンチャーとかスタートアップとかなんだろうなぁ、知らないけど。

「てかさ、松原さんて可愛くなったよね」

「……は?」

「可愛くなったっていうか、綺麗になったっていうか。高校の時と全然感じ違うよね。女の子ってすげー変わるんだなって思った」

 相変わらず人好きのしそうな穏やかな笑みを浮かべながら吐かれたその台詞が、「大学デビュー(笑)」という趣旨の嫌味なのかそれとも純粋な褒め言葉なのかをあたしは図りかねていた。

 確かにあたしは大学の入学式の直前に髪を少し明るめの茶に染めて、コテを買って巻き方を練習して、服なんかも気を遣ってシンプルかつ綺麗めを心がけるようになっていた。化粧に関してはお姉ちゃんの存在と助言がアドバンテージになった。彼女もオタクだけど、あたしと違って高校生くらいの早いうちからメイクや化粧品が好きなほうだったから。

「あ~……ありがとう……?」

「ねえ、今度ご飯とか行かない?」

「え?」

 それで別に、強硬に断る理由も無いかと思って、最初は昼に空きコマがある日にランチか何かに行った気がする。高校の時に時々彼と話をしていたのは好きなバンドが幾つか被っていたからだったのだけれど、相変わらず音楽の趣味が結構近しいところがあったので、そういう話題が多かった。実咲ちゃんの話から身構えていたほど起業とかビジネスとか経済がどうとかいう話はされなくて、普通に大学生っぽい雑談をして、普通に楽しかった。

 連絡先を交換して、その後も何度かご飯を食べたり、空きコマにカフェに行ったりした。どこかのタイミングで何気なく「彼氏とかいるの?」と訊かれて「いないよ」と答えた。あたしは何も訊かなかった。彼が去年実咲ちゃんと別れたことは知っているし、その後でまた彼女ができたかもしれないけれど、それに関してもあたしは正直どうでもいいと思っていたので。

「ねえ、松原さん彼氏いないんだったらさ、俺と付き合わない?」

 そう言われた時は耳を疑った。どういうつもりなんだろう、と思った。実咲ちゃんのことはたぶん彼にとって終わったことなのだろうし、あたしが実咲ちゃんに対して密かに並々ならぬ情念を抱いていたことも彼は知らないのだから、それについてはこの際どうでもいい。ただ、高校の頃のダサくて芋っぽいオタク丸出し女だったあたしを知ってるのによくそんなこと言えるなぁ、と純粋に感心というか、不思議な感情を覚えてしまった。

 好きだと言われたわけでもないあれを告白とカウントしていいのかは判らないが、少なくともあたしはそれまでの人生で他人に交際を打診されたのは初めてだった。桐原くんのことが好きかどうかはちょっと判らなかったけれど、ただこれを逃したら次の機会はなかなかすぐには訪れないだろうなと思ったし、桐原くんと話すのは意外に心地良かったし、まあいいか、と思った。あたしも一度くらい、男女交際というものを経験してもいいかな、と。

 一応それで彼氏と彼女、ということになって、ご飯以外にも渋谷あたりで買い物をしたりだとか、好きなバンドのライブのチケットを桐原くんが取ってくれて一緒に行ったりだとか、デートっぽいことを数回した。

 ただそうなれば必然的にと言うか、大学生だしそうなりますよね、といった具合で、桐原くんが一人暮らししている部屋に呼ばれた。まあそういうことなんだろうな、とは思った。いずれはそうなるだろうと思っていたし、別にいいと思っていたのだけれど、彼の部屋でいざそういう雰囲気になった時にまったく無感情というか無感動というか、むしろ何か気持ちが悪いような気すらしてきた。かろうじてキスはした。

「……ごめん、ちょっと、やっぱ」

「……松原さん、初めて? 怖い?」

「怖い、っていうか、なんか……ごめん、今日は帰る」

 単純に、やりたいと思わなかったんだよなぁ。1ミリも。

 まったくの無傷で井の頭線に揺られて家に帰りながら、ただただそう思った。桐原くんはいわゆる「意識高い系」ではあったけれど、それ以外については至って紳士な男の子なので、あたしが急に帰ると言っても怒りもせず、「うん、わかった」と愛想笑いをした。「駅まで送るよ」と言われたがそれも気まずいだろうと思ったので、あまり角が立たないよう柔らかく「ううん、大丈夫、ありがとう」と丁重にお断りした。

 要するにあたし、本当に桐原くんに興味無いんだろうなぁ。

 と思った。

 そのあと一ヶ月ほどだらだらと、たまにデートをしたり大学で話をしたりランチを食べたり通話したり、付き合っているんだかいないんだかよくわからない温度感で続いた。最終的にはどちらが先に言い出したのかもよく覚えていないくらいあっさりと、「別れようか」ということで意見が一致した。

 大江戸線六本木駅のミッドタウン側出口で待ち合わせた。久しぶり、元気だった、程度のありきたりな挨拶を交わして、日が短いためにすっかり暗くなったネオンの光る街を彼に着いて歩く。案内された先は細い路地に面したおしゃれな佇まいのビストロだった。こういう絶妙なセンスは相変わらずだなぁと他人事のように思いながら、赤色で塗られた木枠の扉を潜る。

 数年ぶりに会った桐原くんは、大学生の頃よりもさらに洒脱で都会的な雰囲気になっているように見えた。髪の毛はさっぱりと清潔感のあるメンズショートのスタイルにして、質の良さそうなタートルネックのニットに、チェスターコートを着ていた。彼がやったことがあるかどうかは知らないが、マッチングアプリとかに登録すれば相当な人気を集められるんじゃないだろうか。会ってみると怪しいビジネスを勧めてくるタイプの男に見えなくもないので、逆に躊躇されるかもしれないが。

 桐原くんはグラスのスパークリングワインを注文したので、同じものをとウェイターに頼んだ。彼は苦手な食べ物は無いかとあたしに確認しつつ、手慣れた様子で幾つかの前菜のようなものを注文した。

「松原さん、今何してるの? 仕事とか」

「普通に会社員だよ。デジタルマーケとかの仕事してる。EC系、って言って伝わる?」

「あ、うん、わかるわかる」

「桐原くんは?」

「んー、俺は……平たく言うと会社やってるんだけど」

 どう説明しようかな、とか言いつつ、桐原くんはどこからかスッと革の名刺入れを取り出し、長方形の小さな紙をあたしの前にそっと置いた。


Spread Dream & Excitement

株式会社Infused Nova

CBO/執行役員

桐原 統也

Touya Kirihara


「一昨年、大学の時の仲間と三人で会社立ち上げて。簡単に言うとAIで自然言語処理とか画像解析とか、そういうの使って面白いビジネス作っていこうっていうスタートアップなんだけど。情コミのさ、一年上の濱田さんって知らない? 濱田雅俊さん」

「濱田……名前は知ってる、かも。喋ったことないけど」

「その人が凄いエンジニアで、AIも詳しくて。濱田さんが技術面のトップなんだよね。他にもジョインしてもらって、今は俺も入れて社員八人」

「へぇ、凄いじゃん」

 CBOというのは、チーフ・ビジネス・オフィサーということらしい。ビジネスのチーフってことは社長じゃないの? と思ったが、彼曰く社長にあたるのはCEO、最高経営責任者のことで、そっちは慶應義塾大卒の吉原さんという人がやっている。最高ビジネス責任者というのは、マーケットにおいて自社の新規ビジネスを、主として牽引する役職ということらしい。

 前菜が少しずつテーブルに運ばれ始めて、パテ・ド・カンパーニュとかマリネサラダとかをちまちまつつく間、桐原くんは株式会社インフューズド・ノヴァの新ビジネスについて色々と熱意を込めて説明してくれた。それって本当にうまくいくのかなぁとか、そもそもAIって今となってはもう割とレッドオーシャンなんじゃないのとか、思わないこともなかったが、話自体は面白くなくもなかったし、あたしはふんふんとそれなりに耳を傾けた。

 メインディッシュにラム肉のロースト赤ワインソース添え、を頼む頃、仕事が楽しいから最近は彼女とかしばらくいなかったんだよね、ということを桐原くんが言い出した。

「桐原くんてさ」

「ん?」

「なんで、実咲ちゃんのことフッちゃったの?」

 桐原くんは、無言のまま少し驚いたような顔であたしを見た。

「付き合ってた時はこの話しなかったけど。大学一年の終わりくらいにさ、実はあたし、実咲ちゃんと一回だけ会ったんだ。その時に言ってた。桐原くんに別れようって言われたって。もちろんうまくいかないことってあるから仕方ないけど、でも、なんでだったのかなーって。桐原くんはどう思ってたのかなーって。聞いたことなかったから」

「あー……そう、なんだ」

 彼はしばらく黙って、ロゼのワインをひとくち飲み、昔のことをゆっくり思い出すような目をした。と言うか、事実昔のことなのだから、それはそうだ。

「なんでって言われると、難しいんだけど。気持ちが薄れてたから、かな。好きって気持ちが。俺の」

 なるほど。わかりやすい。

「たぶんなんだけど、あの頃の実咲って、俺がいないとダメっていうか、俺に依存してたようなところがちょっとあって。最低かもしんないけど、それが正直、重くなっちゃったんだよね。何でも共感してほしい、共有してほしい、みたいな。でも俺にはそれは無理だなと思って」

 私、統也と結ばれなかったら一生誰ともお付き合いできないし結婚もできないって思ってたの。

実咲ちゃんの台詞が不意に脳内で、彼女の声で再生された。

「実咲の、ああ見えて実は意思が強いところが好きだったから。大学入った頃から、なんか変わっちゃったなって思って。……でも、そういう時期だっただけだったのかなって、今はちょっと思うんだよね。もしかしたら俺が支えてあげなきゃいけなかったのかな、とか」

「……後悔してる?」

「いやー、してもしょうがないでしょ」

 桐原くんはそう言ってカラリと笑った。

「インスタはまだ繋がってて見てるけど、あの子はあの子で楽しそうにやってるしさ。イギリス? かどっかにいるんでしょ? 彼氏っぽい人もいるみたいだし、結果的に良かったんじゃないかな。まあ、喋ってないから俺もわかんないけど」

 そうだね、と曖昧な相槌を打ちながら、事実あたしは心の中でも「そうだね」と思っていた。あの冬の夜の実咲ちゃんの言葉と、今の桐原くんの言葉で、六年越しの答え合わせをしたような気になった。

 そうだね、そういう時期だったんだと思うよ。もしかしたらその時に桐原くんが支えてたら結果が変わってたかもしれないけど、そうじゃなくても実咲ちゃんはイギリスに行ったし、そのうち博士号か何か取るんだろうし、桐原くんはベンチャー企業で役員をしている。

「大学の時さ、松原さんにどう見えてたかわかんないけど、俺ほんとに松原さんのこと真面目に良いなって思って付き合おうって言ったんだよ。そりゃあ大学入って垢抜けたなって思ったけどさ、それ以前に松原さんって高校の時から……なんかこう、しっかりしてるっていうか、自立してるっていうのかな、そういう感じに見えて。それが俺はカッコいいなって思ってて。付き合ってる間も、俺の行動とか考えに口出し、っていうか過干渉しないで、尊重してくれてたじゃん。そういうところ、俺は好きだったよ」

 それ、は。

 まあ、そう言われればそうかもしれないけど。

 でもそれはたぶん、干渉するほど君に情熱が無かったから。あたしにとっては君よりも他のこと、たとえば『陽を待つエニグマ』とか他の漫画やアニメとか、そういうことのほうが「カレシ」よりずっと重要だったから。って言ったら君はどんな顔をするんだろうか。言わないほうがいいんだろうな。


 レズビアン/バイ女性向けのマッチングアプリに登録して、数ヶ月動かしてみたのは大学三年の時だった。六月くらいからぼちぼち就活の情報収集みたいなことが始まって、説明会に行ったりインターンのエントリーシートを書いてみたりしていた。その気晴らし程度に、ちょっと登録してみるか、と思った。そのうちの二ヶ月間くらいは、課金して有料会員にもなった。

 会うに至ったのは二人だけ。一人目は十五歳くらい年上の女性で、新宿の三丁目あたりの居酒屋で飲んだけれど、いまいち盛り上がらなくて一軒だけで帰った。それでおしまい。

 もう一人が、ゆきさん。アプリの登録名が「ゆき」だった。漢字だと降る雪の雪って書くんだよ、と教えてくれたけれど、本当なのかどうかは知らない。そんなこといちいち嘘を吐くほどの情報でもないので、たぶん本当ではあるんだろうけれど。

 年齢の表記は二十六歳。中性寄りのフェムタチ、とのこと。プロフィールのトップ写真は煙草を吸っている横顔の他撮り写真だった。デコルテに浮き出た鎖骨と、軟骨までたくさんピアスの付いた耳が印象的だった。その写真では髪の毛はダークブルーのテクノカットで、二枚目の後ろ姿の写真では黒と紫のツートンカラーのツーブロックだった。

 幾つかテキストチャットを交わしたあと、「せなちゃんワイン飲める?」「奥渋にお気に入りの店があるんだ」とメッセージで送られて、飲めます、連れてってほしいです、と答えた。

 指定された代々木八幡駅の南口で、階段の下で所在無く立っていたら、いかにもそうだろうなという雰囲気の人がゆったりと歩いてきて、少し涸れたようなハスキーな声で「せなちゃん?」と尋ねた。

「はい、せなです。ゆきさんですか?」

「はい、ゆきです。よろしくね」

 その日の髪型は襟足だけ少し長めのウルフカットで、アッシュグレーのような感じの色だった。一重瞼で切れ長の目をしていて、鼻筋が綺麗な人だった。身長はあたしと同じくらいだったと思う。

 こぢんまりとしたビルの地下へ繋がる階段を降りて、掘り出したばかりの洞窟のような薄暗い通路を通り、扉を開けた先にバーカウンターのあるムーディな空間があった。ソムリエエプロン姿の店員が、品良く「いらっしゃいませ」と微笑み、ゆきさんは「予約したオカノです」と伝えた。

 店員に先導されて、私たちはさらに奥の狭い通路へ進んだ。その先に、半地下と半二階が連なったような、童話に出てくる小人のマンション、あるいは蜂か蟻の巣、を模したような短い階段で接続された個室の集合体があった。カプセルホテルの飲食店バージョン、みたいな感じ。

 そのうち右下の個室に案内され、ゆきさんに促されておずおずと中に入るとちょうど二人が横並びで腰掛けて目の前のテーブルで食事をするだけのスペースしか無かった。照明は薄暗く、テーブルの上には可愛らしいキャンドルに小さな火が点っている。入口を除いた三方を内側に丸まるような形で囲む壁は、表面を和紙か何かで加工しているのか、まるで蚕の繭の中に入ったようなデザインだった。小さな小さな部屋に入ってしまえば、呼び鈴で店員を呼ぶ時以外、他の客の姿はほとんど目にすることが無い。

 これは、ちょっと、本当にデートのために作られたような店だな。というのが真っ先に思い浮かんだことだった。そうか、あたしは彼女とは今日が初対面だけど、これってデートなんだよね、と実感させられた。大学生のあたしが同級生や同年代の友人と食事をするのに選ぶような類の店では、まったくない。

「普段はワイン飲むの? 好みとかある?」

「飲める、は飲めますけど、銘柄とか気にしたことなくて。安いのしか飲んだことないかも。好みはわかんないなぁ……たぶん、なんでも大丈夫だと思うんですけど」

「そっか。ボトルで頼もうと思うんだけど、一応飲みやすそうなの選んでおこうか。カリフォルニアとかがいいかな。食べ物は? 苦手なものある?」

「全然ないです。なんでも食べれます」

 ゆきさんも、ちょっと力の抜けたような感じでゆったり喋る人だった。淡い間接照明の下でメニューを吟味する横顔を見ながらその声を聞いていると、落ち着くはずなのに一方でどきどきした。メニューの冊子をゆっくりとめくる骨張った細い手には、独特なデザインのファッションリングが幾つか嵌まっていた。

 ゆきさんは、凄くセクシーだった。

 夏だったこともあって、薄着だった。黒いレースのキャミソールを一枚でさらりと着て、ダメージの入ったローライズ寄りのデニムパンツを履いていた。生で見ても、やっぱり鎖骨がくっきりと目立つ人で、その上にシルバーの鎖のような形をしたネックレスが交差するように掛かっていた。砂漠に咲く花とレザーが混ざったような、甘くスパイシーな香水の香りがした。眉や目や鼻はすっきりと端正な印象なのに、唇だけがぽってりとしていた。

「せなちゃんって、大学生なんだっけ。何系?」

「何系……えと、一応文系で、情報コミュニケーション学部っていうんですけど。あたしは結構、経済とか統計とか、あとプログラミングっぽいこととか、やったりしてます」

「へぇ~、文系でもプログラミングってやるんだね」

「ゆきさんはお仕事、デザイン系ってプロフィールに書いてましたけど、何のデザインなんですか?」

「何に見える?」

 彼女は悪戯っぽい目をして、逆に訊き返してきた。

「えっ……でも、お洒落だからファッション系とか」

「んふふ、まあだいたい外れてはないかな。広く言ったらファッションだよね。アクセサリーとか作ってます。そんな大手じゃないんだけど、ジュエリーのブランドの会社で雇われデザイナーしてる」

「あ〜、なんか、っぽい。もしかして今着けてるのも自分でデザインしたやつだったりとかします?」

「んー、全部じゃないよ。でもこれ、とこっちのピアス、はうちのブランドので、私がデザインしたんだ。あとこのリングは売り物じゃなくてプライベートで私が作ったやつ」

「え、プライベートでも作れるんですか? 家で?」

「作れるよ。道具とか機械とか、自分ちに揃えればね」

 へええ、と本気で感心しながら、あたしは彼女の左手の人差し指に嵌まっている指輪を覗き込んだ。緩やかに湾曲する細いリングに、銀細工でできた蝶の片羽のようなモチーフがあしらわれている。その繊細な造りに思わず触れてみたくなってほんの少しだけ指を伸ばし、でもその手に触れることに躊躇した。触っていいのかな、と思って。

 それをすぐに察したのか、ゆきさんは微かに笑って「触ってもいいよ」と手の甲を差し伸べてきた。

 人差し指の先で、傷のように細かく模様が刻まれた蝶の羽を撫でてみる。あたしの親指の先が、彼女の手の甲を掠める。隣の中指に嵌まっているものもシルバーで、少し太めの多角形のような形。薬指は空いていて、小指には青い小さな石が付いた細い真鍮のリング。

「せなちゃんは指輪は付けてないんだね」

「あんまり付けないかも。なんか、失くしちゃうのが怖くて」

「でも耳には付いてる。これ、イヤリング? 穴は開いてないんだ」

 ゆきさんはそう言って、肩がほとんどくっつくほどの距離であたしの耳にぶら下がっているイヤリングをちょんとつついた。

「穴開けようかなとも思うんですけど。痛いの怖くて」

「そっかそっか」

 彼女は、開けなよ、とも、そんなに痛くないよ、とも言わなかった。ただ、ひそひそ話のような声で「かわいい」と囁いた。冷房が効いていて涼しいのに、ひどく暑いような気がしたのを覚えている。ゆきさんが頼んだ赤ワインを飲んでいたせいかも。

 ゆきさんは、不意にあたしが触っていた蝶のリングを自分の指からそっと抜いたと思うと、あたしの右手を取った。ひんやりとした手に、手が握られる。彼女はあたしの人差し指にその蝶の輪を差し込んだ。

「んー、ちょっと合わないか」

 ゆきさんの指が細いから、その輪はあたしの人差し指には少し小さかった。今度は薬指に差し込む。すると蝶の羽はあたしの右手の薬指にぴったりと嵌まった。

「ここなら合うね。あげる、それ」

「えっ? 嘘。いいんですか? そんな簡単に」

「こういうの、趣味でいっぱい作ってるから全然平気。似合うよ、せなちゃんに」

「ありがとう、ございます。失くさないようにします」

 ワインは軽い吞み口なのにフルーティで爽やかで美味しかった。ゆきさんに注文を全部任せてしまった料理も全部おしゃれで美味しくて、あたしは少しずつ酔っていったけれど、何に酔っているのか判らなかった。

 テーブルに並んだ皿がある程度空いて、そろそろ一軒目は終わりかな、という雰囲気になってきた頃、ふと目が合ったゆきさんがすぅっと顔を近付けてきて、あ、キスされるのかな、と思った瞬間に目の前で止まった。そのまま一秒、二秒、三秒。

 拒否する猶予を与えられてるんだ、と気づいた。あたしはそのまま動かず、目を逸らさずにじっと見つめ返した。ピントがぼやけるほどの距離に、カラコンを入れているのか青っぽい灰っぽい淡い色をしたゆきさんの瞳がある。ツンとした赤ワインの香りの息が掛かる。

 唇に唇が触れて、ちゅ、と一瞬で離れていった。

「このあと、どうする? 帰りたい? もうちょっと一緒に居たい?」

「……もうちょっと、一緒に居たい、です」

「ご休憩、しちゃう?」

 遠回しなようで明け透けな言い草にあたしが吹き出して笑ってしまい、ゆきさんも肩を震わせてクックッと笑った。それがもう、合図だった。

「確認しときたいんだけど、せなちゃんてネコ? タチ?」

 宇田川町方面へ歩いていく途中、ゆきさんが尋ねた。

「プロフィールに書いてなかったからさ。こうやって会ってくれたってことはバリタチさんではないのかなって思ったんだけど」

「……あの、あたし、女の人とこういうの、実は初めてで。だからあんまりわかんなくて、その……タチとかネコとか」

「あー、そうなんだ。じゃあ、私でお試ししちゃおっか。ネコちゃん」

 ラブホテルという場所に足を踏み入れるのも初めてだった。それ以降から今までも無いので、少なくとも今のところはあれ一度きりということになる。想像していたより綺麗で、内装もリゾート風にこだわって品良く飾られた部屋だった。

 ひとりずつシャワーを浴びたあとお互いに下着だけの姿になって、ゆきさんはあたしの下着に手をかけてゆっくりとそれらを脱がせた。彼女の手が優しくあたしの肩や、胸やお腹を撫でた。乳房を手のひらで柔く包むように揉まれて、少しずつ乳首を捏ねたり軽く引っ掻いたり摘まんだりした。ふるふると身体が震えて、小さく声が漏れた。

 指先が恥骨をなぞって恥丘を辿り、性器まで至った。「気持ちよかったら声出していいからね」と甘い声で耳元に囁かれると、もう止まらなかった。全身がどんどん熱くなって、はあはあと口から息を吸って吐いた。まだブラジャーで隠れたままの彼女の胸に触れようとすると、やんわりと手で止められた。

「しなくていいよ。私、自分が触られるのはそんなに好きじゃないんだ」

「そう、なんですか? でも、それ、ゆきさんは気持ちいいんですか?」

「せなちゃんのカラダ触って、せなちゃんが気持ちよくなってるの見てるだけで、私も気持ちよくなれちゃうの」

 そっかぁ、そういうこともあるんだ。そういうセックスもあるんだ。知らなかった。世界は広いなぁ。

 処女だったあたしは、自分で自分の身体の内側を触ったり弄ったりしたこともあったけれど、それとは比べ物にならないくらいゆきさんに触れられるのは気持ちよくてどきどきして、彼女の手がびしょびしょになるほど濡れた。いわゆる「イく」っていう状態を、その夜は何度かにわたって体感した。ひとりでしていて、一度に複数回それがあることなんか無かったから、他人に触られるのってこんなに凄い感覚なんだ、あたしこんなことできたんだ、と思った。

 結局終電は逃してご休憩では済まずにホテル泊、始発で帰宅して、その後ゆきさんから連絡は無かった。二週間か三週間経った頃に「最近忙しいですか?よかったらまた飲み行きませんか?」とメッセージを飛ばしてみたけれど既読も付かず何日待っても返信が無かった。

 嘘でしょ? あそこまでしたのに、指輪までくれたのに。あたしの経験値が少なくてゆきさんは楽しくなかったの? それとも最初から「割り切り」のつもりだったってこと?

 と、それなりにしばらく落ち込んだ。ブロックされているかどうか確かめる方法なんてのもあったが、それを試す度胸さえなくて、もう二度とメッセージは送らなかった。

 あたしの手元には捥ぎ取られたかのような蝶の片羽のシルバーリングだけが残されて、それは未だに自室の抽斗の中で静かに転がっている。


 じゃあまた。良いお年を。

 あっさりとその程度の挨拶を交わして桐原くんと別れ、新宿乗り換えの中央線で家に帰った。桐原くんは結局、食事代を全額持ってくれた。

 入磨さんとtsukimiさんのスペースが始まる十時までまだ少しだけ時間があったので、急いで化粧を落としてシャワーを浴びて髪を乾かし、着替えてベッドに潜り込んだ。

 スペースというのは要するにSNS上で物凄く簡単にできるラジオみたいなもので、通話機能として使うこともできるけれど、だいたいは不特定多数、主にはそのホストアカウントのフォロワー、が入室し、ホストが喋っているのを自由に聴くことができる機能だ。ホストが承認すれば特定の人をスピーカーに設定して複数人で喋ることもできる。

 帰りが早かったとは言え入室した時には流石に三、四分遅刻していた。tsukimiさんにしても入磨さんにしてもフォロワー数が多いのと、事前に告知していたこともあって、すでに十人以上は見覚えのあるアカウントを中心にリスナーが集まっていた。

「……からさ、やっぱあそこの時点でさ、アレッ? 湧霧アレッ? ってなった人は絶対多かったわけじゃん。そう考えるとやっぱデカいよね、ターニングポイントですよね、っていう。それまではどっちかっていうと、や、どっちとかじゃないけどさ、忠霧のほうが『有る』感じが強かったわけじゃん」

「せやなぁ。いやまぁその、私らは湧霧が一番好きなんやでってゆうんでやらせてもろてますけど、実際のトコ忠霧も忠霧でアツいやんか。だって私、最初ちょっと迷っとったもん。どっちも捨てがたいやん、みたいな。推しは割と最初から美原くんではあって、せやから湧宮とかも見とったんやけど」

「いやわかる、私も忠霧は今も全然見るもん。良いよねェ、だってさ、元々フツーの友達でお互い職業とかも知らなかったところからの、えっコイツ宮之原と関係あったのかよ? っていう驚きがまずあって、しかも香林会の幹部の息子で、っていう二大衝撃が立て続けにね、この香林会炎上編でさァ、長谷川さんからしたらあったじゃん」

「玉突き仲間な?」

「そうそう、ビリヤード仲間ね? だからやっぱ香林会編はさ、湧霧もそうなんだけど忠霧的にもデカかったよねっていう」

「まあ、それ言うたらそもそも砂霧受け界隈が丸ごとヤバかったってことやんなぁ。あ、ちるちゃん来てくれとるやん。ちるちゃんいらっしゃ~い、こんばんは~」

 入磨さんがあたしのアイコンに気づいて声を掛けてくれた。あたしはスピーカーのリクエストはせず、ハートマークのスタンプだけでそれに応えておく。

「ちるちゃんいらっしゃーい。……そう、だからそうなのよ、香林会編はマジで砂霧受けCP全部が喰らった瞬間だったし、砂霧受けに沼ったオンナが爆増した瞬間だったわけ。実際一番それで増えたのって宮霧と忠霧だったかなっていうのがね、当時の私の体感なんだけど」

「そうなんやぁ。やっぱリアルタイムを知っとるんってええなぁ。まあただ、そん中でも、そん中でって言うんはつまり砂霧受けがそん時にめっちゃ増えた中でな。私らは湧霧がいっちゃんええわ、ってなったわけやもんな」

 相変わらずチャキチャキと喋るtsukimiさんのくっきりした声の間に、入磨さんのまろやかな低い声が挟まる。それらは目に見えない電波から電波を渡って、想像もつかない遠回りの末に、やや機械音声がかりながらあたしの耳に届く。枕に頭を預けながらそれを聴いていると、静かに睡魔が忍び寄ってくる。

「ちるちゃん、喋られへんのかな。せっかく来てくれてはるんやったら」

「あ、そうだねー。ちるちゃーん、スピーカー上がんない? どお?」

 二人が声を掛けてくれるけれど、今夜はあたしは遠慮しておきたい。ちょっと疲れているので気の利いたことを喋れる気がしないし、それよりはこのまま、ラジオを聴くように湧霧の話を聴きながら眠りに落ちたい。

 リプライ欄に「ありがとうございます! 今日はちょっと遠慮しておきます~また今度」と打ち込み、泣き笑いの絵文字をおまけとばかり付けて送信しておく。

「……あ、今日は遠慮しておきますやって」

「えー、来ればいいのにぃ」

「しゃあないよなぁ、ちるちゃんにも都合あるもんなぁ。また今度喋ろうね~、ちるちゃん」

「そだねー。で、なんだったっけ。そう、だから、十巻の湧霧の例のアレもそうだし、その後の美原の奔走もそうだけど、マッジでアニメ二期はね、本当にありがとうございますって感じだったんだわ」

「なんかそもそも作画のクオリティとかもさ、一期よか上がってへん?」

「そう、それはマジで思った。アクションシーンとかもめっちゃガチだし。ここへ来て急に本気出してくんじゃんっていう、今年はホントそういう年だったよね」

 ホントそうですよね、と脳内で頷きながらも、とろとろと瞼が落ちていく。いかんいかん、これのために早く切り上げて帰って来たんだし、ちゃんと聴いてなきゃ。でもお布団あったかいし、ひまエニの話してるし、入磨さんの声って落ち着くし、なんか幸せだな。

 もう覚醒状態なのか夢の中なのか判らないが、ぼんやり薄膜が張ったような意識の中で入磨さんの声が聞こえる。

「湧霧って結局、光の美原くんと影の砂霧さんっていう、そういう構図に惹かれてまうねんなぁ」

 そうなんですよね、そうなんですよ。家族や血に苦しんで生きてきた砂霧さんが、これから先はおっきな愛で包まれて生きていってほしくて。美原くんって、それができるポテンシャルがあると思うんですよね。明るくて優しくて、でも強くてあたたかい人だから。

 ふと目が覚めるとスマホは静かになっていて、スペースはとっくに終わっていた。幸いtsukimiさんが録音アーカイブを残して投稿してくれていた。当然ながら部屋の蛍光灯は煌々と点いたままだった。



 午前中、十時過ぎ頃に神戸空港に到着した。入磨さんとは三ノ宮駅で待ち合わせることになっていた。空港からポートライナーに乗り、車窓から大阪湾を眺める。次第に近未来的とも言えるほど洗練された外見の学術研究施設や医療施設、大企業のオフィスが次々に現れ、神戸というのは思っていたよりもずっと経済都市なのだな、と思う。

 金曜日の三ノ宮駅は老若男女でそれなりに混雑していた。ビジネスライクな姿のオフィスワーカーらしき人もいれば、洒落た格好の若者もいる。ポートライナーの改札からエスカレーターを降りる時、「あっそうか、右側なんだ、立ち止まって乗る人が」と気づき、新鮮というか妙にそわそわした気持ちになりながら一列に並んで乗った。

 JR側の駅構内、中柱の前で入磨さんは待っていた。キャリーケースを引き摺ったあたしがそっと近づいていくと、彼女はスマホの画面からパッと顔を上げてあたしを見、にこりと笑ってくれた。

「ちるちゃん! 遠いところお疲れ様やなぁ。そんで、神戸にいらっしゃいませ」

「お待たせしましたー。と言うか、入磨さんもわざわざありがとうございます。忙しくなかったですか?」

「ぜーんぜん! 今日と明日は丸々空けて来たから大丈夫。遊び倒そ」

 二度目にまみえた入磨さんは、当たり前だけれどもやっぱり「入磨さん」だった。前と同じ黒髪ショートヘアのスタイルに、薄めだがきちんとしたメイク。あの時は濃いめのアイラインが印象的だったけれど、今日はそうでもなく、もっとナチュラルな感じ。ピアスは翡翠か何かのような、丸い緑色の小さな石だった。

「とりあえずホテル行くんやっけ。荷物預けたいもんな」

「そうなんです。ここからすぐみたいなんですけど、パッと行って来ちゃっていいですか?」

「もちろん。春日野道側やったよな。こっちやね、行こ」

 勝手知ったるという風で案内してくれる入磨さんに続き、駅前を東側に向かって抜け、飲食店が並ぶ賑々しい商店街を歩いた。ホテルはすぐ近くで、建物の外見は派手ではないけれどもロビーに入ると瀟洒で綺麗だった。せっかくの純粋な旅行なのだからと少しだけ奮発して、ビジネスホテルの中でも少し良いところを予約したのだ。

 時間的にチェックインはまだ出来なかったが、フロントでキャリーケースを預かってくれて、貴重品や身の回りの物だけを入れたハンドバッグを持って入磨さんと再出発する。

「移動で疲れたやろ。とりあえず、コーヒーでも飲んでちょっと休憩せえへん? すぐ近くにな、好きな喫茶店あるんよ」

「行きたいです! 入磨さん、そこよく行くんですか?」

「常連ってほどちゃうけど、たまに行くなぁ。そんなにめっちゃ有名っていうわけちゃうし、結構年季入ってて古くて、サラリーマンのおじさんとか多いし普通の純喫茶やねんけど、なんか落ち着くんよ」

「そういうの好きです。しましょ、休憩」

 小さな雑居ビルが並ぶ狭い路地の中に、いかにも喫茶店という感じの小さくてレトロな看板がちょこんと立っていた。やや薄暗くさえある階段を一階ぶん昇ってドアを開けると、ふわりとコーヒーの香りがした。

 入磨さんの言う通り本当に年季の入った昔ながらの店のようで、カウンターの前の木製のマガジンラックは週刊誌とか経済紙とか競馬の雑誌とか、割と年配の男性が好みそうなラインナップになっていた。革張りの椅子に乗っかっている葡萄色のクッションが可愛らしい。

「お腹空いてはる? 何か食べたい? 一応このあと、中華街のほうでお昼食べようとは思ってんねんけど」

「え、それ楽しみ! じゃあコーヒーだけにしておきます」

 ブレンドコーヒーを一杯ずつ注文した。店内はほんのり煙草の匂いがして静かで、穏やかな空気が流れていた。コーヒーは深煎りで美味しく、真冬の空気に冷えた身体に沁みた。窓ガラスを通して、透明な太陽の光が差していた。

「てゆか、すっかり忘れとったけど、あけましておめでとうございます、やね。ツイッターであけおめツイートみたいなんしたけど、直接ちるちゃんに言うんは初めてやもん」

「そっか、そうですよね。通話とかも最近してなかったし。お正月は何されてました?」

「うーん、特に何ってこともあらへんけど。ダンナの実家行ったりとか、しとったかなぁ。ダンナの親戚の子らにお年玉あげたりとかな」

「あーそっかぁ。旦那さんは神戸の方なんですか?」

「や、姫路のほうの人なんよ」

「姫路……」

 鸚鵡返しのようにその地名を繰り返してみたけれど、姫路城とか、その程度の単語しかあたしの頭の中からは引っ張り出せなかった。

「あんま想像つかへん?」

 入磨さんはぽかんとしているあたしを見て少し微笑み、あたしは「はい」と素直に頷いた。

「ちるちゃんて、旅行はあんませえへんのやったっけ」

「やー、そうなんです。友達に誘われて温泉行ったりするくらいですかね。あ、でも、大学生の時に短期留学のプログラムがあって、オーストラリア行きました。勉強は勉強なんですけど、二週間だけだったからほとんど旅行みたいな感覚で」

「へぇ、すごい、ええなぁ。海外行ったことないわぁ。私もイベント以外はあんまし旅行とかせえへんのよ。そこは一緒やね」

「行ってみたいところとかってあります?」

 熱いコーヒーを啜りつつ、気軽な話題としてそう振ってみると、入磨さんは「え~、どこやろぉ」と首を傾げて考え始めた。

「海外ももちろん行ってみたいけど、日本でも行ったことないとこいっぱいあるよ。中学の修学旅行は長野にスキー行って、高校は北海道やってん。ほんなら今から旅行するってなったら、国内やと九州とか、あと沖縄とかかなぁ。あ、そや、東京の子ぉってやっぱ修学旅行、奈良京都なん?」

「あたしは中学は奈良京都でした。高校が沖縄」

「あー、そうなんや。神戸ではあんま見いひんけど、地元帰るとたまに制服着た学生さんとかよく見るねんな。どこから来てはるんやろな~、とか思って。私らは幼稚園とか小学生の時の遠足で奈良公園とか春日さんとか行ってまうからなぁ」

「そうですよね。東京でもたまーに見ますけどね、修学旅行生。あとディズニーとかは多い」

「あぁ、確かにな。ディズニーは私も大学の時、友達四人くらいで泊まりで行ったわ。私らからしたらユニバはもっと気軽に行っとったけど」

「そっかぁ、その感覚、東京民的には逆かも」

 午前中の陽光を眺めつつ取り留めもなく喋りながら、あの入磨さんとこうして一対一で顔と顔を合わせて同じ空気を吸って、しかも『ひまエニ』すら関係無いプライベートな雑談をしているなんて、という不思議な感覚を未だに抱いていた。絵を見て、文字を見て、画面の向こうでずっと声だけを聴いていた入磨さんが、「神様」だと思っていた入磨さんが、あたしひとりの目を見て話をしている。

 神様だと思っていた人は、神様じゃなかった。

 あたしは今、それを悲しむどころか、それにどきどきしている。内臓の底の底が、ほのかな熱を持ってざわざわと蠢いている。顔にも態度にも絶対に出さないけれど。

 店を出たあと、三ノ宮駅前からのんびりと歩いて元町方面へ向かった。

 百貨店や商業施設や飲食店が並ぶ。もちろん個人店やブランドのショップもあり、オフィスビルもマンションもある。それでいて道路が広く、街並みの色合いに統一感があって綺麗。クラシックな洋館のようなデザインの大きな建物が多いので、なんとなく海外、ヨーロッパのような雰囲気がある。都会的なのに、東京と違って人が多すぎないから歩きやすい。そんな印象を受けた。

「なんか、素敵な街ですねぇ。東京より全然都会って感じ」

「そんなことはないやろ」

「いや、だって、東京と言えば新宿とか渋谷とかのイメージ強いですけど、こんなに綺麗じゃないですもん。もっと汚いですよ。まあでも東京も、丸の内とかそっちのほうは綺麗かなぁ」

「せやろ~。神戸かて、もっと端っこのほうとか行ったら普通に田舎やし、田んぼとかあるし」

「それは東京だってそうですよぉ」

「そうなん? あ、ここな。あっこから元町商店街やねん」

 入磨さんが指さした先には、カラフルで巨大なステンドグラスを頭に乗せた煌びやかなゲートに「KOBE MOTOMACHI」と白い飾り文字で書かれていた。

「えー、なんか商店街っていう割におしゃれ」

「中入ったら普通の商店街なんよ。薬局とか花屋とか本屋とか酒屋とかお菓子屋とかな。そんでこの左っかわに逸れてくと中華街なんよ」

「あ、へぇ、なるほど」

 地方の商店街がシャッターだらけになっている、なんていうニュースを目にすることは少なくないが、少なくとも元町商店街は豊富に店が並んでいて、それなりの人の往来と賑わいと活気があった。

 多種多様な店々を眺めてぷらぷらと商店街を散歩したあと、入磨さんに着いて途中の脇道を曲がると、確かに彼女が言った通り唐突に中華街になった。宙に張られた紐から、日本で言うぼんぼりのような、赤や橙の丸っこい提灯がたくさん連なってぷかぷか揺れている。四川料理とか上海料理とか看板に書かれた店の前にも、色とりどりの提灯がぶら下がっている。

「すごーい。なんか、路地裏に実は隠れた裏世界が広がってた! みたいな感動がありますね」

「あは、裏世界て。せやな、横浜とかと比べたら全然小さいねんけど、このこぢんまり感と言うか、きゅっと詰まってる感がおもろいんよ。ここもね、美味しい店いっぱいあんねんけど、今日は私のイチ推しにしよか。ちるちゃん、辛いもん平気やったやんな?」

「超得意ってわけじゃないですけど、そこそこ食べれます。普通に好きです。大丈夫。入磨さんのおすすめ、めちゃくちゃ気になる」

「よっしゃ、行こ。一応辛さ調節もできるから。いっちゃん辛くないのでって頼んでもまあまあ辛いねんけどな」

 そう言いながら入磨さんが連れて行ってくれた店は、赤と黒に塗られた高級感ある内装の、結構きちんとした四川料理屋という印象だったので、もしかして高い店? と一瞬思ったがメニューを見ると案外リーズナブルなランチセットメニューが揃っていた。

「麺も美味しいし、なんでも美味しいねんけど、個人的には麻婆豆腐がおすすめかなぁ」

「えー、じゃあそれにしよ」

「私は今日は四川担々麺にするわ。すみませーん、お願いしますぅ」

 ランチセットにはサラダとスープ、ザーサイ、杏仁豆腐が付いていた。四角いテーブルに向かい合う形で四川担々麺のセットと麻婆豆腐のセットが並び、そこそこお腹の空いてきたあたしはつい「いただきますっ」とはしゃいだ声を上げてしまったが、入磨さんが「あ、待って待って! 写真撮ろ!」と言い出し、ああそうだった、と思い出した。

 ハンドバッグの中から、専用の巾着に入れておいた例のモノをいそいそと取り出す。

 砂霧さんのアクリルスタンド。ひまエニはグッズ展開がそれほど多いジャンルではないから、公式のアクスタは各キャラクターとも、アニメ一期の放送中に発売された旧バージョンと去年の二期放送中に新しく発売された新バージョンの二種類しか無い。私はどちらも持っているけれど今回は二期放送おめでとうの意味も込めつつ、あとは新バージョンのほうしか入手できていない入磨さんに合わせてそっちで揃えた。

 入磨さんが取り出したのは美原くんのアクスタ。好きなカプは「湧霧」で一致していてどちらのキャラも大好きだけど、あえてどちらかと言うならあたしは砂霧さん推しで、入磨さんは美原くん推しだ。だから、今回の旅ではひとつずつ持ってきてふたつ並べて写真撮ろうねって、そう決めておいたのだ。

 砂霧さんのアクスタは、白いタートルネックのニットに上品なグレーのジャケットスタイル。金にも近いような淡い茶の髪色の発色が綺麗で、めちゃくちゃビジュが良い最高の完成度だと思う。美原くんのほうは、警察官である彼がいつも着ている、きちんとネクタイを締めたスーツスタイルで、作中でのスーツには何色かパターンがあるけれど、このアクスタはネイビーだ。

「なんか、背景が中華料理だと微妙に可愛くないですかね?」

「いやー、でも逆にこれはこれでええんちゃう? アフタヌーンティーとか可愛らしいスイーツとかよりさ、このふたりってどっちかって言うと中華屋に一緒に行ってそうやん。ちゃうかな? どう? わからん?」

「そっか、言われてみれば確かに。めっちゃわかります」

「可愛いのは可愛いので、後でまた撮ろな」

「でもホント、めっちゃ良いですよね、このアクスタ。身長そんなに大差ないけど、美原くんって結構ガタイ良いから、微妙~な体格差が感じられて」

「そうなんよ、ほんまにそれやねん。それでいてこの三センチ差も再現されててな、ほんまにしっかり作ってくれてはるよなぁ。感謝しかない、ほんま」

 辛味が見るからにガツンと効いていそうな赤っぽい色をした麻婆豆腐と担々麺の間に並んで立つふたりを、スマホのカメラで二人してパシャパシャ撮った。ひととおり満足してから、やっと「いただきます」。オタ活してるって感じがして、なんだか満足感がある。

「あとでツイッターに上げるわ、ちるちゃんが神戸来てくれた~って」

「あたしも! 入磨さんと神戸オフ会~って上げます」

 麻婆豆腐は結構しっかり辛いけれど、香辛料が潤沢に効いていてすごく美味しかった。途中、入磨さんが「こっちも味見する?」と言って取り皿に担々麺を分けてくれて、あたしもお返しに麻婆豆腐を取り分けると「私は食べたことあるんやけどな? でもありがとう」と笑いながら言ってくれた。担々麺も辛味と旨味が絶妙なバランスで美味しい。

「入磨さん、普段も商店街とか中華街とか来るんですか?」

「んー、そこそこ来るよぉ。職場は反対側やねんけど、休日暇な時とかぷらっと来たり、それこそお昼ここらへんで食べたり」

「大学から神戸でしたっけ。そしたら結構長いですよね」

「せやね。もっとそれこそ空港に近いほうの、女子短大に行っててん。ダンナは神戸大やってんけど」

「あ、入磨さんて女子大だったんだ。旦那さん、大学の時に知り合ったんですか?」

「そう、合コン。うちの大学の女子と神戸大の男子の」

 彼女はちょっと苦笑いのように眉尻を下げて言った。

「へええ。あたし大学生の時、合コンとか行ったことないです」

「そうなんや。まあ私も、そんな頻繁に参加しとったわけちゃうねんけどな。友達に誘われてたまたま行って、みたいな」

「なんか、同じ講義取ってた子に一回誘われたことはありました。でもあんま興味なかったし、その誘ってくれた子もそこまで仲良いわけじゃなかったから、居心地悪そう~としか思えなくて」

「あー、それは流石に嫌やわぁ」

「短大ってことは二年?」

「そそ」

「そのあとってずっとお仕事、歯医者さんだったんですか? ……あ、なんかごめんなさい、プライベートなことばっかズケズケ訊いちゃって」

 生身の入磨さんを目の前にしたせいでちょっと調子乗り過ぎちゃったかも、と慌ててフォローを入れてみたが、入磨さんはちっとも気にしていないように、麺を咀嚼しながら首を振ってくれた。

「えぇ、全然ええよお。ちゃうねん、大学の時に私、秘書検定取ってな。一級までは取れへんかってんけど、準一級までは持ってんねん。それで最初は社長秘書しとったんよ」

「え! 凄い。準一級って結構スゴいんじゃなかったでしたっけ?」

「んー、秘書になるん自体は資格が必須ってわけちゃうねんけど、準一からは実技、というか面接の試験があって、まあまあムズいかも。でもそれくらいあったら就職は割と有利なるかなぁ」

「それでちゃんと秘書になったわけですね」

「そぉ。そんなに大企業ってわけやなかってんけどな。ただそれがめっちゃくちゃキツくて。パワハラとかセクハラとか、そんなわかりやすいやつは無かってんけど、単純にどえらい忙しかってん。三年……四年かな? それくらいは頑張ったんやけど、もう嫌やーってなってしもて、辞めてもた」

「え~……やっぱ大変なんだ、秘書」

「いやぁ、会社とか社長とかによって全然ちゃうと思うよ。でも私はなんかその時点で秘書なんか二度とやるか! って思ってしもてな。そんでそのあと営業事務を数年やって、それから歯科助手。せやから、まあまあ転職してんねん」

「そうなんですねぇ」

「ちるちゃんは新卒から今の会社?」

「です。まだ転職したことないです。条件も環境も悪くないし、今は転職考えてないかなぁ」

「今のとこで納得できるんやったら、それがいっちゃんええと思うよぉ」

「それはそうかも。転職活動も大変そうですしね。あたしは今はお金貯めて一人暮らししたいなーって思ってます」

「あ、実家やねんな」

「そうなんです。大学も会社も実家から余裕で通えちゃったので。でも今年で二十六になるし、一応お金入れてはいるけど、なんか流石に自立しなきゃなって気がして」

「ゆうてまだ二十六やろぉ? ええやん、お金入れてはるんやし、親と仲ええんやったら全然それで」

「……そう言えば、ちゃんと聞いたことなかったですけど、入磨さんて何歳なんですか? 失礼じゃなければ。なんとなく年上だろうなーとは思ってたんですけど」

「だいじょぶやで。私ね、三十三。夏で三十四。おばさんやろ~」

「え、全然でしょ! なんか自分が二十代後半になってきてすごい思いますよ、高校生とかの頃は三十代ってめっちゃ年上って感じしたけど、今思ったら三十代って全然若くない? って」

「それ、思うの早いんちゃう?」

 そう言って肩を揺らして可笑しそうに笑う入磨さんの顔とか、ほっそりした白い頬とかを見ていてもあたしは綺麗だなぁとしか思わなくて、ちっともおばさんだなんて思わなかった。

 昼食のあとはまた歩いて、港方面へ向かった。神戸の海は内海だからか潮の匂いはあまりしなかったけれど、冬晴れの中だんだん開けていく景色が気持ち良かった。

 港の近くに入磨さんおすすめのアイスクリーム屋があると言うので、そこへ行った。店内の飲食スペースは小さいがグリーンや小物で飾られたカントリー調の内装もおしゃれで、おまけに実に豊富な種類のカラフルで個性的なフレーバーが冷たいショーケースの中に並んでいた。真冬だけれど、暖房がしっかり効いていて中は暖かく、快適にアイスクリームを楽しめそうだった。

 悩みに悩んだ末、入磨さんはマスカルポーネ&コーヒーとピスタチオ&胡桃のダブル、あたしは苺ミルク&ラズベリーとバタースコッチ&ピーカンナッツのダブルにした。窓際の小さな丸テーブルの席に着き、またアクスタと可愛らしい色合いのアイスクリームとで一緒に写真を撮りながら「さっきよりかわええな」「なんかどっちも良さがありますよね」なんて会話をした。

 何か大きな企業の駐車場か倉庫か、そのような類いの広い空間の横を抜けていくと海辺にブロック敷の歩道があって、水のすぐ傍を散歩できるような形になっていた。周囲は埋立地になっているようで、目の前の海の向こう側はまた舗装された陸地があり、ビルとかホテルらしき建物なんかが並んでいる。港には大きな船が幾つか停泊していた。

「ちょっと寒いけど気持ちいいですねぇ」

「ええよな。前も言うたけど私、地元は奈良で、奈良って海無いから、神戸来て最初の頃は海ってええな~って思ってしょっちゅうここらへんで日なたぼっことかしとったわ」

「いいですね、それ」

 海沿いをゆっくりと歩いた。波はほとんどなく、群青色の水面は静かだった。芝生の植え込みには木が並んで植わっていて、確かに憩いの場というような雰囲気だった。ランニングをしているジャージの人、犬の散歩をしている人とすれ違った。

「結構歩いたなぁ。疲れてへん? このあとどうしよっか。お昼食べたし、おやつも食べたし、夜ごはん食べようと思ってるとこは決めてんねんけど、まだ早いし。ちるちゃん、したいことある? 見たいものとか」

「えーと。あたしは……」

 問われて不意に頭に浮かんだ提案、あるいは要求、を口に出すことに躊躇した。常識的に考えてそんなこと言っていいんだろうか、と。今ならどこまで許されるんだろう? どこまで彼女に近づくことができるんだろう?

「……入磨さんち、行ってみたいです」

「えっ? 私んち?」

 入磨さんはあたしの顔をパッと見て、きょとんとしたように目を丸くした。

「あ、いや、やっぱ無理ですよね、そんないきなり。都合とかありますし、旦那さんと住んでらっしゃるんだし」

「あ~……や、でも大丈夫やわ。ダンナは仕事やし、どうせ夜遅くにしか帰って来ぉへんし。お客さん呼ぶ用に掃除したわけとちゃうから、そんなピカピカではないけど、絶対見せられへんって状態でもない、はずやわ」

 彼女はそんなふうに、自宅の様子を思い出すように小首を傾げながら、至ってなんともない調子で喋った。

「でも、なんもおもろいものないよ? ええの?」

「え、全然。なんか、入磨さんってどんな生活してるんだろ~って興味湧いちゃうっていうか。あ、逆に嫌じゃなかったらって感じなんですけど」

 探るようにおそるおそるの声色で駄目押しすると、入磨さんは朗らかに笑って「ええよぉ」と言った。

「でも、駅の反対側やから歩くとちょっと遠いねんな。大通り出てタクシー乗ろか」

「あ、半分出しますよ」

「ええてー。そんな高額にはならへんから。とりあえず行こか」

 入磨さんがアプリでさくっと呼んでくれて、海沿いから程近い通りでタクシーを拾った。運転手の男性が割とおしゃべりだった。

「観光?」

「どこから来はったんですか?」

「東京? えらい遠くからご苦労様です。……ああ、そっちのお姉さんは神戸の方なんですか」

 みたいなところから始まり、神戸の街の話とか世間話を適当にしていた。繁華街を抜け、駅前を通り、だんだん閑静な住宅街へと入っていく。

 車に揺られていたのはせいぜい十分か十五分程度だった。運転手さんが「ここの道、一方通行なんですよねぇ」などとのんびり言い、入磨さんが「そうですよねぇ、回ってもらって大丈夫ですよ」とか応え、細い道を幾つか抜けた頃に「そこの角んとこで大丈夫です。ありがとうございます」と入磨さんが言った。タクシーを呼んだアプリに彼女のカードが登録してあるからと言って、お会計処理は何もせずそのまま降りた。

 車を降りた十字路からほんの少し歩いたところで、入磨さんは「ここ、うち」と言って黒とグレーの壁のモダンな家の前で鍵を取り出し、扉に差し込んだ。どう見ても新築に近い、豪邸というほど大きくはないけれども立派な一戸建だった。そもそも、あたしたちが今いる場所自体が割と高級住宅街というか、少なくとも治安が良さそうなハイソなエリアに見える。

「入磨さんって、もしかしてお嬢様?」

「あっはは、惜しいけど私ちゃうよ。ダンナがお坊ちゃんやねん。この家も結婚する時、ダンナの親が相当資金援助してくれはって建ててん」

「ああ、なるほど……」

 ちらりと見た表札には筆で書かれたような書体で、「薮内」とあった。

 そうして招き入れられた家の中は、モノトーンの外壁とはうって変わって、染みひとつないクリーム色の壁に明るいブラウンのフローリング、温かみのある木製の靴箱とシェルフがまず玄関からは見られた。短い廊下の突き当りの壁に、現代アートのような絵画が飾ってある。

 電気のスイッチを点けながら入磨さんが右手側の扉を開け、着いて行った先がリビングだった。三人くらいは並んで座れそうな長めのソファとローテーブル、奥側にダイニングテーブルと椅子が四脚。その脇にオープンキッチン。高級なモデルハウスのような家だと思った。

 絶対見せられないほどのレベルじゃない、どころか十分ピカピカじゃん。と茶々を入れてしまいたくなる。心の中だけで。

「紅茶とかでええ? ティーバッグのやけど」

「あ、はい! ありがとうございます」

「コートとか鞄とか、適当にソファの上置いてええよ。あ、って言うかコートはハンガー掛けよか。ごめんな、気ぃ利かんくて」

「あ、いやいやそんな! 全ッ然気遣わないでください! いきなり押し掛けちゃった感じですいませんホントに」

 今更ながら恐縮しつつ、結局入磨さんはあたしのコートを受け取って壁際のハンガーラックに掛けてくれた。座っといて、と言われたけれどついキッチンの傍に立ってうろうろしながら彼女の背中を見つめてしまう。入磨さんはケトルにお湯を入れてボタンを押し、棚から大きめのマグカップをふたつ取り出して、ティーバッグをひとつずつ入れた。カップが、見るからに高級そうなソーサーのついたティーカップ、とかではなかったことになんとなく安心する。

 柔らかなソファに少し間を空けて並んで座り、淹れてもらった紅茶を飲んだ。香り高くて美味しかった。ティーバッグとは言っても結構良い物なのかもしれない。入磨さんが部屋に暖房を点けてくれ、ごくゆっくりと部屋が温まっていく。

「自分で言っといてなんですけど、不思議な感じします。入磨さんの家にいるって思ったら」

「せやなぁ。私もひまエニは二年ちょいくらい? やけど、同人自体はやってて長いし、オフ会とかアフターとかもしたことあるけど、流石に相互さんを家に上げたの初めてやわ」

「初めてがあたしでよかったんですかね」

「それはええやろ」

 ちょっと笑いながら、でもきっぱりと入磨さんが言った。

「伝わってるかわからへんけど、私、たぶんちるちゃんが思ってるよりちるちゃんのこと好きやねんで?」

 一瞬あたしは、その台詞をどう受け止めればいいのか判らず、「えっ……」という間の抜けた声を上げて喉を詰まらせた。

「ちるちゃんて紙の本はまだ出してへんけどさ、普段のツイートとか喋ってることとかもそうやし、小説読んどってもほんまに真剣に湧霧の解釈とかめっちゃ考えて、めっちゃ丁寧に書いてるんやな~ってすごい伝わるんよ。なんて言うんかな、創作に対して誠実やなぁ、って。それがほんまに好きやねん。……だからこそ逆に、色々難しく考えてしもて本出せへんのかなぁって、私は勝手に想像してんねんけど」

 そんな。

 買いかぶりですよ、と思った。

 そりゃあ『陽を待つエニグマ』が好きだし、湧霧が好きだし、時岡砂霧が好きだし、美原湧が好きだから頭の中で一生懸命に解釈をこねくり回したりはするけれど、誠実だなんてそんな大層なことは無いし、何かあたしの代表になるような大作を書き上げたわけでもない。同人誌を作れていないのだって、どうせあたしなんかって尻込みしてばかりいるというだけなのに。

「そんなこと言ったら入磨さんの絵を初めて見た時から、入磨さんの湧霧がずっとあたしの理想なんです。解釈が丁寧とか、それは入磨さんのほうですよ。漫画だから、表情とか絵で表現してるのに、心理描写とかすっごい繊細で。ほんとに、ずぅっと憧れなんです。だからあたし、こうやって入磨さんの家にいるってなんか信じられなくて」

 つい勢いづいてべらべらと語ると、途中で入磨さんは軽やかに笑いだした。

「何なんこれ、告白のし合い? なんや照れくさいなぁ。でもありがとう、ほんまに。湧霧界隈にちるちゃんがおってくれて良かったわ」

「むしろ入磨さんが湧霧に来てくれて良かった、ですよ」

 懲りずに続く賞賛の応酬でまた入磨さんはアハハと笑い、それから一瞬黙った。

「さっき、表札見たやろ」

「……はい、つい」

「や、別に見んなって言うてるわけちゃうよ。そら嫌でも見えるやろ、家来たら必然的に。ヤブウチっていうねん、名字」

「イルマじゃないんですね」

「そらそうやわ」

「あ、そっか。だからツイッターのIDがアイム・ノット・イルマなんだ」

「まあそうやね、そこは適当やけど。ちなみに旧姓は越智」

「おち、さん」

「で、下の名前な。ミサオ、っていうんよ」

「……みさお、さん」

「ちるちゃん、ハンネの由来って何? なんで『ちる子』なん?」

 ハンネ、はハンドルネームの略だ。急に自分のことを訊かれて、不意を衝かれたあたしは一瞬戸惑った。

「あたし? あたしは、えっと。……そもそも、あたしがオタクになったのってお姉ちゃんがきっかけなんですけど、覚えてる限り初めて読んだ漫画が、お姉ちゃんが持ってたセーラームーンの原作なんですよね。それがあたしの、なんていうか、オタク的な感情の原体験、みたいな感じで」

「へぇ~。私も大好きやったよ、セーラームーン」

「海王みちる、っているじゃないですか。セーラーネプチューン。あたし、みちるちゃんにすっごい憧れてたんですよ。ちっちゃい頃から、みちるちゃんみたいになりたくて。だから、『みちる』の『ちる』なんです。それになんとなく『子』を付けて」

「そうなんやぁ。私はウラヌスが憧れやったなぁ。天王はるかさん。でも、せやったら私のハンネの付け方とちょっと似てるわ」

「そうなんですか?」

「私、前のジャンルでは平仮名で『いるま』やってんな。で、ひまエニで垢作る時、ちょっと気分変えよかな~思って適当に漢字付けて今のにしてんけど。で、『いるま』はもともとイルミ、からもじってんねん。知ってる? 『HUNTER✕HUNTER』のイルミ」

「え、わかりますよ。途中まで読んでました。イルミ=ゾルディックでしょ」

「そうそう。私、最初っからイルミが一番好きなキャラやねんけど」

「なんか面白いところ行きますね。結構ゲスいキャラじゃないですか?」

 中学生か高校生の頃に夢中で読んでいた、大人気少年漫画のそのキャラクターを頭の中で思い浮かべる。入磨さんはあたしの言葉にまた笑った。

「せやねんけどな。いやでも、わからん? ちょっと悪そうなキャラのこと好きになってまう気持ち」

「やー、それはわかりますよ」

「せやろ。やし、とにかくカッコよかってん、私にとっては。でさ、話戻るねんけど。ちるちゃん、『ミサオ』って聞いてどういう字やって想像する?」

「えー……?」

 あたしは数秒考えた。そんなことを言われても、幾つかパターンがあるんじゃないだろうか?

「美しい、佐藤の佐、糸偏の緒、とか?」

「ああ、それええなぁ。美佐緒、ね。きれいやな。まあ色々あるし、それの人もいてはると思うねんけど。なんかさ、操を立てる、のミサオってパッと思わん? 貞操、とかの」

「……まあ、それも。ちょっと思いました」

「やんな。私はそれが頭から離れんくてさ。ほんまのとこ、私の名前表記は平仮名なんよ。で、最後の『お』が『わをん』の『を』。でも最初生まれた時はその、貞操の操になる予定やったんやって。私のおばあちゃんが言うてん。将来は夫と家庭をきちんと支える、貞淑でしなやかで芯の強い女性になるように、やって。これ誇張とかちゃうよ、ほんまに私、ちっちゃい頃おばあちゃんに直接そう言われてん。でもうちのお母さんが、操って漢字が嫌やって言うたから妥協で平仮名になったんやって」

 あくまで軽い調子で、雑談の延長のように語られたそれに、あたしはどういう返答、または相槌をすればいいか判らず何も言えなかった。

 仮に同じ漢字でももっと違う解釈で意味付けた名前にすることもできただろうに、直球でその意味合いだなんて、いくらなんでもそんな時代だろうか? いやでも入磨さんはあたしより八歳上で、あともしかすると地方性とかそういうのもあるのか? とか、その一瞬でぐるぐると考えた。あたしは将来の夫がどうとか家庭がどうとか、そんなこと両親にも祖父母にも言われたことがなかった。

「それで私、自分の名前があんまり好きになれへんかってん、ずっと。で、また話が戻るんやけど、初めてハンターハンター読んだのが確か……小学校の高学年、とかやったかなぁ? それで最初からイルミがいっちゃん好きやってんけど。念能力の系統ってあったやん? 強化系とか変化系とか」

 確かにあった。あたしは相槌を打つ。念能力という特殊な才能を持っている種類の人々がいて、彼ら念能力者は生来の素質によって六つの系統に分かれている、という設定。それによって、使える能力の種類が違うのだ。

「でさ、イルミって『操作系』やんか。それでふと思ったんよ、貞操のソウって操作のソウでもあるやん、って。イルミってあんなしてさ、針で人のこと操ったりとかして、めっちゃ強くていつも余裕そうでカッコよくてさ。そういうの見とったら、なーんか気が楽になったんよね。ほんま自分でも、ようわからん話やなって思うねんけど」

「それで、イルミから一文字変えて、いるま」

「そお。だから私『いるま』の時は、インターネットでBL漫画描いてる時は解放されてる気ぃするんよ。貞淑な女でいなさいよ、っていう、おばあちゃんの呪いから」

「でも、旦那さんは同人活動、理解してくれてるんですよね」

「んー、理解してくれてるわけとちゃうよ。ようわからんから放っとかれとるだけやと思う。俺に迷惑かけへんのやったら勝手にしいや、みたいな。あのひと今、私の好きなことに興味とか無いと思う」

 その淡々とした、でもどこか冷たく吐き捨てるような言い方が気になって、ちょっと迷った挙句あたしはつい「あんまり仲良くないんですか?」と尋ねてしまった。入磨さんは笑いながら「仲良くないって言うか、めっちゃ冷めてる」と言った。

「最近はもう、家でまともに会話もせえへん。平日はだいたい夜遅くにしか帰って来ぉへんから外食か、私が残しといたご飯あっためて食べてもろて、あとお風呂入って寝るだけやし、休日もそれぞれ部屋でなんかしとるか、勝手にどっか出掛けてるか、って感じ。一緒に住んでる意味あんのかようわからんわ。でも家まで建ててしもてるし、義両親はまだ子どもできへんのーとか訊いてくるしさぁ。まあぶっちゃけ家のローンはさ、最悪私が離婚したって向こうで全額払えるくらい向こうは家太いねんけど」

「新婚の頃はもっと良かったですか?」

「うーん、流石にもうちょいマシやったんちゃうかなぁ。でもよく考えたら、最初っから惰性で付き合っとって、惰性で結婚しただけやったんかも」

 入磨さんは両手で包むように持っていたマグカップを一度ローテーブルに置いた。かつん、と硬い音がした。

「去年くらいにさ、私、ダンナとものっすごい喧嘩してん。そん時以来ほんまに一切、夜の営みが無くなってんけどさ。それの原因、見てよ」

 なかなかとんでもないことを言いながら、彼女は悪戯っ子のように愉快そうにこちらに身体を向け、丸襟のニットの首元をぐいっと下に引っ張った。ベージュの柔らかそうな毛糸のそれは簡単に伸びて、藤色のブラジャーの紐が剥き出しになる。私が「え?」と思った瞬間、それは現れた。

「……つばめ?」

 入磨さんの白い左乳房の上あたりに、黒い小さな鳥が翼を広げて飛んでいた。その鳥は、二股に分かれた尾を持っていた。

「そう。本物やねん、これ。彫ったの、ほんまに。そしたらダンナがさぁ、なんで俺に相談もせんとイレズミなんか入れんねやってブチ切れて。なんでいちいちアンタの許可取らなあかんねん、しかもイレズミってヤクザちゃうねんから、タトゥーやわタトゥー、ってあたしもキレ返して大喧嘩。やっぱあれが一番デカいきっかけやったんかなぁ」

「でも、かっこいい。あたし、タトゥー入れてる人って生で……生でって言うのも変ですけど、初めて見たかも。やっぱ彫る時、痛かったですか?」

「まったく痛くないってこともないけど、思ってたほどでもなかったよ。おっぱいって脂肪やから、むしろ痛くないほうやねんて。やっぱ骨に近いとことか、神経に近いとこのほうが痛いねんて」

「へぇ……」

「触ってみる?」

「……っえ?」

 耳で拾った言葉の意味が一瞬信じられなくて、入磨さんの顔を見た。彼女はニットの襟を引っ張って黒い燕を晒したまま、静かな瞳であたしを見ていて、その顔と声がどんな感情を湛えているのか、あたしは読み取れなかった。

 マグカップをそっとテーブルに置いて、ソファの上でお尻を擦るようにゆっくりと彼女に近づいた。真に受けて本当に手を伸ばしても、彼女はまったく動かず、一部だけ露わになった胸が微かに上下して、静かに呼吸していた。

 人差し指と中指の先で、そっと燕を撫でた。皮膚は生温くてすべすべとしていて、黒い墨の入った表面は普通の皮膚と変わりなかった。ほんの数秒で指を離し、あたしはおそるおそる、すぐ側にある彼女の顔を見た。色の濃い、黒い瞳がじっとあたしを見ていた。顔が近い。

 どちらかといえば薄い、淡いピンク色の唇に唇を寄せてしまったのはほとんど無意識というか、衝動のようなものだった。一瞬だけ触れ合ってしまってから、あっ、まずい、と思った。

 入磨さんは睫毛と瞼を持ち上げてほんの少しだけ驚いたような表情をしたけれど、あたしから目を離すことはしなかった。

 沈黙。

 壁掛け時計だろうか、秒針の音だけが部屋の中で鳴っていた。

「……もっかい、しよ」

 囁くほどの小さな声で、入磨さんがそう言った。あたしはもう一度、ゆっくり顔を近付けた。温かい呼気がふたつ絡み合うのが判った。

「みさをさん。……って名前も、素敵だと思います。平仮名で、みさを。み、さ、を。可愛いし、綺麗です」

「ちるちゃんは、なんていうん。本名」

「せな、です。松原、瀬那」

「せなちゃん」

 あたしはもう一度、彼女とキスをした。触れた温かい唇が一瞬離れて、またくっつく。ほんの少しだけ強く押し当てて、それから彼女の下唇を唇で柔く食んだ。むに、と吸い着くようにすると、ちゅ、と小さく音がした。入磨さん、あるいはみさをさん、も小さく口を開けた。どちらからともなくそっとはみ出させた舌が先端からそっと触れ合って、そのまま互いの口と口の間で絡み合うように舌と舌が密着した。舌は濡れている、と思ったけれど、どちらの舌がより湿っているのか判らなかった。瞼を薄く開けると、ぼやける片目の視界で、伏せられた彼女の睫毛が震えるのが見えた。

 彼女の手があたしの背中に回ってきて、縋り付くようにあたしの服を掴んだ。あたしは手を伸ばして彼女の太腿に触れ、擦るように撫でた。

「みさを、さん。触りたい。脱がせて、いいですか」

「……ええよ。せなちゃんも」

 許可を得たうえでもなお若干の躊躇を残しながら、ベージュのニットの裾を捲り上げて脱がせて、自分もトップスを脱いだ。上半身はブラジャーだけになった彼女の裸身の、控えめだけれど綺麗な胸のかたちとか、きゅうと細くなった腹とか、微かに浮いた肋骨、燕、にくらりとしそうになる。「ゆきさん」はあの時どうやっていたっけ、と記憶を辿る。タチとかネコとか未だにあたしはよくわからない、ただただ目の前の女に欲情していた。

 下着を取り去って何も隠すものが無くなった乳房や乳首に触れると、彼女は小さく震えながら熱い息を吐いて、それがあたしの首筋に掛かった。彼女が同じようにあたしの胸に触れた時、どうかと思うけれどあたしはつい、ゆきさんに抱かれた夜のことを思い出してしまった。あの時も気持ちよくて仕方がなかった。今みたいに。自慰をする時は、自分で自分の胸や乳首を触って気持ちいいと思うことなんてほとんど無いのに。

 いつしかあたしたちはふたりとも服をすべてソファの下に脱ぎ捨てて全裸になっていた。あたしが彼女の性器に触れて、クリトリスを撫でたり、温かく湿った中に指を入れたりすると彼女は吐息の混じった声を上げて、時々「せなちゃん」「せなちゃん」とあたしの名前を呼び、潤んだ瞳であたしを見た。

「ね、これ、くっつけて擦ったら気持ちええんかな」

 彼女はあたしの内腿に触れながら言った。それを想像すると、脳味噌がぐらぐらと煮えるような気がした。みさをさんが上半身をソファに倒して大きく脚を広げ、あたしがそこに脚を交差させて絡めるようにして、濡れたふたつの女性器がぴったりと重なった。ソファが汚れてしまうことも忘れて、あたしたちは夢中で腰を動かしてそれらを擦り合わせ、頭の中が痺れていくような快楽を追っていた。



@_m_k_g_y

去年のアニメで初めてひまエニ知ってから毎日ひまエニのことばっか考えてるし湧霧沼に落ちてからは毎日湧霧が幸せになる方法考えてる

入磨さんの湧霧、ほんと~~~によすぎ。。。3コマ目、そこでその台詞言わせるの天才すぎない??? >RP

やっぱ解釈が丁寧っていうか、このキャラはこういうことがあったらこう考えるだろうな…みたいなところがしっくり来る人の創作が一番凄いよね 別にキャラ解釈とかどうでもよくてただ萌えるからそれ言わせたいorやらせたいだけじゃんみたいなのが透けて見えると萎えるし暴れそうになる

二次創作ってテクスト読解をちゃんとやってこそじゃない????話はそっからじゃない?????ってわたしは思っちゃうタイプだょ。。。。

別にパロがダメってわけじゃないけど原作の要素全然拾われてないパロとか見てても何も萌えないっていうかそれはもう一次創作でやれば?って思っちゃう~~

別に歴が長ければ良いもの作れるとも限らないよね~


@tsukimiYG

2期でご新規さん増えたのは嬉しいけど、こちとら連載初期とかのまじで十年以上前からずっとひまエニと湧霧を愛してるんですけど??っていう気持ちはぶっちゃけあるよね。

別に古参マウントじゃないけどさ、さすがにオレずっといたぜ??って言いたくなる気持ちあるわ(笑)めちゃくちゃ量描いてきたしありとあらゆる自カプ描いてきたんですけど、みたいな(笑)

14年間も何周も漫画読んで何周もアニメ観て本も何冊も作ったのにまともに原作読んでないみたいな扱い受けんの草すぎwwwww


@imnotiruma

あーなんか最悪やわ 鬱かも

ぶっちゃけ巻き込まれてる感否めない

楽しく活動して楽しく絵描いてたいだけやねんけどな。だって私の人生それくらいしか楽しいことないねんもんな

しょうもないわ 何がしょうもないって私の人生な

何のためにやってんねやろ

もー何やってもあかんわ眠剤飲んで寝よかな


 SNSのタイムラインはもう数日にわたって大騒ぎだった。一月の末に、劇場版・『陽を待つエニグマ』の全国公開決定が発表されたのだ。原作やアニメの焼き直しではない、原作者の塔見久樹とプロの脚本家の共同制作による完全書き下ろしオリジナル脚本だという。しかも年内公開で、具体的な日にちはまだ発表されていないが、秋には劇場ロードショーが始まる。

 そもそも去年の四月からアニメ二期がスタートする直前、元々ひまエニが本連載されていた月刊青年誌で三ヶ月・三話限定の短期復活連載が敢行されていた。そしてアニメのクール終了直後に、その短期連載分に併せてアニメ制作秘話、設定集、声優のコメント、等を収録した特別単行本が発売された。

 連載終了後から約七年間沈黙していた『陽を待つエニグマ』公式は去年、あまりにも突然に怒涛の供給を生み出し始め、だからこそインターネットの一部界隈には激震が走り続けていたのだ。それがここまで来てついに、劇場版の制作。ファンが夢にまで見た、映画館のスクリーンで彼らの姿を、物語を見られるという感動。

 考えてみれば、くだんの短期連載は初出情報を含む過去の回想を交えた本編完結後の続編、というような作りだったが、若干の消化不良感を残すというか、含みを持たせるような終わり方ではあった。あの時点ですでに映画制作は始まっていて、連載は劇場版公開の布石だったと言われればすべて説明が付く。

 大歓喜、お祭り状態、の投稿がSNSに止め処なく溢れていく一方、それとほぼ同時並行で、あたしのタイムラインには微妙な空気が漂い始めてもいることをうっすらと感じ取っていた。

 tsukimiさんのアカウントから、愚痴なのかエアリプなのか判別できない、ただもし特定の個人を指して言っているのだとしたら攻撃的とも取れるような、不穏な投稿が幾つかぽつぽつと出たのだ。そしてそれとほぼ同時期に、入磨さんのアカウントからはいわゆる「病みツイ」的な、情緒不安定を匂わせる暗い文面の投稿が増え出した。

 あたしは年度末が近付いていることもあって仕事が忙しく、湧霧界隈の仲間内メインで立てている通話アプリのサーバーの方にはほとんどログインできていなかった。tsukimiさんと入磨さんの間で何らかのやりとりやトラブルがあったのだろうか。

 ただ、ひょっとすると間接的に原因になっているんじゃないか、とあたしが勝手に抱いている疑惑がひとつあった。

 今年の頭の頃、湧霧界隈に新規の字書きが現れた。それ自体は別に珍しいことではない。作品投稿サイトでハッシュタグ湧霧で検索していれば初めて見るユーザーネームの人が湧霧小説を投稿していることは時々ある。他のカップリングで普段書いている人が単発で書くこともあるし、一本か二本だけ投稿してそれ以降あまり更新は無い、みたいなこともある。

 ただ、その人はほぼ同時にSNSにもアカウントを立て、湧霧で創作している人を絵描き・字書き含め何人もフォローし、湧霧の萌え語りをしたり他の創作者の作品に感想を書いたりと、積極的に界隈に参入する姿勢を見せたのだ。ハンドルネームは「木魚」さん。あたしもフォローされてフォローを返し、相互フォローになった。

木魚さんは数週間前に二万字ほどの、WEB上の二次創作では割と大作の部類になる小説を投稿して、それが湧霧界隈の中では結構伸びた。そのあとも短編なんかを書いて、積極的にアップしている。

 カップリングが盛り上がるのは良いことだ。それは間違いない。ただ気になったのが、木魚さんはめぼしい湧霧同人作家をほとんどフォローしているのに、tsukimiさんだけはフォローしていないことだった。

 誰もはっきりとは口にしないが、実際のところ、tsukimiさんは湧霧界隈のボスのような存在と言ってもいい。恐らく今も残っていてアクティブに活動しているひまエニのオタクでかつ湧霧のオタクでは最古参だと思う。フォロワーも、少なくとも湧霧メインのアカウントの中では一番多い。tsukimiさん主催で湧霧のアンソロジー本を企画しようかと思っている、なんて話も少し前に聞いた。つまり湧霧の二次創作を見たり同人活動をしていて、tsukimiさんの存在が目に入らないわけがないのだ。

 と言うか、それだけならまだいい。誰にだって苦手なタイプの創作とか解釈違いとか(俗に「地雷」と言われるが)そういうのはあるだろうし、別に「湧霧が好きならtsukimiさんはフォローしとけ」っていうルールが存在するわけじゃない。

 ただその木魚さんの投稿の幾つかがなんとなく、何か、あるいは誰か、を暗に批判しているような内容だった。別にtsukimiさんと名指しして言っているわけではない。が、なんとなくそうも読めてしまう、と言われればそんな気もする。

 それをtsukimiさんが見たのかはわからない。tsukimiさんのほうも木魚さんのことはフォローしていない。でもたぶん、見たんじゃないかと私は勝手に思っている。それであの、愚痴のような発言が出たんじゃないだろうかと。

 通話やスペースやオフで会った時、肉声で喋るtsukimiさんは結構、キツいというか言葉に遠慮が無く、明け透けな喋り方をするタイプだと思う。SNSの文面にもそういうきらいが無くはないけれど、ただ根が明るいからか、普段は基本的に元気でポジティブな投稿しかしない人だ。だから余計に、今回の荒れ方は珍しかった。

 他方、それに関係しているのかいないのか、「巻き込まれた」という言葉も出ているところを見ると裏でtsukimiさんに八つ当たりでもされたのか、事情は判らないが、入磨さんの「病み期」に関しては正直珍しくはなかった。

 界隈のトラブルのあるなしにかかわらず、彼女は時々そういうタームに入る。今は寛解しているが数年前にパニック障害か何かの診断を受けていた、という話をちらりと聞いたこともあって、メンタルの調子を崩しやすいらしい。

 入磨さんに直接連絡してみようか、と迷った。

 入磨さんの投稿の言葉選びからして、tsukimiさんが荒れている事情をまったく知らないとも思いにくいし、tsukimiさんはまあ放っておいても大丈夫だろうけれど、入磨さんにはフォローを入れたほうがいいかもしれない。

 でも、事情を知ったところであたしが何かできるとも思えないしなぁ。

 そういう思いで二の足を踏んだまま、あたしのアカウントでは一日にひとつかふたつ、劇場版決定のお祝いとか映画を心待ちにする内容とか日常的な投稿とか、その程度でお茶を濁していた。

 相変わらず通話アプリのほうはログアウトしたままだった。次の年度で先輩が異動になるらしいことが内々に判り、彼が持っていた仕事の一部をあたしが巻き取ることになりそうだった。

 癌で一年近く闘病していた北海道の叔母が亡くなった。あたしはもう十年近く会っていなかったせいもあってあまり実感が湧かず涙も出なかったけれど、子どもの頃によくお世話になった記憶ははっきりあったので、「松原」の連名で香典をまとめて出すからと母に言われて一万円を母の口座に振り込んだ。遠いせいもあってお姉ちゃんとあたしは都合を付けるのが難しく、通夜と葬儀には母ひとりが行くことになった。


 そんな調子で二週間ほどが過ぎた頃、入磨さんのSNSアカウントが消えた。

 フォロー数が減っている、と気づいた。フォロワー数が減った場合、向こうからフォローを外された、リムーブされた、あるいは元々あたしのほうはフォローしていなかった人にブロックされた、ということだ。でもこちらが自分自身の操作で特に誰のフォローも外していないのにフォローの数が減っているということは、フォローしていた人にブロックされたか、フォローしていたアカウントが消えた、ということになる。

フォロー欄を見る。tsukimiさんはいる。コメさんはいる。木魚さんもいる。他の、特に仲良くしている相互の人もチェックする。片思いフォローしている、好きな絵師さんや字書きさんも。

 入磨さんが居なかった。入磨さんの名前だけが、上から下まで探してもどこにもなかった。

 あたしはSNSアプリの検索ボックスに入磨さんのアカウント名を入力して検索した。「@imnotiruma」宛の、他の人のリプライばかりが検索結果にヒットする。その中にはあたしがしたリプライもある。アットマーク以下の、青文字のリンクになっている部分をタップする。

 見覚えのあるアイコンと「入磨」というユーザー名が画面に映る。しかしその下に並ぶはずの投稿は真っ白になって何も表示されない。そして現れる、「このアカウントは存在しません」というエラーメッセージ。

 仮にこちらがブロックされている場合、「〇〇さんはあなたをブロックしました」と表示される。この表示が出ているということは、アカウントが凍結、つまりSNSの運営会社にアカウントをロックされたか、あるいはユーザーが自分自身でアカウントを削除したか、の二択しかない。

 会社から帰宅したばかりだったあたしはオフィスカジュアルの服装に厚手のストッキングを履いたまま、ベッドにうずくまり、同人仲間との通話に使っているほうのアプリにログインした。フレンド一覧から、入磨さんのアカウントを探す。こっちにも無い。

 ブラウザで作品の投稿サイトを開き、フォロー欄を確認する。「入磨」という文字が、彼女が描いた美原くんの絵のアイコンが見つからない。ただその代わりに、「__」という見覚えのない、初期アイコンのユーザーがあたしのフォロー欄にぽつんと居た。それが入磨さんの残骸だった。投稿作品がすべて、非公開の状態になっているようだった。「入磨」さんが、インターネットから姿を消していた。

 幾つかの通知の中に、コメさんからの個別チャットが飛んできていた。送信時刻を見ると、今日の昼頃だった。

『ちる子さん、すいません。ちる子さんから入磨さんの垢って見れます?ツイッターとディスコ』

 あたしが「ううん、見れない。支部も。垢消えてるよね?」とテキストで返信すると、程なくしてコメさんからまた返信が来た。

『やっぱりそうですよね?最初ブロックされたのかと思ったんですけど、ディスコはともかくツイッタの方はブロックされてる時の表示じゃないなって思って』

『コメさん最近入磨さんと話した?』

『入磨さん単体とはあんまり話してないんですけど、理由っていうか経緯はなんとなく知ってます。逆にちる子さんってなんも把握してないです?』

『最近プラベが忙しくてあんま把握できてなかった。もしかしてtsukimiさん関係してる?』

『ばりばり関係してると思います。今って通話できます?』

 さくさくと返ってくるコメさんの返信に最後「できるよ」と打つと、数秒でコール音が掛かってきた。サーバーでのボイスチャットとは違ってコメさんとの個別の通話だから、他の人に会話を聞かれることはない。

「……はい。コメさん? お疲れ様」

「お疲れ様ですー。やーちょっと、実はちる子さんがオフラインの間に揉めてまして。ぶっちゃけ私は傍観してただけなんですけど」

 コメさんの女の子っぽくて可愛らしい声が、いつもの彼女のちょっとギャルっぽい語尾の伸ばし具合でそう軽やかに語った。

「もしかして、やっぱtsukimiさんが怒ってたみたいな感じ?」

「そうそうそう。まさにそれです。木魚さん、いるじゃないですか。ちる子さんも相互ですよね。私はメインが宮鴻なんでフォローされてないんですけど、tsukimiさんが言ってて初めて存在知ったからポスト遡って見たりとかはして。で、やっぱtsukimiさんが、ポッと出の新参にエアでディスられたってめちゃくちゃキレてて」

 あーあ、やっぱそうか、という感想しか出てこなかった。完全に想像した通りだった。

tsukimiさんは実際のところたぶん、「自分が現時点で湧霧界隈のボスだ」みたいな認知が割としっかりあるタイプだと思う。いやもちろん、お互い大人なのではっきりと口にはしないけれど。それにプライドも高い。

「それをここのサーバーで結構がっつり愚痴ってたんですよ。ほら、木魚さんってこっちには招待されてないじゃないですか。てか、こっちに関してはtsukimiさんが仕切ってんだから、そりゃそうですよね。で、入磨さんは最初はうんうんって聞いてたんですけど、だんだんうんざりしてきたのか、『その言い方はないんじゃない』みたいな感じで反論し出して。そしたらtsukimiさんのほうは、『入磨さんは褒められてるから他人事なんだろうけど』みたいなとこから始まって、最終的に入磨さんのことまで本人に向かってディスり始めちゃって、ガチ喧嘩。その時は私と蜜柑さんとぴんき~さんもいたんですけど、誰も口挟めないですよね、そんなんなっちゃったら。ぴんき~さんは途中で無言で退出してました」

 想像するだけで恐ろしかった。あたしだってその場に居たら、正直まともに口を挟める気がしない。本気で口喧嘩をする気になったtsukimiさんなんて、考えたくもない。

「そのあとtsukimiさんと入磨さんで個別でやりとりがあったかは知らないんですけど、とにかく収拾つかないくらい、あそこふたりが険悪になっちゃって。たぶん、途中から相互ブロックでしたよ。それは気づいてました?」

「え……tsukimiさんと入磨さん? それはちょっと、気づけてなかった」

「まあ、そうですよね。私もブロックか単なるリムーブかまではわかんないんですけど、少なくともお互いフォローは外れてました。それで今になって入磨さんの垢消しだから、相当参っちゃったんじゃないですかね。で、当の木魚さんは我関せずで悠々と萌え語りしてるし、入磨さんにしてみたら完全に巻き込み事故ですよねぇ」

 それはそうだ、とあたしは力も出ず頷く。タイムラインを見ていると、すでに入磨さんがアカウントを消したことに界隈が気づき始めていて、誰も明確に名前は出さないけれど動揺したような文面の投稿が散見された。そしてtsukimiさんは何も言及せず、変わらずいつも通りに湧霧の一枚絵や新刊の原稿の進捗を投稿している。

 木魚さんの投稿もあった。『ショック…大好きな作家さんだったのに。一時的に潜られてるだけなのかな、、、陰ながらいつまででも待ってます』という文章。

「……なんか、あんまこういうこと言うのもどうかと思うんですけど。木魚さんって、ジャンル移動する度にアカウント分けてるらしいんですけど、たまたま私の同人の友達が一個前のジャンルで木魚さんと一緒のとこにいたらしくて。そこでもうっすら嫌われてたらしいんですよね、木魚さん。なんかほら、たぶんこだわり? が強いんだと思うんですけど、すごい色々言ってるじゃないですか。解釈違いとかも、あんまみんな思ってもハッキリ言わないようにすると思うんですけど、『こういうの許せない』みたいなことガンガン言ってたらしくて。ちょっとクラッシャーっぽいとこあるっていうか、まあ大きいジャンルならそれくらい全然ダメージ無いけど、ひまエニとか湧霧みたいなあんま大きくないとこだと流石にざわつくっていうか、影響出ますよねぇ」

「あ~……」

 コメさんの言う通りだと、あたしは思った。二次創作同人、特に女性向けのカップリング界隈はムラ社会みたいなものなのだ。みんな共通の趣味や嗜好を持って、仲間として仲良く楽しく創作しているように見えて、その水面下にはどろりとした情念の塊が漂っている。

「あの人の作品が嫌い」

「あの人の解釈は地雷」

「あの人の作品は嫌いじゃないけどノリが無理」

「あの人のほうがブックマークの数が多い」

「自分はあの人よりも上」

 とにかくありとあらゆる負の感情が渦を巻いている。そして「界隈」が小さければ小さいほど、それは露骨に可視化されてしまう。あの人とあの人は仲が悪い、とか。

 ブロック、ミュート、リムーブ、ブロックして解除、相互ブロック、何を言っても何の作品を投稿してもひたすら無視、裏で悪口、たとえばそういうような形で。

「なんか、めんどくさいですよねぇ」

 コメさんが、砂糖菓子のような声のまま画面の向こうでそう言った。

「私たち腐女子の二次創作なんて、どれだけいっぱいフォロワーが居て同人誌がいっぱい売れたって、所詮みんな原作に無いことを勝手に妄想して勝手に作って勝手に楽しんでるだけじゃないですか。ホントはグレーだけど、でもそういう文化だからなんとなく公式にお目こぼしされてるってだけで。そこはみんなでルール作って、なるべく守ってやってこうねってなってるわけだし、今更私だって、そもそも二次創作やるべきじゃないとかは言わないけど。ってかやってるし、もう。でも要するに結局みんな同じ穴のムジナっていうかドングリの背比べっていうか、誰の解釈が正しいとか、そこに優劣とか無いでしょ。だってみんな、勝手に原作に無いカップリングとか関係性とかストーリー作って創作してるってとこでは一緒なんですもん。それで内輪揉めしてマウントの取り合いして、ホント不毛だし、くだらないな~って感じ」

「……」

「あ、ごめんなさい、ぺらぺら喋っちゃって。もう夜遅いですよね。ちる子さん、仕事終わりですか?」

「えっ、あ、うん、そう」

「お疲れ様です。すいません、疲れてるところにこんな話。また今度話しましょ。とにかく、ちる子さんはいつも通りやればいいだけだと思うんで。あんま気にしないほうがいいですよ。私が言うことでもないですけど」

「そう、だね。ありがと、教えてくれて。またね、おやすみ」

「はーい、おやすみなさーい」

 彼女のその一言で、さっぱりと通話は終了した。化粧を落としてお風呂に入って、髪の毛を乾かしてもう寝よう。そう思うのに、あたしはしばらくベッドに座り込んだままぼうっとしていた。

 いつものほほんとしているように見えていた若いコメさんが、冷静に俯瞰したような意見を淡々と語ったことに若干の驚きを感じつつ、「そうだね」と心の中で何分も何十分も遅れた相槌を打った。

 そうだね、コメさんの言うこと、一理あるよ。

 あたしたちみんな、同じ穴の狢なんだ。差があるとしたら、見られるか見られないか、読まれるか読まれないか、バズるかバズらないか、同人誌が売れるか売れないか、それくらいしかない。

 あたしはもう、何が優れてて何が劣ってるのか、何が良くて何が悪いのか、よくわからなくなっている。もはやどうでもいい気さえしている。本当に、くだらない。

 ただ、入磨さんのことだけが気がかりだった。彼女に連絡する手段が、あたしにはひとつだけ残されていた。神戸に行った時、プライベートで使っているメッセージアプリの連絡先を交換したのだ。どこかの街中を背景に、ほとんど後ろを向いて僅かに顔が見える角度の、生身の彼女本人が映った他撮り写真がプロフィールに設定されている。登録名は「薮内みさを」だった。


 疲れたな、と思ってぐぅっと伸びをして、首をぐるりと回すと、ごく小さなゴキゴキという音が首の後ろで鈍く鳴った。モニターの時計を見ると、十九時を過ぎていた。

「松原さん、おつかれ~。まだ帰んないの?」

 テーブルの傍らにふらりとやって来た向坂さんも、そう言いながら今買ったばかりと思われる缶コーヒーを手に持っている。つまり彼女もまだ残業する気らしい。

「うーん、正直上がっちゃってもいいんだけど、なんか中途半端な気がするから、もうちょいやってこうかなーって」

「そっかー。いやー、年度末大変だよねー」

「ね。向坂さんもまだ残る?」

「うん、私ももう少しやるかなぁ。でも八時には帰る、流石に」

「そうだね。あたしもそうしよ」

 向坂さんは「お互いがんばろ~」と間延びした声を投げかけつつ、自分が仕事していたテーブルに戻って行った。

 すっかり暗くなった窓ガラスは雨で濡れ、水の粒がひっきりなしに叩きつけられて、無数の筋を作りながら流れていた。いつの間に降り出したんだろう。夕方から雨が降るという予報は朝リビングのテレビで見たから、一応折り畳み傘をバッグに入れておいて正解だった。

 さて、と思った瞬間、微かな振動音が聞こえた。横に置いている、あたしのバッグから。私用スマホのバイブ音だと、すぐに判った。社用のスマホは機種が違うから鳴り方も違うし、そもそもそっちはマナーモードではなく着信音が鳴る設定になっている。

 引っ張り出して画面を見ると、「薮内みさを」さんから着信が掛かってきていた。ヴー、ヴー、と繰り返し鳴り続けている。あたしはパソコンにスクリーンロックを掛け、スマホを手に立ち上がった。オフィスのワークスペースを抜け、エレベータホールのほうへ早足で向かいながら、スワイプして応答した。

「……もしもし?」

「……せなちゃん?」

 電波が悪くて遠く聞こえるのか、それとも事実そうなのか、やけにか細い声が聞こえた。幸い誰も居なかったエレベーターホールの隅に立つ。

「入磨さん? どうしたんですか? っていうか、アカウント全部消しちゃいましたよね。心配してたんですよ、大丈夫ですか?」

「あー、うん、せやんな。ごめんなぁ、心配かけて。や、でもアレなんよ、一応ピクシブのほうはね、消してはおらんくて、作品全部非公開にしただけなんよ。あっち消してしもたらさ、ほんまに取返しつかへんから。まあツイッターのほうはね、消えてんねんけど、でも絵とかは別にデータこっちで持っとるし」

「ああ、まあ、それならいいんですけど……いや、良くもないですけど」

「それよかさ、ちるちゃんて今どこにおるん?」

「え、今ですか? 今あたし会社にいて、残業してたとこです」

「あのさ、ほんまに無茶言うてるのはわかってんねんけど、会われへんかな。いくらでも待つから。今な、私、東京におんねん」

「……はぁっ? 嘘でしょ? 今? 東京って、東京のどこに?」

「東京駅。新幹線で、さっき新神戸から着いてん」

「さっき? な、なんで? わかりました、大丈夫です、会えます。残業って言ってももういつ切り上げてもいいくらいの感じだったんで、すぐ片付けます。東京駅なんですよね? そのままJRの中央線乗って、四ツ谷まで来れますか? オレンジの電車です」

「四ツ谷な? 知っとるよ、中央線やろ。わかった、すぐ行く」

「雨降ってるから、駅の中で待っててください。あたしもすぐ向かうんで」

「うん、ありがと。ごめんな、忙しいのに。ほなな」

 トゥルン、と軽やかな音で通話が切れたあと、あたしはほとんど走って自分のパソコンへ戻り、開いていたたくさんのファイルの上書き保存、退勤前に飛ばしておきたいチャット連絡、諸々の後処理などなどを急ぎで済ませ、最後に出退勤打刻システムで「退勤」のボタンをクリックしてシャットダウンした。

 外は土砂降りと言っていいほどの強い雨で、おまけにひどく寒かった。オフィスから駅までは遠くないが、傘を持ち、ほとんど走るように急ぎ足で向かうとばしゃばしゃと音を立ててブーツが雨水を散らす。

 傘を畳んで駅の軒下に入り、スマホを見ると「改札ふたつあんねんけどどっち?」というメッセージが届いていた。「麹町口って書いてあるほうなんですけどわかります?」と送るとすぐに既読が付いたが、返信は無い。あたしは黄緑色の改札のほうへ走った。

 黒のダウンジャケットを着て、旅行用のような大きめのボストンバックを半ば背負うように肩に掛けた入磨さんを、改札の向こう側に見つけた。彼女はICカードか何かで、いたって普通に改札を通り抜け、きょろきょろと数秒辺りを見回すと、真っすぐ前方にあたしを見つけた。そして、どこか気の抜けたような、安心したような表情を見せた。

「せなちゃん、ごめんな。ありがと」

 人の往来の間を潜ってあたしの元へ歩いてきた入磨さんは、申し訳無さそうに苦笑いを浮かべて、それでもしっかりした声でそう言った。

「大丈夫ですけど、どうしたんですか? なんでいきなり東京に? 何か用事あったんですか?」

「ううん、なんも。なんもないねん。……あんな、昨日、離婚調停の申し立てしたとこなんよ」

「……えぇっ?」

「せなちゃんが東京帰って、ちょうどその次の週くらいやったかなぁ。ダンナの浮気相手とな、うちでハチ合わせてしもて。浮気っていうか、不倫? どっちでもええねんけど。これは流石にあかんよなぁってなって、離婚しよって言うたんやけど、なんや色々あって私の実家と向こうの実家も巻き込んで大揉めになってしもてな。なんか財産分与? とか色々。これはもう家裁挟まんとどうしようもないわー言うて、昨日、申立書ってのが受理されて。あ、もちろん神戸の家裁な? で、これから調停初日の日程決めますー言うて。とりあえず私はこのあと奈良の実家戻らなあかんねんけど。ほら、だって、おりたくないやん、ダンナと一緒の家には」

「それは、まあ、でしょうね……」

「そんなんでぐちゃぐちゃなっとる時にさ、tsukimiさんとディスコで揉めてしもて。そこらへんって何か聞いとる?」

「正直全然把握してなかったんですけど、昨日コメさんから聞きました」

「あー、そうなんや。コメちゃんもなぁ、なんか巻き込んでしもて申し訳ないわ。とにかくもう、なんもかんもめちゃくちゃでな。薬飲んでへんとパニックみたいなんなりそうやし、また眠剤飲まんと眠れへんようになってしもたし、もう全部嫌んなって。夜中に衝動的に全部消してしもた」

 寒さのせいか疲労のせいか、つい一ヶ月ほど前に見た時よりもどことなくやつれて、蒼白い顔をした入磨さんは、すっぴんのようだった。唇にも色が無い。

「でも、じゃあ、なんで東京に?」

 戸惑いながらあたしが尋ねると、彼女は眉尻を下げて自虐的な笑みを浮かべ、あたしの目を見た。

「せなちゃんに、会いたくて」

 どくん、と心臓の奥で、あたしにしか聞こえない音が鳴った。

「……入磨さん、わかってます? 証拠とか無いから良いですけど、あの時、あたしが神戸の入磨さんちで貴女としたことバレたら、入磨さんが取れる慰謝料、たぶんめちゃくちゃ減りますよ」

 入磨さんはアハハ、と弾けるように笑った。

「せやんなぁ。ほんまにそうやわ。お前かて不倫しとるやんってなぁ」

「……まあ、ぶっちゃけ、よっぽど探偵でも付けられてなければバレないでしょうけど」

「うん、せやろな。まあ、それはええよ、もう。なんでも」

 そう、投げやりな調子で入磨さんは言った。そして、はぁ、とひとつ溜息を吐いた。俯くように伏せられた睫毛の下の瞳が、ふっと虚ろになった。

 それを見た瞬間、あたしが抱いた感情が、同情なのか恋情なのか愛情なのか庇護欲なのか、あるいは支配欲なのか肉欲なのか、もう判別が付かなかった。あたしはゆっくりと手を伸ばして、彼女の身体の横に力なく垂れ下がる白い手を取り、ぎゅうっと力を込めて握った。それはひどく冷たかった。

「……みさをさん」

 彼女は、もう一度顔を上げてあたしの目を真っすぐに見た。