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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

フレデリック・ショパン、迫るお別れ演奏会、準備万端なのか…、コンスタンツァアの歌声がフレデリックの胸を打つ

2024.10.18 02:11

心の整理をしたフレデリックは、後はお別れ演奏会を成功させるのを待つばかりだった。

試演会の甲斐があり、フレデリックの新作を公に演奏出来る許可が政府から下りた。

しかし、これはワルシャワ最後の演奏会になることがわかっていたたフレデリックは、全く嬉しい気持ちにはなれなかった。

「私はあなたの手紙をとても必要としていた。この呪われた、しかし避けられない時間つぶしが、どれほど私を疲れさせているか、」

ティトゥスからの返事を待っていたフレデリックは、待つ時間がとても呪しかった。

今か今かと、おそらくパヴウォツキ伯爵を通してフレデリックはティトゥスからの書簡を受け取っていたのだろう。

明日になるか、明後日になるか、来るのか来ないのか、いつになるかわからないもの事を待つ気分ほど最悪なものはなかった。

「あなたは想像できないだろう。私の第2協奏曲(ホ短調作品11)のオーケストラ・リハーサルの後、公開演奏が決定した。

来週の月曜日、9日に演奏することになった。」ティトゥスへ報告したが、ティトゥスは既に知っていた。

フレデリックは作品は必ず成功するであろうとかなりの自信があった。

ワルシャワの音楽家の反応は試演会で見て取ったフレデリックだが、一般大衆はどのような反応を示すかが興味深く思っていた。特にロンドが一般大衆に受けて大成功するに違いないと予想していたし、そのようにフレデリックは気持ちが高揚するように書いた自信があったのだ。2楽章では、人々は涙して、3楽章では、ポーランドの民族の血が高揚するのだ。確かな自信がフレデリックにはあった。

試演会に招いたソリーヴァも同じような感想をフレデリックに話していたからだ。クルピンスキーは独創性を褒めていた。エルスネル先生はロンドのリズムを褒めて気に入ってくれた。

しかし、心配事がフレデリックにはあった、

それは、

「協奏曲の楽章の間に、クラリネットやファゴットのような惨めな楽器を挟む必要さえなければ......。」

協奏曲の1楽章と2楽章の間に、クラリネットやファゴットの演奏が入るのだ。それらの演目はフレデリックが変えることは出来なかった。

フレデリックは自分の曲の雰囲気が台無しにならないか不安しかなかった。

しかしながら、一般大衆は初めて聞く曲を最後まで集中力が保てないかもしれない。当時はこのようなスタイルのプログラムが慣習とされていた。

そしてお別れ演奏会には、コンスタンツァアも出演することになっていた。リハーサルを終えたフレデリックはティトゥスに報告した。

「前半はコンスタンツァアが歌い、後半はヴォルコフが歌うという、とても素敵な夜を演出することができた。

序曲は、いつものレシェックでもロディスカでもなく、ウィリアム・テルだ。

若い女性たちが歌う許可を得るまでに、私がどんな苦労をしたかは想像できないだろう。」フレデリックは政府から合唱の許可を貰うために自ら奔走せねばならなかった。

「イタリア人は快く承諾してくれたが、私はまず、より権威のあるモストフスキに申請しなければならなかった。彼らが何を歌うのか、私には見当もつかない。

ソリーヴァが教えてくれたのは、アリアのひとつに合唱の伴奏が必要だということだけだった。私たちはすでに 

[ロッシーニの『カササギ』です。グラドコフスカ(コンスタンツァア)は初出演でかなり緊張していました。

最初のカヴァティーナは、2回目ほどは彼女はうまく歌えなかった。しかし、歌っているときの彼女は立派でした。」

イタリア人とは作曲家ソリーヴァのことで、ソリーヴァに協奏曲の指揮をフレデリックは頼んだ。ソリーヴァはワルシャワ音楽院で声楽の指導もしていた。コンスタンツァアはそのソリーヴァのクラスの生徒であった。

 フレデリックの努力により準備は整って、フレデリックはポーランド最後となるお別れ演奏会を何が何でも成功させねばならなかった。

「 コンスタンツァアは、マイエル夫人のように短く切り取らず、音符の価値を最大限に引き出している。

その価値を十分に発揮している、

つまり、急速なグルッペッティではなく、8つの音符のひとつひとつを完全に歌い上げるのだ。

最終幕では、葬送行進曲の後に、ロッシーニの『マホメット』からの祈りは彼女の声に似合っている。

カササギのアリアは彼女には高すぎたのだ。」ティトゥスにコンスタンツァアの素晴らしさを熱弁するフレデリックだが、

その他の出演者についても付け加えた、

「ヴォルクは今、理髪師を学んでいる。

ソリーヴァが私のコンサートで二人にデュエットを歌わせたくなかった理由だ。」

そして、フレデリックが毎回頭を悩ます

ピアノの機体とは、

「私は、ベルヴィルが来日したときに断られた楽器で演奏し、遅くともコンサートの1週間後にはワルシャワで私の最後を見ることになる。」フレデリックは7月8日の演奏会で

6月にワルシャワに来ていたベルヴィルのウィーン製のシュトライヒャー社のピアノを貸してもらえなかった。しかし、フレデリックの嘆願は叶い、お別れ演奏会ではシュトライヒャー社のピアノを借りられるように計らわれた。

「トランクはもう買った、 

楽譜を製本し、ハンカチを縫い、ズボンは仕立てられた。あとは 

最悪の別れだ。. . .」

旅立ちの準備は整った、思い残すことがないようにティトゥスへ報告を書き続けたフレデリックだった。


タデウシュ・アントニ・モストフスキ

(1766年10月19日、ワルシャワ- 1842年12月6日、パリ)

ポーランドの作家、ジャーナリスト、文芸評論家、政治家


彼はドウェガの紋章のタデウシュ・アントニ・モストウスキ貴族の家柄だった。

(1766 年10 月 19 日ワルシャワで生まれ、1842 年 12 月 6 日パリで死去)

 大臣内務公国、広報担当者、政治家、出版社、文芸評論家、ポーランドの作家- 1815 年12 月から1830 年12 月まで。

議員1830年にコングレス王国の国務院で最高審査委員会の委員を務めた。

 彼は、著名な軍司令官パヴェウ・ミハウ・モストフスキ の息子であった。

彼は知識階級の貴族社会の雰囲気の中で育ち、コレギウム・ノビリウムで学んだ。

1780年に彼は評議員となり、後に大セイムの議員に選出された。1790年に彼はマゾフシェ県のポドストリとなり、ラチョーシュの城主になった。それにより上院 での地位を獲得した。彼は愛国党の支持者で、立憲友会の結成し、1792年、ユリアン・ウルスィン・ニェムツェヴィチ、ユゼフ・ワイセンホフ とともに『ナロドワ・イ・オブカ』 を出版した。タルゴヴィツァ同盟の時代にポーランドを離れ、最終的にパリにたどり着き、ポーランド移民とフランス革命当局との交渉の調停者となった。ジロンド派の敗北後、投獄されたが、すぐに釈放され、帰国を許可さされた。

そこで、エカチェリーナ2世の代理人ヤコブ・フォン・ジーフェルスに迫害され、拘留された。

1794年、彼はコシチュシュコ蜂起に参加し、マゾフシェ公国臨時評議会および最高国民評議会のメンバーとなった。蜂起が崩壊した後、彼はサンクトペテルブルクで自宅軟禁されたが1795年に恩赦を受け釈放さた。

1797年に再びパリに行き1802年まで留まり、その後、1795年に相続した現在のモストフスキー宮殿に居を構えた。また、パリからワルシャワへ最新の設備を持ち込み出版事業を再開した。彼は1812年に再びフランスに滞在した。その年の後半、彼はワルシャワに戻り公国の内務大臣となる。1815年から1830年まで、ポーランド議会の内務政府委員会の議長大臣を務めた。その職に就いている間、彼はアウグストゥフ運河の建設を促進し、マリモントに 農業研究所を設立した。

その頃、彼は作家として活動も続け、多数 のワルシャワの雑誌に文芸評論や演劇評論を発表した。1825年上院議員に任命された。

11月蜂起の間、上院の会議を欠席した。

蜂起が鎮圧された後は、ロシア当局は彼の

父から相続していたフランスの土地への移住を許可した。

1842年彼はパリで亡くなり、モンマルトル墓地に埋葬されている。


✳︎彼は作曲家フレデリック・ショパンと親交があった。