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他界説

2024.09.07 11:39

https://blog.goo.ne.jp/kawaiimuku/e/39d3a23f02789aea2ebe81e253d1d05c/?st=1 【金子兜太著「他界」を読んで】より

照る日曇る日第756回

 俳句の大家、金子兜太翁もこの本のなかで、「他界」すなわち「異界」すなわち「来世」、すなわち「あの世」はあるという。

 おそらくそれは彼のトッラク島における凄絶な戦争体験からきているのだろうが、もしそれがほんとなら大変だ。

 この世の生物は肉体は失せても魂はみなあの世でしっかり実在していることになるから、私らが死んじまっても、とっくの昔に亡くなったはずの父母や祖父母や親戚や愛犬ムクやお富さんなんかとも、あちらのどこかで近接遭遇するという素晴らしい出会いが待ち構えていることになる。

 いまのところ私は神も仏も基督もモハメットの神にも依拠していない無信仰者だから、死ねば終り、空の空にてハイさようなら、ジ・エンドで結構な人なのだが、考えてみればかなり淋しい死生観の持ち主ということになる。

 なかにはその空虚と孤独に耐えられず、真の前にぶら下げられた縄にすがってあの世へスイングする人なんかもいるようだが、私なんかはさしずめ足首に縄目をつけないで谷底めがけてバンジージャンプするようなものだなあ。

 ワン、ツー、スリー、鬼が出るか ワン、ツー、スリー、天使が出るか、

 ワン、ツー、スリー、さあここで飛べ。

 バンジージャンプで地獄に着いて、待ち構えていた閻魔さまにわが来し方の罪状を洗いざらい告白させられて、ダンテの神曲の出てくるような身の毛のよだつような煉獄で生かさず殺さず永久に業火に焼かれるようなことなったら、どうしよう。

 どうやら、どうにもこうにも始末に負えない困った本を読んでしまったようだ。

  眼を瞑れば此岸から彼岸へ一っ跳び眼を見開けばこれまた此岸 蝶人


https://kaigen.art/kaigen_terrace/%E4%BF%B3%E4%BA%BA%E9%87%91%E5%AD%90%E5%85%9C%E5%A4%AA%E3%81%AE%E5%85%A8%E4%BA%BA%E9%96%93%E8%AB%96%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E2%91%A5%E3%80%80%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E4%B8%87%E5%AF%BF/ 【連載 第6回 俳人金子兜太の全人間論ノート 岡崎万寿(四)「俺は死なない」兜太の内面世界 ―「他界説」とアニミズムの到達点】より

 「他界」とは、いわゆる「あの世」、「死後の世界」のことである。兜太は最晩年のある頃から、この「他界説」を熱心に主唱しはじめた。九十五歳で、「死者のいのちが私の生きるエネルギーになっている」と、『他界』(前掲)、『私はどうも死ぬ気がしない』(前掲)といった本を出版している。

 俳人兜太のこと。まず、その感性表現として、「他界」について、どんな俳句を詠んでいるのか。遺句集『百年』には、「他界」という言葉のある作品は三句ある。うち二句を挙げると。

  父母も妻も他界に福寿草の谷間(二〇一二年)

  死と言わず他界と言いて初霞(二〇一四年)

 二句とも揃って、新年を祝う俳句である。一般には、暗いイメージの死後世界である「他界」が兜太の内面では、こんなにもめでたく福寿草や初霞といった季語との取り合わせの作品となっているのが、興味を引く。一章で述べたオリジナルな「立禅」を通じて、次第に晩年、生者と死者の魂が交流し合う、いわば生死一如の境地に近づいていた、俳人兜太の意識の深層を見るようだ。

 (1)「他界説」それぞれ―その共通項

 そして九十七歳のとき美術家の横尾忠則(八十一歳)と、「他界」をめぐって、こんな気の合った対話をしている(横尾対談集『創造&老年』二〇一八年刊)。

横尾 そうすると金子さんの場合は、死ぬということも生の延長、……こちらでの生き方をそのまま反映するという。

金子 そう思います。だから他界と平気で言えるんだと思います。

横尾 向こうは他界でこちらは自界ですからね。

金子 そこには私共の世界があると思いますからね。他界をつくるためには自界はシュミレーションになるわけですよね。他界のシュミレーションはこちらで作っておけばそのままずっと生きてるみたいな。そう信じています。

 何事も、生の直接体験からスタートし、発想する、兜太らしい「他界」へのアプローチである。つまり兜太の「他界」とは、現に自界でのシュミレーション(模擬実験)となっている「立禅」とセットの、その延長線上にある地続きの、親しい人たちが待っている世界である。

 七十歳から己の養生法として始め、毎朝欠かさず楽しんで続けている「立禅」の習慣が、親しかった死者たちの名前を、その映像とともに称名しているうちに、次第に呼吸があい、対話・交流の場となり、ある時から生者、死者がすっかり違和感なく同化した「他界」のイメージを、リアルに確認するに至っている。こう述べている。

 毎朝、他界の連中と親しんでいると、次第にみんながいきいきと生きている様子がリアルに感じられてくるようになってきたんです。そのあたりからですね。人間のいのちは死なない、ほかの世界に行くだけだという単純極まりない確信が持てるようになってきたのは。……死ぬことにあんまり特別な感じがしなくなってきました。まさにアニミズムの世界です(『他界』下線・引用者)。

 こうした死生観、他界観は、もちろん兜太独自のもので、その通り、毎朝の「立禅」で、「他界」にいる妻・皆子や父母や親しかった死者たちと顔を合わせ、声をかけ、対話・交流を続けながら、ゆったりと安心して、みごとな現役大往生を遂げられた。私の知る限り、「他界説」の最初の実践者でもある。

 では、その①金子兜太の「他界説」が社会的にもかなり普遍性をもった死生観であることを、例証するため、続いて②瀬戸内寂聴(作家・僧侶)、③先の横尾忠則(美術家)、④矢作直樹(臨床医師・東大教授)それぞれの死後世界観について、コンパクトに例示しておこう。

 ② 瀬戸内寂聴(作家・僧侶)

 そもそも死ぬことはたいしたことじゃないかもしれません。人間、生まれたら死ぬのが当たり前だから。……私は、残された人たちの心が少しでも軽くなってほしいと思います。だからこれからも「死んだらみんなに逢えるわよ」と言いつづけるでしょう。ほんとのことは誰もわからない。嘘ではないから(『寂聴九十七歳の遺言』)。

 法話の会で「あの世はいいところ。先に死んだ人たちに逢える」などと話すと、みんなとても喜びます。……「あの世に行ったら外側なんかなくて、魂だけのつき合いだからね、あなたのご主人はあなたをぱっとわかって、ぱっと来てくれます。」(前掲書)

 数え年なら九十八歳にまで生きのびてしまって、ようやく、「死」は目前の事実となってきた。あの世があるのかないのか、訊かれても答えられないが、近頃ようやく「死」は「無」になるのではなく、「他界」に移るような気がしてきた(『寂聴残された日々』「朝日」掲載は二〇一九年九月十二日付・下線は引用者)。

 ③横尾忠則(美術家)

 いや、僕は死んだら無になると思ってないので、無の恐怖はゼロです。向こうへ行ったら行ったで、現世とは変わるけど、それはそれなりの未知の興味はありますね。また、親や知り合いの人たちに会えると思っているので、様子は異なるかもしれないけど、こちらの世界の延長だと思っています。そういう意味では死んでからが楽しみだなっていうのはありますよね(『創造&老年』)。

 ④ 矢作直樹(臨床医師・東大教授)

 臨床医として医療に従事するようになると、間近に接する人の生と死を通じて生命の神秘に触れ、それまでの医学の常識では説明がつかないことを経験するようになり、様々なことを考えさせられました。

 古代から日本人は、人は死ぬとその霊は肉体から離れてあの世に行くと考えていました。……昔の日本人はみな、直観的に「人の死後の存続」を信じていた。

 人の魂は肉体が消滅した後も存在すると考えれば、ずいぶんと心が安らかになるのではないでしょうか。……大切な人と幽明の境を異にするのは一時のこと、他界した人はどこかで自分を見守ってくれている、いつの日か再会できると考えれば、死別の悲しみの本質が変わってくるのではないでしょうか(『人は死なない』二〇一一年刊)。

 死後の世界、死者の世界は、霊たちが存在する世界ですが、そこは、いま私たちがいる世界と同じでありながら、そこから悪いものはすべて排除したような美しい世界だと思っています。……死後の世界というのは、観念の世界でもあります。その人の心持ちが、そのまま、その世界になるということもできます(『この世を生きる「あの世」の教え』二〇二〇年刊)。

 見るように「他界」は人それぞれ、まったく自由な観念の世界である。しかし予想以上に共通項が太く、リアリティがある。三つにまとめると。

(1)人のいのちは死なない。寿命が来れば肉体は死に朽ちるが、その霊魂は生き続け、他の世界へ移っていくだけ。「無」になるのではない。新たな形での「生の延長」である。そう考えれば、ずいぶん心が安らぐ。

(2)死ぬことにあんまり特別な感じがしなくなった。生と死の間に、境界線を強く引かない。人間、生まれたら死ぬのが当たり前。死別の悲しみの意味が、かなり変わってくる。

(3)「他界」では、先に逝った会いたい人たちと親しく会える。みんな待っている。楽しみないい世界で、うんと遠い所でなく、案外、近くの往還可能な場所にあるようだ。

 (2)アニミズムの俳人―秩父土俗より宇宙まで

 金子兜太は、自らを「俳句の塊」と言い、「アニミズムの塊」とも言っていた。何事も直接体験を第一にして、特定の宗教を信じない無神論者だが、誰よりも「言霊」を感じ、死者たちから生きるエネルギーをいただき、ふるさと秩父から宇宙まで、その「大いなるもの」をたっぷり体得していたのである。その「大いなるもの」とは何か。

 最晩年に書いた『私はどうも死ぬ気がしない』という著作で、アニミズムの見地から、その到達した死生観、俳句観を次のように平明に総括している。そのポイントを列記しておこう(下線は引用者)。

 産土の秩父と地続きともいえる熊谷に転居し、土の上での暮らしをはじめてからです。土を意識することで、土から生まれ、土に還る”いのち”について考える機会が増えました。

 日本人の感性には独特のものがあります。一木一草に魂が宿っていると無理なく感じることができる。これはアニミズムです。したがって、俳句でも短歌でも詩でも、日本人に人気があるのは、アニミズムを根元に持つ人たちの作品です。……あらゆるものに魂が宿っているというのは、私が育った秩父ではあたり前のことでした。

 幼少年時代を過ごした山国秩父の森には、かつてニホンオオカミがたくさんいました。明治半ばに絶滅したと伝えられていますが、私の身心のなかには、その森があり、のこのことニホンオオカミが歩いています。

 湿気を含むひんやりとした山の空気のなか、足音も立てずにあらわれた一匹のオオカミをよく見ると、蛍の光が一つ瞬いているのです。そこには、いのちの原始があります。私のアニミズム世界の、一つの光景なのです。私は、時折、この光景を思い浮かべます。すると、すべての生き物と自分と、さらに宇宙までもが一体となったような、大きないのちを感じることができるのです。

 こうして生まれたのが、次の名句である。

  おおかみに螢が一つ付いていた(『東国抄』)

 秩父土俗のアニミズムを体得

 続く第十四句集(『日常』二〇〇九年刊)では、その「あとがき」の結びに、「アニミズムということを本気で思っている」と述べながら、己の中に成熟してきた「他界説」を秩父に即して、こんな映像に詠み上げている。

  言霊の脊梁山脈のさくら(『日常』)

 言うまでもなく脊梁山脈は、秩父盆地の南に連なる二千メートル級の連山で、これが陽光を遮って、「山影情念」という独特の秩父世界を形成している。その暗い山肌に、春ともなれば、点々と桜花が見え、何となく隠微な美しさが宿り、不思議な霊感を感じさせる。その風景に、兜太はふと「あ、これが他界か」といった、「死後世界」の美しさを、イメージして感受しているのである。

 そうした山間の秩父盆地で、兜太は幼少期を過ごした。当時、養蚕農家がほとんどの村落共同体の山国秩父は、みんな、きわめて貧しく、肌を寄せ合って暮らしていた。土俗のアニミズムそのものの世界だった。兜太は、多く語っているが、その特徴は、自らをふくむ村人と、森の樹木や家や山々が同化し合い、一体となっていることである。簡単に、兜太自身の体験を三つだけ挙げると。

(1)小学六年の頃、叔母が漆の木にかぶれやすかった兜太を引っ張って、「お前、漆の木と結婚しろ」と皿に移した酒をなめさせ、漆の木にもその酒をかけた。そして「ほれ、これで一緒になったよ」と言う。それ以来、漆の木にかぶれることは無くなったそうで、子供心に目に見えない「アニミズムというやつを感じ初め」だったそうだ(『他界』)。

(2)四十八歳のとき、熊谷に建てた家にも「秩父の魂」が宿っている、と兜太は信じている。秩父の棟梁が、秩父の木でほとんど一気に建てたのだが、その家が出来上がるとき「棟梁と家が男女の交わりをもつ。それが家の仕上がり」だそうだ。「このあたりが、秩父人の面白いところですね。ちょっと淫靡な」と、兜太は付け加えている(『のこす言葉金子兜太』)。

(3)これも幼年期のこと。兜太は小林一茶の句「死ぬ山を目利きしておく時雨哉」を挙げて述べている。近所に全く盲目の初老の義太夫(注・大ざおの三味線で語る浄瑠璃の一派)の女師匠が居て、朝、山空を見回している。「山がみえるのかい」と聞くと、「見えるさ。あの山とあの山が、ここがいいよ、ここで死になよ、といってくれているんだよ」と言ったそうだ。

 当時は兜太もまだ理解できなかったそうだが、そこで抱いた「不思議な感じ」こそ、盲女と里山とが同化した、土俗のアニミズムにふれた実感だったのではないのか(『中年からの俳句人生塾』二〇〇四年刊)。

 こうした秩父谷の人たちへの無類の親しみと関心も、兜太のもつアニミズム体質の現れだと思う。とりわけ小学一年から三年まで、祖父母の居る隠居所に預けられていた毎日、ものぐさで暇つぶしに集まってくる近所の連中の噂話や昔話といった「炉ばなし」は、興味津々だった。

 一茶の句「十ばかり屁を棄てに出る夜永哉」といった風景も、「私の幼年期の風景とぴったり」だった。『悩むことはない』という著作で、こう述べている。

 私の中にある、あらゆる生きものへの、信仰に近い親しみというようなものは、子供時代に養われている。その大本をたどればやっぱり糞尿とのつきあいから始まったような気がするんです。

 これぞまさしく、秩父の土俗的アニミズムの暮らしそのものではないのか。

 到達した真性アニミズム―「大いなるもの」の正体

 兜太という人間は、あらゆる面で進歩し続ける存在だった。熊谷に引っ越して以来、秩父の土に親しみ、学びながら、「アニミズムと人間」について、いちだんと感覚、思索を深めつつ、永年の友人で歌人の佐々木幸綱と、一晩かけて語り明かしている。その対談集『語る 俳句 短歌』(二〇一〇年刊)は、九十歳となった兜太のアニミズム論の一つの到達点を示しているものと思う。

 そこでは明瞭に二つの点で、従来の兜太のアニミズム論の飛躍が感じられる。

 一つは、原始宗教としてのアニミズムについて。それは一つ一つの個体のいのちを見て、精霊を感じ、お互い信仰し合うものだが、この「宗教」という冠詞をかぶせてアニミズムを、そのまま受け取りたくない。何か一つの形ができてしまうので、「これはあまり賛成しない」というのである。

 二つは、十八世紀のイギリスの比較人類学者E・B・タイラーのアニミズム論について。彼は、「ものにはすべて生きた魂があると見ることがアニミズムだ。抽象的な概念にも生きた魂がある。何にでもあると見ることがアニミズムだ」と言っている。これは近現代におけるアニミズムの考え方の典型のようだが、「何か、図式性を感じて、もっと生きたものでないといかんと思いますので、これにも賛成しない」と言う。

 そして、さらに二〇一六年、九十六歳のとき、俳人で哲学者、寺の住職でもある大峯あきらとの「特別対談」(「存在者」をめぐって・司会 宮坂静生「俳句」二〇一六年七月号)の中アニミズムをめぐってで、宗教学者で人類学者の中沢新一の言葉に、深く共鳴する発言をしている。

 中沢さんの言葉を借りれば、「宇宙をあまねく動いているものこれを仮に〈霊〉と呼び、英語では〈スピリット〉と呼ぶことにする。それが宇宙全域に充満して、動き続けている力の流れです。その動いているものが立ち止まる時、私たちが存在と呼んでいるものが現れる」という考え方に近いですね。

 この対談での、兜太の中沢新一の言葉の紹介は以上だが、重要な問題のポイントでもあるので、それに続く中沢の講演録(「俳句のアニミズム」二〇一五年十月「現代俳句全国大会」にて・『俳句の海に潜る』中沢新一・小澤實共著・所収、二〇一六年十二月刊)から、いま少し引用しておこう。

 ところが古代人らは、一元論で思考します。大いなる「動くもの=スピリット」があって、それが立ち止まるところに存在があらわれ、あまりにどっしりと立ち止まってしまうと、そこには生命のない物体が存在するようになるが、それら存在者は生物も非生物も、もともとは一体です。

 このような一元論的アニミズムこそが、ほんとうのアニミズムだと、私は考えます。

 このアニミズムの考え方は見方を変えると、科学のそれとよく似ています。科学では、この宇宙は重力など四つの力でつくられています。これらの力が粒子をつくり、物質をつくって、この宇宙はつくられてきました。生命も人間の意識も、この運動の中から発生してきたと考えると、科学の思考と真性アニミズムの思考は、よく似たところをもっていて……。

 俳句のアニミズムということを考える時には、……アメリカ・インディアンの首長の考えるような古代哲学的なアニミズムの立場に立つ必要があります。……原日本人はアニミズムによって思考しました。あらゆる事物の背景に、彼らは霊(タマ)の働きも感じ、そこからアニミズムの思考を紡いでおりました。

 長い引用となったが、これが兜太が到達したアニミズムの真実である。兜太は先の対談で、重ねて、「だから、”宇宙を流れている力というものが存在である”という基本の考え方が一つあって、その力の表れとして人間たちがおって、その人間たちが存在者と言える。そういう考え方がそこにもあるわけです」と強調している。

 そしてこれからも、「人間くさい句をいっぱい作る。」(その力は。)「ええ、この宇宙の力です」とずばり。

 つまり、そうした俳人兜太と一体となって、つながり相互貫入する「大いなるもの」、それこそ真性のアニミズムそのものではないのか。その「大いなるもの」は、もちろん他界へも流動しているに違いない。

 「他界説」と「非業の死者たち」―兜太のこだわり

 兜太の「他界説」に関して、最後に「トラック島戦場体験」とのかかわりについて、一考しておきたい。兜太は『他界』の「まえがき」で、こう述べている。

 戦争体験があったからこそ「死」についてずっと考え続けてきた……敗戦から七十年、戦争反対の強い思いから「他界説」という考え方が自分の中に育ってきたのは、思いもよらない意外な展開だった……。

 しかし、三章で述べたその戦場の最底辺で無惨に餓死していった「非業の死者たち」は、「全然他界どころじゃなくて、そのへんをうろついているのがたくさんいると思ったり、いやいや円満に向こうへ辿りついていると思い直したり、なかなかビシッと定まらないというのが正直なところです。……殺戮死というのは非常に他界説にとっては条件が悪いですね。殺戮死からは他界説は語れない、今でもそう思っています。」(『他界』)と言う位置づけである。

 兜太は直接体験を重視し、そこから発想する俳人で、二十歳代でのトラック島餓死戦場の悲劇は、「非業の死者たち」が、肉体も魂ももろに消滅し去ったという実感が、記憶にこびり着いているのである。魂だけは生きて「他界」へ移行するといった「他界説」には、どうしても「非業の死者たち」は除外され、九十歳代になっても変えることは難しかったようだ。

 青年兜太にとって、戦場体験は、それほど深刻で無惨の極みだったのである。

 しかし、晩年に到達した真性アニミズムでは、宇宙の「大いなる力」のもとでは、あらゆるいのちは平等のはずである。兜太はそうした「複雑な気持ち」にこだわりつつも、生の実体験、その強烈な感性の働きを優先させたのである。

 そのこだわりは、兜太の直の戦争体験にもとづく終生の矛盾だったのではないか、と判断している。

【本連載の内容】