繁俊の日記から③/太平洋戦争最後の半年/昭和20年1月の記録
昭和20年
1月1日
☆註 松下英麿 中央公論編集者、ジャーナリスト
印南高一 演劇博物館職員 演劇研究家
1月3日
☆註 次兄が名古屋在住
○和人君は、11月20日にヒ島にて戦死の由。
☆註 ヒ島は比島(ヒシマ)。フィリピン諸島の事、
前年10月20日からのフィリピン沖での連合軍との戦い。日本海軍は事実上壊滅。海軍神風攻撃隊出撃、レイテ沖海戦とも言う。
1月4日
1月5日
1月6日
午後8時過ぎ警戒発令、40分後に解除。
○福田氏話に、浅草蔵前にも焼夷弾のための火災ありし由。仲見世も入って東側も焼けたる由。
1月9日
妻の友達、島田時子氏訪れありき。畑のところへ出て眺める、本日は敵機はいずれも少しずつ白煙を曵いてすーっと行く。忌々し。友軍機が、一機攻撃して撃たれたのであろう、黒煙と焔とを吐いて消えてしまった。3時半ごろに解除となる。
○午後11時45分発令、小数機京浜地区に入り、焼夷弾を落として、東方海上に退去、まもなく午前0時10分に解除となる。ーー高射砲の音もせず。
奨の話に、多分、桐ヶ谷駅での目撃者の話を聞いたのだろう。「爆弾の落ちるのも見えた。爆発とともに駅の建物も人も何人か、すーっと20メートル位吹き上げられて、形がはっきりと見えたが、それから消えてしまって、人の形も建物も見えなくなってしまった」との事。
1月11日
敵1機静岡地区を北進し、関東西部より帝都に入る。高射砲を打つ音近くすさまじく聞こえたが、案外早く1時頃に解除となる。
○午前2時半ごろ警戒警報出たる由。寝ていて知らず。
1月16日
「空襲警報になりましたか」と問うに、中年の男「発令になりました。」と言う。空襲になりても、ともかくもとて急ぎ足に行く。左団次夫人に面会して、おハヅケと大根3本とを差し出す、その時に東部軍情報にて空襲警報解除を言う。空襲にはならざりし。
1月17日
午前4時45分警戒警報出る。伊豆方面より1機関東西部に侵入せるも、京浜地区に入ることなく南方海上に脱去。5時15分頃に解除。
○正午のニュースによれば、昨夜午後、名古屋次に京都に各1機侵入して爆弾のみを投下せし由。
○午後8時45分頃に警戒発令、伊豆方面より敵1機侵入、京浜地区を通過して南方海上へ、10時15分解除。
1月19日
1月27日
午前1時頃に1回
午前4時過ぎ1回出る
#この日の編隊爆撃は都市にて、翌28日向野矩子さんの話によれば、日比谷山水樓より銀座にかけて、鳩居堂も焼けたるよし。ホテルの近くも焼けたとある。小石川の植物園のあたりも焼けたる由。上野辺りもやられた由、地下鉄も21日は不通とある。
1月28日
1月29日
午前1時と午前2時にも警報発令
○大谷竹次郎氏は顔面に負傷せる由
☆註 大谷竹次郎 松竹の創業者 歌舞伎座社長
○共同印刷会社焼亡
○友軍機の乗員1名落下傘にて早大上をフラフラしていて、富山陸軍病院の辺りの木に引っかかりて落下、病院に収容されたるよし。
○下谷不忍池の中より上野の山、浅草の雷門、東橋亭辺りにも爆弾ありし由。
大谷社長はガラスの破片にて手と額にわずかな傷をせしゆえ、担架にてと申せしがそれに及ばずとて、階段を降りようとして脳溢血を起こしたとのこと。2、3人の女事務員に、1、2人の社員即死の外は軽傷程度の由。
1月31日
A.K.(☆NHK東京放送局、JO AKの略語)より出て一巡視察する。山水樓、泰明小学校、鳩居堂、竹葉の辺り焼失、尾張町の交差点、新橋寄り両側に1弾落下、地下鉄の線路まで突き抜けた由にて、まだ穴を埋めておりたり。階段など縄張りして立ち入らせず。
昭和18年に銀座のAKの屋上で写す
○ 31日に松下英麿氏に逢う、27日のは即死者300名、重傷者400名、軽傷者1300名、合計2000の死傷者の由、相当のもの。
☆註 戦災資料センター、現在の記録では死者530人余
○中島飛行機会社からは、スパイが22人、相当の地位にあるものが捕らわれし由。
○銀座裏の某湯屋にては、3時の営業開始の時刻前に特別の人を内に入れていた、そこへ落弾して、その何人かが行方不明、何も残らずなりと言う。
広東でやられた覚えがあるからとのこと、関口二郎氏の話
☆註 菊田一夫 劇作家、作詞家 「君の名は」「放浪記」など
☆註 アメリカ軍1月にルソン島に上陸、2月には日本軍守備隊全滅
《続く》