俳句に感謝
https://www.kaseihaikukai.com/%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/%E4%BF%B3%E5%8F%A5%E3%81%AB%E6%84%9F%E8%AC%9D/ 【蕪村生誕三百年記念シンポジウム講演 俳句に感謝】より
先日、息子と車に乗っていた時、車外を眺めていた息子が「桜が咲くのを未だか未だかと心待ちする時間は長いのに、躑躅は気付いたらあっという間に賑やかに咲いているもんやなあ」とぼそりと言いました。それを耳にした私は「おっ、そんなことを感じることもあるのかあ」と少々驚きました。母親が言うのは誠に変な話なのですが、これまで我が息子は四季の微妙な移り変わりに鈍感で、というよりは余り興味がなく、季節の変異に伴って動く人のこころの機微など余り解さない、でくの坊だと思っていたからです。
でもそれはどうも私の思い違いであったようです。日本人である限り、移り行く季節に全く何も感じない人はいない筈で、彼も彼なりに季節の折々の変異に気付き、なにがしかの感慨を持っていたのです。先ほどの「桜と違って、躑躅は気付いたら賑やかに咲いている」という感想は彼なりの躑躅に対する立派な感慨なのですが、ただそれを直ぐに口に出して表さないことが習慣づいていたようです。
所が我々俳句をたしなむ者は、そのちょっとした感慨を五七五の十七文字にして、すぐに句帳と言う小さな帳面に書き留めます。そうすることで折々の自分の思いや考えが間違いなく形として残って行くのです。美しいもの、楽しい場面に遭遇した時に、多くの人がカメラやスマホで写真を取るように、俳人は直ぐにその思いを十七文字にするのです。だから、俳句とは折々の気取らないスナップ写真のようなものと思って頂ければ間違いないでしょう。
我々はアルバムを見直す時、知らず知らずの内に自分の過去の足跡のようなものをふり返っているものです。それと同じで、これまで書き溜めた自分の俳句を読み返すと、ああこの時はこんなに楽しかったのだ、この時は結構つらい思いをしたんだなとか、今と違ってこんな考えでいたのか、と折々の自分が蘇ってくるのです。大袈裟に聞えるでしょうが、俳句を詠む事で自分の生きざま、ささやか自分史が綴られていくのです。
この度熊本を中心とした地域で大地震が発生し、七万人近くの方々が未だに激震におびえつつ避難所生活を送っておられます。その方々を想うととても胸が痛みます。この胸の痛みは東北大震災、そしてごく身近に勃発した平成七年の阪神淡路大震災の時と同じ痛みで、今回の地震をきっかけに阪神淡路大震災の記憶が昨日のようによみがえってきます。あの地震では我々の俳句仲間の多くが罹災しました。肉親を亡くされた方、家屋が崩壊し避難所生活を余儀なくされた方が沢山おられ、当初は命をつなぐだけで精いっぱいだったと聞いています。無論、俳句どころではなかったでしょう。が、少しこころの落ち着きを取り戻された頃、俳句の仲間同士での安否を確かめ合い、無事な顔が見たいからと集まられ、だれが言うともなく俳句の話となり、次には俳句を持ち寄り句会が始まったということです。そして三か月後、大きなリュックを背負い淀川を渡って大阪の本部句会に来られた時には本当に感激しました。会場へ入ってこられたその懐かしい顔々が見えた途端に胸が熱くなり、その方々の顔が忽ち涙に滲んでぼやけたのを、今も鮮明に思い出します。
その頃、罹災した仲間たちが詠んだ句を少し紹介いたします。
地震の夜天狼星の確かなり 深澤 鱶
避難所の夢に酢茎のありどころ 柳生千枝子
蕗の薹声をだしてはうるみけり 浜口高子
水が出た出たよ鶯菜を洗ふ 杉浦典子
来世また我が子であれよ寒牡丹 川端伸枝
尋常ではない体験をした方々ですが、時間の経過とともに体験をご自分の深い所で把握され、単なる体験が深い経験として詩ごころに昇華した作品ばかりです。少し難しい物言いになりましたが、飾らぬ正直な思いが体とこころの奥深いところで濁りの無い本物の感慨が俳句として詠まれています。正直な言葉は誰のこころにも伝わるのですね。後になってこの作者たちはあの当時を思い出して、俳句をあきらめなくて本当に良かったと、しみじみと話されます。悲しみも辛さも十七文字に託され、精神的に癒されることが少なからずあったのでしょう。俳句の力って凄いなあ、と心の底より思いました。
次に私自身の話をさせて頂きます。実は私は結婚して二十二年間芦屋に住んでいましたが、阪神淡路の地震が勃発する二ヶ月前、故あって離婚をして母を連れて生まれ故郷の大阪に戻っておりました。そして成人して別に住んでいた子供二人とは心ならずも別れて住むことになりました。そこへあの大地震が起こり、大阪の私は被害らしい被害もなく、子供二人は罹災するという厳しい結果となりました。そんな状態でしたので一部の人は私にきびしい眼を向けられました。あきれるほどの揶揄や誹謗が私の耳にも届くようになりました。それでなくとも子供たちの事で非常にこころを痛めていた私は一層傷つきとても落ち込みました。でも、そんな私も俳句の持っている目に見えない力に大いに助けられました。
瓢箪が夜あそび覚えはじめけり 山尾玉藻
鮟鱇鍋浮名たのしみゐたりけり 夜遊びをせよと白粉花が言ふ
こころない噂を逆手にとって柔軟な考え方に変えることを学んだのも俳句のお蔭であり、腹を据えるということを教えてくれたのも俳句でした。自分の気持ちに正直になろう、嘘偽りない思いを俳句に託していく覚悟を決めたと言っても過言ではなかったのです。そうすれば貧しい言葉で自分をフォローせずとも十七文字が今の私をありのままに語ってくれると大いに勇気づけられ、これまで以上に俳句を詠むのが楽しくなりました。
ところが心が休まる時はそう長く続かず、八十歳を半ば過ぎた頃から母が急に弱り始めると言う、娘としては辛い現実に真向かう時がやってきました。
桔梗やこのごろ母のおそろしき 山尾玉藻 ポータル便器が母に桜咲く
花柄の夜着に替へゐる生身魂 母捨てたき思ひの紅葉山にゐる
当時の私の母に対する飾らぬ思いを詠んだ俳句は、一見実に親不孝な俳句ばかりです。恐らくこんな風に母親を詠んだ前例はなかったでしょうから、周囲は驚かれた様子でしたが、私は母を最も愛するのは私だからこそ、今の自分の真実を俳句にするのだと言う信念を持っていました。本当は私は生来大変気が弱い人間でしたが、でも気づけば少々のことではぐらつかない根性が備わるようになっていました。常に俳句が私の精神状態を支えてくれていたからです。
高齢化社会と言われる現在ですが、現実には私は病魔に襲われた大切な仲間を立て続けに喪っております。
わが影のうれしさうなり花は葉に 城 孝子 吾に剪る七夕笹や朝日射す
手をつなぐ手を出しにけり秋の風 けふ生きてきれいな落葉拾ひけり
種まきし土月光に預けけり
彼女は自分が生死を隔てるような大手術を乗り越え、復活出来たのは、ひとえに俳句仲間の温かい励ましと、またどうしても俳句を作りたいと一心に願う気持ちが支えになったのだと思います。もし私が彼女と同じ立場であったら、彼女のように俳句で毅然と立ち直れたかどうか、たいへん心もとないところです。しかし彼女が身をもって俳句が生きる力になることを教えてくれたことを決して忘れまいと思っています。
色々なことをふり返ってみて思う事は、俳句に関わらなかったら決して出会うことのなかったであろう沢山の人と出会ってきたことです。そしてその人たちから多くの事を学び、希望と勇気を貰ってきたことです。これは私にとってかけがえの無い財産となっています。心より俳句に感謝しています。
会場にお越しで俳句と未だに関わっておられぬ方々が、今日の私の取り留めない話がきっかけとなり、俳句に少しでも興味を持って下さり、しかも俳句を作ってみようかとまで思って下さったなら、こんなに嬉しい事はありません。まとまりのない話だったと思いますが、お耳を貸して下さり有難うございました。
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/thetv/entertainment/thetv-1179451 【戦争で負った心の傷が形を変えて遺伝していく… 「全人類が読んでおくべき内容のような気がするなぁ」の声】より
戦争で負った心の傷が形を変えて遺伝していく…
コミックの映像化やドラマのコミカライズなどが多い今、エンタメ好きとしてチェックしておきたいホットなマンガ情報をお届けする「ザテレビジョン マンガ部」。今回は尾添椿さんの漫画「祖父から聞いた満州と戦争の話」を紹介する。作者である尾添椿さんが1月16日にX(旧Twitter)に本作を投稿したところ、5.5千件を超える「いいね」を寄せられ、重く苦しい戦争の話から得た気付きが大きな反響を呼んだ。本記事では尾添椿さんに、作品のこだわりなどについてインタビューをおこなった。
■尾添さんが祖父さんから聞いた、“受け継がれる”傷の話
尾添さんの祖父は、満州建国の際に従軍していた。停戦協定の後に帰国して療養していたが、入院してから様子が一変。体調は安定しているものの、心に深い傷を負ってしまっていた。寝込むようになってしまった祖父は、昔の話を尾添さんに語ってくれたという。
満州での生活では暴力が横行しており、環境になじもうとした祖父も心を壊してしまう。帰国しても心身ともにボロボロだったという祖父は、生まれ育った場所から離れて大工に転職。やがて第二次世界大戦終結を迎えるのだが、PTSDを発症して「祖母がブン殴って止める」まで長男に暴力を振るうようになってしまったという。当時はPTSDという病気もまったく知られていない頃。祖父は尾添さんの父にも大きな火傷を負わせるなど、自分ではどうにもできない闇と戦い続けた。
やがて入院中に大きな発作を起こすことも多くなり、亡くなってしまった祖父。尾添さんは祖父が残したメモに書かれた「ニゲタイ」という言葉を見ながら、「トラウマという最強の殺し屋は祖父を逃がさなかった」と述懐する。しかし同作を描きながら、尾添さんはふと自分の家族を振り返る。すると恐ろしい符合が見えてきて…。
痛ましい祖父の話と尾添さんの結論に、SNSでは「全人類が読んでおく内容のような気がする…」「戦争の傷跡が今も形を変えて存在してる」「戦争の負の連鎖が現代にまで繋がってるんだな」といった声が相次いでいる。
■他の家族には話す事のなかった満州の話を尾添さんが聴いた理由は…
――本作を創作したきっかけや理由があればお教えください。
昨年度末に戸籍謄本を取る機会がありました。その時に両親の名前が目に入って、分籍時(生きるために毒親から逃げました。参照)に戸籍謄本を確認したこと、私の家にも祖父母の世代が存在したことを漠然と思い出してみたら祖父が話してくれたことを半分くらいしか覚えていないことに気付いて「忘れないうちに描こう」と思ったことがきっかけです。
エッセイ漫画家として活動しているので、取材で色んな方の毒親家庭の話を伺う機会があります。話を聞きながら掘り下げてみると、親が酷い時代を経験した人だったという事実が本当に多くて。
虐待が連鎖する理由のひとつに、トラウマケアの有無があるんじゃないかと思いながら描きました。
――本作を描くうえでこだわった点や、「ここを見てほしい」というポイントがあればお教えください。
祖父の話を今まで覚えていた理由です。
PTSDの症状は多岐にわたりますが、祖父のように記憶に蝕まれ衰弱していくこともあります。
「トラウマという最強の殺し屋」という表現は、私が好きなアーティストのレディー・ガガ「Marry the Night」のMVで用いられた表現です。
――おじいさんから満州の話を聞いたのは、尾添さんだけだったのでしょうか。
孫の中では私だけのようでした。
祖父の子供である父親も叔母たちも戦争経験者、特に父親が産まれた時は満州が存在していたことも踏まえると、多感な思春期に戦後の空気とPTSDを患った親たちばかり、心療内科の概念が存在しない時代を思うのはつらすぎる。
戦時中のことを誰も話さないのもそりゃそうだと。祖父も、孫の中で唯一平成の時代に産まれた私に話した意味が何かあるのかなと感じます。
――おじいさんの言葉を聞いていたとき、まだ小さかった尾添さんがどんな気持ちだったのか思い出せますか。
当時から本を読んだり映画を見るのが好きで、長い話に慣れていたのもあって「おじいちゃんの話、映画みたいで面白いな」が一番大きい気持ちでした。
祖父の語り口は淡々としていて、真昼間にベッドで寝ている老人のそれではなかったことも記憶に焼き付いています。誰かの話を聞くとき、一度まず話半分で聴く姿勢が身についているんです。
取材で毒親サバイバーの方から家庭のあらゆる酷い話を聞いても平気なのは、祖父がきっかけであると同時に、祖父の話を最初から真に受けて聞かなかったせいだな、とも思っていて。
死の直前まで祖父は何かに怯えていたこと、その「何か」は大人になればなるほど鮮明になって色んなことに納得がいったんです。
弱ってから亡くなるまでが異様に早かったことも、子供ながらに「あの話は確かだ」と思わせるには十分でした。
――同作はSNS上で大きな反響があったと思います。特に印象的な感想などがありましたら、教えてください。
「大人の責任を子供が負うだけじゃない。他人に同情できなくなったら戦争は始まっている。酷いことは国民の余裕をなくしてから起きるもんだ。急に世の中が変化したら気を付けろよ」という言葉への共感が多かったことです。
余裕がないというのは、真綿で首を絞める恐ろしさがある。共感が多いということは、世の中は既に変化していて、余裕もなくなってきて、衣食住があるから大丈夫じゃない時代になったのだと思いました。
「自分の先祖も満州にいた、そこでの出来事を話そうとしなかった。けれど、少しだけ話してくれた内容と照らし合わせると、こういうことはあったんだと思う」という感想が多かったことが、祖父の言葉をひとつひとつ裏付けしてくれました。
ほかには「事実を分かりやすく描いていると、基本的にみんなに染みていく」という感想があって。
こういうことがあったから、仕方ないじゃ済まない。大人たちが出来ることは考えること以外にも、沢山あると思いました。
――今後の展望や目標をお教えください。
今後も漫画を描き続けていくこと、漫画から繋がることにも積極的になりたいです。
1月22日に『それって、愛情ですか?』が発売となりました。たくさんの方に読んでいただけるよう漫画を描いてまいります。
――作品を楽しみにしている読者へメッセージをお願いします。
よく「この世から毒親を残らず消すまで漫画を描き続ける、地獄に夜逃げさせない」と言ってるんですが、私がそう言えるのは地獄から生還して無事だからだなと最近自覚しました。
その地獄を取り巻いていて、一番奥にあるのはなんだ?って追っていくと行きつくのは人権なんです。毒親家庭を取材し探っていくと根底に戦争が見え隠れすることがあります。
漫画家の私が描けることがあるはずなので、今後も描き続けてまいります
https://officejk.jp/seminar/detail08/ 【「すべてに感謝をしていると、やがて感謝すべきことしか起きなくなる」】より
・・・1997年フナイ・オープン・ワールドの楽屋におけるアルゴンキン族の 大長老ウイリアム・コマンダの言葉です。
妙に心に引っ掛かりましたが、この言葉が腹にすとんと落ちるまでには 五年以上の歳月が必要でした。
その三年後の2000年8月、ミネソタのサンダンス会場で、私はチョクトー族の 長老セクオイヤ・トゥルーブラッドから突然「聖なるパイプ」を拝領し、 インディアン社会では長老のひとりとして列せられることになりました。
「これは、原爆よりも強力なツールだ。これを持って祈れば祈りの言葉は 全部実現する。でもお前は、祈りが実現するということがいかに危険なことか、 しっかりと認識しなければいけない。これを持ったときは、感謝の言葉 以外は口にするな!」
一面ティピ(三角形のテント)が立ち並ぶサンダンス会場で、厳粛な 雰囲気の中でいわれたので、そのときは「は、はー」と聞いていましたが、 日本に帰ってきたら、インディアンのお伽噺にしか思えません。
私は、まことにいい加減な気持ちで「パイプホルダー」(祈り人) としてのキャリアをスタートさせました。
体験を重ねるにつれ、この長老の言葉が、まぎれもない真実である ことがわかり、いまは厳粛な気持ちで「パイプセレモニー」を 行っています。
「祈りが実現すると危険」ということは、宗教家でも ほとんどわかっていません。
また、インディアン流の「感謝の祈り」というのが、祈りの力が弱くても 抜群の効果があることもわかってきました。
このセミナーでは、24年に及ぶインディアン長老としての体験と、 人生を歩む上で大切なフィロソフィーを皆様にお伝えします。