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俳句は平和の力に

2024.09.08 12:15

https://www.tokyo-np.co.jp/article/351876 【俳句は平和の力に…金子兜太さんの「遺言」映す ドキュメンタリー映画、9月10日から目黒の都写真美術館で上映】より

2024年9月6日 06時00分

 現代俳句の第一人者で東京新聞「平和の俳句」の生みの親である金子兜太さんのドキュメンタリー「天地悠々 兜太・俳句の一本道」(2019年)が9月10日から東京都目黒区の都写真美術館ホールで上映される。生き方や平和の俳句への思いなどがたっぷり語られ、亡くなる直前の映像も。河邑厚徳監督は「どこか遺言的で、語り切ってくれたようだった」と語る。(石原真樹)

「天地悠々 兜太・俳句の一本道」から=©ピクチャーズネットワーク株式会社

◆兜太さんの逝去前1年半の姿を記録

 監督は兜太さんが2018年2月に亡くなる1年半ほど前に撮影を始め、月に1度のペースで兜太さんの自宅などに通った。映画は兜太さんの句を織り交ぜつつ、人生の末路への考えや俳句への思い、戦時中に赴任したトラック島でのできごとなどを独特の表現で語る兜太さんの姿を映す。

 2018年2月6日、河邑監督が本紙「平和の俳句」の入選句を詠み上げ、兜太さんが「うーん」「なるほど」と相づちを打つ場面がある。批評するでもなく、ただ静かに句をかみしめる兜太さん。「俳句は平和の力になるか」との問いに「平和と俳句が結びつかないと一切考えたことがない」ときっぱり答える。

監督「兜太さんからの最後のメッセージを…」

映画「天地悠々 兜太・俳句の一本道」について話す河邑厚徳監督=東京都世田谷区で

 「俳句を詠める、日常生活が続いていることは平和である、ということなのだと思う」と監督は力を込める。兜太さんはこの撮影の2週間後に亡くなった。「もう少しいろいろ聞きたかった。最後のメッセージをみなさんに伝えられるのは意味があったのかな」

 敬老の日に合わせた特集上映で、料理家・作家の辰巳芳子さんを追った「天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ”」(2012年)なども上映。「自分もこういう年の取り方をしたいと思える人を記録してきた。映像ならではの余白も味わってもらえたら」。連日3作品上映、9月23日まで(17日は休映)


https://static.tokyo-np.co.jp/tokyo-np/pages/feature/heiwanohaiku/taidan.html 【終戦記念日対談 金子兜太×いとうせいこう】より

 69回目の終戦の日にあわせ、俳人の金子兜太(とうた)さん(94)=写真(左)=と作家のいとうせいこうさん(53)=同(右)=が対談した。海軍主計大尉としてトラック島で敗戦を迎えた金子さんと、東日本大震災を題材とした小説「想像ラジオ」が大きな共感を広げたいとうさん。俳句をテーマにした共著もある旧知の二人に、5・7・5の17文字がつくりだす小宇宙を手掛かりに、戦争と平和、社会を覆う空気などを縦横無尽に語り合ってもらった。

権力に 寄り添う構図 繰り返し

 ともに伊藤園の新俳句大賞の選考委員を務めた縁で、俳句の新潮流について語り合った対談本「他流試合」(二〇〇一年)がある二人。再会のあいさつもそこそこに、金子さんは、さいたま市の公民館が九条を詠んだ市民の俳句を掲載拒否した問題についておもむろに切り込んだ。

 →九条俳句掲載拒否 月報に俳句を載せなかった三橋公民館は「世論を二分するテーマはそぐわない」。

自由を毛嫌い

 金子 <梅雨空に『九条守れ』の女性デモ>。これを出す出さないでもめているんですね。これについて、あんたに聞いてみたいんだけど。

 いとう こういう自粛という形が連続している。下から自分たちで監視社会みたいにして、お互いを縛っていく。戦前は上から抑え付けられたように戦後語られてきたけど、本当はこうだったんだろうと。

 金子 やっぱり、そう言ってくれますか。(満州事変から始まる)十五年戦争の体験者なんだけどね。旧制高校に入ったころに中国との戦争が始まって。そのころの空気の中で、官僚とかお役人とか、いわゆる治安当局が、こういう扱い方をした。あのころは治安維持法が基準ですが。みんな自分たちでつくっちゃうんですよ。

 いとう 國分功一郎さんという若い哲学者が著書の中で、こういった下からの抑圧の問題を言っているんですね。自由を担いきれないので、自分から手放してしまう人たちがいると。手放した人たちにとっては、自由を求めて抵抗している人がうっとうしい。なので、その人たちを攻撃してしまう。そうすると、権力がやらなくても、自動的に自由を求める人たちの声がだんだん小さくなってしまう。だから自由っていうものを背負うことをもっと楽しめる社会にしなければならないというふうに彼は言っていて。

 →國分功一郎(こくぶん・こういちろう) 哲学者、高崎経済大学准教授。著書に「暇と退屈の倫理学」(朝日出版社)など。

 金子 戦前、新興俳句運動っていうのがあったんです。渡辺白泉の<戦争が廊下の奥に立つてゐた>は今でも有名です。その連中が、日華事変開始の三年後に、かなり勾留されるんですよ。司直の手に挙げられるわけです。その火つけ役がね、今ちょうどあんたが言ったようにね、(俳壇内部から)新興俳句運動なんてやつはうるせえと、いい機会だから追っ払っちまえと動いた者がいたと聞いています。「京大俳句」なんかは十五人も捕まったわけです。風潮を利用するという傾向が今また出てきているわけですな。

 →新興俳句運動 高浜虚子が言う花鳥諷詠(かちょうふうえい)だけでなく、社会の現実をとらえようという革新の動き。

 →渡辺白泉(はくせん) 京大俳句事件で摘発され、執筆禁止。その後、俳壇との交流を断った。

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 いとう 一気呵成(かせい)にここまでオセロのようにひっくり返っていくかというような感じがしています。もちろんそれに抵抗する人たちも必ずきちんといる。前回の戦争の教訓が生きていると信じたいので、あるとは思いますけど、ちょっと目立たないというか。僕はメディアの中にいる者としては心掛けてはいるんですけれども。でも、やっぱり兜太さんとかが、この光景は実際にもう見たよという方が一番説得力がある。

 金子 十五年戦争で拝見済みということで。それはね、私はこれから大いに言おうと思っているんです。

 いとう 十五年戦争の場合は、そういう雰囲気になってから、ほんの数年で戦争になった?

 金子 そうです。俳句弾圧は昭和十五年。日米開戦はその翌年の暮れ。「京大俳句」に続く新興俳人の拘引、これを俳句事件と呼んでいるんだが、私の属していた「土上(どじょう)」という俳句雑誌があったのですが、主宰の嶋田青峰先生なんかも獄につながれるわけです。ところが尋問中に喀血(かっけつ)しましてね。家に戻されてた時期があって、ちょうどそのときの青峰先生に会っているんです。その後間もなく他界しましたがね。この人がボソボソボソボソ言っていたことも思い出しますけどね。治安維持法が過剰に使われた。何とかこういうことはいろんな形で訴えていかにゃいかんと。

 いとう 特定秘密保護法を見たときに治安維持法だと私は思いました。目立つところで言うことを聞かなさそうな人たちを引っ張っていく、ということが既に始まっているんだという実感はすごくある。デモなどでもそこまで勾留するに値するかなと思われるような人が、いなくなったまま、まだ勾留されていたりとかですね。先ほどの下からの自粛と同時に、大きな権力に便乗するような欲望が動いて、結局はみんなで権力をつくっていく。特に自分たちが得もしないであろう人たちがそれをやって、他人の自由や良心を手放させていくことに快感を覚える時代になっちゃっている。

 金子 そうそうそう、誇り顔をしてね。

 いとう 十五年戦争の前に、個人的な誇りが持てないような時代が来てたわけですか。何か違う形で取り戻そうとするような形でそんなことが起こったという感じなんですか?

 金子 そうですねえ。私の狭い田舎の例で言うんですけどもね、秩父という所に育ちまして。山国なもんですから、繭が命の中心だったんですね。ところが繭の値が下がってましてね。世界恐慌の影響でもってね。ちょうど満州事変が始まったばかりでしたけど、戦争に勝てばね、楽になるんだということをしきりに言ってましたよ、みんな。私はちょうど中学生で、戦争に行く時は勝って、この人たちを楽にしたいと、そんな気持ちでいたわけですよ。国のために戦え、国もおまえも楽になるというご託宣がひどく影響力を持つわけです。そうすると学校の先生の中などにも、得意になってそういうことを言うのが出てくるわけですな。一種の便乗派というか、そういうものが露骨だったのを今でも覚えていますよ。

 →世界恐慌 1929年発生。高関税など自国産業保護の経済政策が広がり、第2次大戦の一因となった。

◆論理 粗雑すぎ

 いとう それで自己満足していく。

 金子 中学の終わりの時に二・二六事件が起こりまして、中学生はかなり肯定的に受け取った。若い軍人がよくやったという気持ちで受け取らされた。ああいうのが怖いですな。やっぱり、分かる人はちゃんとこれは駄目なんだと言わないといけない。

 →二・二六事件 1936年2月26日、陸軍青年将校が首相官邸などを襲撃し、要人を殺害した。

 いとう 思い付く限りの言葉はなるべく言い、伝えるようにはしていますけど、非常にこう有効な、つまり、一番ここを突けばいいだろうという言葉がなかなか見つからない。なぜかというと、起きていることがあまりに非論理的だからですね。内閣だけで憲法の実質的な変更を決めてしまうことも、法の論理として見てみると非常に粗雑ですよね。

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 金子 粗雑です、粗雑です。

 いとう 法を扱う人たちの論の立て方ではない。でも、知性というものが世の中を駄目にしている、というような不満がある人たちの気持ちを利用しているので、理性でそれを批判しても嘲笑で終わらされてしまう。上手に言うことができない。もちろんそこでより有効な言葉を探すのが、文学者の仕事なのですが。

 金子 せいこうさんの小説「想像ラジオ」を読んで、今の話とかかわってくる印象を持ったんですがね。東日本大震災だけに問題を限定しているのではなくて、それを含むもっと大きな現実の中で生きている一人の人間として、いとうせいこうは戦っていると。散文詩としての美しさがあって、一気に読んだ。

 いとう 宇宙的な何かとか、歴史的な何かとか、大きなものとつながるようなフィクション(虚構)を有効に使わなければならないと考えた。最近「三田文学」というところに百枚ぐらいの短編を載せているんですが、伯父のような人と主人公の関係なんです。先ほどの金子さんとの話と重なり不思議だと思ったんですが、両親が信州の人間という設定なんで、繭の問題が出てくる。繭で日本が豊かになったけれども、世界恐慌で一気に不況になった。日本全国で一番の輸出産業だったわけですから、これがなくなったことから戦争に進む雰囲気になったと語る伯母のシーンがある。そこから飛んで二十世紀末ですけど、ガザ空爆の問題が出てきて、やっぱりここにも、経済と大きな権力のようなものというか、軍産複合体のようなきな臭い問題があって、でもその下に生きている人がいる。今の日本の感じを前にあったことと重なり合わせて、もう一回それぞれが考えなければならないと無意識的に思った時に、僕にとって象徴的な何かとして繭や蚕糸が出てきてた。

 金子 長野とか埼玉・秩父は繭の大産地でしたからね。

死の現場 知らぬ政治家 得意顔

◆戦争詠む必要

 いとう 僕がまだ伊藤園の新俳句大賞の選考委員だった時に湾岸戦争が起きて、戦時下の俳句をあえて採りたいと言ったら兜太さんが一番共鳴してくれた。社会の問題をすぐに庶民がすくい取って読める詩が、日本の場合は俳句としてある。そうなるとまさに「梅雨空に九条…」のようなものがあってしかるべきだし、そこが一番の表現の自由の最前線のつばぜり合いだと思う。ただ、名もない表現者の句がそのような象徴となるのは、自分がある程度のプロとして、フィクションのことを考えている人間としては、恥ずかしいですね。文学者がそこを打破しなきゃいけないんじゃないかと。ここで何でもないものをただ書いていて戦争になったら、戦後恥をかくよと。「戦後」と言うと戦争があるということを含み込んでしまっていて良くないが、でも今の自分を支えているのは、戦後恥ずかしくないように発言していなければならないという思いです。そのことが前回の戦争の大きな教訓なので、沈黙しているわけにはいかないと。未来の人から見られていると思って、僕は物を書いています。

 金子 あまり生なリアリズムじゃなくて、現実と泥まみれになっている叙事詩というか、薫り豊かな、しかも現実に対して厳しい矢を射ている、そういう小説が出たら素晴らしいと思って、せいこうさんのふんどしに期待している。

 いとう 兜太さんの俳句、もちろん過去の戦争を描いたものもそうですし、今はセシウムが出てきたり、それが日本の深層にある風景として、季節として描かれていることが大きい。詩人や俳人の、特に短詩形であるところの刺さり方の強さがある。長編小説を書いていると三年も四年もかかっちゃう。その間に社会がどんどん違ってきてしまう。人間というか社会を、今という季節を、断面を見せてくれるという意味で、俳句のような動きをやらなきゃいけないというふうに読ませてもらってます。

◆一句の説得力

 金子 一人の俳句作家がいとうせいこうのようにというのは無理ですね。十人なら十人、その人が生み出す五百句なら五百句の総合力ですよ。今日も見てもらおうと思って、最近拾った俳句を書いてきた。先ほどの<梅雨空に『九条守れ』の女性デモ>。これ、本当に優しい日常句ですけどね。それと中村晋という福島県の高校の先生ですが、この人は福島原発事故の重圧をまともに取り上げた。というのは奥さんがセシウムを心配して、子どもと一緒に山形県に入っちゃって。<春の牛空気を食べて被曝(ひばく)した>などいろいろ句を作っている。同じ福島の人で坂本豊という人の句もある。<ものの芽をみな攫(さら)いけり除染という>。3・11の直後に出てきて俳句だけじゃなく、エッセーでも有名になった人で照井翠(みどり)さんの句も<螢(ほうたる)や握りしめゐ(い)て喪(うしな)ふ手>。手を失う思いがあるという。それから蛇笏(だこつ)賞をもらった高野ムツオの句、これは<四肢へ地震(ない)ただ轟轟(ごうごう)と轟轟と>とその時の映像だけを書いてある。それから私の句でも3・11では<津波のあと老女生きてあり死なぬ>。福島の被ばくの句では<被曝の牛たち水田に立ちて死を待てり>。十五年戦争で誰の記憶にも残っているのは、先ほどの渡辺白泉の句がありますが。川柳の鶴彬の<手と足をもいだ丸太にしてかへし>、これも著名で一句で結構な説得力を持つわけです。

 →鶴彬(つる・あきら) 反戦川柳作家。新興俳句より早い1937年に摘発され、留置中に死亡。

 いとう 国民運動ではありませんが、そういうものがネットワークされないといけないなと。例えばこうしたものが一万句あることが力になると思う。僕も一緒に何かできるといいと思います。それと一緒に小説もあるという形で。今はインターネットの時代になって、例えばツイッターとか百四十字しか書けないような、そんな場所で情報はたくさん発信されている。まさにツイッターに出てくるような俳句を募集してそれを新聞に出すとか。放送に出すとか。連動して少しでもやらないと、歴史が全く凡庸な反復になってしまう。

◆過半は餓死者

 いとう 金子さんは現実、戦時中に南洋へ行かれていた。大岡昇平の「野火」を読んでも分かるように、戦死者は決して勇ましいものではなくて、過半は餓死者であるということを、なぜこんなに隠して勇ましいことのように美化するのか。意味が分からないくらい情報が隠されている。本当に先進国なのかと思うくらいひどい。

 →大岡昇平 小説家、評論家。「野火」は、自身の戦争体験を基にした戦争文学の代表作。

 金子 おっしゃるとおり。私がいたトラック島は死の現場として、いまいっぺん伝えたい。安倍さんをはじめ、今の政治家は、集団的自衛権を実現させようと、憲法の事実上の改悪を考えたりして戦争へ一歩近づいているが、なんであんな平気な顔で、得意顔でできるのかと考える。そうしたら分かりましたよ。死の現場をほとんど踏んでない人たちなんだ。トラック島は日本軍の連合艦隊の基地だったんだけど、アメリカの機動部隊にばんばんやられた。連合艦隊は逃げて、第四艦隊が残ったがぜんぜん弱い。そこで武器がなくなった。手りゅう弾をたくさん作り、実験をやったんです。「俺がやる」と志望したのは、兵隊さん以下として扱われている民間の工員さん。やったとたんにボーンって右手がすっ飛んじゃって。背中が破片でえぐられて、運河のようになっている。それで即死したわけです。餓死ってのは、いたましいわけでね。しかも工員さんは、国に殉ずるなんて考え方で来ていない。本当に無知な人たちが力ずくで生きてきて、結局食い物がなくなって死んでいく。仏様のような顔で。逆に悲惨なんですよ。戦場という死の現場を分かっていない政治家は、自衛隊の連中をすぐそのまま戦場へ持って行くことを平気で思っているけどね。自衛隊の人が足りなくなって徴兵制度が敷かれるようになることが心配なんですよ。

 →トラック島 ミクロネシアの島。日本海軍の拠点が置かれ、1944年2月に米軍の猛空襲に遭った。

 いとう 今、イスラエルがガザに対してやっていることも、僕はすぐ東京大空襲のことを思った。下町に育ちましたから。いろんな種類の爆弾が使われて火の海にされて、民間人がやられていく。政治家は、このことを日本の問題として考えてないんですね。国連決議も棄権したりして。ついわれわれが何十年か前に首都でやられたことをやられているという、そこが結び付かないのが僕には信じられない。そういう人たちが世の中を動かすようになってしまった。過去と、今起きていることはつながっているし、われわれの問題でもある。それを喚起するには言葉が問われていると思います。おじいちゃんおばあちゃん、兜太さんの話も聞いてきた人間としてつなげていかなければと思う。

僕たち選者で「戦後俳句」選ばせて

 金子さんは、トラック島で終戦を迎え、島を去るとき<水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る>と詠んだ。自分は一度死んだようなもの。生きて帰るのだから、これからは戦争のない世の中のためにできるだけのことをしようと決意した。

◆戦争への自虐

<『想像ラジオ』(左)> 2013年、河出書房新社刊。いとうせいこう氏の16年ぶりの小説。生者と死者の新たな関係を描く。

<『他流試合』(右)> 2001年、新潮社刊(絶版)。金子兜太、いとうせいこうの両氏が、俳句の新潮流を語り合う

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 金子 今の人に想像できないような無残な死に方をしていった人のことを思った時に、報いなきゃならないと。こっちも若いですから、余計身に染みた。私が学生のころ、俳句を始めたのは、出沢三太という無頼で非常に面白い人間がやっていたから。その人が俺を連れてった句会の中心に高等学校の英語の先生がいた。水戸っていうところは、聯隊(れんたい)もあって軍国臭ぷんぷんなんですけどね、お二人とも全く無視して、軍人が来ても頭下げない。俳句はそういう自由人が作るもんだと思い込んだんです。兵隊行くまで、自由人でありたい、ありたいと。ところが、戦争に行って、目の前で手がふっ飛んだり背中に穴が開いて死んでいく連中を見たり、いかついやつがだんだん痩せ細って仏様みたいに死んでいくのを見て、いかなる時代でもリベラルな人間でありたいと考えていた自分がいかに甘いかということを痛感した。自己反省、自己痛打が私にそういう句を作らせたと同時に、その後の生き方を支配した。年取ってもその句が抜けません。自分を緩めることができない。それぐらいの痛烈な体験でした。今の政治家諸公は、少なくとも俺のような戦争への自虐を感じないのだろうか。

 いとう 東京新聞でぜひ、何俳句と呼ぶか分からないけれども、募集してほしい。あえて戦後俳句と言っていいかもしれません。僕たち選者になって、戦争体験のことも、体験していないけれど自分たちは戦争体験をどういうふうに考えるかということも俳句にしてもらって選んで、ばあーっと載せたらいいじゃないですか。それで大賞、準大賞があって、その中から時代の代表作が生まれてくるってことが文学とかジャーナリズムを含めた、やっぱり言葉の力だから。

 金子 二人でやるとなると、ちょっと面白いと思いますよ。変なやつが二人でやってるっていうのは。

    ◇

【対談後記】「戦後」を続けていく決意 社会部長・瀬口晴義

 仲間内の句会で時々駄句をひねる。東日本大震災の取材経験からこんな句もつくった。<春泥にまみれし母子のフォトグラフ><こどもの日鯉(こい)の泳がぬ浜通り><秋風や倒れたままの忠魂碑>。俳句は見たままを詠めばよい。挑戦したことがないのは戦争をテーマにした句だ。観念的になりそうだからだ。

 多くの軍属が餓死したトラック島を去る時、金子さんは彼らの死に報いることを誓う。復職した日本銀行では出世を求めず、俳句一筋の人生を送った俳壇の重鎮は「体験を語ることが最後の仕事だと思っている」と旧知のいとうさんとの対談を快く引き受けてくださった。

 <梅雨空に『九条守れ』の女性デモ>の句が、さいたま市の公民館の月報に掲載されなかった問題は、戦前の新興俳句運動の弾圧の歴史と重なることが金子さんの話で理解できた。共通する時代の空気は「自粛」だろうか。どきりとしたのは「今の自分を支えているのは、戦後恥ずかしくないように発言していなければならないという思いです」という、いとうさんの言葉だ。いつまでも「戦後」を続けることがジャーナリズムの使命と私は考えているが、いとうさんはその先まで射程に入れていた。

 金子さんから<原爆忌被曝(ひばく)福島よ生きよ>の句が届いた。「戦後俳句」を募集したらどうか、という宿題もお二人からいただいている。「戦後」をいつまでも続けてゆくという決意と願いのこもった句。私も挑戦してみたい。


https://kaigen.art/kaigen_terrace/called-from-totas-desire-for-peace/ 【金子兜太の「平和への願い」に呼ばれて 大高宏允】より

金子兜太の「平和への願い」に呼ばれて

――難民問題と政治パラダイム転換の提言  大髙宏允

俳人金子兜太の原点は反戦平和

 金子兜太は、なぜ死の直前まで戦争の恐ろしさと平和への願いを語り続けたのだろうか。彼は戦場で非業の死を遂げた人々を見た。戦場からの復員船で作った一句、「水脈の果炎天の墓碑を置きて去る」について、のちに「私は島を去りゆく水脈の果てにいつまでも墓碑の姿を見つめていた。反戦への意思高まる」と自句自解している。その金子兜太が平成三十年二月に他界してから今に至るまで、私は先生が、「おまえは平和の問題をどう考え、どう行動するんだ」と、毎日のように呼んでいる気がしてならない。弟子のひとりとして、平和への師の願いを、どのように受け止めていけばよいのかを考えることは、目前の課題となってしまった。戦中生まれの私も以前は戦争や難民のことは、遠い国のことという思いであったのが正直なところである。しかし、師が晩年になるほどに句会などで反戦と平和への思いを語るのを思い出すとき、やっと私にも師の「本気が」伝わってくるのを感じる。さらに、「あの夏、兵士だった私」(清流出版)や「「金子兜太のことば」(毎日新聞出版)などの本でも、あの十五年戦争の時代と同じようになってしまいかねないこと、戦後七十年積み重ねてきた平和の尊さは守るべきもの、という考えを繰り返し強調してきたことを思い出し、師の思いは私の思いともなった。平和ボケしていた私の頭でも、ベトナム、アフガニスタン、イラクなどで戦争があり、この瞬間も世界各地で人種紛争や宗教の対立などによる市民の犠牲が絶えず、難民の発生が続いていることをリアルに感じるようになった。そこで私は、俳句作りと並行して、たまたま難民になってしまった人々を、どうすれば自分と同じような平和な暮らしが得られるかという切実なテーマに立ち向かうことにした。

 私の考えを述べる前に、まず晩年の金子兜太が、なぜ平和への思いを弟子たちばかりでなく、古くからの師の理解者黒田杏子氏とともに、他界までの三年間、全国各地で戦争体験の語り部として、多くの人々に語りかけてきたのか、その著作から先生の思いを紹介しておきたい。

 戦時中、戦死者が八千人を超えたトラック島で、海軍主計中尉として従軍していた先生は、著書「あの夏、兵士だった私」の冒頭で、次のように語っている。

 「トラック島で命を落とした部下たちには墓碑銘さえなかった。個人が生き延びるだけで精一杯の毎日で、膨大な亡骸を小高い丘の穴に埋めるのがやっと。それを思うと、国のために働かされ、当たり前のように死んでいくというような制度や秩序を許しておくわけにはいかない、そんな義憤にかられます。強制されて生きる必要のない、自由な社会を作っていく――それが私の思いです。(中略)日本社会に戦争の記憶が薄れる中で、私のような戦争体験者が果たせる役割、いや生き残りだからこそ、果たすべき役割はたくさんあるはずです。戦争体験者、しかも死線をさまよった経験を持つ人で、憲法九条を破棄しようとする人は少ないのではないか。でもそんな人間がだんだん減っていく。だから私は命ある限り、戦争の本当の姿を語り続け、護憲精神を貫きたいと思っています。」

 先生の危機意識は、自らの戦争体験から来る体制への危機意識だが、それにとどまらず、国民の側の意識の中にも危機意識を感じていたことは注目すべきところだと思う。先に引用した著作の第一章では、国民の意識にある差別心についても次のように述べている。

 「そもそも、人間の知性とは、あらゆるものに差別感を持たないということです。それを私は自由人と呼ぶんですが、世界にはいろいろな人間がいて、そのいろいろな人間が、お互いを認め合うからいいんです。だから世界は発展していくし、人類は豊かになっていくはず。それなのにどうも、社会全体が同じ方向を向かないと気がすまないという人が増えてきて、そんな人が率先して自粛し、お互いを縛っていく。そしてみんなで監視し合う。このムードは戦前そのものです。」

とさえ語っているのには緊迫感を感じないではおれない。戦後続いてきた平和日本は、いま明らかに変わりつつある。先生は太平の世に慣れきってきた心に警鐘を鳴らすかのように、さらに語りかける。

 「もちろん、いまはまだそんなひどい状況ではない。でも、じつは十五年戦争のときだって、そんな雰囲気になってから、ほんの数年で戦争に突入してしまった。俳句弾圧が始まったのは昭和十五年。日米戦争はその翌年の暮れですね。(中略)トラック島を去るとき、私は多くの部下の死を決して無駄にしないことを誓いました。自分の体験したことを語ることが、私に与えられた仕事だと思ったからです。」

 この出版を遡ること六十一年前、先生は初めての句集の後記のいちばん最後に、次のような言葉を残している。この初句集に、平和への思いの原点があった。

 「最後に、そして何よりも、自分の俳句が、より良き明日のためにあることを願う。」

 先生は二十七歳のときから他界されるまで、一貫した信念を持ち続けてきた。戦争のない平和な社会になるためには、国民ひとりひとりが、金子兜太という人の仕事を引き継いでいくことに目を向けることが求められるのではなかろうか。そこで、いま私にできる平和の在り方の一つの考えを以下に示させていただきたい。

1. 世界から難民という人間をなくす道を考える

 近年、私たちはメディアを通じて、アフリカからヨーロッパへ逃れる難民の姿を、しばしば目にするようになった。国連高等弁務官事務所のデータによれば、過去10年間の難民は世界で、25,400,000人といわれている。アフリカやシリアの人々は、紛争などにより混乱する母国を捨て、豊かで、より安全なヨーロッパへの移動を命がけでめざす。紛争に加えて、近年の気候変動がもたらす作物の収穫不安定による難民発生も大きな問題であり、環境対策と難民対策は、人類が取り組まなければならない喫緊の課題となっている。この流れを止めることは、欧州各国の国内事情もあるので、難民問題は冷戦後の最大の問題となって、これからも政治経済人道問題など広範囲に影響を及ぼしつづけることは間違いない。

 難民問題のルーツは、人類が社会的生活をするようになって以来のものらしい。作物の不作などによる部落や種族の移動、大規模な飢饉による種族の移動など。また近代においても、新大陸の発見以来、ヨーロッパから南北アメリカ大陸への移民が発生した。かつて大量の移民を発生させたヨーロッパが、いまアフリカからの難民受け入れに困惑し、拒否する動きさえ出ている。むろん際限なく難民がやってこれば、その国は経済的にあるいは治安のうえで、大きな問題を抱えることになる。

 従って、この難民問題は、人類史における最大の問題の一つとして、取り組むことが求められる。この解決不能状況にある難問題は、我々の最も内なる部分にこそ解決の糸口があることを思い出すときではなかろうか。それは、キリスト教、イスラム教、仏教などのすべての宗教の根底に流れている利他の精神である。他者への愛、旅人への食べ物寝場所などの施し、あるいは慈悲や布施の心といった利他の心は、人間という生き物に遺伝子として組み込まれたものではないか。最近の研究によれば、人類は74,000年前のインドネシア、トバ山の超巨大噴火により全地球の人口100,000人がわずか10,000人に減少したそうだ。この研究によれば、それ以前の共食いさえする攻撃的性格が、食糧を共有し、あるいは贈り物をしあうような、互いに助け合う性格へと変化したという。絶滅の危機に直面し、私たちの先祖は利他の精神を獲得する英知をもったのである。こうした世界史的視野のもとに、現代の私たちも、その先祖の英知を今まさに取り入れるときに来ているのではないか。その利他の精神の草の根的エネルギーを、インターネット文化によってつなげ、組織化するとき、難民問題の永続的解決策が機能し始める可能性が生まれる。では、その流れをどのように作りだし、どういう仕組みで問題解決に結びつけるか、もうすこし考えをすすめてみたい。

 今回、難民支援活動の組織化を考えるにあたり、「グローバル・ボイス」のウェッブサイトで拝見した情報が大いに参考になった。その情報によれば、ウガンダではすでに、「ナキヴァレ難民キャンプ」という支援組織があり、成果を上げている。首都カンパラから車で6時間のところに、184平方メートルの農地を所有し、トウモロコシ、豆などを生産し、難民の食糧にするとともに、タンザニア、南スーダンへの輸出ができるほどの成果をあげている。ウガンダ政府は、この難民キャンプによる農業生産を自国の開発計画に組み込んでいるという。キャンプでは、協同組合まででき、組織的に計画、生産、出荷のできる体制となっている。しかも、キャンプ内には、市場や映画館さえあるそうだ。この成功モデルこそは、これからの難民問題解決の最有力の候補になるだろう。

 日本には、すでにNGO難民を助ける会という活動実績のある団体が存在する。従って、ここが中心になってウガンダ方式の難民キャンプを可能にして必要な地域に設置していくという構想が一番の近道になると思う。それを実現するためには、資金確保、運営及び人材確保、さらには相手国、JIKA、国連難民弁務官事務所などとのすり合わせ等々、さまざまな問題をクリアーしなければならない。これは、NGO難民を助ける会だけでは、とうていフォローしきれない。それぞれの分野の精通したおおくの人の協力が必要となる。

 「よりよき明日のために」他界直前まで平和のために働いた金子兜太の遺志に賛同する人々の協力が必要となる。そこで、NGO難民を助ける会の中に、「兜太平和基金」といった募金受け入れサイトを開設するとともに、サイト運営と支援組織「兜太ピーススタッフ」といった体制が、NGO難民を助ける会のようなところに置かれることが求められる。そのうえで、次のような点に留意する必要があろう。

(ア) 武器につぎ込んできたお金を、格差によって教育の機会を失い、健康で心豊かな暮らしを失っている人々の助けに使う世界を作ることである。その最終目標が実現するまで段階的なステップを踏んで続けていかなければならない。

(イ)  この最終目標が恙無く実行されるためには、多くの人の善意が結集しなければならない。とくに、募金で集まったお金は特別な監査委員会によって常に不正の発生を防止する体制が必要なる。

(ウ) 同時に監査委員会は、あらゆる政治的、宗教的団体等からの偏った影響を防止するよう努める。活動員は、一定の生活保障を受けることができるが、どんな高位の役職者でも、ボランティア精神に則り、一定の生活保障の範囲とする。

(エ) この事業は、難民の発生を防止するためとはいえ、個人的に先進国での学問や労働の機会を求めることを妨げるものではない。

(オ) 活動計画や組織などは、今後さまざまな人によって修正を加え、より充実した、より実現可能なものにさせ、数年後のスタートを目標にする。

2. 世界の政治パラダイム転換をめざす

(ア) 最終目標は国家権力の解消

 この活動組織の最終目標は、人間にとって不本意に機能する国家権力をこの世界から解消することである。政治は、この活動と同様に本来ボランティア精神によって行われるべきものである。過去および現状は、ほとんどの場合、権力はある階層の利益代弁者であることが多い。これを解消するには、政治が政治家という職業によって行われないことである。そのためには、将来的に政治を女性だけに任せるという実験を試みることを考えるときが来たと思う。男性から政治と武器を奪い取ったとき、はじめて難民も格差も戦争もない世界が、この地球に生まれるだろう。人類は女性によって、ゆるやかな政治環境を構築するという試みに挑戦することを本気で考える価値があるのではなかろうか。それこそが、環境問題や政治的権力闘争、宗教対立、人権問題などの真の解決への一歩となるであろう。生命を自ら生み出し、無償の愛によってその生命を育てる母性こそ、今世界に圧し掛かっている諸問題を解決する唯一残された道ではなかろうか。このような考えを、非現実的だとして葬り去る前に、欲望の無限膨張によって滅亡に向かっている現実を直視しなければならないと思う。

 金子兜太先生は、2017年8月発行の「短歌」(角川出版)別冊付録掲載、「緊急寄稿 歌人著名人に問う、なぜ戦争はなくならないのか」で、次のような言葉を寄せている。

 「なぜ戦争がなくならないのか。一言で答えさせてください。物欲の逞しさです。あらゆる欲のうちで最低最強の欲ですが、それだけにもっとも制御不可能、且つ付和雷同を生みやすい欲と見ています。そこに人間の暮らしが、武力依存を募らせる因もある。」

 20世紀以降の我々の追及してきたものが、我々自身の終焉をもたらしつつあることが明らかなのに、われわれはそれを改めようとしない。それと同じことが、政治の在り方にも言えないだろうか。人間を幸せにすると信じられてきた民主主義は、その欠陥をさらけ出している。極右やポピュリズムが台頭してきたのも、制度疲労した資本主義・民主主義体制から多くの人々が落ちこぼれたためではないのか。これらすべてのことを、今こそ追検証して、大きく思い切って舵を切り替える時ではないか。このまま行くなら、その先にあるものは我々が築きあげてきたものの終焉であり、それは明らかに他の生きとし生きる者たちをも巻き込んでしまうことは間違いない。

(イ)  インターネットからインナーネットへ

 以上述べてきたパラダイム転換のための考察は、あくまで一個人の思いつきにすぎない。これを仮に「母性主導によるパラダイム転換実現のための構想会議」のようなものを別途立ち上げてみてはどうであろうか。それをベースに、インターネットという現代のツールを活用し、理想の世界実現のために多くの人々による試案の書き換えを期待したい。それこそが、インターネットの限界を超える、世界的なインナーネット(内なるつながり)の第一歩ではなかろうか。

 このようなことは、誰でも言う事ができる。いろいろの国のいろいろな層から寄せられた考えを、一つの方向に集約し、コンセンサスを得て何らかの組織を立ち上げることは、それこそ至難の業であろう。それゆえに、すぐれた構想力、指導力、組織力などを備えた有能な人たちが、地球生命存続と平和確立のパラダイムのために力を合わせることが求められる。今これを書いているものは、単にそのための極めてラフな見取り図を提示しているにすぎない。私たち人間の先輩の中には、すでに多くの見取り図を詩や童話、小説、啓蒙思想書などを通じて提示してきた。その中で今思い出されるひとつの詩の一節を、取り上げてみよう。

 ◍ 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の有名な一節である。

    東ニ病気ノコドモアレバ

    行ッテ看病シテヤリ

    西ニツカレタ母アレバ

    行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

    南ニ死ニサウナ人アレバ

    行ッテコハガラナクテモイイトイヒ

 この賢治の利他の精神を以って人類発祥の地アフリカに目を向けようではないか。

 そして、金子兜太という、生涯戦争のない平和な世界をめざしていた俳人の遺志を継いで、パラダイム転換のための運動を考え始めようではないか。

  左義長や武器という武器焼いてしまえ  金子兜太

  長寿の母うんこのようにわれを産みぬ  金子兜太

 この二つの俳句は、金子兜太という俳人に内在する本能的感性、あるいは存在の純粋衝動から生まれものと思う。すべての人に平和を呼び掛けないではいられない衝動、そして女性の母性という天から与えられたものを賛美し、生まれてきたいのちに限りなく感謝する衝動……。私は、この二つの先生の衝動に呼ばれている気がした。そうした切っ掛けに突き動かされ、この提言を書いたように思う。

 1932年、あるチベット僧が、「密教入門」という本を英語で出版した。その中で彼は、「マスコミがこれから発達するのは、神の声を届けるためである」と、予言のような言葉をしるしている。その後、世界はどうなったであろうか。第二次世界大戦を経て、現在に至るまで、世界各地でさまざまな紛争が絶え間なく続いている。われわれは、これからいつまで神の声を待てばいいのか。私は、その声を待つより、世界中の人々が、金子兜太のいう平和の願いを日常の意識に持ち、願いを共有する者同士がつながることに一歩踏み出すことだと思う。