繁俊の日記から④/太平洋戦争最後の半年/昭和20年2月の記録
2月2日
2月7日
2月10日
房総より第1から第5編隊まで計90機侵入し、関東北部に至る、旋回中とあり、(関東北部は栃木、群馬なり)何を目的にせしものか吾らには不明なり。
○午後8時頃警戒発令
○午後11時頃に警戒発令
☆註 この日群馬県太田市の中島飛行機が目標にされ、150人死亡
2月15日
○コレヒドールには昼頃爆弾を落として、だいぶ被害受けしとの説あり。
☆註 コレヒドールはルソン島南部、バニラ湾口にあるコレヒドール島
日本本土には詳しい情報は届けられていない。
2月16日
#待機中に皆々寄りしところにて信州へ退避疎開の件協議し、皆々賛成せり。
○午後1時、3回目の空襲
○汽車に対しての機銃掃射、学童への掃射その他ありしとのことである。
2月19日
○午後2時半B29約100機来襲、4時半頃に解除
☆註 この日B29は市街地を爆撃し、区部で160人以上が死亡(戦災資料センター)
☆註 アメリカ軍硫黄島上陸、3月には硫黄島日本軍守備隊全滅
2月 20日
○朝7時頃に警戒発令せしも間もなく解除
午前4時45分に警戒発令、B29が1機来襲。
午後1時半頃に警戒発令、1機ずつ数個に分かれて来襲、高射砲鳴る、ただし空襲に至らず。
○ 26日の7時40分よりの「寺子屋」の朗読を少し延ばしてもらう。その他すべての会合をものばしてもらう。
2月 24日
午後9時のニュースの時に警戒発令、静岡より1機づつ2機侵入。前者は関東西北部を旋回して、京浜上空を通過し投弾して海上へ。西北部旋回中にウナリを聞きたり。
2月 25日
# 226事件のことが一寸思い出された。
# 17日の小型機は、調布の飛行場を攻撃
○午後9時頃には警戒発令、B29 、1機の飛来、信濃南部より関東北部に入りて投弾の後、退去 。
2月26日
が、その一隊は経堂の北側、ガレージのあるあたりに4発おとせし由。隣住の塩見の娘2人は、恵泉女学院に行きおるが、警報で皆々帰路につき、空襲になりし故、ガレージのあたりへパットうずくまりし。友達の2人がもう大丈夫と外へ出たところへ、2発落ちて、すぐ目の前にて爆風のために死せし由、本当にびっくりしたとは、目を丸くしての話であった。
2月27日
○ 25日のB29、130機の来襲に関しては、多大の被害の由。
○青山5丁目6丁目辺り、青山の聯隊区やられ、大宮御所(皇居)の守衛所、
○第一師団司令部より竹橋へかけて、神田の神保町東京堂の辺りを境として南方へ。駿河台下も残りをやられたる由、神田駅より東京駅に至る間の両側は惨憺たるもの。
○秋葉原、浅草橋駅あたり、本所の錦糸堀より見通しになったとある。
○上野の松坂屋近辺、広小路西側、活動館のあたりにかけて、
○下谷の竹町、西町あたりとか、なんにしても、雪の降る中といい、雨のように焼夷弾落ちて手の施しようなく、震災の時同様手をつけられず、何物も残らず、消火せぬゆえに燃えるだけ燃えてきれいになっている由、人々戦慄。
☆註 油脂焼夷弾は水をかけても消えない
☆註 上の写真は河竹家に残されていた「投砂弾」。直径20センチほどの素焼きの容器に砂が入っていて、落とせば割れるようになっている。これを投げて、油脂焼夷弾の火を消そうと言うのだが、竹槍時代の気休めだった。
○本郷駅辺りの上富士前辺、理研を始め、だいぶ焼けし由。
○浅草の仲見世は特に南側著しく、神谷バーと郵便局はあるも他は焼亡の由、左側もやられて、大増料理店のこり、観音様はよろしき由、
○印刷局も焼け軍事保護院も焼けた、
○重傷者以上は、手当てしても無駄故せぬと言う、
○高橋未亡人(☆2代目左團次)より夜電話ありて、やっと助かりしも、入りし防空壕の上に焼夷弾落ちてびっくり仰天したとあり、とても助からぬ故、ソチラへ焼け出されたら参ります、よろしく頼むと。
○山下大将は2回東上して打ち合わせたる由。しかも南方司令部は台湾に移りしもののよし。
○皆々敗戦気分にて困ったものなり。
○早大も要塞化の場合を思いて、半ヶ年分ずつの給料を先生に出して善処してもらい、半年先にまた相談するという策を取るとかーー大島氏の話
○艦載機の機銃掃射は静岡が主かと思いしに、平塚、二宮、房総方面にても、相当にありし由。
○本27日より妻、寿美子、克孝3名の疎開に関する手続きを始めた。
☆註 25日の襲来は、米軍はマリアナの基地から爆弾を焼夷弾に積み替えて、172機のB 29での空襲。焼夷弾爆撃の実験的な空襲で195人死亡。
《続く》