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命の尊厳

2024.09.09 06:56

Facebook鈴木忍さん投稿記事

2018年2月21日 ·金子兜太さん。

男気に溢れ、ユーモラスで、スケールが大きく、そして優しい人だった。

角川「俳句」の編集長になって半年も経った頃にのこのこと挨拶に伺った私に、「やっと来たか。いい度胸をしている」と笑ってくださった。その時の一枚。二月のちょうど今頃の時期で、ご自宅の庭には、奥様の皆子さんが好きだったという梅の花が咲き満ちていた。

皆子さん、そして多くの俳友を見送り続けた哀しみはいかばかりだったかと察するが、ご長命ゆえその謦咳に接することができ、以来、多くのことを学ばせていただいた。

金子兜太先生の、安らかな旅立ちをお祈りします。


Facebook鈴木忍さん投稿記事

2023年2月20日 · 今日2月20日は、金子兜太先生のご命日。

他界されて今年で5年・・・なんて考えていたら、第40回兜太現代俳句新人賞決定のお知らせが舞い込んできました。受賞は、土井探花(どいたんか)さん。1976年生まれ、千葉在住。2010年頃から俳句をはじめ、現在、「雪華」「ASYL」同人、超結社句会「ほしくず研究会」車掌。

選考委員は小林恭二、穂村弘、赤野四羽、瀬間陽子、田中亜美、永瀬十悟、堀田季何、山本左門の各氏です。土井さま、おめでとうとざいます。


Facebook細川 千鶴さん投稿記事

2023年6月3日 ·

2018年2月20日に98歳でお亡くなりになった金子兜太さん。「安倍政治を許さない」と書いたことでも知られています。

「・・・・東日本大地震の映像を見て『津波のあと老女生きてあり死なぬ』という句ができました。戦争の悪と同時に人間そう簡単に死なないものだと伝えたい。人間には強さがあるぞ、その強さを生かしていこうじゃないかとね」

今、現実に日本で繰り広げられている悪政の数々。悪法製造内閣に国民の怒り💢を集中させ、国民無視・「今だけ、金だけ、自分だけ」の政治に終止符を打とうではありませんか❗️

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独自の作風で人間や社会の深部に迫ってきた俳人、金子兜太さん(95)。海軍主計中尉として出征したトラック島での体験が戦後の作句の原点になった。「戦争の悪」と「人間の美しさ」。前衛俳句の先駆者が生み出す17文字には島で目撃した相反する情景が織り込まれている。創作意欲は今も衰えず「伝達力のある俳句を作りたい」と語った。

――戦地での印象深い出来事を教えて下さい。

金子兜太(かねこ・とうた)氏 埼玉県生まれ。東京帝大卒。戦後は日銀に勤務しながら社会性を重視した前衛的な作品を相次いで発表。現代俳句協会名誉会長。95歳。

「1944年3月に着任したとき、半月前の空襲でやられた施設が真っ黒な残骸をさらしていました。飛行艇で着いたのが夕方だったので、よけいに黒く見える。海の深いところには貨物船や軍艦が沈んでいて、これはもう駄目だなと思う光景でした」

「戦況が悪化すると、トラック島では武器も弾薬も補給できなくなる。そこで、工作部が手りゅう弾を作って実験するという事があり、これが私の戦争に対する考えを一変させました」

「実験は兵隊ではなくて民間人の工員にやらせました。失敗して工員は即死、指導役の落下傘部隊の少尉が心臓に破片を受けて死にました」

「心に焼き付いたのはその直後のことです。10人ほどの工員たちが倒れた仲間を担ぎ上げ、2キロ離れた病院へ走り出した。腕が無くなり、背中は白くえぐれて、死んでいることは分かっています。でも、ワッショイワッショイと必死で走る。その光景を見て、ああ人間というのはいいものだとしみじみ思いました」

「ところが落下傘部隊に少尉の死を知らせると、隊長の少佐以下、皆笑っているんです。彼らは実戦を通じて死ぬということをいくつも体験してきた。だから死に対して無感動というか、当たり前なんですね」

「工員たちの心を打つ行動があって、今度は死を笑う兵士がいる。置かれた状況が人間を冷酷に変えるんです。戦争とは人間のよさを惜しげも無くつぶしてしまう酷薄な悪だと痛感しました。あの出来事は私にとって衝撃であり、今から思えば収穫でもあります。あれ以来、戦争を憎むという姿勢は一貫しています」

――戦地での創作は。

「手りゅう弾の一件の後、しばらく俳句は詠みませんでした。でも戦死した矢野兼武主計中佐(筆名・西村皎三)が『金子中尉、戦況は悪くなる。皆、暗くなるから句会をやれよ』と言っていたのを思い出し、句会を開くようになりました」

「戦後、放送作家として活躍した西沢実さんが陸軍少尉で島にいて協力してくれました。4、5人の陸軍将校と工員が10人くらいで月2回。工員たちは将校を相手に堂々と批評していました。自分たちが聞いたこともないような例を挙げて説明するものだから軍人にとっても新鮮で面白い」

「この句会は3カ月で終わりました。食糧の芋を作るため、皆が分散配置されることになったからです。食糧事情は悪化し続けて餓死者が相次ぎました。最近、気づいたのですが、この時期は全然、俳句を詠んでいません。切迫した状況では出てこないものなんです」

――終戦の直後にいくつかの代表的な句を詠んでいます。

「あの日のことははっきりと覚えていますね。全将校が集められて、無電で受けた詔勅を聞かされました。それから自分の宿舎へ帰って、日記類を燃やした」

「『椰子の丘朝焼けしるき日日なりき』の句が浮かんだのはこのとき。その後に詠んだのは『海に青雲生き死に言わず生きんとのみ』という句です。とにかく生きて、ばかげた戦争のない国にしていこうという気持ちでした」

――捕虜生活の後、日本に帰還しました。

「餓死者を出した、これは主計科の士官として仕事を全うできなかったということです。若くて元気のいいアメリカの海兵隊を見て餓死した人のことを思い出しました。筋骨隆々としていた人がだんだんやせ細って最後は仏様のような顔になって死んでいった」

「『水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る』は餓死した人を思いながら、船尾から遠ざかる島を見ていたときに作った句です」

――戦争の記憶が薄れるなかで、文学が果たす役割とは何でしょう。

「本気で作った五・七・五は力を持っている」と語る金子氏

「トラック島の記録を作ることが死者をとむらうことになる、それができるのは散文の小説やドキュメンタリーで伝えることだと思っていました。実は結構、書いているんですが、恥ずかしくて駄目。美文調で、青年の客気が露骨に出てしまっていて。これでは戦争の悪なんか伝わるわけがない。自分で決めて永久に葬りました」

「一方で、俳句にはかなり強い伝達力があることを今ごろになって感じます。本気で作った五・七・五は力を持っています。私には『こんなに悪い戦争があって、自分はそれに参加したのだから、俳句を作る資格はない』と消極的になってしまった時期がありました」

「そうではなくて『これほど悪いんだから全力で俳句を作って、俳句で戦争の記録を残していくんだ』という割り切り方ができたら良かったのかもしれません。それができなかった。今でも後悔が残りますね」

――これからの創作に向けての意欲は。

「95歳という年齢に制限される面がありますが、ビビッドで伝達力のある前衛性の高い俳句を作りたい。東日本大震災の映像を見て『津波のあと老女生きてあり死なぬ』という句ができました。戦争の悪と同時に人間はそう簡単に死なないものだと伝えたい。人間には強さがあるぞ、その強さを生かしていこうじゃないかとね」


Facebook梶間 亙さん投稿記事

選り抜き:今日の読みました(その1)『毎日新聞』2017/8/15

【余録】

 「畑中の檸檬(レモン)の一樹輝かに」。俳人の金子兜太(かねこ・とうた)さんの句だが、戦争末期、海軍の根拠地トラック島での作である。この地には珍しいレモンの木を見つけた金子さんは誰にも告げず、その輝きを自分だけの秘密にした

▲当時、すでに米軍はサイパンへ侵攻、トラック島は戦線の背後に取り残されて補給は絶えていた。金子さんが指揮する200人の部隊は近くの秋島に移駐して自活を強いられ、栽培したイモは夜盗虫と呼んだ毛虫に食われて全滅する

▲「栄養失調者は眠ったまま死ぬ。朝、必ずといっていいほど2、3人が起きなかった」。部隊長の頭を占めたのは、畑の生産力と人数をにらみ、あと何人死ねば食っていけるかという推計だった。今も悔いる「破廉恥(はれんち)な計算」である

▲「椰子(やし)の丘朝焼しるき日日なりき」という句がわいたのは敗戦の報を聞いた朝だった。「水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る」。トラックには多くの餓死者を含む日本人戦没者8000の墓標が残った(「悩むことはない」文芸春秋)

▲ある歴史学者の推計によると、先の戦争での日本の軍人・軍属の戦没者230万人のうち餓死・戦病死が6割にのぼる。「死は鴻毛(こうもう)よりも軽し」は軍人(ぐんじん)勅(ちょく)諭(ゆ)の一節だが、それを兵士らに用いて恥じない戦争指導の無能と非道であった

▲内外の戦没者に平和を誓う終戦の日だが、今年は東アジアに飛び交う好戦的な言葉が心を騒がせる中で迎える。人の生命を道具としか思わぬ軍事指導者と今も向き合わねばならない戦後72年の夏である。


https://kaigen.art/kaigen_terrace/%E3%80%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%82%E3%81%AE%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%B0%8A%E5%8E%B3%E3%80%80%E3%80%80%E6%9F%B3%E7%94%9F%E6%AD%A3%E5%90%8D/ 【「生きもの」としての尊厳  柳生正名】より

『海原』No.15(2020/1/1発行)誌面より。

《誌上シンポジウム》金子兜太最後の句集『百年』を読む

「生きもの」としての尊厳  柳生正名

◆『百年』より五句鑑賞

 津波のあとに老女生きてあり死なぬ

 山影に人住み狼もありき

 炎天の墓碑まざとあり生きてきし

 わが師楸邨わが詩萬緑の草田男

 さすらいに入浴の日あり誰が決めた

 映画「天地悠々」で最も印象的な場面は兜太が最期に倒れる直前の最後のインタビューでした。そこで自身の残る人生をどう生きるかという問いに、師は一茶の生きざまに託し「何でもいいやい、死なねえやい」という言葉で答えました。

 この言葉に込められた切実な思いは私の選句で1句目に掲げた「生きてあり死なぬ」とイコールでしょう。3・11直後の作ですが、ひらがなで記された「あと」は後・跡・痕のいずれとも読め、「老女」も「兜太」「わたし」「あなた」とどんどんずらして受けとめることができます。

 実は冒頭の兜太の言葉は間違いなく、中村草田男の「浮浪児昼寝す『なんでもいいやい知らねえやい』」の記憶が最期に一茶の生き様と一体化し、口を突いて出たものでしょう。私の挙げた4句目では、兜太自身が最短定型詩の「詩」の部分を草田男に負っていることを認めています。あれだけ、激しい論争を交わした論敵の詩想が師の記憶の深層に根を張っていた証であり、兜太俳句がよって立つ根源を垣間見せてくれます。

 兜太がこの言葉を語ったインタビューの約1か月前、筆者を含む「海程」の10人ほどと一時入所中の施設で懇談の場が設けられました。この時、兜太は施設職員の女性の介護で入浴した体験を楽し気に語りました。これが「た」止めの印象的な最後の句の「入浴」でしょう。

 兜太の代表作「おおかみに螢が一つ付いていた」は各俳句総合誌による「平成を代表する句」投票で一位を獲得しました。昨年、平成最後の蛇笏賞を受賞した大牧宏の句集『朝の森』の帯に記された一句も「敗戦の年に案山子は立つてゐたか」。「た」は自由律俳句で多用され、その影響で渡辺白泉「戦争が廊下の奥に立っていた」など新興俳句にも登場しながら、戦後俳句に定着しませんでした。それが兜太の句をきっかけに平成の時代に強烈な存在感を示すようになった。私は文語の「けり」と同様、「た」は口語俳句における切れ字の位置を占めると考えています。兜太はこの切れ字「た」を俳句文体に定着させた存在として俳句史に位置づけられるでしょう。

 一方、今回、私が選んだ2句目は「き」止め。文法的には「た」も「き」も過去の助動詞ですが、一説によれば、後者は「過去に自分で直接経験したこと」を意味し、伝聞など間接的な経験は「けり」を使うのが「源氏物語」「枕草子」の時代には普通だったとされます。これに対し、明治になって生まれた「た」は直接、間接の両方を表現可能。直接経験か、間接経験か曖昧だった一句から10年以上を経て、狼の実像が兜太の直接的な記憶の中にしっかりと棲みついた「き」と受け止められます。実は『百年』には「き」やその連体形「し」が数多く見出され、特に追悼句に使われる例が目立ちます。兜太が日課にしていた毎朝の立禅で想起した人々や物事を偲ぶ句だからこそ「き」を使ったのではないでしょうか。

 そして3句目。終戦後、トラック島を去るときの「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」を踏まえ、そのほぼ70年後に詠んだ句です。この兜太の戦後の人生が圧縮されたともいえる作の最後は、やはり実体験を示す「き」の連体形「し」で締めくくられます。

 実は『百年』の後記で安西篤代表が非常に重い事実を記しています。「ご子息、眞土氏によると、すでに2年ほど前から認知症の初期症状が出ていた」。周囲にいたわれわれには年齢相応の記憶力低下という以上のものには感じられなかったのですが、確かに往年の兜太の野生的な記憶力はすさまじく、旺盛な作句や評論活動の源となっていました。それと比べ、晩年の兜太自身が自分の過去の記憶と必死に向き合い、懸命に手繰り寄せる場面がしばしばあったのではないか。だから『百年』の中に「き」「し」が多用されたのだろうと想像します。

◆「生きもの」としての尊厳をもって

 人が「私」と言うとき、自分が体験してきた記憶の総体が前提になります。私は私の記憶が形作っている存在と言ってよい。だから重度の記憶障害では自分が誰であるかも分からなくなります。そんな時でも、私は「生きもの」としての尊厳をもって確かに在る―それが晩年、兜太が語った「存在者」ではないか。「俺が俺自身か、それとも別人かなんて何でもいいやい、俺はここに確かに存在し、死なねえ」という思いこそが、『百年』に収められた700余りの俳句のひとつひとつ、中でも今回、私が掲げた5句の中に込められている―。今『百年』を改めて読むことで、改めてそう感じずにはいられません。