朝刊
三種の神器といわれた時代も今は昔。需要こそ尽きぬまでも広告主に依存した収益構造にあってその将来性やいかに。
高視聴率、と申しても「率」とはあくまでも占める割合であって問われぬ規模。あれ以来、日中の番組などはまさに一色とか。現職の退陣なくばここまでの熱狂ぶりは。それすらも脚本の一つ、だったり。前哨戦そのままに本戦に流れれば。劇場の幕開け近し、も現実は小説よりも奇なりを地でいく世界なだけに。
かつての朝刊、今スマホ。朝の通勤電車内に見るまでもなく。時代はサブスク、ネットの定額制に顧客の囲い込みを狙えども。巷に無報酬の物書き多く、情報はタダで入手できる時代にあって。アクセス数が多いポータルサイトの上位にでも表示されれば。取捨選択を司るは人ならぬAI、巧妙なアルゴリズム、フィルターバブルに翻弄されて。
そう、こちとて例外にあらず。翌日の朝刊に取り上げられることこそが勲章、目を皿にして紙面を凝視していたのも昔の話。その後に気づかされるは内容以上に記者とのコネ、と。客離れ進むはそこに限らず。つい最近、知人のピアニストの話に、コロナ下の集客を代理店に依存した演奏家は以降の集客に苦戦、と聞いた。やはり相手の顔が見える、繋がる、というのが。
迫る代表質問。原稿を起草するに欠かせぬは。いつぞやの質疑、と過去の議事録を読み返さんとするに。本会議ともなれば本番前に検閲、推敲が施されて、それなりに体裁が整うも、常任委員会の会議録や無駄に長いばかりか、かみあわぬやりとり。聞く方、聞かれる方、ともに真摯に応じとるつもりも伝わらぬ心意。恥じらいの恋人同士じゃあるまいに。
そう、あの当時、委員会の発言は自由と知れど重鎮の不機嫌そうな横顔見るに挙手すら憚られた時代。んな恥ずかしいことは聞けぬ。前日に担当の役人を呼んで内緒のレクを。彼らにとってもこちらの肚を探るに絶好の機会。いつしか、一を言わば十とはいわぬまでもちゃんとこちらの意を酌んだ答弁が返ってくるもの。距離を縮めんとするに欠かせぬ対話。互いに膝を突き合わせて、と申しても新庁舎において繋がらぬ内線はいつぞやの投稿の通り。
最近はやや改善された感ありて、着信には応じて下さるのだけど。それとなく察する向こうの空気。電車の中で小声で話すあの場面が如く。受けるに浴びる周囲の視線、気恥ずかしさを抱けども、かけた方とて罪悪感が。何よりもそれが庁内の会議であること明白。そこに着信あらば途切れる緊張の糸。当人ばかりか周囲にまで。良心の呵責に電話を控えてみたり。遠ざかる互いの距離感。
こちらは過去の貯金ありて話さずとも阿吽の呼吸にてそれなりの意思疎通が図れども新人とあらば。相手との距離と仕事量の相関や小さからず。仕事減らすにまずは相手との距離から。
(令和6年9月10日/2876回)