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露草や変わらぬものと変わるもの

2024.09.10 12:48

https://ameblo.jp/yujyaku/entry-12820176609.html 【露草や変わらぬものと変わるもの】より

今日取り上げる「露草(つゆくさ)」は幼き頃から田舎の農道などで見た草花で、その頃から何も変わっていない。ただ、その後田畑の区画整理が行われ、農村の景観もどんどん変化してきている。

かつて住んでいた所も、農地がどんどん減ってきて住宅がいくつも建ち、昔の姿が思い出せないくらいになってきた。また、「露草」など秋の草花が繁茂していた農道や用水路もコンクリ―トで固められ、草花が生える草地はどんどん狭められてきた。

本日の掲句は、そんなことも思い浮かべながら詠んだ句である。散歩道などで「露草」を見ると、周囲がどんどん変わっていっていも、この草花は昔のままの水色で形も何も変わっていないなと感心することがある。「露草」は秋の季語。

ところで、四字熟語に「不易流行(ふえきりゅうこう)」という言葉がある。これは江戸時代の松尾芭蕉が提唱した俳諧理念の一つで「いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくこと」をいう。

俳句を詠む時の心得を述べたものと思うが、その内容には非常に深いものがある。「露草」に関連させて考えると、その本質である自然、生命と急速な社会環境の変化をどう捉え調和させていくかが大切な視点になっていくことだろう。

話は戻って、「露草」に関しては、過去に以下の句を詠んでいる。

【関連句】

① 空の色映し露草水色に

② 露草の露玉光る朝かな 

*朝(あした)

③ 露草や今朝はダンボの貌に見え

①は、「露草」の青色に着目して詠んだ句だが、秋晴れの明るい空の色を映し、露を帯びて透き通るような水色になったと詠んだ。

②は、「露草」が花と葉に露玉を浮かべて、群れ咲いている様子を詠んだもの。

③は、かつてより花の形がディズニーランドのミッキーマウスに似ていると思っていたが、むしろ「ダンボ」に似ているのではと思い詠んだ句。*「ダンボ」は、ディズニーアニメ映画の主人公である子象の名前。

「露草」は、ツユクサ科ツユクサ属の一年草。原産地は日本、東アジア。花期は6月~10月。「花弁」は、青の大きなものが2枚、下方に白いものが1枚。

名前の由来は、朝咲いた花が昼しぼみ、朝露を連想させる、あるいは露を浴びながら咲くということによる。英名の「Dayflower」も「その日のうちにしぼむ花」という意味を持つ。

*露草の花の構造

万葉集によく登場する「月草(つきくさ)」という別名は、衣服や和紙に花をすりつけ染料として使ったので「着き草」と呼ばれ、後に「月草」と表記されるようになったとのこと。他の別名に「蛍草(ほたるぐさ)」「帽子花(ぼうしばな)」「青花(あおばな)」などがある。

身近な草花であるため、「露草」を詠んだ句は非常に多い。本ブログでも20句以上紹介してきたが、今回は記事が長くなったので新たな参考句の掲載は割愛する。


https://haha2018.blog.fc2.com/blog-entry-61.html 【つゆ草や~あぁ~露草やツユクサや 小林一茶を学ぶ】より

秋の雨 咲いた咲いたの つゆ草や ああ露草や ツユクサや

秋雨に 背伸びしてみる 露草や 露草や 雨後の竹の子 真似てみる 

国学への傾倒と現実社会の直視[編集]

一茶が生きた18世紀から19世紀にかけての日本は、ロシアのアダム・ラクスマンやニコライ・レザノフが修交を求めて来日するなど、あまり意識されてこなかった対外関係がクローズアップされるようになった。時事問題に耳ざとい一茶は、ラクスマンやレザノフの来日を題材とした俳句を詠んでいる。また、豊富な勉学の中で一茶は本居宣長の玉勝間、古事記伝などを読み、当時広まってきた国学思想に傾倒していく。折からの対外的な緊張の高まりは、一茶に日本びいきの思いを高め、文化4年(1807年)には、花おのおの日本魂いさましや という日本賛美の句を作っている[108]。

花嬌は一茶の俳諧師としての才能を評価して師事していたと考えられる。花嬌本人も俳句の才能があり、一茶園月並でも高い評価がなされていることが確認されていて、一茶らと詠んだ連句からも才能の高さが感じられる。一茶と花嬌との間には恋愛関係があったのではとの説もあるが、花嬌は一茶よりもかなり年長であったと推定され[† 13]、また夫を亡くした後の花嬌は出家していることが確認されていることもあり、一茶との恋愛関係は成立しがたいとの説が有力である[123]。

文化7年(1810年)4月、花嬌は亡くなった。一茶は花嬌没後の百カ日法要に駆け付け、文化9年(1812年)4月の花嬌の命日に行われた三回忌にも遺族の要請もあって出席している。三回忌出席のために富津へ向かう途上、一茶は   亡き母や海見る度に見る度に  という句を詠んだ。このことから一茶が花嬌に対して抱いたのは、幼い日に亡くした母の面影であったとの説もある[124]。

文政2年(1819年)5月末、さとは天然痘に感染する。天然痘自体は6月に入ってかさぶたが落ち、小康状態になったかに見えたが、体調は一向に回復せず、治療を尽くしたにも関わらず6月21日(1819年8月11日)に亡くなってしまった。一茶はおらが春に愛しいわが子を失った親としての嘆きを綴った上で、 露の世は露の世ながらさりながら  と、愛児さとを失った無念、あきらめきれない悲しみを詠んだ[218]。

そしてこの年の夏、 せみなくやつくづく赤い風車と、蝉しぐれの中、主を失い、むなしく回り続ける赤い風車を詠んだ[219]。

雀の子そこのけそこのけお馬が通る       やれ打つな蠅が手をすり足をする

やせ蛙負けるな一茶是にあり

句作スタイルについて[編集]

一茶の句の特徴として挙げられるのがまずその作品数の多さである。作品数は21200句近くとされ[319]、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句と比較して圧倒的な多さである[320]。しかも一茶の書や門人が編纂した書籍などから、新たな句が発見され続けている[321]。

これだけ膨大な作品の中には、互いに類似する作品が数多くみられる[322]。例えば

雪とけて村いっぱいの子どもかな には、 雪とけて町いっぱいの子どもかながあり[323]、

名月を取ってくれろと泣く子かな には、あの月を取ってくれろと泣く子かながある[324]。

そして21000句を超える作品の全てが傑作というわけでは無く、駄作の数も多いとされている[325]。荻原井泉水は「生涯に2万近い句を書き残して、その大部分がつまらない作で……砂漠の砂の中に宝石が見出されるような句のある」。と評した[326]。

一茶の俳句が生きることを主題としているといっても、もっともらしい理屈や人生論などに拠ったものでは無く、市井に生きる人々が日常感じているありのままの喜怒哀楽を句に詠んでいった。いわば一茶は生活の中から文学を生み出していったのであり、加藤楸邨は一茶の作には生身の人間から放射されるような体臭があり、それは鍛え抜かれたものから漂ってくる生命感ではなく、町で軒を並べて生活している人間同士で嗅ぎ合うような生の感触があるとしている[404]。丸山一彦は不幸続きであった生涯の影響を受けて一茶の作品には特異な歪みがあるが、これは生きる悲しみに深く根差した歪みであって、人の世の深さに触れる何かがあると評価している[405]。

そして矢代静一は、一茶の句について孤高な文学者の作品などではなく、すぐそこに住む世俗的な一般庶民と同じく、地を這う人のものであるとした上で 一茶は、人生をてくてく歩みながら、肉声で句をものした凡庸にして非凡の人である。と評価した[406]。


https://www.yuichihirayama.jp/2018/03/23/317/ 【『言葉となればもう古し-加藤楸邨論-』】より 

『言葉となればもう古し-加藤楸邨論-』 今井聖・著 朔出版・刊

今年の俳人協会評論賞受賞作である。俳句結社『街』主宰の今井聖氏が、師である楸邨について論じた一冊で、楸邨俳句の基点から始まって、『寒雷』や『雪後の天』など刊行された全句集を詳細に解説している。これまで結社誌『街』や『馬酔木』、俳句総合誌『俳句研究』などに発表されてきた楸邨に関する文章を加筆修正してまとめたもので、長年にわたる聖氏の楸邨研究の集大成となっている。俳壇の内外に常に問題意識を持ち、議論をいとわず己の俳句を研鑽していった楸邨を分析していく過程は、そのまま聖氏の俳句の拠り所を示していて、楸邨論でありながら、俳人・今井聖のマニフェストの様相を呈している点が非常に興味深い。

楸邨は「人間探求派」と呼ばれるのが通例になっている。しかし、山本健吉によって付けられたその呼称は本質を正しく捉えてはおらず、言葉からイメージされる「ヒューマニズム」や「箴言」といったものとは異なる次元で楸邨の俳句作りは行なわれていたと、この本は繰り返し述べる。聖氏はこのテーマを主軸に、角度を変えて何度も評論を試みていて、それらがまとめられることによって立体的な楸邨像が浮かび上がってくる。そこが本書の要だろう。「人間探求派」という定説に挑戦するために、著者はユニークな視点をいくつも用意して論陣を張る。

まず、字余りの多い楸邨俳句の根拠となった「十七音量性」から説き始める。これは、「十七音」の「量」の問題を意味する。たとえばその句が十九音や十五音であっても、ラップのように詰め込んだり引き伸ばしたりして、「十七音の量」で発音できればよしとするのである。「羅漢みな秋日失せゆく目が凄惨」(季語:秋日 秋)、「遺壁の寒さ腕失せ首失せなほ天使」(季語:寒さ 冬)など破調の例句を的確に選ぶ聖氏の眼の鋭さは、師・楸邨への愛情と敬意に裏打ちされている。

有名な「しづかなる力満ちゆき螇蚸とぶ」(季語:螇蚸 秋)の句には、「勇気を与えてくれる」だとか「忍耐が大事」などと寓意を持ち出す鑑賞者が多い。だが聖氏は、「その解釈は『人間探求』という先入観にとらわれて楸邨の特質を見ていない」ときっぱり否定する。その上で“螇蚸”は“バッタ”ではなく、“はたはた”と読み、楸邨は意図的に字余りにすることでリアリティを獲得しようとしたと、きちんと証拠を示して断言する。

一方で、高濱虚子など他の重要な俳人についても、思い切った持論を展開。虚子のスローガンである“花鳥諷詠”を、「誰もが共有し得る先入観や通念に自分を寄せていく。そのことに抵抗を感じなくなる齢に見合った美意識と言い換えてもよいかもしれない」と厳しく規定し、正岡子規の唱えた本来の“写生”との違いを明らかにする。

また昭和の俳壇に一大論争を巻き起こした桑原武夫の『第二芸術―現代俳句について』も要旨を簡略に示し、70年以上を経た現代にも通じる俳人の保守傾向や結社の意義の曖昧さを指摘。ただ、そうした慧眼を持つ桑原でさえ、子規の出現の意味を理解していなかったと聖氏は述べる。

その明快な論調は、胸が空くようで小気味がいい。氏の俳句講座を受けたことのある方はすぐに思い当たると思うが、快刀乱麻とはこのことだ。そして子規の業績を、「リアルの系譜―子規から楸邨へ」の章でさらに深く探っていく。

無季の句では「非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子」を例に挙げ、季節感を表わさない「緑」は夏の季語とはならないが、現代社会を生きる人々の持つ不安や危機感を“客観写生”の方法で見事に切り取っていると評する。その流れの中で「銀行員等朝より蛍光す烏賊(いか)のごとく 金子兜太」の意義は、農工業ではなく、第三次産業の労働を詠んだところにあると喝破。このあたりから本書は佳境に入る。

「髪も紅も突つ込む蕎麦の湯気の中 秦鈴絵」や「太刀魚の立ち泳ぐさま傘で言ふ 加藤精一」(季語:太刀魚 秋)などの美容師や板前の詠んだ労働俳句を挙げて、楸邨が志したのは労働賛歌やヒューマニズムではなく、ひたすら現場のリアルだったのではないか、彼らが身体を通して感じた即時的なポエジーだったのではないかと結論する。

面白かったのは、楸邨の結社『寒雷』で若手が造反したときのエピソードだった。不満を持った兜太や沢木欣一らの中の一人が、主宰に「自分たちに選句をさせて欲しい」と詰め寄ると、楸邨は一言の元にそれを断る。断ったのは当然のこととしても、今では信じられないような文学的緊張感のある師と弟子の関係が、60年以上前にあったのだと聖氏は憧憬を込めて振り返る。

僕はこのエピソードを読んでいて、聖氏にもこの血が流れていて、師・楸邨の残した作品と真っ向から切り結ぶ覚悟が引き継がれていることを直感した。そのことが『言葉となればもう古し』を、生な実感のこもった評論集として成り立たせているのだ。そしてこの鋭利な論調は、今を生きる俳人の抱える問題にも、遠慮なく及んでいく。もちろん聖氏も自戒を込めて、自身の俳句に向かう姿勢を検証する。このフェアさが、本書の最大の良さだ。

今井聖は俳句の力を信じてこの本を著した。この快作が受賞を果たしたことは、今後の俳壇に大きな意味を持つだろう。僕らもその俳壇の中にいる。

「転校生蛇が摑めてすぐ馴染む 聖」(季語:蛇 夏)


https://kanekotohta3.livedoor.blog/archives/14447699.html 【№5楸邨俳句の「人間」金子兜太】より

「熊猫荘点景」より  冬樹社 

katousyuson

      加藤楸邨

楸邨俳句の「人間」

 私は楸邨氏を人間および句の師とかんがえ、草田男氏を句の師とかんがえている。私が俳句をよきものとおもいこんだとき、それを裏付けてくれたのは、楸邨、草田男、それと、竹下しづの女の俳句だったが、そのあとで所属し、しばらく選句もしてもらった島田青峰氏のことも忘れがたい。しかし、青峰氏の場合は、人や句の魅力ではなく、好戦権力の黒い手の犠牲者としての忘れがたさだった。また、その時期尾崎放哉氏の句にもひかれていたが、これも句そのものの魅力ではなく、句をつうじて知られる放哉氏の生きざまへの関心が中心だった。

「漂泊」ということが、いつも念頭にあり、自分でも、句をつくりはじめたとき、「白梅や老子無心の旅に住む」という句をつくったりした。しかし、戦後になって、やはり「漂泊」をおもうとき、放哉より、放哉と同門の放浪者・山頭火の脂っこさ、いやらしさのほうに私の関心はひかれていた。放哉では透明すぎる気持だった。

 とにかく、楸邨氏は句とともに人間の師であって、双方揃った師は、俳句の世界広しといえども楸邨氏をおいてほかにはいない。句だけでいえば、草田男氏のほうに、よりいっそうの親近感をもつ。句の肌合いの近さを感じるが、その理由の一つに、草田男俳句のもつ程よい欧風感覚があるようにおもう。草田男氏が『ツアラツストラ』を読み、ヘルダーリンを愛好したことはよく知られていることで、青年期のドイツ文学からの影響を、その後、『ホトトギス』に属して句作するなかで消化してゆくわけだが、和魂洋才とはいえないにしても、和風基本の和洋融合が私の肌に合ったのである。こんなことは俳句だからことごとしくいえることのようにおもうが、しかし、これは明治以降の日本文化全体にとっても問題になることではないかとおもったりもする。

とにかく、とくに俳句にとっては、この欧風感覚というやつは問題児である。現代俳句の評価が、この感覚の濃度、あるいは評価者の好悪によって決められている場合が多いのにあきれるほどなのである。口ではもっともらしい俳論を並べていても。

 それはともかく、人間となると、私は楸邨氏に親近感をおぼえる。学ぶべきものを見る、といってもよい。比較していうのは失礼かもしれないが、草田男氏は内向的で、〈内向感覚〉の確かさがある。氏の句について思想性が語られるのも、もとはといえば、この感覚の鋭さ確かさのゆえである。したがって作品も、表面は荒荒しいものがあっても、内は静止的で、ときには教養人のくさみを伴うこともある。氏がかつて、「趣味とデレッタンティズムの時代は過ぎた。」これからは「野獣の生きるべき時代」だというフィリップのことばを引用していたのも、自己省察のなかでの自己励起の作業だったのかもしれない。

 楸邨氏は、草田男氏にくらべると外向性がつよく、外に対する反応に振幅が大きい。私はこれを〈鋭い神経〉という。神経というと、すぐ神経質とかセンサイな神経とか受けとる人が多いが、そんな通俗的なミミッチイ内容で、このことばを使っているのではない。〈精神の触角〉といってもよかろう。広い意味での〈現実〉、これに対する対応をためらわない、そして反応の鋭く大きい(動的な)精神的資質を、私はこのことばであらわしたいのである。内向感覚と鋭い神経を、対照させておきたい。

 精神の触角の鋭い人は、したがって、内部への撥ねかえりも激しい。「求心過度の脳溢血」と西東三鬼にからかわれたのも、楸邨氏が「求心的傾向」ということをしきりにいったためで、このほかにも、「真実感合」とか、「孤独の目」「孤独の相」とかいったことばを好んで使っていた。

 これは、鋭い神経による内部省察の揺れ幅の大きさを示すことばなのである。げに、楸邨氏は、〈現実〉に対して真面目であり、ひたすらである。一本気といってもよかろう。

 私は楸邨氏のそこに親しみをもつ。秋山牧車氏あたりから、楸邨氏は人づきあいに如才ない反面、ここというときはなかなかきかない、とよく聞かされたものだが、現代俳句協会から俳人協会が分裂したとき(昭和三十六・一九六一年)に楸邨氏がとった態度など、その一つのあらわれとおもったものだ。周知のように、氏は俳人協会への誘いをことわって、現代俳句協会にとどまったのである。

 私の日記のその年十一月十九日のところには、その前夜、病気入院中の楸邨氏を訪れた記録がある。寒雷二百号記念大会の前夜祭にも当っていて、その大会に出席できない氏を私たちは見舞ったのだ。「元気だが、息切れ大。俳人協会ができたことを聞かせられる」とある。そして、「寒雷人が多数所属している協会を自分だけ抜けるわけにはいかない」と(キッパリいっておられた。)

 私はそのキッパリした態度に感心したのである。現俳協には寒雷人が多数いる。しかし、俳人協には楸邨氏と同世代の、戦前からの付き合いのある有力俳人がこれまた数多いのだ。俳壇的利害をかんがえて選べば俳人協会ということになるはずである。そこをはっきり拒絶したところに、私は楸邨氏の一本気を感じたのである。そのこと、『俳句』昭和五十二年五月号の座談会で、川崎展宏氏がこういっていたことに、私は疑問をおぼえたものだ。「楸邨先生は人間探求派ということになっちゃって、真面目一方のように世間で言われているけれども。ほんとうは実にひょうきんなところのあるひとで、話の最中に人の表情の真似なんかやって、それがまた実におもしろい。」

 楸邨氏の真面目と「ひょうきんなところ」を別別におけて、氏に両面があるようにいう川崎展宏氏の浅はかさよ、と私はいいたい。真面目だからひょうきんになるのだ。〈鋭い神経〉のゆえに反応の振幅が大きく、自分を擬装したり、外への適応をはかったりもする。自分への鋭さがやりきれなくて、それをほごし、ゆるめようとして、おどけてみせたりもする。真面目とひょうきんは同じことの両面である。  中略・・・

 私はこの楸邨氏の人間と、その真面目さがつくりだす句にひかれてきた。そして、それらの〈叙情〉のなまなましさに愛着している。私たちが『海程』を創刊したのは、先ほど書いた現俳協分裂の直後だったが、楸邨氏から激励の文をいただき、その後も励ましをいただいている。氏は、私たちが、自分の求めるままに、その意味で意欲的につくりつづけることを、喜んでおられるのだ。