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1月2日 首里城公園[新春の宴]見学

2019.01.06 15:40


今日は、首里城公園で正月休みだけ特別に開催される「新春の宴」を観に行く。


混雑が予想される為、車で首里には近寄らない方が良い、との情報を得ていたKY夫婦。

広い道の駅の端っこに車を停めさせて頂き、近くのバス停から最寄りのゆいレール(モノレール)の駅前まで出て、首里駅へと向かうことに。


終点の首里駅からは、道標を頼りにひたすら歩く。

遠くに首里城の朱色の屋根が見える。




道中、いくつか個人経営の駐車場もあり、開門前の時間とあってガラガラ状態。


これなら車で来ても良かったのでは?とも思ったが、帰りの混雑を考えると、やはりこれが正解なのだろう。



20分ほど歩いて、首里城公園の入り口に到着する。




公園入り口から真っ直ぐに石畳の道が続き、堀に守られた石垣の上に、漆塗りの朱が基調のお城が顔を覗かせている。


首里城は、14世紀末に創建された琉球王国の城で、中国や日本の文化を混合した琉球独特の建築である。第二次大戦の沖縄戦で焼失したが、1990年代初頭に正殿をはじめ一部が復元され、今に至っているという。 




有名な守礼門。扁額に刻まれた「守礼之邦」の銘は、文字が消え掛かっていて読みづらいが、中国の皇帝に忠実であることを意味するものとされている。

写真やテレビでは何度も見ていたが、小山を利用した要塞のような風格はなかなかのもの。


派手さはないが、気品を感じさせる落ち着いた雰囲気が漂う建造物である。



この石畳は不揃いの石を巧妙に組み合わせているが、これも復元したものだろうか。




お目当ての「新春の宴」は8時半開始。


守礼門到着時は、既に15分前となっていた。

Yは日頃の鍛錬の成果を発揮すべく猛ダッシュ。

入場券販売所目掛けて箱根駅伝並みのスパートをかけて、道ゆく観光客をごぼう抜き。


一方、Kは写真を撮りながら守礼門から、歓会門、瑞泉門、漏刻門、広福門と石敷きの急階段を登って行き、先発隊のYと合流。券売所前には、既に長蛇の列が出来ていた。



チケットを購入すると、「めんそーれ!」と係員の歓迎の声が鳴り響き、華やかな民族衣装をまとった女性からウェルカムドリンクの甘酒とお茶が振舞われる。




しばらくして係員の説明があり、時間通りに奉神門前で開門の儀式が始まった。



奉神門をくぐると「御庭」という広場となる。正面が正殿、右が南殿、左が北殿。



最初に宮廷音楽の演奏が披露される。



ひと通り演奏が終わると、「新春の宴」のプログラムが始まるまで1時間ほどあるので、首里城の内部を南殿から正殿、北殿の順に見学する。


内部は博物館のようになっていて、琉球王国の歴史と文化がわかる展示となっている。



南殿は薩摩藩の役人の接待を行う場所であった。


現在は琉球王国皇帝の肖像画や、薩摩藩の支配下となったあと、江戸幕府に使節を派遣した「江戸上り」に関する展示、当時の氏族の残した漢詩の書などが展示されている。


中国との交易を続けていた琉球王国の文化の高さを垣間見ることができる。


また、当時の宮廷楽器を復元したものを展示するコーナーもあった。


琵琶や琴のほか、見たことのないような楽器もあった。「復元」の言葉を使うには、オリジナルと同じ原材料を用いる必要があるらしく、その点、特に苦労したとのことだ。



正殿には国王の玉座があり、重要な儀式や祝宴がここで行われた。


「御差床(うさすか)」は国王の玉座の間である。朱に金が塗られた国王の椅子は、尚真王(在位1477〜1526)の肖像画をもとに再現されている。



「おせんみこちゃ」と呼ばれる部屋は、国王と女官が東方を礼拝し、神霊を祀るための特別な場所である。


厳重に仕切られており、特別なことがない限り祭壇の場所に近寄ることはできない。



北殿は中国皇帝からの使節「冊封使」を歓待した場所だった。



現在は、冊封使一行の行列図や首里城の機構・政務に関するパネル展示がある。



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琉球では、1396年(もしくは1404年)頃から、中国皇帝から国王として承認を受けるという冊封制度をとり、琉球側からも朝貢するという関係を、中国・明王朝との間で築いていた。


さらに明王朝から外交や行政の専門家として福建人350家族が下賜され、彼らの子弟、子孫が代々官僚を独占していたという。


その後、1429年に尚巴志が三山統一を果たし琉球王国が誕生。


1609年になって薩摩藩の軍隊が徳川幕府の許可を得て、戦闘経験や武器保有がほとんどない琉球王国に攻め入り、首里城を占拠。


尚寧王と重臣らは薩摩に約2年間抑留され、薩摩藩は尚寧に「子々孫々まで島津氏にそむかない」という誓約書を書かせている。


琉球王国は、この時から対外的には独立国として明・清との朝貢、冊封関係を続けるも、実質的には薩摩藩(徳川幕府)の支配下となった。


そして、1879年、明治維新政府による沖縄県の設置により、450年に渡り独立国家として存在し続けていた琉球王国は消滅させられることになる。


中国(明、清)王朝と薩摩藩(幕府)。二つの勢力の間で生き残りを模索し続けた琉球王国の微妙な立場を如実に表す場所が、まさにこの首里城だった。


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10時から御庭において「新春の宴」が始まる。



琉球王国時代に首里城では、元旦の儀式「朝拝御規式(ちょうはいおきしき)」が行われた。


国王をはじめ王子衆、諸官が数十列に並ぶ、中国風の厳粛で壮大な儀式。号令は全て中国語であった。


今回の「新春の宴」は、朝拝御規式の多くの儀礼の中から以下の3つの場面を再現するものだ。



第一部「子之方御拝(にぬふぁぬうぬふぇ)」は、天の神様への拝みの儀式であり、国王や王族、高官や諸役はもとより、庶民の代表まで参列する国を挙げての行事だ。


国王と皇后が北殿前に据えられた祭壇に向かって焼香し、合掌して祈りを捧げる。



厳粛な儀式の中で、上下が心をひとつにして、新年を寿ぎ、平和・平穏を祈願するという意味がある。




第二部「朝之御拝(ちょうぬうぬふぇ)」は、国王の長寿・健康を祝い、琉球王国の繁栄を祈る儀式だ。


国王と皇后は正殿の二階におり、玉座に腰掛けて諸臣を見下ろしている。


正殿前には諸臣や庶民の代表までが参列し、国王・皇后に向かって深く礼をし、焼香を行う。





第三部「大通り(おおとーり)」は、諸臣が国王から賜ったお祝いの酒「泡盛」を順々に回し飲み、国王と王子、王孫の繁栄を祈る儀式だ。



琉球王国時代、泡盛は貴重なお酒で、このような特別な儀式の時しか口にすることはできなかったらしい。




一般客にも、泡盛の代りにノンアルコールの甘酒がふるまわれた。



儀式をひと通り見学した後、首里城下を望む展望台に出て、城下を望む。




ゆっくりと城壁を眺めながら帰路につく。


すると、世界遺産の石碑が。



この城壁の石積みが、2000年に世界文化遺産として登録。確かに歴史を感じさせる重厚さだ。



帰りは、ゆいレールからバスに乗り換える時間待ちで、小禄駅前にあるイオンで一休み。


いやあ、それにしても、中国・台湾の観光客の数はもの凄く、買い物の量も半端無い。


今、この広い店内を歩く人の半数以上は、間違いなく外国人。


よくよく観察すると、観光客もさることながら、現地に居住していそうな家族連れの姿も多い。


自転車に乗って通り過ぎる若者も、大方はアジア系の若者だ。



それにしても、沖縄の国際化が、ここまで進んでいようとは、正直予想していなかった。


この流れが、沖縄の人々にとってよい流れとなる事を祈りたい。