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堀田季何『人類の午後』

2024.09.15 13:57

http://petalismos.net/tanka/kanran/kanran320.html 【第320回 堀田季何『人類の午後』】より

義眼にしか映らぬ兵士花めぐり  堀田季何『人類の午後』

 邑書林から昨年 (2021年) の8月に刊行された堀田の句集『人類の午後』が俳句の世界で評判になっているという。同時に『星貌』という句集も刊行されているが、『星貌』は第三詩歌集、『人類の午後』は第四詩歌集と銘打たれている。『星貌』には付録として「亞刺比亞」という句集が収録されている。著者の解題によると「亞刺比亞」は、日本語・英語・アラビア語の対訳句集としてアラブ首長国連邦の出版社から2016年に刊行した第二詩歌集であり、『星貌』に収録されているのはその日本語の原句だという。すると本コラムでも取り上げた歌集『惑亂』(2015年) は第一詩歌集ということになる。

 『惑亂』のプロフィールでは堀田は春日井建最後の弟子で、中部「短歌」同人となっていたが、『人類の午後』のプロフィールでは「吟遊」「澤」の同人を経て、現在は「樂園」を主宰しており、現代俳句協会幹事という肩書まで持っているという。いつの間にか句誌を主宰していて、どうやら現在は短歌ではなく俳句を中心に活動しているらしい。おまけに「樂園」は有季・無季・自由律何でもありで、日本語の他に英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語などでも投句可能だという。幼少より外国で暮らし、他言語話者である堀田ならではの自由さだ。

 句集題名の『人類の午後』からは、ブライアン・オールディスのSF小説『地球の長い午後』(1962) が連想される。舞台は太陽が終末期を迎え、自転が停止した未来の地球である。太陽を向いた半球は熱帯、その裏側は極寒となり、人類の子孫たちは巨大化した植物や昆虫に怯えながら暮らしているという黙示録的な設定である。堀田の句集もまた、決して明るいとは言えない人類の未来を幻視しようとしているかのように思われる。

 跋文で堀田は次のように書いている。「句集全體は、古の時より永久に變はらぬ人間の様々な性さが及び現代を生きる人間の懊悩と安全保障といふ不易流行が軸になつてゐる。」古代より変わらない人間の性とは「愚かさ」であろう。また次のようにも書いている。「時間も空間も越えて、人類の關はる一切の事象は、實として、今此處にゐる個の人間に接續する。」つまりずっと昔の事件も、遠く離れた異国で起きた出来事も、廻り廻って今ここにいる〈私〉と地続きだという認識である。

 堀田が跋に書いたことは、句にどのように表現されているだろうか。句集を一読してまず目に止まるのは次のような句である。

水晶の夜映寫機は砕けたか        息白く唄ふガス室までの距離

片陰にゐて處刑䑓より見らる       ヒトラーの髭整へし水の秋

花降るや死の灰ほどのしづけさに

 一首目の水晶の夜は1938年の11月にドイツで起きた反ユダヤ暴動で、割られ散乱した窓ガラスの輝きからこの名が付けられたという。二首目もナチスによるユダヤ人処刑の場面で、季語は「息白く」。三首目も処刑の場面で季語は「片陰」。四首目はかのヒトラーも理容院で髭を整えただろうという句。ヒトラーの髭をあたった理容師もいたはずだ。五首目は原爆あるいは水爆の死の灰を花に喩えた句。ムルロワ環礁での水爆実験と取ってもよいが、かの地には桜はないだろうから、そうすると幻視の句になる。

 堀田の言う、人間に関わる一切の事象は時空を超えて今ここに接続するというのはこういうことである。これは単に歴史的事件に素材を得たり、世界史的な時事問題を句に詠み込むということとはちがう。水晶の夜やガス室や死の灰という過去の出来事と、今ここにいて呼吸している私たちとは直に繋がっているのであり、私たちは過去の出来事に不断に思いを致さねばならぬということである。

 次のような句には、大きな出来事がより間近に迫っているような緊迫感が感じられる。

戦争と戦争の閒の朧かな            ミサイル來る夕燒なれば美しき

ひややかに砲塔囘るわれに向く        基地抜けて倭やまとの蝶となりにけり

法案可決蝿追つてゐるあひだ

 一首目、人類の歴史は戦争の歴史であり、平和に見える現在は先の戦争と次の戦争の間に挟まれた一時に過ぎないという句。二首目、北のかの地より飛来するミサイルとも、未来の戦争と取ってもよい。三首目、自分の方向に向けられる戦車の砲塔は、迫り来る戦争の喩である。四首目、米軍基地の中を飛んでいるときはアメリカの蝶だが、基地を抜けると日本の蝶になるという句。五首目を読んで、安部内閣が国会を通過させた安保関連法案を思い浮かべる人は多かろう。

 人類を襲うのは戦争の脅威ばかりではない。自然災害もまた人類の午後の予兆でもある。

地震なゐ過ぎて滾滾と湧く櫻かな         花疲れするほどもなし瓦礫道

春雪や死者の額ぬかから潮うしほの香       草摘むや線量計を見せ合つて

 一首目や二首目はどこの場所の光景でもよいのだが、どうしても東日本大震災が日本を襲った春に咲いた桜を思い浮かべてしまう。三首目も津波で流された人の額であろう。四首目は大震災に続いて起きた原子力発電所の苛酷事故によって大量に飛散した放射性物質を詠んだ句である。私たちはかの春にベクレルやシーベルトという聞き慣れない単位を覚えてしまった。

 このような時事問題を詠んだ句が読者にとって押しつけがましくないのは、堀田が主義主張を声高に詠むのではなく、出来事をいったん受け止めて、それを心の中で沈潜させて得た上澄みを、「花疲れ」や「草摘む」などの伝統的な有季俳句の季語の世界にまぶして提示しているからである。栞文を寄せた高野ムツオは、「言葉に蓄えられた伝統的情趣をことごく裏切り拒絶し」、「これまで誰も見たことがなかった季語世界が出現する」と評している。

 もちろん本句集に収められているのはこのような句ばかりではなく、伝統に根差した有季定型の自然詠もあるが、そこにもおのずから独自の世界がある。

花待つや眉間に力こめすぎず        花篝けぶれば海の鳴るごとし

一頭の象一頭の蝶を突く           戀貓の首皮下チップ常時稼働

檸檬置く監視カメラの正面に

 三首目は機知の歌だ。私は大学で言語学概論を講じる時、「フランス語やドイツ語にある男性名詞と女性名詞の区別を皆さんは不思議だと思っているかもしれませんが、日本語にも同じような名詞クラスはあるのですよ」と言って、物を数える時に用いる助数詞の話をすることにしている。鉛筆は一本、箸は一膳、靴や靴下は一足、箪笥は一棹、烏賊や蟹は一杯で、大きな動物と蝶は一頭と数える。大きな象と小さな象が同じ数え方をすることで並ぶ面白さである。四首目の猫の首に埋め込まれたICチップは近未来的で、五首目の町中到る所にある監視カメラは現代的光景である。

 特に印象に残った句を挙げておく。

小米雪これは生まれぬ子の匂ひ             月にあり吾にもあるや蒼き翳

匙の背に割り錠劑や月時雨              エレベーター昇る眞中に蝶浮ける

うち揚げられし魚いをへと夏蝶とめどなし       落ちてよりかヾやきそむる椿かな

うすらひのうら魚形うをなりの紅こううごく      蟻よりもかるく一匹づつに影

薔薇は指すまがふかたなき天心を          人閒を乗り繼いでゆく神の旅

 ビルの中を上昇するエレベータに一頭の蝶が浮いているという四句目の浮遊感が美しい。また七句目は、冬の寒い日に池に氷が張り、その氷を通して泳ぐ緋鯉の紅が透けて見えるというこれまた美しい句である。私がその宇宙的なスケールの大きさに感心したのは最後の句だ。進化生物学の一部には、私たち人間を含めて生物は遺伝子の乗り物であるという考え方がある。これは個体の生と死よりも、種の存続と繁栄に重点を置く考え方だ。親から遺伝子を受け継ぎ、それを子へと伝えることによって種は存続する。川の浅瀬に飛び飛びに配置された石を飛んで渡る子供の遊びがある。これと同じように、私たちは遺伝子を後世に伝えるための置き石にすぎないというのである。置き石を飛んで渡るのは句では神と表現されているが、これはもちろんキリスト教のような人格神ではない。この世界を統べる自然科学的な原理である。

 『惑亂』の評の最後に私は「堀田の句集が読みたいものだ」と書いた。その願いは満たされたのだが、今度は堀田の次の歌集が読みたいものだ。瞑目して待つことにしよう。


https://note.com/yutaka_kano/n/n65ce01d2dfba 【「汚れた義眼」(堀田季何『星貌』『人類の午後』を読む) 叶裕】より

堀田季何。ぼくの知る限り最もエレガントに言葉を操る才人であり、同時に言葉の怖さを知悉するメンター的な存在。海外に生まれ、様々な言語に通暁し、客観的にこの病んだ国を観察できる立場にありながら日本は氏のアイデンティティであり続けている。コロナ禍の依然収まらぬこの八月、発刊された氏の近著『星貌』『人類の午後』の二冊は意図してか表紙を太極図のようにそれぞれ黒白のテーマカラーに塗り分けているのが印象的だ。

第二句集『星貌』

句に蟻は死屍累々と蟻は句に

棄てられてミルクは季語の匂いかな

日本語の穴を出でたり蛇の舌

延延と階段くだる9・11

「ラリる?」「ろれるりら、ラリる!」

もう二度と死なないために死ぬ虱

一つの音一本の体毛に纏わりつく

堀田季何という一句や推敲す

愉楽の園へ蟻の葬列由旬ほど

すべるすべる。目がすべる。有季定型という仮初めの安穏に慣れた目は自由に跳ね回るイメージになかなかフォーカスを合わせようとしない。しかし目が慣れてくれば慎重に吟味された言葉が丁寧に配置されている事が分かってくる。句集として二冊目にあたる『星貌』は氏の二十代から三十代半ばに掛けての自在季、自由律をテーマとした句を集めた挑戦的な一冊である。あやうく、そしてどこか死の臭いのするこの一冊はおそらく有季定型句を因習と捉えたゆえの反発と同時に短命を悟った者の焦りの色を感じるのは作者の宿痾の深さだけでなく、同時期起こった9.11や3.11等の末世を予感させる事件の実感でもあったのだろう。時に阿部完市を思わせるような実験句も見られ、当時の有季定型の狭さに対する氏の疑問と苛立ちを目の当たりにするようであった。なお『星貌』巻末には幻の第一句集『亞刺比亞』が付録されている。ここには九十九句の初期の句が掲載されており、俳人堀田季何を知る上で価値ある一冊となっている。

◎ねんごろに義眼を洗う一つ目巨人

作中何度か象徴的に登場する「義眼」。それは作者にとって見たくも無い物を見せられる苦痛をすこしでも緩和するため、そして人の原罪の源である「欠損」を補完するための仮初めの目玉だ。

一つ目巨人といえばギリシャ神話に出てくるキュクロープス(Κύκλωψ)を想起させる。現代では一つ目の巨人といえば冒険譚に出てくる怪物の存在として知られるが元は鍛冶や製鉄を司る下級神として世界中にその姿を見ることができる。日本でも単眼神、天目一箇神として同じく鍛冶・製鉄の神として存在するが、おそらく製鉄に携わる職人には職業病として眼病が多かったことに由来すると言う説が有力である。この巨人は原罪を背負いながら肥大に肥大を重ね自律を失いつつある人類そのものを意味するのか。自罪に汚れた義眼に置き換えられた本来の目にはあの愛おしい楽園が焼き付いたまま打ち捨てられている。

第三句集『人類の午後』

このタイトルは霊長という幻想に驕った人類の斜陽を意味しているのだろう。人は原罪と自罪の峡谷に亡ぶ定めにある事を作者はよく分かっている。

この本は前奏と後奏という章に挟まれたⅠ・Ⅱ・Ⅲの計五章で構成されている。前奏は射法八節の「会」を彷彿させる緊張感ある静謐、後奏は同じく「残心」の射ててなお全体の均整を保っており、瞬時も弛みのない姿勢が読む者に心地良い緊張感をもたらしてくれる。

ー前奏ー

◎戰爭と戰爭の閒の朧かな 

この句を読んだ瞬間、ぼくは地獄の門が開いたように感じた。扉の中からモンゴルのホーミーのような荘厳で複雑な倍音混じりの旋律が流れ出す。吹き出す風は皮膚を溶かすほど熱く、しかし甘美でどこか懐かしい。この門の頂には碑文が刻まれている。

Per me si va ne la città dolente,

(我を過ぐれば憂ひの都あり、)

per me si va ne l'etterno dolore,

(我を過ぐれば永遠の苦患あり、)

per me si va tra la perduta gente.

(我を過ぐれば滅亡の民あり)

Giustizia mosse il mio alto fattore;

(義は尊きわが造り主を動かし、)

fecemi la divina podestate,

(聖なる威力、比類なき智慧、)

la somma sapïenza e 'l primo amore.

(第一の愛、我を造れり)

Dinanzi a me non fuor cose create

(永遠の物のほか物として我よりさきに)

se non etterne, e io etterno duro.

(造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、)

Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate.

(汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ)

(山川丙三郎 訳)

そうか、堀田季何はこの扉の奥に地獄を見てきたのだな、と感じる。以前から氏の声に密かな倍音を感じていたがそうか、ここが源だったのかと合点する。人が人であり続ける限り諍いは無くならない。それを愚かと呼ぶは驕りだ。ぼくらは身から滲み出す毒に侵されながら愛を囁き、子を諭し、明日を語る化物なのだ。ぼくはこの一句に出逢った事を呪いながら感謝しよう。

滿月や皆殺されて祀らるる

地震過ぎて滾滾と湧く櫻かな

花の樹を抱くどちらが先に死ぬ

どの神も嗤笑してをり寶舟

夏蝶の一翅破れてより美し

うち揚げられし魚へ夏蝶とめどなし

天使よく天使を知るや社會鍋

とりあへず踏む何の繪かわからねど

つばくろとなり葬列をさかのぼる

囀れりわが宍を喰ひちらかして

櫻桃や目の昏さ似て異母姉妹

靑梅雨や皆愚かなる腦を載せ

沼地より少女生えてきて夏休

夜濯のメイドしづかに脫がしあふ

秋江の底に舟ある流れかな

ー後奏ー

湯豆腐やひとりのときは肉入れて

◎人閒を乘り繼いでゆく神の旅

ドーキンスは「人間は遺伝子を運ぶ舟である。」と看破した。生きとし生けるものを統べるものはまさに遺伝子であり、ぼくらは神を運ぶ舟そのものなのだ。作者は多くの文化に触れる事で多彩な死生観を獲得し、神の在り方を掲句に込めたのだろう。「閒」と言う字を見てほしい。新字では門構えの中に「日」があるところ、正字ではなんと「月」となっている。見よ、「閒」である事ではじめて霊妙なる神の旅の様が顕現するではないか。掲句は正字でなければならないのだ。作者はここまで意識して句を詠んでいる事に目を瞠る。

堀田季何という器に渦巻く混沌より生まれた陰陽魚は俳句という形でここに顕現した。同時に発刊された『星貌』と『人類の午後』。この二冊は堀田季何が現代俳句史に遺したネウマである。ぼくらはこの本を五年後、十年後にどう評価するだろう?ぼくは今この文を直感で書いている。直感は言う。この本は長くそばに置いておけ。と。

里俳句会・塵風・屍派 叶裕

この本で歴史的仮名遣いを使う意味、正字の力をを考えさせられた。おそらく作者は読むだけでなく口にしてはじめて作動する日本語本来のポテンシャルを最大限に活かすべく正字や歴史的仮名遣いに通暁した数少ない編集者、邑書林島田牙城氏の協力を仰いだのだろうと想像する。この本は言う。「日本語を舐めるな、日本語はな、君が思うよりずっとずっと素晴らしいぞ。」と。