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小澤實の中七や切れ文体について

2024.09.15 14:08

https://blog.goo.ne.jp/kitamitakatta/e/32ebe650c7890ed23ce0793765c9092d 【小澤實の中七や切れ文体について】より

鷹同人にして「流星道場」で句座を共にする 山内基成から電話が来て俳句の話になった。山内が小生に問う、小澤實(澤主宰)が『俳句』10月号に発表した「死者のはがき」50句はいい俳句なのか、と。受け入れられないと思っていることは明白で、「エンジン式除草機二輪装備や押し進む 實」を取り上げて、「こんな<や>切れがあるのか。おまけに言葉を詰め込み過ぎている」と手厳しい。

さらに『俳句』11月号の「合評鼎談」にて鷹編集長髙栁克弘が小澤作品を高く評価していることに呆れている。「エンジン式…」については小生も山内を支持するのだが、山内がその1句のために見過している小澤さんの特徴なり行き方などもっと深く考えてよい要素は多々あるように感じた。

それがこの記事を書く気になった次第であり、山内への私信という気分である。

まず『俳句』11月号の「合評鼎談」で小澤實に関しての部分。

堀田季何(昭和50年生/師系:小澤實/「楽園」主宰)が言う。

「澤」調と言われている作り方をされる人です。今回も数えてみたのですが、一物、二物を問わないで、中七の切れ、中七の句の中で切れているもの、あるいは、七五五の型になっているけれど結局は中七で切れているようなものを足してみると、五十句中三十七句ありました。このような文体を多用し、それでモノに迫っていく姿勢が覗えると思いました。

こう言って取り上げたのが以下の句。

焼岩魚身の純白や皮剝けば

死魚の身に乗り手長蝦去らずをり

なまづ迅速ぬまえびを嚥めるとき

わが影なす草をばひたにむしるなり

わが額に触れ来たる草即むしる

草の根は鎌もて掘りぬ草むしる

軍手五指土とみどりと草むしる

エンジン式除草機二輪装備や押し進む

木のいただきの巣の鵜や糞をほしいまま

全天の夕焼皿をあらふなり

屋根に屋根合はせごきぶりの家完成

壁面の気泡昇天日向水

冷蔵庫扉閉ぢたる音たしか

コード中なるスイッチをon扇風機

籐椅子に朋旧蔵の書をひらく

ひぐらしや死者のはがきを机の上

をちこちのひぐらし鳴くや籠りをれば

堀田の発言を受けて

髙柳克弘(昭和50年生/師系:藤田湘子/「鷹」編集長)が、

堀田さんが最初におっしゃった「澤」調ということをもう一度確認しておきますと、「中七」で切るという文体ですが、その上五中七が何を詠むかと言えば、主に季語についての描写です。その上で、中七で切る。そして、通常であれば、中七下五で季語のことを詠んだら、ほかの話題に転じる作り方が多いと思います。

例に挙げると、一句目の<焼岩魚>はその典型でしょう。黒く焦げた焼岩魚の身が<純白>なんて、ちゃんと描けていますね。そうした描写のあとには、お座敷で戴いているとか、川べりで焼いているとか、岩魚を食べようとしている自分のことを詠んだり、話題を転じるのが常套的な作り方だと思います。ところが、小澤さんの、いわゆる「澤」調では、さらに描写を重ねるのです。ほかに話題を転じて句の切り取るところを広げるのではなくて、むしろ一点集中で詠み切っていく。それがいわゆる「澤」調と言われているものです。

小澤さんの師匠だった藤田湘子という人は「型で作る」ということを唱えた。古今の俳句を分析すると四つの型でできている、「上五や切れ」で、季語に「や」を付けて、そのあとはそれとは関係のない十二音で詠むとか、そういうことです。

小澤さんはそれを受け止めつつも乗り越えようとされているか。その型に囚われない、自分の文体を作ろうとしているのではないか。それは小澤さんの問題意識だけではなくて、もっと広く、我々一般の俳人についても大事なことを示唆しているのではないか。

俳句はどうしても、「ここに季語を置いて、ここに切字を入れる、そうすると俳句らしく見える」みたいなパターンが決まっているので、小説だと文体というのは非常に重要な課題になるわけですが、俳句の場合はそれがあまり言われない。でも、小澤さんは現代の俳句の世界の中で、自己の文体を意識している稀有な方だと思うのです。そのことによって、一つの「小澤文体」というものができて、それをご自身の結社の「澤」の中で共有している。ですので、独特な地位を占めている団体とうか。我々も文体というものを振り返るべきではないかと、そんなことを問い掛けられている気がします。

堀田の指摘も鋭いし、髙柳もみごとに小澤實を理解している、さすが鷹編集長と思った。

髙柳も含め我々鷹衆は型のトレーニングはかなりできている集団である。それで一応の俳句を書いているのだが彼が指摘するように型の悪い意味のパターン化も充分感じている。いわば蜘蛛の巣にかかった蝶のごときやるせなさである。

困ったときは型に入れるという滑り止めがあるのだが力が充実したときは型を無視するのではないものの、それに違う風を入れてゆさぶりたいと切に思う。その一手が小澤さんのやるような中七<や>切れである。

たとえば、小澤實選(2020年9月21日讀賣新聞)の

鳴く蟬を咥へて犬や遠を見る わたる

は、上五中七が季語を含んだ一塊にて下五はさらに描写をした。けれどドラマチックに場面展開はしていない。描写に描写を重ねるスタイルが「澤」調というらしいが意識したことはない。写実に徹しようとして出来する形である。

リアリズムというのはそうドラマがない。華がないといってもいい。なさそうなところを何か書いておもしろみを出すということに写生派は腐心する。

嘱目で句をなそうとする場合、五七の文言は得られ易い。それは小生も小澤さんも同じである。五七を基盤にして構成すると中七<や>切れになる確率は高くなる。写実派の自然の流れである。

雪溪を雲行き大き無音過ぐ 藤田湘子

階段が無くて海鼠の日暮かな 橋 閒石

この2句はモノはあるがリアリズムに徹していない。橋が「無くて」と言うように目に見えないモノを書いている。湘子の「無音過ぐ」もモノをしかと感じるが摑めるモノではない。2句ともファンタジーに満ちていてそれが俳句をおもしろくするスパイスになっている。

けれど小澤實という人はファンタジーを拒否する、徹底してモノで押し切ろうとする。

鷹に在籍していたころからリアリズムを追求しており、

是是非非もなき氷旗かかげある 實

は、モノの極致であろう。「かかげある」は言わずもがなかもしれない。それは今回の「焼岩魚身の純白や皮剝けば」の下五にも言える。「皮剝けば」は「かかげある」よりは効いているが微妙な言葉である。

しかし今回の50句は言葉が余っているというより詰め込もうとし過ぎていないか。それが山内の批判を呼んでいる。

詰め込み、あるいは物の表面でうろうろしているただ事については小生もかつて当ブログで以下のように書いた。

たとえば、

どの水槽もくらげばかりぞ光放ち 實

に対して、

伝えたいことはしかとわかるが、まだデッサンの最中という感じがする。今の俳句の世界で小澤さんはリアリズムの最右翼にいる。言葉の綾や虚を嫌い、ねっとりした抒情から身を遠ざけようとする。彼の立ち位置はよく理解し敬服しているのだが、小生はデッサンが発する味わいを期待する。

物に言葉を過不足なくあてがう姿勢は、新聞社に入社した新社員がひたすら眼前の出来事を記事にする修練をしている感じがするのである。新聞記者は物と言葉を不即不離の関係に持っていく修練をするのがいいが、俳句は芸道でもありすこし違うのではないか。情とか虚という要素があって短い韻文が人の心に入っていくのではないか。素材のみ放り出されて読み手の前にあるように感じる。

と、やや苦言に傾いている。

けれど、堀田や髙柳が賞賛するように、小澤50句のうち15句はいいと思った。俳句の歩留まりは低い。小澤實レベルであっても50句のうち40句もいいというわけにはいかない。野球で3割打者が賞賛されるが7割は失敗しているのと同様である。

小澤さんのやろうとしているリアリズムは無視できない。俳句の極北を目指していると思うのである。

水の上萍の上雨が降る わたる

そうとう気に入っていて小澤さんが採った句である(讀賣新聞)。これを「流星道場」へ出して鷹同人12人のうちはたして何人が採るか。華がないので1点入るか否かという句であろう。この句は小澤さんの存在があってできたと思っている。

さて、この一文を読んで山内はどのように考えるか。また意見交換したい。