ZIPANG-9 TOKIO 2020− 発酵文明 人類の希望の未来 −【寄稿文】 一舟・光秀
「発酵文明」の目的と意義
全ての生きものが、普通に暮らし幸せを得る理想の世界を目指す、それが「発酵文明」であり、さらに進めて言い換えると「日本文明」とも言える
日本で生まれ、世界に知られ、多くの人に迎えられる、新たな未来文明の物語りの始まりである。
物質文明と心の文明の融合である発酵文明は、夢ではなく本能の赴くまま未来にも、人が自然を忘れず親しみ展開するであろう生物らしい未来への道である。
物質文明の欲望は世界の戦争の現状を見れば止まることを知らないが、
いつの日か人は必ず生命の原点と人の心に戻る。それが日本で生まれ世界に受けいられ共有され、人類の願う平和に貢献する「発酵文明」である。
列島文化の成立に戻る
西方世界において、BC15世紀ごろからBC7世紀ごろまで繁栄したフェニキア人がローマに滅ぼされ、世界に散って行き、三々五々太陽の上るはるか当方の日本列島にたどり着き、一万五千年のユニークな展開をした縄文文化に合流し、やがて弥生文化に移行した。その過程で様々な要因が発酵展開し大和朝廷が成立した。縄文文化のエネルギーは現代まで引き継がれ、日本の文化の伝統となった。
その現代における日本文化の伝統の一例は、世界の演劇界に新たなショックと影響を与えた、日本神話ヤマトタケル伝説を題材とした舞台、三代目市川猿之助の独創的演出のダイナミックなスーパー歌舞伎 に見られる。
それは日本の祭りのエネルギーそのものである。その典型的なデザイン・色彩発酵表現は、海と山の日本列島の各地の祭りにあり、以下は筆者が体験した中の二つの事例、「ホーランエンヤ」と「御柱祭りである。
ホーライエンヤは10年に一度、数十隻の船で繰り広げられる日本三大海の祭り、松江の海の神事である 。海に囲まれた列島ならではの地域総出の華々しくも壮大な発酵文化。若い男女の別の船上での踊りも美しく見ものである。
御柱祭は古代地中海世界の歴史を彷彿とさせる発酵文化である
BC15世紀ごろからBC7世紀ごろまで繁栄したフェニキア人がローマに滅ぼされ、世界に散って行き、三々五々日本列島にたどり着き、縄文文化から弥生文化に。やがて大和朝廷成立へと発酵展開した。その過程のそれぞれの一部も日本列島の祭りのもとである。
長野県諏訪湖岸にある御柱祭は、古代地中海世界を中心に広範囲にわが物顔に自由貿易していたフェニキア人が、巨大なレバノン杉を山から切りだし、地中海まで運び舟を建造した歴史の表現であろうと想像する。
終着の諏訪湖はまさに地中海であり、諏訪大社の歴史も御神体も古代の西方世界の信仰のモリヤ山にある。地元の著名な建築家設計の博物館をご参考に拝観頂きたい。
さらに後に驚いたのは、諏訪より日本海に近い北アルプスの麓に、海の民由来の安曇野の山中に、全く同じタイミングで彩り豊かな布による表現の舟祭りがある。この祭りと御柱祭りは、一体何なのかは誰でもが気づくだろう。
祭りは子供達をも素晴らしい未来へと誘う
ひと抱えもある巨大な藤蔓の御柱の引き綱を大勢で
縄文文化とは世界が驚く火焔土器と、この巨大な藤蔓で出来た御柱の引き綱を見れば、いかにダイナミックな「日本文明で」あったか想像できる。だからこそ同時に、見かけは正反対な静謐な侘び寂び文化も生まれた、日本列島の発酵文化の奥深さも見えてくるのである。
命懸けの丘の上からの木落としの死傷は名誉であると言う
極寒の川渡行も、掛け声も信仰と地域丸ごと参加の軍事訓練ではないのだろうか。
平和と幸せへの手がかり発酵文明
行き詰まる「物質文明」と、「心」の融和の手がかりは、原初的で自然との一体感を忘れない愛しみの心で、人本来の生き方を目指すことの中にある。
西欧第一主義の人類学者レヴィ・ストロースが、未開の地で偶然体験し目覚めた、「ブリコラージュ」な深遠な思想に共感し、筆者が思い至った、多分「唯一可能な未来」への思想、それが「発酵文明」である。
その内容として、 有史以来の過剰な物質文明に起因する地球と生命の危機を憂い共有し、
繕い、回復するため、「生きもの」本来の姿に戻り未来を創り直す。
その手段として、目には定かでない、微生物により人にとって有益なものが出来る「発酵現象」を手がかりとする。
複雑極まる人世界を取り巻く環境全体を、有機的な「発酵文化」になぞらえ仮定し、「物質文明」と「心」が融和する、確かな文明創造への提案である。
発酵は生物の食と健康に関わるだけでなく、人の暮らしや環境、人間関係・心にも、同様な機微が作用する。それが「心の発酵」である。
まとめ
発酵文明とは、変えてはならないものと進化の融和であり、古代から言い伝わる「不易流行」である。
略して筆者のデザインポリシー「 風土と伝統を活かして未来を創る」 すべての物事のトータルデザインでもある。
20世紀最大の知の巨人と言われる「レヴィ・ストロース」が好きであったと言う日本への想いの言葉を、日本の政治経済財界の知見が理解し目覚める時、発酵文明が始まる。
日本の人々が、過去の伝統と現在の革新の間の得がたい均衡を
いつまでも保ち続けられるよう
レヴィ・ストロース
次回に続く・・・
【寄稿文】 一舟・光秀(林 英光)
環境ディレクター
愛知県立芸術大学名誉教授
東京藝術大学卒業
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
発行元責任者 鎹八咫烏(ZIPANG TOKIO 2020 編集局)
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
対馬は古代から大自然そのものが信仰の対象だった!
胡禄神社(ころくじんじゃ)
【祭神】 表津少童命 中津少童命 底津少童命 磯武良
【所在地】 長崎県対馬市上対馬町琴1番地(琴崎)
(琴の集落奥にある胡禄御子神社の拝殿横から800mほど山道を歩くと琴崎です)
胡禄神社 琴崎
祭神はワタツミ系の海神ですが、対馬での伝承では、顔に貝類などが付着して醜い姿をしているとされる、大海原に潜む海の神「磯良」(いそら)ともされています。
パワースポットブーム以降、「神社」(建物)ばかりが注目されがちですが、実はその先にある、古くからの大自然そのものが信仰の対象だったのです。
対馬は古代から、そんな雄大な自然が満ち溢れる、荒々しく、激しく、美しい島だったのです。
その昔、琴崎の神様と黒島(美津島町)の神様がケンカして、琴崎様は岬にあった竹を投げつけ、黒島様は島にあった松を投げつけたので、琴崎には竹がなく、黒島には松がないそうです。
金色の蛇の伝承とか、海底に竜宮城の入口があるとか、伝説もいろいろ。
上対馬町の琴崎(きんざき)で神功皇后の船は2回目の嵐に遭遇。船が破損しますが、海神・磯良(いそら)が大きなアワビを貼り付けて応急処置。どんなでかいアワビなんだ。
いかにも、海底から海神が登ってきそうな雰囲気。船で海から参拝するか、琴の集落奥にある胡禄御子神社の拝殿横から800mほど山道を歩かないとたどり着けません。
海神 イソラ
【日本神話】
イソラ(磯良)は、志賀島(しかのしま。福岡県)を拠点とした古代の海洋民族・安曇(あずみ)氏の祖神です。
記紀には登場しませんが、中世の「太平記」では、海底に棲む精霊として描かれ、神功皇后の三韓出征の際に招かれたものの、海藻や貝が顔にはりついて醜いことを恥じて現れず、住吉の神が舞を奏したところそれに応じて参上し、神功皇后の水先案内を務めたとされています。
【対馬の伝承・異伝】
イソラは豊玉姫の子とされ、ウガヤフキアエズと同一視されています。 和多都美神社(番号63)の社殿前の干潟には、亀のウロコのような亀裂があるイソラエベス(磯良夷)と呼ばれる霊石が祭られています。
また、神功皇后の出征に関連し、厳原町阿須(あず)で皇后を出迎えたとか、上対馬町琴(きん)・琴崎沖で沈んだ碇を潜水して取りもどした、損傷した船の傷口に大きなアワビを貼りつけて応急処置した、上対馬町五根緒(ごねお)に上陸した、などの伝承があります。
琴崎は海神にまつわる伝承が色濃く、海底には「竜宮の門」があり、亀に乗ったイソラがその門を出入りするとか、琴崎大明神(=胡禄神社、番号124)の御神体は海神の祭日である3月3日に、巫女が磯ですくいあげた金色の小蛇だとされています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020「対馬は古代から大自然そのものが信仰の対象だった!
【寄稿文その8】西 護」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4843400
国境の街 対馬の生活に溶けこんだ祭の原風景
ここから先はオヒデリ様の神聖な領域。靴を脱いで歩きます。参加者から悲鳴!
国境の街「対馬」の一般社団法人 対馬観光物産協会 西局長から今年最初の寄稿文が届いておりますので紹介いたします。
その前に編集局からひと言!
日本の中で、1月20日までを正月とする所もあるそうですが最近では、正月3が日という言葉が定着し、よく耳にいたします。それでは正月3が日にやってはいけない6つのタブーがあることをご存知でしょうか?
1、掃除をしてはいけない
2、刃物を使ってはいけない
3、火を使う煮焚きをしてはいけない
4、四足(よつあし)歩行の動物の肉を食べてはいけない
5、お金を使ってはいけない
6、ケンカをしてはならない
今日は3日目になりますが、皆様は如何お過ごしでしたでしょうか?守れそうで守れない6か条ですね。それぞれにためになる理由があるようです。調べてみてください。
それでは、さっそく箱根駅伝の復路なみに西局長にタスキを渡します。
鎹八咫烏 記
太陽の女神オヒデリ様は無事、山の祠に戻り、水神・龍神・男神である雷命(いかづちのみこと)の子神を出産します。
対をなす太陽と水(雨)、女と男が和合し、阿連の里に調和と豊穣、平穏をもたらすのです。
「お日照様」神事のまとめ
・阿連には式内社(平安時代に公に祭られた格の高い神社)の「雷命神社」があり、祭神は「雷命」(いかづちのみこと)。
・雷命は、日本のほかの神々同様、旧暦の10月に出雲大社に旅立つため、阿連は一ヶ月間神様不在になる。(日本中から神々がいなくなるので「神無月」)
・雷命のいない間、ふだんは山にいる「お日照様」に里に降りてもらい、村を守ってもらう。
・雷命が阿連に帰ると、お日照様は旧11/1~11/8の間、一緒に暮らす。
・旧11/9に、お日照様を元の山にお返しする「お日照様の元山(本山)送り」の神事が行われる。この時、お日照は懐妊していると考えられている。
・雷命は竜神・水神・男神で、お日照様は太陽神・女神。この一連の神事は、雨と太陽がバランスよく結びつき、里に豊穣がもたらされる、という古い民俗世界を体現している。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「国境の街 対馬の生活に溶けこんだ祭の原風景(特別編) 西 護」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3475043
2000年以上の時を超えて先人達が築いてきた歴史や文化を継承
高句麗は紀元前37年朱蒙(東明聖王)により朝鮮半島北部に建国。朱蒙とは故郷扶余の言葉で、弓の達人の意味。その後、百済、新羅ができ三国となり更に三韓統一される。
高麗古住宅
高麗人の「高麗(こま)」は前37年頃~668年まで主に朝鮮半島北部から中国東北部にかけて繁栄した「高句麗(こうくり)」のことを指します。日本では高句麗を「高麗」と記し「こま」と称しました。高句麗滅亡前後、多くの高句麗人が海を渡り日本へ渡来しました。日本では高句麗からわたってきた人々を「高麗人=こまひと」と呼んでいたのです。
約1万年前、氷河期が終わり温暖化すると海面が上昇し、日本列島は 大陸から分離しました。この時以来、日本列島に渡来する者がいて稲作 を伝えたりしましたが、大和朝廷による統一国家形成の段階に入ると、 渡来して大小の氏族集団を形成した人びとが先住の氏族集団と区別して 意識されるようになりました。このため、4世紀から7世紀頃に中国大 陸及び朝鮮半島から日本に移住した人たちを渡来人と呼びます。
高麗人の「高麗(こま)」は前37年頃~668年まで主に朝鮮半島北部から中国東北部にかけて繁栄した「高句麗(こうくり)」のことを指します。日本では高句麗を「高麗」と記し「こま」と称しました。高句麗滅亡前後、多くの高句麗人が海を渡り日本へ渡来しました。日本では高句麗からわたってきた人々を「高麗人=こまひと」と呼んでいたのです。
高麗郡は、霊亀2年(716年)5月16日に現在の埼玉県日高市と飯能市を中心に設置された郡です。 その後、郡域が拡大し、鶴ヶ島市全域、川越市、入間市、狭山市の一部まで含まれるようになりました。 高麗郡には高麗人(こまひと)1799人が移住しました。初代郡司は『高麗王若光』でした。
高麗郡に移住した高麗人たちは、以前は東国7ヶ国(駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野)に住んでいました。現在の県名でいえば、静岡、山梨、神奈川、千葉、茨城、栃木となります。大和朝廷は入間郡の一部に広がっていた空閑地を高麗郡とし、高麗人1799人が移住しました。彼らは生活の基盤を整えつつ、郡役所の建設、道路の敷設など郡として必要な整備をしたと思われます。
高麗郡初代郡司の高麗王若光が没した後、高麗郡の住民が若光の御霊を祀るために建立した高麗神社、僧勝楽が若光の菩提を弔うために建立を発願した高麗山聖天院勝楽寺が日高市新堀に存在しています。その他にも、日高市と飯能市を中心に高麗郡建郡当初のものと思われる遺跡や遺物が発掘されています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「高句麗(高麗) 朱蒙(東明聖王)から2000年以上の時を超えて先人達が築いてきた歴史や文化を継承」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/1824786
古代の面影を保ち続ける
「古事記」「日本書紀」にも登場する日本の小さな城下町
出石城下町 目抜き通りのタイムスリップ
如何にもレトロな町並みですが…あれっ!この昭和30年代的匂いプンプンの看板スターは
「おミズ」?よく見ると確か、昭和34年に「黒い花びら」で鮮烈デビューした…
そして、第1回日本レコード大賞を受賞した歌手 水原 弘では?
彼の看板が、未だ存在してるなんて・・・
出石(いずし)は、「古事記」「日本書紀」にも名前が記載されているほどの古い町。室町時代には守護大名・山名一族の拠点となり、但馬地方の中心として繁栄したのでした。
山名氏が滅びた後には小出氏が領主となり、出石城の築城とともに城下町が整備されます。出石藩は五万八千石の雄藩として栄え、小出氏、松平氏、仙石氏と領主を変えながら、270年の歴史を経て明治に至りました。
但馬開発の祖神を祀る出石神社、江戸時代の出石を見守ってきた出石城跡、近畿最古の芝居小屋である出石永楽館など、史跡を巡りながら、古代から中世、近世と、さまざまな時代を行き来できるのが出石の魅力。
それでは、出石の深い歴史と文化に触れる旅、
不詳 鎹八咫烏がご案内させて頂きます
明治34年開館 近畿最古の芝居小屋
✜ 出石永楽館 ✜
出石 永楽館
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020「古事記」「日本書紀」にも登場する日本の小さな城下町〜古代の面影を保ち続ける出石町の佇まい〜(その1)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/10385300
新羅 花郎(ファラン)「世俗五戒」の精神が現代に生きる
出石の四季
秋の日
出石では、これから本格的な秋の始まりです・・・
紅葉と銀杏の秋の競演です…貴方はどちらの秋がお好みですか・・・
冬の日
出石では、秋の日は短く、人々が知らぬ間に去って行く・・・
ワァ~イ !! 初雪だ〜❢ 降りしきる雪まで溶かしそうな黄色い声…
振り返れば子供連れの観光客。南の国からのご来県かな…⁉
店の軒先で大人たちも、石垣に積もる雪を珍しそうに眺めながら、朝は晴れていたのに…と呟きながらも会話が弾んでいる。庭先に置かれた鉢植え大輪の菊が思わぬ寒気に驚き、半分小雪に身を隠していた。…
それは、昼飯にと…ある出石名物蕎麦屋に立ち寄った昼下りの風景だった…
但馬開発の祖神を祀る山陰有数の大社
「いっきゅうさん」の呼び名で親しまれる出石神社は、「古事記」「日本書紀」にも名を連ねる山陰有数の大社です。
但馬国一の宮に位置づけられ、ご祭神は天日槍命(あめのひぼこ)。
天日槍命は、但馬開発の祖神とされる神様です。
新羅の国の王子として生まれた天日槍命は、妻を追って日本に渡来し、 そのまま但馬国に留まり土地を拓いたと伝承されています。
出石町概要
出石町の誕生
出石町は、「古事記」「日本書紀」にも名前の現れる歴史の古い町です。
但馬開発の祖神ともいわれる新羅の王子天日槍命(あめのひぼこ)が、垂仁天皇3年に渡来してこの地を拓いたと伝えられ、町名も、天日槍命の宝物である『出石小刀』に起因したといわれています。
様々な絵柄の幟(のぼり)
出石神社には、天日槍命が日本に渡るときに携えたという八種の宝がともに祀られています。出石神社では毎年5月5日、その年に生まれた男児の健やかな成長を願う節句行事「幟まわし」が行われます。
また、古くは但馬の国衙(こくが)が置かれていたとも伝えられ、袴狭地区にある「砂入遺跡」からこのことを裏付けるように「人形(ひとがた)」 「斎串(ゆぐし)」といった祓いの道具が大量に出土しています。
室町時代
室町時代になると、「太平記」にも登場する山名時氏(ときうじ)が但馬地方を制圧し、その子時義(ときよし)は、宮内の此隅山(このすみやま)に本拠を構えました。
山名一族は 、日本全国66カ国中11カ国を治さめ「六分の一殿」と呼ばれましたが、明徳の乱により一族の内紛を起こし、その後わずか3カ国の守護となってしまいました。
時義の孫宗全(そうぜん)はその勢力を盛り返し、応仁の乱では西軍の大将となりました。しかし、戦国時代に入って、山名氏はその勢力を失い、山名祐豊(すけとよ)の時に織田軍の羽柴秀吉に攻められ此隅山城は落城しました。
祐豊は城を有子山に移し守りを固めましたが、天正8年(1580)に秀吉の弟秀長(ひでなが)により有子山城は落城、山名氏も滅ぼされました。
秀長は城を木下昌利に守らせ、その後城主は青木甚兵衛、前野長康と変わったのち、播州竜野から小出吉政(よしまさ)が領主として封ぜられ五万三千石を領し、その子吉英(よしふさ)の時に山城を廃し、山麓に平山城を築き城下町づくりを行いました。
江戸時代
小出氏は九代、約100年間続きましたが後縦ぎがなく断絶し、元禄10年(1697)に武蔵国岩槻より松平忠徳(ただのり)が移封されました。
宝永3年(1706)に松平氏は、信州上田の仙石政明(せんごくまさあきら)と国替えとなりました。仙石氏は七代にわたって出石藩を治めましたが、天保6年(1835)の仙石騒動により、三万石に減封され明治に至っています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 ~ 出石の四季と歴史 ~花郎(ファラン)「世俗五戒」の精神が現代に生きる・・・(その2)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/10415385
斎王〜日中韓にみる古代トップレディの装束にみる色彩表現
斎王と女官たち
第36回斎王まつりが6月に開幕との記事を拝見しました!前回の記事は当サイト運営責任者であり、同時に明和町観光大使の肩書をもつ編集長由縁濃きお伊勢様をお護りする明和町最大の恒例行事だったのですね?
そこで、あの美しい斎王装束に魅入っている内、この私めも何やら異次元に入り込み、一言寿ぎたくなりました。
斎王とお供の女官達の十二単衣が雅びて華かな美しさ圧巻の絵巻です。それを取り巻く神官達のお役目も荘厳さを引き立て愈々ドラマチックな舞台へと盛り上げていました。 いいですね〜
思い返すと、あのブームになった韓国ドラマが楽しかったのはやはり、半分は宮廷に仕える女官たちの衣裳の美しさにあったようなことが彷彿としてきた次第です。
それにしても、斎宮の広大なこと!これにもびっくりです。
お祭りといえば、何処も男性中心の、荒々しく騒々しく賑やかさが売りものですが、此処斎宮のお祭りは何一つ物音が聞こえない、露店市も立たない様な、立てようにも広すぎて格好付かないし…何処に立てて良いのか分からないし…寅さんみたいなテキやは凡そ不似合いな……変わったお祭りですね〜
斎王まつりにおける子供巫女舞
さて、ここは飽くまでも、聖なる女性達の粛々たる御神事です。やはり、女性としての見所はなんといっても衣裳較べですよね?
古代日本の衣裳は多分に、半島や中国の影響を受けているとは言え、衣裳の集合体としてみれば、日中韓のお国柄を比較すると、受けるイメージにはやはり大きな差が感じられて興味深いものがあります。では、その独断的偏見論を軽く述べてみましょう。
〜日中韓にみる古代トップレディの装束にみる色彩表現〜
◉古代中国におけるトップレディ達に共通する大原則
古代から中国は長い歴史を通じて部族内の内乱や部族間の抗争のみならず、他国からの侵略を受け、征服王朝への交替も繰り返されてきました。そして、その都度、半分はしきたりが踏襲されるものの、皇位に就いた部族の文化が運ばれできますから、一貫したスタイルは語れません。
私達が知っているのは断片的なある時代の、それも遺跡等から、発掘されたものや、博物館に収蔵されたものを通して類推するだけですが、最高権力者である、各時代の皇帝はおしなべて庶民との格差は、所謂中華思想と謂われるように、漢族中心圏外は全て蛮族と見做していたのですから、推して知るべし。国王と貴族、高官等の衣服はその侭、身分格差を現していた筈です。
例え征服王朝に交替した時代でさえ、共通項が存在します。
装束、衣裳を一見するだけで、身分が的確に判断できるものでした。
"翟衣(テキイ)"と言う言葉がありますが、その意味は、雉が美しい色の羽根を上下させるとき、目立って麗しく見える様に譬えた表現です。 それこそが、王妃としての最高位身分を表す、礼服制度となりました。
ーー翟衣制度汉唐宋明相承沿袭,一直沿用到明代灭亡。清朝废除汉族衣冠,翟服也全部被废除 一ー
この意味は、漢、唐代から伝わる翟衣制度は、宋、明代迄受け継がれますが、明代末で変わり、清代に入って漢代の伝統は全て一掃されました。
その"翟衣"とは手間暇を掛けた多様で深い染色生地に金糸銀糸等をふんだんに用いたり、錦織、刺繍、縁飾り等で華麗さを出したり、加えて豪華な細工を施した冠や金、銀、宝石など或いは贅沢な装身具で身分の高さと権威を象徴する紋様等で、威厳性を演出しました。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「斎王〜日中韓にみる古代トップレディの装束にみる色彩表現〜寄稿文 色紐子 」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/4292845
世界遺産 熊野古道のまち『熊野市』徐福神社のある波田須町。
今から2200年以上前、徐福が上陸したと伝わる里。
集落には、里の人たちが大切に護る徐福神社がひっそりと佇む・・・
徐福神社の解説では・・・
徐福伝説
秦の始皇帝の命により、徐福は蓬莱山にあるといわれる不老不死の妙薬を求めて数十隻に及ぶ船団を組み、東方へ向かって船出した。途中台風に遭い、徐福の船だけがこの地、矢賀の里に流れ着いた。
当時そこには3軒の家しかなく、与八・文吉・三郎兵衛が交代で世話をした。帰国を断念した徐福は紀州への永住を決意し、やがて窯を設け焼物を3人に教えたという。
今の残る窯所、窯屋敷という地名はこのことを伝えている。
この地、徐福は土木、農耕、捕鯨、医薬などの中国文明を里人に教えたと言われている。このことからこの地は秦住(はたす)と呼ばれ、後に波田須という地名になったという。
徐福の墓の石碑
徐福の宮
ここ丸山は矢賀の蓬莱山と呼ばれている。徐福の墓の石碑は稲荷神社と合祀されているこの小祠の後にある。御神宝は直径20cm余りの小さな擂鉢である。また、不老不死の薬こそ当地に自生する天台烏草だとされている。
天台烏草【くすのき科】
●暖地にはえる高さ3mになる常緑樹
●早春、淡黄色の小花を密生させる。
●根は長い塊状の暗褐色で薬用にする。
補足
波田須町は、徐福の渡来伝承の残る全国20か所以上の中でも有力とされています。
またこの地域には徐福が探し求めていた不老不死の仙薬とされるアシタバや天台鳥薬の木が茂っています。
徐福の宮の参道修復中に数枚の古銭が発掘され、2002年に中国の学者が鑑定したところ、中国秦の時代の古貨幣「半両銭」と判りました。「半両銭」の出土は国内でも大変珍しく貴重なものです。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 「 世界遺産 熊野古道のまち『熊野市』伊勢路を行く(続編-1)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6664947
神々が眠る日本最古の地・ 花の窟神社
錦の御旗に見立てた御縄。全て住民の皆さんで作ったものです
熊野市 花の窟大祭 の様子
花の窟は、神々の母である伊弉冊尊(イザナミノミコト)が火神・軻遇突智尊(カグツチノミコト)を産み、灼かれて亡くなった後に葬られた御陵です。平成16年7月に花の窟を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されました。
花窟神社(花の窟神社)は日本書紀にも記されている日本最古の神社といわれており、古来からの聖地として今に続く信仰はあつく、全国から多くの参拝者がご参集されます。
花の窟では年2回、例大祭を行います。神々に舞を奉納し、日本一長いともいわれ大綱の「御縄掛け神事」※は、太古の昔から行われており「三重県無形文化指定」されています。
※後述の「御縄掛け神事」の項目にて詳細をご参照下さい。
花窟神社及熊野三山を詠める歌
御祭神
花の窟と日本書紀
天地開闢において神世七代の最後に伊弉諾尊・伊弉冊尊ともに生まれました。国産み・神産みにおいて伊弉諾尊との間に日本国土を形づくる多数の子を設けます。その中には淡路島隠岐島からはじめやがて日本列島を生み、更に山・海など森羅万象の神々を生んだのです。
伊弉冊尊の神逝り後、妻に逢いたくて黄泉国まで行った伊弉諾尊に死後の姿を見られたことを恥じて、逃げる伊弉冊尊を追いかけるが、黄泉比良坂(現;島根県東出雲町)で伊弉冊尊が道を塞ぎ、伊弉諾尊と離縁します。その後、伊弉冊尊は黄泉国の主宰神となりました。
日本書紀の一書では三重県熊野市有馬の花窟神社に葬られたと記されています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 「 神々が眠る日本最古の地・ 花の窟~花の窟(はなのいわや)神社~(続編-3)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6679209/
天地創造『国生みの島・淡路』 おのころ島
わが国最古の歴史書『古事記』の冒頭を飾る「国生み神話」。 この壮大な天地創造の神話の中で最初に誕生する“特別な島”が淡路島である。
その背景には、新たな時代の幕開けを告げる金属器文化をもたらし、 後に塩づくりや巧みな航海術で畿内の王権や都の暮らしを支えた " 海人(あ ま)" と呼ばれる海の民の存在があった。 畿内の前面に浮かぶ瀬戸内最大の島は、 古代国家形成期の中枢を支えた“海人”の歴史を今に伝える島である。
今回の第一話では、国生みに始まる全ての神功を果たされた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、後に余生を過ごされたという住居跡に建てられたのは、神話の中の「おのころ島」だとされる「おのころ島神社」(南あわじにあり第二話で紹介)や今回の第一話で紹介する「沼島(ぬしま)」の「おのころ神社」だとの説もあり島内のあちこちで神話の浪漫が漂っている。(他に絵島、伊弉諾神宮とも・・・)
まず、沼島(おのころ島)とは
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「天地創造『国生みの島・淡路』 第一話 沼島(おのころ島)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3106202
天地創造 第二話 自凝島神社(おのころ島神社)
日本三大鳥居の一つ 高さ21.7m
『古事記・日本書紀』の国生み神話によると、イザナギ、イザナミ2尊が、天の浮橋の上に立って天の瓊矛で青海原をかきまわし、その矛先からしたたり落ちた潮が凝り固ってできたのがこの自凝島(おのころじま)で、2尊はこの島に降りて、淡路島をはじめ日本の国土を生んだとされている。
国生み神話
古事記、日本書紀によると、伊弉諾尊(いざなぎ)・伊弉冊尊(いざなみ)の二神が天上の「天の浮橋」に立って、「天のぬ矛」をもって青海原をかきまわし、その矛を引き上げたときに、矛の先から滴り落ちる潮(しお)が凝(こ)り固まって一つの島となった。
これが「おのころ島」で、二神は、その島に降りて、夫婦の契りを結んで国生みをされた。はじめに造られたのが淡路島でつぎつぎと大八洲(おおやしま)の国々(日本列島)をつくられたとある。
この神話は、もとは、淡路の海人族(あまぞく)が伝えた「島生み神話」であったといわれている。それが、大和朝廷の起源を語る『古事記』や『日本書紀』に取り入れられ、その冒頭にすえられるようになったのは、大和朝廷が淡路に屯倉(みやけ)をおいて、淡路島を直接の支配下におき、さらに御饌都国(みけつくに)と呼んで食料貢献の特別な地としたことに関係する。
このようなことから、淡路の海人が朝廷に出仕するようになり、淡路の神話が宮廷に伝えられて、古事記や日本書紀の編纂の時期(奈良時代)に壮大な「国生み神話」となって語られたのであろうといわれている。
葦原国(あしはらのくに)
古事記、日本書紀によると、天(あめ)と地(つち)がひらけるはじめは、国土が浮き漂い遊魚が水の上に浮かぶようであった。その中から葦芽(あしかび)のようなものが生じて神となり、国常立尊(くにのとこたちのみこと)ともうしました。・・・・・以下、伊弉諾尊・伊弉冊尊までを神代七代(かみよななよ)と称します。
このようなことから、葦原国は、古代伝承にもとづく日本国の別の呼名とされている。海辺に葦が繁っていて、その中に五穀豊穣の沃土があるというのである。
祭り ~まつりに刻まれた島人達の精神性~おのころ島神社「春の大祭」
国生み神話の舞台となった淡路島では、祭りが大変盛んである。
淡路島が誇る多種多様な祭りには、それぞれの土地の地域性が色濃く反映され、人々の素朴な信仰心が現代まで脈々と受け継がれてきました。
中には疫病や旱魃などをきっかけに生まれた祭りもあり、過酷な自然条件を祭りという文化にまで変えていった先人達の精神性には目を見張るものがある。
祭りには人と自然との間で繰り広げられてきた壮大なドラマが秘められているのです 中でも一際目をひくのが「だんじり」。
だんじりとは、神社のお祭りの時に曳きまわす神座の事。
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ZIPANG TOKIO 2020「天地創造『国生みの島・淡路』 第二話 自凝島神社(おのころ島神社)」
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第三話以降は上記URLの掲載日の後に続いてご覧いただけます。
日本発祥にまつわる日向神話の源
天岩戸神社について
古事記(こじき)、日本書紀(にほんしょき)等に皇祖天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)は御弟素盞鳴尊(すさのおのみこと)を御避け遊ばして暫く天岩戸(あまのいわと)へ御籠り遊ばされた事を記して居ますが、天岩戸神社は其の霊蹟天岩戸(あまのいわと)を斎ひ奉る神社です。
境内社殿の背後断崖の中腹に御窟あり天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)籠らせ給ひし処と伝へ、古より其の御神域を御神体としてお祭り致して居ります。
社殿は東本宮(ひがしほんぐう)と天岩戸(あまのいわと)直拝の西本宮(にしほんぐう)と岩戸川(いわとがわ)の渓谷を挟み相対して御鎮座ましますが東本宮(ひがしほんぐう)関係の昌泰(しょうたい)年間の記録に天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、天岩戸(あまのいわと)より御出ましの節、思兼神(おもいかねのかみ)其の御手を取りて東本宮(ひがしほんぐう)の土地に御造営の御社殿へ御鎮りを願ったと記してあります。
弘仁壬辰三歳中秋には三田井(みたい)候の遠祖、大神大太惟基(おおかみたゆうこれもと)公霊夢に恐惶して頽廃せる社殿を再興し深く其神明を崇敬したと申します。
宮崎 天岩戸・天安河原宮
天岩戸神話
神代(かみよ)の昔、空の上に高天原という神々の世界がありました。太陽の神天照大御神(あまてらすおおみかみ)様や弟の須佐之男命(すさのをのみこと)様、その他多くの神々が暮らしていました。
須佐之男命(すさのをのみこと)様は、田んぼの畦(あぜ)を壊したり馬の皮を逆剥(さかは)ぎにしたりと、大変な暴れん坊でした。あまりにひどいいたずらにお怒りになりました天照大御神(あまてらすおおみかみ)様は天岩戸(あまのいわと)と呼ばれる洞窟にお隠れになりました。太陽の神様がお隠れになると世の中は、真っ暗になりました。食べ物が育たなくなったり、病気になったりと大変なことが次々と起こります。
困りました八百万(やおよろず)〈大勢〉の神々は天安河原(あまのやすかわら)にお集まりになられ、御相談かわされます。御相談の結果天岩戸(あまのいわと)の前で色々な事が試されて行きます。
まず、長鳴鳥(ながなきどり)を鳴かせてみます。
〈鳴かせてみました長鳴鳥(ながなきどり)、これが今の鶏です。朝、鶏が鳴きますと太陽が昇ってきます、鶏の鳴き声には太陽の神様を呼ぶ力が有ると言う事で鳴かせてみます。
現在でも、鶏を放し飼いにしている神社がありますが、元はこの長鳴鳥(ながなきどり)から始まっています。〉 しかし、天岩戸(あまのいわと)の扉は開かず失敗しました。
次に、天鈿女命(あめのうずめのみこと)様が招霊(おがたま)の木の枝を手に持ち舞をされ其の回りでほかの神々で騒ぎ立てます。すると、天岩戸(あまのいわと)の中の天照大御神(あまてらすおおみかみ)様は「太陽の神である自分が隠れて居るから外は真っ暗で、みんな困って居るはずなのに、外ではみんな楽しそうに騒いでいる。これはどうした事か?」と不思議に思われて天岩戸(あまのいわと)の扉を少し開けて外を御覧になられます。
神々は、騒いでいる理由を伝えます。「あなた様より美しく立派な神がおいでになりました。」「お連れ致します。」と言い鏡で天照大御神(あまてらすおおみかみ)様の顔を写しました。自分の顔だと分からなかった天照大御神(あまてらすおおみかみ)様は、もう少しよく見てみようと扉を開いて体を乗り出しました。
その時、思兼神(おもいかねのかみ)様が天照大御神(あまてらすおおみかみ)様の手を引き、岩の扉を手力男命(たぢからをのみこと)様が開け放ちまして天照大御神(あまてらすおおみかみ)様に天岩戸(あまのいわと)から出て頂くことが出来ました。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「日本発祥にまつわる日向神話の源、高千穂の天岩戸神社」
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神在月に神々が集まる聖地で神と人との神秘的な伝統の美しさの体験を
ユネスコ無形文化遺産
佐陀神能
■■佐陀神能の世界へタイムスリップしてみませんか!?■■
松江 佐陀神能
佐陀神能は、約400年も続いていると言われている“神事芸能”です。
毎年9月24日、25日に行われる御座替祭(ござがえさい)という神事で奉納されており、
神への祭礼の「七座」、祝言の「式三番」、神話劇の「神能」の3部からなっています。
特に「神能」は佐太神社の神官が、京より能を習い覚えて帰りその方式を取り入れ、従来の神楽を格調高いものに創り上げたと伝えられています。
神能の演目は当社の縁起を語る「大社(おおやしろ)」をはじめ十二段からなります。
笛や鼓の軽妙な音色に合わせて、あざやかな衣装を着て、舞手がゆったりと、時に大きく、切れの良い動きを見せ、観客は荘厳な神話の世界を堪能できます。
現在では神職と松江市内の有志による佐陀神能保存会によって伝承しており、9月24日、25日の佐太神社の御座替祭に舞うほか、近隣神社の秋のお祭りなどで奉納しています。
昭和51年国の重要無形民俗文化財に指定され、平成23年にユネスコの無形文化遺産登録されました。
【佐陀神能をもっと楽しめるポイント】
ポイント① 子供たちが魅せる演舞に注目!
佐陀神能保存会では、若者への継承を目的に「子ども佐陀神能体験教室」を行っております。
子供たちが披露する演目の一つ、「八乙女」は鈴と手柴を手に取って、降臨した神をおなぐさめする巫女の舞となります。右手に鈴、左手に榊を持ち、「八乙女の、八乙女の鈴に千早を振りかけて、舞えば御神も納受まします」などと歌いながら舞います。
400年続く伝統の舞を受け継ぐ、子供たちの演舞にぜひご注目ください。
ポイント② 神話をもとに作られたと言われる佐陀神能演目の一つ「大社(おおやしろ)」のストーリー。知っているだけで演目が数倍楽しくなること間違いなし!
登場人物は、朝廷の臣下(しんか)、老人(佐太大神の化身)、佐太大神(さだのおおかみ)、龍神(りゅうじん)から成っております。佐太神社には多くの神秘があると聞いた帝の命令を受けた臣下が佐太神社を訪ね、佐太大神に姿を変えた老人に出会います。老人は、この神社の祭神を慕って八百万の神が集まることから神在月と呼ぶことなどを語り消えてしまいます。
その後、御殿が振動し、金色の光をさして佐太大神が現れ舞を舞うと、龍神が宝の箱を持って現れます。龍神は箱の中から5色の蛇を取り出し大神に捧げ、それを受け取った大神は「八百万の神の父母は我なり」と言って御殿へ入っていった。というお話です。
神在月と呼ばれるようになった由来や、大神・龍神の迫力あるお面、美しい舞に注目しご覧ください。
■■八百万の神が集う神在の社 佐太神社ってどんなところ!?■■
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-6 TOKIO 2020 「400年前の歴史の神話世界へ」タイムスリップ!!佐陀神能ユネスコ無形文化遺産登録十周年記念 10/2(日)特別公演開催
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/37680126/
魏志倭人伝に記された国境の島
壱岐「原の辻」一支国王都復元公園
復元された建物と周囲に広がる田園風景は、弥生時代にタイムスリップしたかのようです。
真夏の焼けるような日差しの中での発掘作業が花開きました。
日本がまだ「倭」とよばれていた時代、魏(中国)の使者は、朝鮮半島を南下し、対馬や壱岐を経由して、倭の女王がいる邪馬台国を目指しました。中国の歴史書『三国志』の中の「魏志」倭人伝(*1)には、対馬国(現在の対馬市)と一支国(いきこく)(現在の壱岐市)の様子が次のように記されています。
狗邪韓国からはじめて海を渡ると対馬国に着く。山は険しく、深い林が広がり、道も獣道のようだ。良い田がほとんどなく、海産物を食べて生活し、南や北へ行き、交易をしている。
対馬国を出て、また南に海を渡ると一支国に着く。海の名は瀚海という。林が多く、少し田はあるが、田を耕しても、食料が足りないので、やはり南や北へ行き、交易している。
(「魏志」倭人伝(現代語訳)より抜粋)
対馬は、韓国の釜山までわずか49.5kmの距離にあります。切り立った山々と高さ100mに及ぶ断崖絶壁が見られます。島の89%が山林で、白嶽や龍良山には、国の天然記念物に指定されている原始林が残り、「魏志」倭人伝に記された対馬の姿と重なります。
このように、平地が少なく、耕地に乏しい地理的条件から、対馬では古代より船で南(日本列島)と北(朝鮮半島)を行き来し、人・物・文化の交流が行われていました。
*1.「魏書」第30巻東夷伝・倭人条の通称
海の道に浮かぶ国際交流の都
壱岐は、対馬とは対照的に山地が少ない平らな島です。島内最長の幡鉾川の流域に広がる平野・深江田原には、弥生時代、一支国の王都「原の辻(はるのつじ)」がありました。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~古代からの架け橋~日本遺産認定「国境の島 壱岐・対馬・五島」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4615487
北海道・北東北の縄文遺跡群
「北海道・北東北の縄文遺跡群」北黄金貝塚
「北海道・北東北の縄文遺跡群」青森県 三内丸山遺跡
北海道、青森県、岩手県及び秋田県は、世界自然遺産「白神山地」や「知床」など、 美しい自然が今なお色濃く残る、緑豊かなところです。
北海道・北東北の縄文遺跡群は、この豊かな自然の恵みを受けながら 1万年以上にわたり採集・漁労・狩猟により定住した 縄文時代の人々の生活と精神文化を今に伝える貴重な文化遺産です。
日本の宝を世界の宝に、そして過去から受け継いだ宝を未来へつなげるため、 北海道・北東北の縄文遺跡群は世界文化遺産登録を目指し取り組みを進めています。
(2024年9月現在登録済み)
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020「北海道・北東北の縄文遺跡群」のイコモス勧告「世界文化遺産登録」について(Ⅰ)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/17925180
~ 生命の神秘をたどる旅とは ~
谷間に広がる森 ガンガラーの谷へ
訪れる人を懐深く招き入れる谷の樹々、生い茂る緑。
自然と人は本来一つであることを、語らず思い出させてくれる優しき存在・・・
それは、私たち現代人がいつしか忘れかけた記憶の1ページなのであろうか⁉
沖縄 ガンガラーの谷
待ち受けるのは、五感が目覚める異世界の空間。
一歩足を踏み入れると、一瞬にして日常から切り離される。驚きの光景が広がる・・・
日本人のルーツ?港川人
港川人とは、沖縄県南部の石灰岩採石場で1970年に化石人骨として発見された人類です。
発見された4体の内、港川人1号と言われる1体は、人骨は頭の先から足の先まで骨が揃い、保存状態が非常によく、現代の私たちに多くのことを教えてくれています。
彼らは、約2万年前に実際にこの地に生きていた、旧石器時代の人類。
身長はおおよそ150cm前後で、現代人に比べると小柄です。その骨格から、森の中を歩き回りながら狩猟採集の生活をしていたであろうと推測されています。
現在判明している最古の人類は、アフリカ中部で発見された約700万年前のチャド猿人。
その後、様々な人類が誕生しては消滅していきました。そして、私たちホモ・サピエンスは、今からおよそ20万年ほど前にアフリカで誕生し、その後、今から約6万年前に我々の祖先はアフリカを飛び出し、世界中へと旅立っていったと言われています。
では、私たちの祖先はどのような経路で日本に辿り着いたのでしょうか。
港川人の発見は、日本人のルーツを握る重要な手がかりとなっています。
この地沖縄で暮らしていた港川人が、海を越え日本本土に渡り、日本人の祖先となった可能性があります。
遠くアフリカから沖縄にたどり着いた先人たちは、この地沖縄を飛び出し、また北へと向かう旅を続けたのではないでしょうか?
ガンガラーの谷の遺跡発掘調査
港川人が発見された場所は、フィッシャーと呼ばれる岩の割れ目です。
なぜ、この場所に港川人が居たのかは明らかになっていませんが、そこは彼らが生活できる場所ではありません。では、港川人はどんな場所で生活をしていたのでしょうか?
現在も港川人に関する発掘調査は、国立科学博物館、東京大学、沖縄の地元研究者によって結成された「沖縄更新世遺跡調査団」と、「沖縄県立博物館・美術館」によって続けられています。