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戰爭と戰爭の閒の朧かな

2024.09.16 13:44

https://toutankakai.com/magazine/post/13463/ 【青蟬通信『人類の午後』を読む / 吉川 宏志】より

 俳句の読解については全く自信がないのだが、堀田季何さんの『人類の午後』という句集がとてもおもしろかった。堀田さんは『惑亂』という歌集を持つ歌人でもある。

  戰爭と戰爭の閒の朧かな  懇ろにウラン運び來寶船

などがよく紹介されている。戦争が終わり、次の戦争が始まるまでの、幻のような平和を、「朧おぼろ」という春の季語で捉え、鮮明な印象を残す句だ。

 「寶船たからぶね」は新年の季語で、海の向こうから富を運んで来るもの。ウランもたしかに、一部の人々には莫大な富をもたらす。しかし、原発事故で大きな被害を生じさせたことを忘れることはできない。「懇ろに」がユニークな言葉遣いで、警備しつつ大事に運んでいる様子をシニカルに描いているのだろう。「寶船」というめでたいものが、非常にまがまがしい存在に見えてくる。

 季語という長い歴史を持つ言葉を、現在の危機意識によって、新しい色に塗り変える、と言えばいいのだろうか。その方法がじつに効果的に用いられていると感じたのである。

  とりあへず踏む何の繪かわからねど

 「絵踏み」は春の季語なのだそうである。江戸時代にキリシタンを発見するために踏絵を踏ませる行事を、春に行っていたためだという。これも季語を現在の状況として捉えている句で、何の絵なのか理解していないのに踏みつける、という行為は、さまざまなことを連想させる。

 たとえば、沖縄の米軍基地に反対する人々が、ネットで激しい攻撃を受けたりする。実際のことを何も知らないのに、あるいは知ろうとせず、大勢の人々が易々と言葉の暴力に加担することがしばしば起きているのだ。「とりあへず」という言葉に、軽々しく他者を踏みつける人々への絶望が込められている気がする。

  霧のなか霧にならねば息できず

 句集には「一九四一年一二月七日、〈夜と霧〉發令。(後略)」という前書きが置かれている。ヒットラーが、ナチスに抵抗する人々を、夜霧のように秘かに連行して消すことを命じたのを背景とする句である。

 そのような悪が蔓延している状況では、自分も悪にならなければ生き延びられないことを、象徴的に表現しているのだろう。内心ではナチスを嫌悪していても、反対者の殺害に協力してしまった人々が数多く存在したのである。

 ただ、ナチスの時代だけではなく、現在でも似たようなことは起こり得る。組織が腐敗すると、自分も不正に手を染めないと、生きていけなくなってしまう。政府の中で起きた文書改竄は、おそらくそうした経緯で生じたのだろう。「霧にならねば息できず」という表現は、身に迫る怖さを持っている。

 こうした作品は、短歌ではなかなか難しいように思われる。短歌では「とりあへず踏む」や「霧にならねば息できず」という表現を生かすために、自分がどのようにその状況と関わっているかを歌うことが重要になるからである(もちろん、必ずしもそのように歌わねばならないわけではないけれど。一般的な傾向と考えてください)。自分(我)を主体として歌うように働く力が、短歌の〈私性〉と言ってもいい。

 しかし俳句では季語がもっと大きな存在感を持っていて、「霧」という言葉が、一九四一年のドイツでも現在の日本でも変わらぬ、スケールの大きな視線を作り出すのである。

  初富士に死化粧して巨き手は

 雪をかぶっている富士山を、死に化粧と見立てている。噴火の危機も思い出させ、「初富士」というめでたいものが不気味に反転させられる。「巨き手」は神の手だろうか。ここにも、小さな自己を超えた存在が描き出されている。そのような大きなものから人間が見られているように表現するのが俳句であり、あくまでも人間の立場に立って、大きな存在を表現しようとするのが短歌なのかもしれない。

  月かげはそも日のかげぞわが泳ぐ

  夭折の作家に息子萬年青の實

など、社会的なテーマから離れた作にも心に残る句が多かった。


https://edgeofart.jp/no-113-%E8%A9%A9%E3%82%92%E3%82%88%E3%82%80%E9%8F%A1%E3%82%92%E3%81%BF%E3%82%8B/ 【No.113 詩をよむ;鏡をみる】より

https://www.youtube.com/watch?v=8bPrRIQidiA

詩を届けつづけるひと

原成吉。三十五年にわたり、埼玉県草加市にある獨協大学で教鞭をとる、アメリカ近現代詩の研究者・翻訳者である。また、アメリカ・カウンターカルチャームーブメントの専門家でもあり、ヒッピー世代に文学の存在感をしめしたビート・ジェネレーションの詩人たち、ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ゲーリー・スナイダーなどの詩の翻訳や評論の執筆者としても知られている。

とくに、原は、ロックスターにしてノーベル文学賞受賞者のボブ・ディランを〝詩人〟として学問的に研究しはじめた最初の大学人のひとりではないか。だからか。原成吉の言葉と感性には、アカデミシャンの枠におさまらない若者を惹きつける魅力がある。

番組は、原教授の獨協大学での最終講義の日からはじまる。No.113 詩をよむ;鏡をみる

原成吉は「詩は声の文化」だと学生に教え、みずから実践しつづけた。言葉を、読む、聴く、声にだす。人は言葉の生き物だから、ぼくらはその言語行為をあたかもごく自然に、空気を呼吸するようにおこなうと錯覚している。当然の技能や権利として。そうしたくともできない存在がいることもつい忘れて。それもすぐ傍に。

本を読む、とくに詩を読むことは、ぼくらが日々頼りにしている言葉がけっして透明な存在ではなく、じつに複雑で、精巧で、不可解で、魅惑に充ちた存在であることに気づかせてくれる。万人のためのコミュニケーションツールであるにもかかわらず、複雑怪奇で、その力で以って万人が信じて疑わないリアルをうち毀し、日常の底に広がる深淵に刮目させ、新たな世界をきりひらく。

原成吉は、そんな言葉を、詩を、読み究めることを一生の仕事にしてしまった。No.113 詩をよむ;鏡をみる

言葉は万人のために存在する時が大半だが、詩を読む時の言葉は「極めて個人的な営み」となる。詩を読むことは、詩作品という「鏡に映った、いま=ここにいる自分を確認すること」でもある、そう、原成吉は述べる。

詩は読む自分を映しだす言葉。だれからも視えない自分の内なる懊悩を自分に視せてくれる言葉。だれの瞳にも映らなくなった透明な自分を映しだしてくれる言葉。自分が愛し深く読む詩には、自分が宿りはじめる。

原は詩を読むことで自分を探し求めた。大学院生のころは、アメリカ・モダニズム詩の巨匠、エズラ・パウンドやウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩のなかに。だれよりも、中高生のころから憧れつづけたロックの神様ボブ・ディランの詩のなかに。そして「米軍基地」のあった、東京都立川市で生れ育った原は、ベトナム反戦運動を率いたヒッピーやビートの文学者たちにつよく共感し魅了されていく。その詩と言葉のなかに、同世代を生きる自分を見出してゆく。

一九八〇年代前半に、ロサンジェルスで撮影された原のスナップショット。そこには、ロングヘア、細身のジーンズ、強裂な自己の存在感を放つ、若き探求者の容がある。No.113 詩をよむ;鏡をみる

獨協大学教授として最終講議の日を迎えた原成吉は、自分自身を「a letter carrier」、ひとりの詩の配達夫、と定義する。原は、アカデミシャンとして、詩や英語を読むスキル、アメリカ文学史や詩の思想を教え授けてきただけではなかった。原は、歴代のゼミ生たちや詩の仲間たちに、詩=手紙のなかに自分自身を探し、世界のなかで生きることと格闘しなさい、と説く。原は、ゼミ合宿で何日も学生と生活をともにしながら、アメリカの近現代詩を読み深め、みずからも詩をつくり、学生たちが書いた詩と交換する。すると、自分を宿した詩が、学生の心身へと届き、琴線にふれつづける。その逆も然り。年来の友人たちであり研究者仲間の「遊牧民」グループでも、おなじことがおこり反射し共鳴をつづけていく。

自分を映す鏡をさがす旅は、いつしか、世代をこえて集う、数多の同行の友に囲まれた旅になっている。No.113 詩をよむ;鏡をみる

番組の終りちかく、原成吉は独り蓼科の山荘にこもり、ゲーリー・スナイダーの未発表訳詩「道元にならって」や「すべてに」にとりくんでいる。英語の詩をなんども声にだして口遊み、反古の裏に鉛筆で日本語訳を一語一語、書きつけてゆく。独得の、丸っこくのびやかな手書き文字に、窓からみえる冬木立が映りこみ、山野鳥の声が響いてうたを上書きしてゆく。

詩の作中で氷が割れる音を、原が口にだし語感をたしかめていると、番組ディレクターが「その音は、詩人が聴いた音ですか? 原さんが聴いている音ですか?」とたずねた。原は「両方じゃない? ゲーリーでもあるし、ぼくでもある」と問答にこたえる。自分のなかに詩と詩人がいて、詩と詩人のなかに自分もいる。そこにはたくさんの友人や家族もいて、星の数の未知の読者たちがいる。シエラネバダの、蓼科の、山々の静寂、瀬音、獣と小鳥たち、岩々の沈黙がある。

文字で書かれた詩は、こうして初めて、息づき、声をもち、生きはじめる。


Facebookちと いいね!投稿記事 『 島唄 』

「島唄(しまうた)」は、本当はたった一人のおばあさんに聴いてもらいたくて作った歌だ。

91年冬、沖縄音楽にのめり込んでいたぼくは、沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」を初めて訪れた。

そこで「ひめゆり学徒隊」の生き残りのおばあさんに出会い、本土決戦を引き延ばすための「捨て石」とされた激しい沖縄地上戦で大勢の住民が犠牲になったことを知った。

捕虜になることを恐れた肉親同士が互いに殺し合う。極限状況の話を聞くうちにぼくは、そんな事実も知らずに生きてきた無知な自分に怒りさえ覚えた。

資料館は、自分があたかもガマ(自然洞窟<どうくつ>)の中にいるような造りになっている。このような場所で集団自決した人々のことを思うと涙が止まらなかった。

だが、その資料館から一歩外に出ると、ウージ(さとうきび)が静かに風に揺れている。

この対比を曲にして おばあさんに聴いてもらいたいと思った。

歌詞の中に、ガマの中で自決した2人を歌った部分がある。

「ウージの森で あなたと出会い  ウージの下で 千代にさよなら」という下りだ。

「島唄」はレとラがない沖縄音階で作ったが、この部分は本土で使われている

音階に戻した。2人は本土の犠牲になったのだから。(みやざわ・かずふみ。

66年生まれ。歌手)2005年8月22日 朝日新聞(朝刊)

。。。。。。

でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た(1945年春、でいごの花が咲く頃、 米軍の沖縄攻撃が開始された。)

でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た(でいごの花が咲き誇る初夏になっても、 米軍の沖縄攻撃は続いている。)

繰り返す 哀しみは 島わたる 波のよう(多数の民間人が繰り返し犠牲となり、

 人々の哀しみは、 島中に波のように広がった。)

ウージの森で あなたと出会い(サトウキビ畑で、 愛するあなたと出会った。)

ウージの下で 千代にさよなら(サトウキビ畑の下の洞窟で、 愛するあなたと永遠の別れとなった。)

島唄よ 風にのり 鳥と共に 海を渡れ(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に 海を渡り、遥か遠い東の海の彼方にある 神界 "ニライカナイ" に 戻って行きなさい。)

島唄よ 風にのり 届けておくれ わたしの涙(島唄よ、風に乗せて、沖縄の悲しみを 本土に届けてほしい。)

でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ(でいごの花が散る頃、 沖縄戦での大規模な戦闘は終わり、 平穏が訪れた。)

ささやかな幸せは うたかたぬ波の花(平和な時代のささやかな幸せは、 波間の泡の様に、

 はかなく消えてしまった。)

ウージの森で 歌った友よ(サトウキビ畑で、 一緒に歌を歌った友よ。)

ウージの下で 八千代に別れ(サトウキビ畑の下の洞窟で、 永遠の別れとなった。)

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ(島唄よ、風に乗せて、 死者の魂と共に海を渡り、 遥か遠い東の海の彼方にある神界  "ニライカナイ" に戻って行きなさい。)

島唄よ 風に乗り 

届けておくれ 私の愛を(島唄よ、風に乗せて、彼方の神界にいる 友と愛する人に私の愛を届けてほしい。)

海よ 宇宙よ 神よ 命よ(海よ 宇宙よ 神よ 命よ  万物に乞い願う。)このまま永遠に夕凪を(このまま永遠に穏やかな平和が 続いてほしい。)

島唄は 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ(島唄は、風に乗せて、死者の魂と共に 海を渡り、遥か遠い東の海の彼方にあ 神界 "ニライカナイ" に 戻って行きなさい。)

島唄は 風に乗り 届けてたもれ 私(わくぬ)の涙(なだば)

(島唄は、風に乗せて、 沖縄の悲しみを本土に届けてほしい。)

島唄は 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ(島唄は、風に乗せて、 死者の魂と共に海を渡り、 遥か遠い東の海の彼方にある神界 "ニライカナイ" に戻って行きなさい。)

島唄は 風に乗り 届けてたもれ 私(わくぬ)の愛を(島唄は、風に乗せて、彼方の神界にいる 友と愛する人に私の愛を届けてほしい。)

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島唄には、こんな意味があったんですね。

改めて、言葉の意味をかみしめながら、島唄を聴いてみようと思います。