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夢見る俳句

2024.09.17 05:42

https://kangempai.jp/seinenbu/essay/2019/hotta01-1.html 【2019年3月 青年部連載エッセイ 世界俳句(1) 夢見る俳句 堀田季何】より

 俳句が成立した流れというものがある。概ねのコンセンサスは取れている。五七・五七・五七……五七・七というリズムの長歌があり、その短い形として(長歌の反歌にもなる)五七・五七・七の短歌があり、それが五七五・七七という上句と下句を合わせる韻律に変化してゆき、それから五七五の句と七七の句を交互に付けてゆく連歌が鎌倉時代に派生し、さらに室町時代に俳諧の連歌(いわゆる連句)となり、江戸時代になると連句の一句目に当たる、五七五を主とする定型(破調とは言えない、五七五以外の定型も数種存在)に基づく発句がそれ自体でも詠まれる事が増えはじめ、やがて明治時代に西洋の文学と呼応するように発句そのものを完全に一つの詩として独立させる(つまり、それに別の句が付けられていく事を想定していない、個人の作品として単独で屹立する作品とする)俳句革新運動の頃から一般的に俳句と呼ばれるようになった。但し、厳密には、俳句という呼称は正岡子規の俳句革新運動の前から存在していて、発句の事も指していたので、子規の造語ではない。

 呼称というのは難しいもので、室町時代から俳句革新運動頃までの連句の発句を古典俳句と呼び、それ以降の俳句を近代俳句と呼ぶ人間も多い。いつからの俳句を以て近代でなく現代俳句と呼ぶのか諸説があって、新興俳句運動の頃、敗戦後、前衛俳句誕生の頃といった説があるが、近代俳句と現代俳句はパラダイム的に何ら差がないので、現代における俳句も近代俳句のままと言い切っても良いかもしれない。無論、詩型という意味では、近代俳句も現代俳句も一行定型句だけでなく、近代には、従来の定型を破った五五三五や五五五三といった四分節形式を含む新傾向俳句が作られ、それから定型そのものを捨てる自由律俳句が生まれ、さらに、字空きを(切れとは違う)断絶として用いる字空きの俳句、改行を含めた断絶を用いる多行俳句などが派生していった。つまり、短歌や連句と違って、俳句という呼称はどうやら厳密な定義による一種類の詩型を指さず、パラダイム的なものである事が判る。しかも、前述のように、発句を古典俳句と呼んで俳句の一部と見做すか、発句と(俳句革新運動以降の)俳句を別物と見做すかは大問題である。国内では後者を主張する俳人、国外では前者を主張する俳人が多い(国外や外国語の詳しい問題は将来の回に言及する予定)。

 とはいえ、そのパラダイムは何か。さすがに、大多数の人間にとって俳句が短めの語句だったら何でもよいわけではないだろう(俳句だという人間がいればそれは俳句だという主張もあるが)。他の詩型、例えば川柳との違いも気になる。しかし、ここで指摘したいのは、俳句を成り立たせるパラダイムと有季性は無関係である事である。有季と無季(雑)の問題であるが、時代や作家によって定義が異なり、季題に基づく、季題趣味である、季語(季の詞)が入っている、季感がある、など現代でも定義が分かれる。王朝和歌の時点で季の歌と広義の雑の歌は分けられており、季の歌は季題に基づいている歌、広義の雑の歌は主な題が季題でない歌(恋歌や哀傷歌も含まれる)である。季の詞が入っていても主な題が季題でなければ季の歌ではなく、雑の類とされた。連歌・連句の頃から、複数の人数で一巻の中で季節を素早く巡るための必要性もたぶんあって、季の詞を入れれば季の句と認める動きが生じた。季題派と季語派というわけであるが、季語の事を季題と呼ぶ人間もいてややこしい。発句(古典俳句)の多くは季の句(有季句)だが、雑の句(無季句)も歴史的に多くある。その発句(古典俳句)から近代の俳句が派生したわけだから、俳句という詩型の定義に季語は関係ない。古典俳句でも近代俳句でも無季句は多く作られた。無季句を「俳句に似たもの」として俳句だと認めない俳人たちもいて、認めるか認めないかは彼らの自由であるが、歴史的には怪しい主張であると言わざるを得ない。例えば、高浜虚子が季題を俳句の絶対条件としたのは、たかだか百年ちょっと前の事であるが(※日本伝統俳句協会の中核となっている「ホトトギス」でさえ歴史は僅か百二十年程度である。それより数年前に始まった俳句革新運動以降を俳句史とする人間からすれば、確かに彼らの句は伝統俳句であるが、発句を古典俳句と見做す人間からすれば、伝統俳句とは言わない)、その時点で無季の句は他の俳人たちによって普通に作られていた。子規も河東碧梧桐も虚子が俳句に復帰する前に様々な無季の句を作っている。しかも、俳句革新運動以前の古典俳句における雑の発句の存在や和歌における雑の歌を考えれば、俳句は成立において有季性が必要条件とされていなかった事が明らかであるし、虚子などによる、季語がなくては俳句でないという主張は、むしろ新しく、異端であった。

 ちなみに、俳句には和歌及び連句から引き継いだ挨拶性という問題もあって、有季性は循環する季節との呼応および内在している本意・本情といった点で挨拶性に通じるが、これについても今後も言及する予定である。今言えるのは、無季句でも季語に相当するキーワード、季語並みの本意や本情を含み、喚起力を持つキーワードを使えば挨拶性を帯びる事ができるという事実である(※季語はキーワードのうち、季節と直接関連しているものである)。例えば、「こんにちは」という元の語句を省略した語句が挨拶の言葉になり得ているのは、この五音のキーワードだけで話し手と聞き手の二者に共通に理解されている符牒のごとき(元の語句にあった)挨拶性豊かな本意が引き出されるからである。挨拶の言葉ではない「戦争」や「天皇」も強いキーワードとして句に挨拶性を齎し得る。

 なお、外国語に真の季語は少ないため(※季節性のある言葉であっても、長い歴史で本意および本情が育まれていなければ、キーワードたり得ず、季語たり得ない)、外国語俳句では各言語におけるキーワードの使用が重要になる(※日本語の季語を訳しても日本語の本意・本情は伝わらないどころか、外国語では違うニュアンスを持つ言葉であったり、季節性のない言葉であったりする事が多いし、季節性のある言葉程度では俳句的な切れによる一撃必殺に繋がらない)。外国語俳句で言うseason wordは、日本語の季語、外国語の季語(季節性を持つ、その言語で強いキーワード)、外国語のただの季節性のある言葉の三者を包括しているため、曖昧な言葉であり、外国語俳人の季語に対する理解を阻害している原因となっている。いずれにせよ、外国語の季語は極めて少ないので、外国語俳句では有季か無季かという問題は考える必要がなく、「有キーワード」という概念で考えて作った方が良いと思われる(「無キーワード」の句は大した本意・本情と繋がらず、神話的喚起力もないので、ロクな句にならない)。ちなみに、一つ注意したいのは、外国語で季語を使う問題と日本の本州中程と季節感の違う地域や海外を季語で詠む問題とは別種の問題である事だ。詳しくは将来の回で述べるが、後者は日本語俳句においても発生する問題である。

 俳句と川柳の違いに関しても多数の説がある。しかし、発句から派生した俳句が有季で平句(特に、単独の七七の句に付ける前句附)から派生した川柳が無季だという有名な説は間違いである。すでに述べたように無季の俳句もあるし、実は、有季の川柳もある。大体、江戸時代の連句では、雑の発句もあり、季の平句もあった。連句をやれば自明だが、平句には季の句と雑の句の両方が最初から存在していて、雑である必要はない。俳句は物を詠み、川柳は人情・諷刺・滑稽などを詠む、という説も有名だが、あまりにも例外が多すぎる。連句では、発句よりも(特に中盤の裏や名残の表に出てくる)平句の方が内容的に制限がなく多種多様なため、俳句よりも川柳の方が人情・諷刺・滑稽に繋がりやすかったのは事実だが、一句で完全に独立するようになった近代以降は、俳句は後に付けられることを想定しなくなり、川柳は前に付けることを想定しなくなり、内容的にかなり重複するようになった。人情・諷刺・滑稽の俳句は多数ある。両者の違いに関して、ある程度信頼できる説は、切れの有無であって、発句(古典俳句)も近代以降の俳句も切れを備えているのに対し、平句であった川柳は切れを備えていない、というものである。筆者はこの説を採る。切れの極めて弱い俳句も強めの切れが入っている川柳も発表されているが、圧倒的多数の俳句は切れがあり、圧倒的多数の川柳は切れがないのは事実である。言うなれば、濃度の問題で、現代俳句と現代川柳の差と言えば、前者の切れの方が強い傾向にあるが、具体的なグレーゾーン内の線引きは人によるという事であろう。

 この切れ、切字があってもなくても存在する切れというのは、俳句のパラダイムに通じると言えるかもしれない。俳句的な切れ(※基本的に息継ぎに過ぎない短歌的な切れとは全くの別物)は季語などのキーワードからイメージを読者の脳内に広げさせ、本意・本情を呼び起こし、場合によっては、意識下で神話的元型に通じさせる効果をもたらす。すなわち、俳句的な切れは認識の瞬間性を俳句に埋め込み、それを一撃必殺のように解放する役割を果たす(句に含まれている主な認識が、意味でなく音や表記の場合も稀にあるが、その場合は聴覚や視覚を通じて読者のイメージを広げてしまうので、俳句的な切れはあまり意味をなさない)。外国語には切字はないし、日本語ほど文法・文体的に複雑な言語は他に存在していないので、外国語俳句における切れのパターンは日本語のよりも少ないが、外国語俳句でもフレージングによる句中の切れや体言止めによる句末の切れを作ることは可能である。

 断絶を有する字空け俳句や多行俳句はどうだろうか。それらは、切れがもたらす一撃必殺性を捨てるかわり西洋詩や漢詩に相当する時間的構造性を獲得した上、短歌より複雑な韻律の操作を短歌よりも少ない音数で行う事を可能としたが、切れおよび分かち書きの延長線にある。切れが俳句の基本にあって、切れを断絶に変化させてしまった俳句が一部存在するイメージである。


https://kangempai.jp/seinenbu/essay/2019/hotta01-2.html 【世界俳句(1)

夢見る俳句 堀田季何】より

 俳句を成り立たせるパラダイムと言えば、日本語俳句の場合、五七五を主とする定型があるのは間違いない。五七五を主とするが、五七五に字余り・字足らず・句割れ・句跨りといった破調の操作をしたリズムだけでなく、明らかに七五五や五五七や七七五といったリズムの句が連句の時代から現代に至るまで多数作られており、それらも定型と見做せよう(定型遵守の飯島晴子にも作例は多い)。さらに、定型を基本にすると言っても、必要性があれば破調の技法を組み合わせても良く、それらの定型の約十七音に近い三句構造を基本にするという意味にしか過ぎない。「伝統」の虚子でも二十五音の句を作っているし、「前衛」の金子兜太に至っては三三三の九音から九九九の二十七字までは定型を感じると述べている。日本語におけるこれらの音数の範囲が、俳句的な切れを成立させ得るにちょうど良い短さの内容を記述するのに適しているという点も見逃せない。(音数が長すぎる事により)内容が長すぎてしまうと、切れは鈍ってしまい、一撃必殺性が翳んでしまう。さらに、忘れてはいけないのは、日本語の俳句における定型は、定型と呼ばれるに至るまでの歴史的背景があり、季語やキーワードだけでなく、定型も挨拶性を保持している事である。日本語の俳句で定型を使う事自体が挨拶になる。また、三句構造の三という数にも、陰と陽にそれを動かす存在を加えた数、陰陽天地創造を為し得る最小の数、といった意味があるが、脱線してしまうので割愛したい。日本語における自由律俳句は、長いのも短いのもあり、三句構造でないものも多いが、定型の不在による挨拶の欠如を読者に強く思い起こさせる事を一種の効果にしている詩型である。型がなく、挨拶がないという事は、堅苦しさがないという事にもつながり、日本語の自由律俳句に口語調が多い事にも影響していると思われる。

 定型について最後に一点述べておきたいのは、外国語の俳句において定型は無意味な事である。俳句は日本で発生したものであるので、外国語俳句においても定型と言えば日本語俳句から持ち込まれた定型を指すが、外国語に定型が持ち込まれた時、前述のような音数の柔軟性も定型のバリエーションもなく、愚直な五七五の音(※多くの言語では音節で数える)がfixed formと呼ばれるに至っている。もちろん、外国語における五七五は歴史的背景が全くないため、日本語の定型であったような挨拶性がなく、外国語の俳句で定型を使おうが挨拶性がないので、それは自由律と変わらず、自由律を使おうが定型でない事による特殊な効果は生まれないので、それは定型と変らない。つまるところ、外国語では五七五とそれ以外(自由律を訳してfree formと呼ばれている)しかないが、差異はなく、最初から「自在律」として音数構わず作句した方が良いように思われる。但し、その言語に合った短さが不可欠である。俳句的な切れを生じさせるに適した内容の長さと対応する音数は、日本語では平均的に十七音くらい(どの言語でも当然伸び縮みする)であったが、英語だと平均12音くらいだし(十七音くらいになると切れ味が悪くなる)、中国語だと七音でも十分である(漢俳という形式で、漢字で五七五の句を作ると日本語の短歌二首分以上の内容が入ってしまい、切れは死んでしまう)。欧米の言語では三行表記が多いが(日本語の多行俳句と違って、改行は断絶になりにくい)、それにこだわる必要はなく、内容に合わせた表記で良いと思う。一行が良い場合もあるし、句中の切れがある場合、近年設立された日本俳句協会が提唱する二行表記が適している場合が多い。但し、どの表記にしても、三句構造の方が他の構造よりも筆者の経験上上手くいく。

 これまで見てきたところからすると、日本語俳句の場合、俳句としてのパラダイムの中心となるのは、五七五を主とする定型と季語を主とするキーワードと切れの三点を有する事を基本にする句であるように思われる。五七五以外の定型の句も無季(だけど季語的キーワードのある)句も含まれるし、あくまでも基本であるので、多行俳句や自由律俳句も限界的な領域で許容できる。外国語俳句の場合、(日本語の俳人でも外国語の俳人でも気づいていない人間が多いが)定型や季語を基本として考えざるを得ない日本語俳句のパラダイムは結局ナンセンスであり、成立し得るパラダイム(「新パラダイム句」)は、短い自在律と言語特有のキーワードと切れの三点を有する事を基本にする句であるように思われる。

 さて、自明だが、この「新パラダイム句」は、日本語俳句で当然の事が当然でない言語環境で日本語俳句のパラダイムを進化させたものであり、どの言語でも成立する。日本語でも成立する。短い自在律と言語特有のキーワードと切れの三点を有する事を基本に、日本語で句を作れば良いのだ。「新パラダイム句」で作られる句は従来の日本語俳句のパラダイムで作られる現代俳句と見分けつかない句も多いだろうが、根本的パラダイムが全く違う。季語や定型の概念が最初からない。その意味で、「新パラダイム句」を何と呼べばよいのだろうか。従来の日本語俳句のパラダイムで作られる句を「俳句」と呼ぶ場合、それは、日本語の古典・近代・現代俳句および日本語俳句のパラダイムを直接外国語に持ち込んで作られた外国語俳句の総称である(※古典俳句を俳句でない発句として外す俳人もいる)。しかし、どんなに似ていても、「新パラダイム句」として日本語や外国語で作られる句は従来の「俳句」とは別物である(それこそ本当の意味で「俳句に似たもの」である)。さらに問題なのは、外国語俳句の作者には、従来の日本語俳句のパラダイムで作っている俳人と新パラダイム句を(意識的に、ないし、無意識的に)作っている俳人の両方が混在していて、どちらもhaikuを作っていると思っている。「新パラダイム句」とかなり近い意味の句を、世界どこでもどの言語でも成立するという意味で「世界俳句(world haiku)」と呼ぶ案を夏石番矢は提唱しているが、この呼称では従来の「俳句」の範囲内の一詩型に思えてしまい、根本的なパラダイムの違いが見えてこない(※筆者と違い、夏石番矢は「俳句」の最先端だと考えているので、彼にとってはこの呼称で全く問題ない)。大体、外国語では「新パラダイム句」もhaikuに括られているので、haikuを付けた名称で呼ぶしかなく、悩ましい。日本語での呼称の問題もあり、従来の「俳句」と分けるためにを片仮名の「ハイク」にしてしまう手も考えたが、英語では同じhaikuである上、(従来のパラダイムに基づいていても、その)外国語俳句を「日本語でないので本当の俳句ではないよね」と「ハイク」と表記されてきた排外的な経緯があって、一部の外国人俳人は疎外感を覚え、悲しむらしいので止めた(全く悲しまず、自分が外国語で書いた俳句を片仮名で「ハイク」と一律に表記する、日本語が解る外国人俳人もいるので、一層複雑だ)。「新俳句」もダサいし、やはり「世界俳句(world haiku)」で落ち着きそうだ。そして、最終的には、「haiku」は「俳句」と「世界俳句」の両方を含む広義の概念になるであろうし、日本語による「世界俳句」が増えたら、パラダイムの違いを問わず、「俳句」という言葉は「haiku」と同義になり、「世界俳句」を含むようになるであろう。


https://kangempai.jp/seinenbu/essay/2019/hotta02.html 【世界俳句(3)夢見る俳句(2)

堀田季何】より

 今回はいきなり脱線して、一句に季語が二つ以上ある状態、季重なりについて少し考えてみよう。これは季題(※ここで云う季題は、あくまでも題であり、季語と同義ではない。同じ「ホトトギス」でも、虚子は題として、その孫の稲畑汀子は季語とほぼ同義として使っていると、それぞれの文章から推察される。季語は虚子と対立した乙字・井泉水が提唱していたので、虚子が季語の意味で季題という言葉を使っていた事はまず有り得ない)でなく、季語の問題である。例えば、季題派の虚子は、花鳥諷詠もとい季題諷詠を説き、季題を重んじたが、季感と密接に関係している季語には興味なかった。実際、季語が複数入っている季重なりの句の論評にあたり、季重なりを良いとも悪いとも言っていない。虚子選において季重なりはタブーではなかった事は、近年では、筑紫磐井や岸本尚毅が指摘しているところである。そもそも、和歌以来、季題には複合的な結題のようなものがあって、「初春霞」「蝉声夏深」「蛍火秋近」「月多秋友」といった季題がある事から、季語が複数入っている季重なりを季題派が気にしないのは当然の事かもしれない。

 虚子に限らず、芭蕉、蕪村、一茶、子規といった面々も季重なりをタブー視していなかった。それどころか、季題派にとどまらず、季感を重んじた季語派の俳人でさえ季重なりの句を作っていて、秋桜子は特に多い。結局、近代以降も、季題・季語に対する考え方はともかく、虚子や秋桜子の他にも、鬼城、蛇笏、誓子、素十、草城、楸邨、波郷、龍太といった大御所たちが季重なりの句を堂々と作っている。それも、同じ季節の季語だけではなく、異なる季節の季語が入っている季違いという類の季重なりの句もたくさん作っている。しかし、この21世紀、彼ら大御所たちの弟子や孫弟子たちが主宰や選者として、季重なりを理由に句を自動的に難じたり落したりする景を目にする事は多く、俳諧・俳句の歴史を鑑みれば、この現象は奇異に映る。

 もちろん、俳句は短歌よりも短いゆえ、無駄な季語は要らない。上記のような「蝉聲夏深」(「蝉の声」と「夏深し」)や「蛍火秋近」(「蛍火」と「秋近し」)のような組合せは俳句では成功しにくい。本意本情を思えば、「蝉の声」に「夏深し」、「蛍火」に「秋近し」がそれぞれ含まれるのがわかるからだ。そういう意味で、初心者が作りがちな「夏暑し汗かきながら氷菓食ふ」といったような句は、季重なりの失敗例と言えよう(「氷菓」で足る)。しかし、「秋天の下に野菊の花弁欠く」(虚子)、「枯菊の根にさまざまの落葉かな」(虚子)、「小春日や石を噛みゐる赤蜻蛉」(鬼城)、「蛍火や馬鈴薯の花ぬるる夜を」(蛇笏)、「啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々」(秋桜子)、「風邪の床一本の冬木目を去らず」(楸邨)、「春すでに高嶺未婚のつばくらめ」(龍太)といったような季重なりの句は、句の出来は別として、季重なりを以て没とすべき句ではない。重要なのは、季重なりでも成功しているか失敗しているか、言葉が必然か無駄か、といった事であり、季重なりを自動的にタブー視するのが愚である事はわかると思う。

 では、なぜ季重なりがタブー視されるようになってきたか。愚見だが、1970年代後半からの俳句ブームに付随したカルチャースクールや俳句教室の隆盛がその背景あるように思われる。初心者に良い季重なりと悪い季重なりを教えるのは難しい(上級者でも判別に迷う事が多いのは事実)ので、前述した「夏暑し汗かきながら氷菓食ふ」のような句を作らせないためには、一句に一つの季語と安易に指導した事は想像に難くない(指導者によっては、季重なりは大家になってからなら良いとか言った可能性もある)。これがいつの間にか教条的なもの、ルールのようなものになって行った可能性が高いと筆者は踏んでいる。師弟のつながりが強く、師風が受け継がれてゆきやすい俳句界の事、生徒側は、大成しても、季重なりを基本的にタブーだと信じ込んだまま専門俳人になっただろうし、教える側も「模範例」となるべき句を作ろうと、その時期以降、季重なりに慎重になって行ったのかもしれない。証拠というのも変だが、80年代以降、総合誌や実力俳人の句集に出てくる季重なりの句が大幅に減っているように思われる(※厳密に数えてはおらず、あくまでも推測である)。ちなみに、季重なりの反対で、季語が無くても良いと教えていた教室も少なかったと思われるが、それは無季容認派であった指導者の少なさに因る。結局、複数でも無でもなく単数の一つという指導になったようである。

 さて、21世紀現代において、季重なりを基本的に忌避する俳人たちには二つタイプがいるようだ。一つは絶対に忌避するタイプ。彼らの師の師くらいは季重なりの句を残していると思われるが、理屈抜きの教条派なのだから仕方がない。彼らの自由である。もう一つは厳しい制約を設けているタイプ。こちらは季語派に多く(※季題派だと冒頭の虚子の態度に落ち着く)、彼らの主張はまちまちであるが「季語が一句の中で最も重要な言葉であるからそれに焦点を当てたい。二つあるとぶれる」や「どの季語の季感で句を捉えればよいのかわからなくなる」や「歳時記の分類に困る。季違いの句だと本当に困る」(分類に困るからどうした、と言いたくなるが)といった意見をよく聴く。そして、彼らの妥協点として、「主季語、従季語のように強弱が明快であれば、主季語が焦点だし、その季感で句を捉えればよいし、主季語で分類すれば済む」といった意見に落ち着くことが多い。確かに、季語の主従というのは、季重なりの句を基本的に忌避する人間が容認する上で便利な概念である。

 しかし、季語の主従という概念を扱う場合、主従の判定方法が欠かせなくなる。概ね、次のような方法である。季語の主従を説く俳人の殆どは、季題諷詠でなく季語の季感を重んじる人間であるから、第一ステップとして、特定の日に限定される季語を他の季語よりも優先する。一句に「桃の花」と「蠅」があったら、「桃の花」は春だけのものであるから、「蠅」を夏でなく春の蠅と解釈し、「桃の花」を主季語とする。「時雨忌」と「冬」があったら、どちらも冬の季語であるが、「時雨忌」の方が日を限定(特定)するので、「時雨忌」を主季語とする。「月」と「スケート」なら、本来「月」は秋における最強の季語であっても、一年中ある「月」は寒月と解釈され、まずは冬にしかない「スケート」の方を主季語とする(秋のスケートとはまず解釈されないだろう)。それが難しい場合、第二ステップとして、竪題や横題の季語があれば新季語よりも優先する。新季語は明治以降にたくさん提唱ないし歳時記採用された季語であり、季感や認知が衰えたら比較的容易に排除され得るものである。「時鳥」と「サングラス」なら「時鳥」を主季語とする。「時鳥」と「ビール」だったら尚更で、「ビール」は新季語である上、一年中飲まれていて季感も弱くなっているので、迷わず「時鳥」を主季語とする。重要なのは、第一ステップが第二ステップに勝つ事である。前述の「月」と「スケート」はそれぞれ竪題季語と新季語だが、第一ステップにより「スケート」が主季語になる(第二ステップを用いると反対の結果になってしまう)。それらの方法でも駄目な場合は、第三以降のステップになるが、この辺は曖昧であり、俳人によって様々である。ここまで来ると「一句の中での働きで決める」「句に漂う季感で決める」とする俳人も多いが、それは容易な事でなく、同じ句でも俳人によって主従の決定が異なる事も少なくない。そして、それでも主従が決められない場合、季語の主従を説く俳人たちの殆どは主従の見えにくさを理由にその季重なりの句を不可とする。

 雪を月が照らしていて、「雪に月」という五音が入っている句があったとしよう。「雪」は冬以外にも見られるし、「月」は秋以外にも見られるので第一ステップは適用できない。例外として、春を示す語彙が別に入っていれば、春雪と春月と解釈され、春を示す語彙が主季語になってしまうだろう。しかし、季語が「雪」と「月」だけなら無理である。そして、いずれも新季語でないので、第二ステップも適用できない。しかも、「雪」も「月」も「雪月花」に含まれる最強の竪題季語なので、竪題と横題、比較的古い竪題と少し後の竪題といったような区別もできない。こうなると、個別の判断になると思うが、秋の句か冬の句か悩むはずである。秋雪と月の事なのか、雪と寒月の事なのか。そして、焦点にしても、雪が照らされている事と月が照らしている事とどちらを重んじるかは大いに疑問の余地がある。つまり、主従の判断はまず無理、歳時記分類は完全に無理であろう。季重なりを基本的に忌避する俳人からすれば、この状態ではどんな句であっても受け入れられないだろう。だが、「雪に月」という語句を含む秀句はないはと言えないのではなかろうか。特に、季語派でなく、両極端の季題派や無季容認派から見れば、「雪に月」という語句を含む秀句は可能であるはずだ。

 これが前回の世界俳句にどうつながるかと言えば、季語が成り立たない外国語俳句の場合(※季節性のある言葉、season wordは、和歌的ないし俳諧的な意味での本意・本情がないので季語ではない。漢字文化圏における季節性のある言葉は季語に近いが、厳密には季語ではない)、季節性のある言葉を含む句であっても実質上は無季(雑)の句であるから、季重なりは意味を持たない。また、季語の本意や本情が成り立ちにくい地域(主に海外。日本でも、沖縄等)にて季語が示すコトやモノを詠んだ日本語俳句の場合、その句は季語を含んでいたとしても実質上は超季(雑)の句であるから、季重なりはやはり意味を持たない。「季語の本意と本情はこうなのだから、それが成立しない地域においても季語は本意と本情で解釈されるべきで、季語でなくなる事はあり得ない」と主張して、サハラの蠅を詠んだ句を夏の句としたり、モスク(マスジド)の上の月を詠んだ句を秋の句としたりするのは、極めて失礼な事である。「蠅は夏で、月は秋なんだから、どういう場合でも夏と秋と解釈すべき」というのは、自分が相対した土地や人々や文化に全く心を砕かない態度であり、挨拶として最低の表現であり、そもそも連句の発句に季語が入れられた時以来の俳諧の挨拶性、精神そのものを大いに害する。きちんと、サハラの自然やイスラムの文化を理解した上で蠅や月を捉えるべきであり、いくら日本語で「蠅」「月」と表記されてもそれらは季語として機能していないのを理解すべきである。

 そうなると、「日本国内の大きい範囲の地域」で詠んだ日本語俳句においてしか季語は成立せず、それ以外の地域では季語入りの日本語俳句でも実質上は雑、外国語俳句なら季語の訳や現地の季節性のある言葉を入れても実質上は雑、という事になり、俳句の世界的普及の上で季語という概念が障碍、いや、その反対、無視できるものとなるのは自明である。無論、有季の句を作るか作らないか、また、有季を俳句の絶対条件とするかしないか各自の自由であるが、国外の俳句人口が国内のを上回っているという俳句の国際化の現状を鑑みれば、21世紀において季語固執はあまり広がりのない態度であると言えよう(「伝統」という言い方もできようが)。ただし、21世紀における俳句のあり方として、無季や雑を標榜するのも同様に莫迦らしい。無季や雑というのは、有季に対する概念であり、態度の本質は季語固執と変らない。しかも、無季を標榜しては、俳句及び季語が育った「日本国内の大きい範囲の地域」で詠まれる日本語の有季俳句を切り捨ててしまう事になる。そこで、もっと包括的な、一種のアウフヘーベン的な態度があっても良いという考えが浮かぶ。つまりは、季に捉われない、有季や無季・雑の概念を越えた自在季の精神である。その精神を以て、従来の季(キ)語(ワード)から、どの言語どの地域でも成立し、それぞれの言語・地域文化に特有の強い力を持つ、季に捉われないキーワードへの移行が行われ得る。無論、「日本国内の大きい範囲の地域」で詠まれる日本語俳句においては、竪題や横題の季語は大切なキーワードであり続け、自在季に基づくキーワードの概念は季語を否定しない。ただ、「日本国内の大きい範囲の地域」で詠まれる日本語俳句においても他の(雑の)キーワードがあり、他の地域や言語には(決して季語でない)多種多様なキーワードがあるという事である。


https://kangempai.jp/seinenbu/essay/2019/hotta05.html 【2019年12月 青年部連載エッセイ 世界俳句(9) 夢見る俳句(5)堀田季何】より

 世界俳句協会の創立20周年を記念した「世界俳句コンファレンス」が今年9月14、15日に東京で開かれた。同協会が世界各地で2年に1回開催している大会の10回目である。報道によれば、スロベニアでの創立大会には11カ国62人が参加し、19年後の今回は18カ国214人が参加した。アジアからは中国(内モンゴル含む)、ネパール、タジキスタン、マレーシア、ベトナム、アフリカからはシリア、イラク、モロッコの俳人が参加した。回によって参加国に変動はあるが、これまで五大陸すべてをカバーしていて、ここまで「世界」的な詩祭は日本では他にない(しかも俳句オンリーの詩祭なのだ!)。

 同協会は、言語によって世界中の人間が分断され、しかも翻訳に完璧がないという事実を踏まえながらも、同協会は「俳句を世界で共有するよううながすために、すべての言語での俳句創作と俳句翻訳の実践を促進すること」を使命の一つとしてきた。毎年『世界俳句』という優れた多言語俳句アンソロジーも発行している。今年3月に発売されたものは15冊目になり、51ヶ国 174人による39言語の503句が収められている。「国際」や「世界」を謳った団体や企画でも、実際は数カ国や数言語しか対応できていない場合が多いが、世界俳句協会は見事に「世界」という名前を関するに相応しい協会だと思う。確かに、世界の大きさに比べれば、世界の俳句人口に比べれば、規模はまだ小さいが、俳句史に、そして世界の詩歌史に種はしっかりと蒔かれた。芽も出てきたところである。少し遠い未来かもしれないが、世界俳句協会が始めた活動はその後継者たちによっていつかバニアンの大樹になるはずだ。

 さて、ブルガリアの詩人アレクサンドラ・イヴォイロワによる俳句を紹介したい。

    Pain.

    in it

    the infinity

    痛み/そのなかに/無限

 『世界俳句2005 第1号』所収の一句。世界俳句コンファレンスの基調講演で夏石番矢も引いていた俳句だが、極めて単純で極めて深い。5つの単語だけなのに、i(y)/n/t(基本的にはinとit)で押韻することで統一性を持たせていて、さらに短く感じられるようになっている。その短さの中で、痛みがブラックホールとホワイトホールを兼ねていて無限がそこに内在している。ただの「infinity」でなく「the infinity」としているところもポイントである。この句が内含している事はそれこそ無限に近く、文章にはできない。俳句だからこそ、あまりにも短くて何も言っているように見えない俳句だからこそ無限の長さの事を言い得ているように思う。そもそも、「Pain」と「inifinity」という抽象度の高い単語だけで上滑りしないのは、句が短いからであり、短いからこそ単語がキーワードとして発動し、読者の連想を次々に誘発されるからである。短歌でも長すぎてしまうのだ。

 結論。毎年出る『世界俳句』は買いです。和製英語で言えばマストバイです。

※著者の都合により、一部表現を訂正しました。2020.06.21