俳句は認識の瞬間を強調する詩文芸
https://ameblo.jp/7176ns/entry-12732155352.html 【祝!堀田季何主宰芸術選奨新人賞受賞と私の俳句】より
昨日(2022年3月15日)は令和3年度第72回芸術選奨の贈呈式でした。そして、昨年7月から入会している楽園俳句会の堀田季何主宰が芸術選奨の新人賞を受賞しました。
現代俳句協会のホームページです。
『人類の午後』堀田季何氏が芸術選奨新人賞を受賞 - 現代俳句協会 (gendaihaiku.gr.jp)
文化庁ホームページにある贈賞理由一覧には次のようにあります。
<戦争と戦争の間の朧かな><班蝶班蛾班蝶班>。堀田季何氏の俳句は極楽の文学、花鳥諷詠へのアンチテーゼである。独自の毒の花に匂い立つ夢魔の香は、やがて痛切に哀(かな)しい。なぜならその花は鉱石で出来ているから。本句集は自己陶酔に陥らず、認識を研ぎ澄ました批評哲学の結晶である。<人間を乗り継いでゆく神の旅><吾よりも高きに蠅や五六億七千萬年(ころな)後も>。人間の卑小さへの洞察が悠久の文明批評になった句群は、芭蕉が拓(ひら)いた地平を抜け、アフターコロナの新たな世界像を提示している。
(令和3年度(第72回)芸術選奨文部科学大臣賞及び同新人賞の決定について | 文化庁 (bunka.go.jp) から)
芸術選奨の選考審査員の文学部門は荒川洋治氏、尾崎真理子氏、恩田侑布子氏、小島ゆかり氏、篠田節子氏、野崎歓氏の6名です。少なくとも俳人の恩田氏が推薦し、あとは荒川氏ほかが賛成したものと想像しますが、この文章は、恩田氏が書いたものではないかと推測されます。それは、『人類の午後』の枝折に恩田氏が「夢魔の哲学‐ポストコロナへ‐」という文章を書かれているからです。
いずれにせよ、俳句が花鳥諷詠、人生哀感ばかりではないことの表明であり、宇宙、社会、人間などへの考察、鑑賞、感情を表現することへの積極的な肯定です。「批評哲学の結晶」とは、これまで「社会性俳句」という言葉もありましたが、「思想性俳句」あるいは「哲学俳句」と言ってもいい傾向の俳句の肯定と称揚です。
歴代の芸術選奨受賞者は次のページに一覧のPDFがあります。俳人の受賞はあまり多くありませんが、恩田氏は平成28年度の芸術選奨大臣賞を受賞されています。
芸術選奨 | 文化庁 (bunka.go.jp)
私が楽園俳句会に入ったのは昨年7月です。6月に現代俳句協会の通信添削を受けました。1ヶ月に6句まで添削をお願いできます。当時、私は従来よりも一層、写生ではない句を作るようになっていました。そして、AIに依存する人が多くなり、AI依存症が起こるとともに、マネキンにAIを搭載した疑似人間と生活する人も現れるのではないかという危機意識、自分が悲しいかどうかAIに判断を仰ぐ人も出てくるのではないかという危機意識からAIについての句を作りたいと思っていました。
しかし、2年半前から入っている麦の会ではAIの句は認めないだろう、AIの句はどう評価されるか知りたくて、添削を受けました。その講師が堀田季何氏で、はじめから俳句と認めて、丁寧に対応してくださいました。そして、彼が主宰する会に入会しました。6句のうちの4句です。これらは指導され、一部は修正して、句会等へ出しました。
夏の暮AⅠに聞く我が悲哀
我という他人が住むや夏の夜
脱ぐこともできないほどに鯰なり
秋の暮キリコの街を出られない
堀田季何主宰の受賞と贈賞理由の文章に私は救われました。これまで私の句は、句会などで、写生でないからダメだ、頭の中だけで作っているからダメだ、季語がないからダメだなどの否定で、始めから歯牙にもかけられないこともありました。そして、自分は悪いことをしているという後ろめたさがありました。しかし、今後、そのようなことを言う人は相手にせず受け流すことにします。
かと言って、自然を詠まないわけではありません。美しいと思う物事は美しいのです。ただ、美しいと知覚、認識する瞬間の構造や何故美しいと思うのかという理由に興味があります。また、何言ってるのかわからないという声は大切にしたいとは思います。いずれにせよ、自分の俳句はどうあるべきか考えながら、作りたい俳句を作って行きたいと思います。
なお、麦の会ではAIの句は採られないだろうと思っていましたが、対馬康子会長は地熱集で採ってくれました。
AIの愛が欲しくて氷菓食う 『麦』2021年9月号
AIに悲しむべきか聞く夜長 『麦』2021年10月号
楽園俳句会で掲載していただいたAIの句です。堀田季何主宰が選句する個個集です。
夏の朝AIに言う愛している 『楽園』2021年8-9月号(1巻3号)
AIの俳句を盗む子規忌かな 『楽園』2021年10-11月号(1巻4号)
土佐弁で語るAI石蕗の花 『楽園』2022年2-3月号(1巻6号)
やはり、お二人は私の師匠です。
俳句における2歳上と20歳下の指導者 | ここはいいところ (ameblo.jp)
AIは人間社会と人間そのものを大きく変えていくだろう、そのなかで人間の幸せとはどうなっていくのだろうと思っています。
昨年8月、第4詩歌集『人類の午後』と同じ8月6日に刊行された第3詩歌集『星貌』(句集)、そして、第2詩歌集『惑乱』(歌集)です。
https://araki-haikukai.sakura.ne.jp/2021/08/29/hottakika-jinruinogogo/ 【注目の俳人 堀田季何『人類の午後』】より
吾よりも高きに蝿や五こ六億七ろ千萬年な後も
弥勒菩薩の衆生救済までの時間と、コロナウィルスとに架橋したとんでもないルビに思わず笑わされる。 そして粛然とさせられる。 人類は地球を汚しデジタルマネーで文化の均一化までも目論んでいる。コロナ禍は地球からの逆襲である。はるかな未来の人の頭上にも一匹の蝿は悠然と飛ぶであろう。人間の卑小さへの洞察が悠久の文明批評となったポストコロナの秀句である。
未知の大きさをもって、堀田季何はしなやかに走り続けるであろう。現実は完結しない。そのリアルな切断から目が離せない。
https://note.com/muratatu/n/n1f0dd0695beb 【現代俳句界の表現多様化の見取り図―堀田季何「明日も春を待つー俳句の十年後の問題」】より
武良竜彦(むらたつひこ)
終刊となっている「季論21」という総合誌にかつて、「楽園」主宰で現代俳句協会幹事の堀田季何が、俳句界の未来を展望する論考を寄稿している。
堀田は「俳句は認識の瞬間を強調する詩文芸」だとする視点を提示している。
伝統俳句とか、前衛俳句とか、死語となりつつある大雑把な括りを使わず説明しようとしている。
「その認識は、内容だったり、言葉だったり、音だったり、文体だったりすることもある。」
作者が表現のポイントをどこに置いているかで分類する視点であり、分かり易い。
そして従来の俳句は長い間、一番の「内容」を伝えることが表現の主眼とされてきたと解説する。その例句として次の句を揚げている。
〇 内容表現派
流れゆく大根の葉の早さかな 高濱虚子
戦争が廊下の奥に立ってゐた 渡邊白泉
この「内容」表現派は今も多数を占めているが、堀田の分類ではそれが大きく二つに分類できると解説している。
一 古風巧(たくみ)派
伝統以上に伝統、いや、古風を志向しつつ、内容は類想を怖れずに、表現の巧みさに注力する方法
梅東風に荒々と蛸煮てゐたり 堀下 翔
喪ごころや麦茶の中をうごく茶葉 柳本佑太
枯蓮の上に星座の組まれけり 村上鞆彦
「内容」派はこの「古風巧」派以外に、
二 現代を句に反映させる表現派
これは四通りに分類できると堀田は解説している。
A 平凡な事物を特異な認識で捉え、読者へ面白くみせることに腐心する表現
例句 焼鳥の空飛ぶ部位を頂けり 岡田一実
焚火より手が出てをりぬ火に戻す 山田耕一
B 重たい(ヘビーな)内容でも深刻さ感じられないほどライトにする表現
例句 門松が対空砲のようにある 福田若之
春はすぐそこだけどパスワードがちがう 〃
君はセカイの外へ帰省し無色の街 〃
C 現代社会における重たい(ヘビーな)内容を読者にそのまま重く(ヘビーに)突きつける表現。
これは新興・前衛俳句の師系に連なる俳人によって長年詠まれてきた方法。
例句 車にも仰臥という死春の月 高野ムツオ
原子炉を遮るたとえば白障子 渡辺誠一郎
この高野ムツオは「小熊座」の主宰で、渡辺はその初代編集長であり、私もこの結社に所属する。師系は佐藤鬼房と金子兜太、兜太の師は加藤楸邨である。
この表現系列に当たる若い世代の例
人類に空爆ある雑煮かな 関 悦史
ビルディングごとに組織や日の盛 高柳克弘
社会的距離たんぽぽと私の距離 神野紗希
アフガンの起伏に富める蒲団かな 堀田季何
堀田自身もここに位置づけているから、彼女の結社「楽園」も同じだろう。
個人的な好みで偏見を述べさせていただくと、同じ「派」に属すると思われる、これらの俳人の句を、今はわたしは余り好きでなくなっている。
私もこの傾向の句を詠んできたが、やはり、頭の中だけで作っているような限界のようなものを、最近、感じている。
この方法を、もっと「わたし」という命の実感の現場から立ち上げる方法が、好ましいのではないかな、と最近、思案しているところだ。
D 意味そのものよりも内容が醸し出す空気感や雰囲気を売りにする表現。
例句 ガーベラに刺すコロナビールの空壜に 榮 猿丸
好きな淋しさ鶺鴒は頷きながら 佐藤文香
〇 現代の「新傾向」=極端化 「無内容派」の台頭
最後のDの一群の表現のように、しだいに顕著になってきている俳句表現のトレンドは「極端化」であり、この標準的な「内容」の伝達表現以外に、
「イメージ、言葉、音、文体を極端に強調するために敢えて無内容に近い形にして句」
が多様に台頭してきたと、堀田は解説している。
内容、つまり伝えたい表現上の主題が予め作者の中にないので、「無内容」に見える表現方法の多様化が進んでいて、「イメージ、言葉、音、文体」という言葉の属性を操作表現することで、何か一つの俳句作品らしさをぎりぎりのところで留め得る表現まで「極端化」されつつある、という意味だと思われる。
この態度は、かつては実験的に前衛俳句と呼ばれる一群の俳人たちが試みた方法で、彼等には自分の中に予め存在するとされる主題、メッセージそのものへの根深い不信感が根底にある俳人たちだった。
だから、自分がメッセージを伝えようとして表現するのではなく、「イメージ、言葉、音、文体」の操作によって表れる何かに、「語らせよう」として、何かが語られてしまうこと自身を拒否する表現にまで突き進んでしまった俳人たちが台頭し、多様に存在し始めたという意味でもあろう。
これは堀田の先の分類の一の「内容表現派」にたいして二、「無内容表現派」とでもいうべき方法だろう。
若い俳人に多いその一群の俳句例として、次の句を揚げている。
蝶啼く旅人たちを酢に沈め 九堂夜想
麿、変? 高山れおな
皿皿皿皿血皿皿皿皿 関 悦史
ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ 田島健一
いきものは凧からのびてくる糸か 鴇田智哉
くれなゐのとがりは肉の北寄貝 佐藤文春
せりあがる鯨に金の画鋲かな 生駒大祐
〇 作句態度の傾向
堀田は論考の最後に、作句態度の傾向を二種類に分類している。
● 高度な娯楽派
● 命の詩芸術派
高度な娯楽派としている佐藤文香の言葉「自分は不要不急コンテンツの担い手だという自負があり、『役に立たない』ということを売りにさえしてきました」を引いて、そのような覚悟の裏打ちがあってはじめて、何かしらの意味を持つ表現ではないかというような位置づけをしている。つまり「無内容」であることの「意味」を自覚しているという、屈折し、ひねくれた詩歌派が増えているということだろう。
この二極化が進むと展望しつつも、堀田自身の作句態度を後者の「命の詩芸術派」とし位置づけているようで、その気概をこめた次の文でこの論考を結んでいる。
※
後者は正反対で、急を要する、今この瞬間のコンテンツを言葉にする。高度な洗練とも片言性ともユーモアとも無縁で、時には血まみれ汗まみれ汚物まみれで、意味は限界まで込められ、読者の強い感情(悲しみ、怒り、不快感と言った場合もある)を引き出そうとする。「この戦争」を詠まなくてどうするのだ、今を生きているのだ、という態度である。(略)
※
堀田が分類してみせた現代俳句表現の見取り図で、自分がどこに位置しているか、自覚することは、意味のあることだ。
表現方法も、無自覚に受容するものではなく、選択創造するものであるという自覚を促してくれるだろう。
自分としては、どの表現方法に現代と切り結ぶ言語表現の可能性を見出すか、という重要な問題でもあるからだ。