雪月花
https://ameblo.jp/sawara20052005/entry-12470438075.html 【2019.3/7 俳句 貞徳 雪月花】より
「新版かなの上達法―俳句で学ぶかな書道―」(井上蒼雨 著/知道出版)より選句、習字
貞徳
雪月花(せつげっか) 一度に見する 卯木(うつぎ)かな
ウイキペディアによれば、松永貞徳は江戸時代前期の俳人・歌人・歌学者とある。
他に調べてみると、祖父は松永久秀、若くして、豊臣秀吉の右筆となり、朝廷から俳諧宗匠の免許を許されたとある。
松永貞徳が、京都市寺町二条の妙満寺で俳諧の会を催したのが句会の初めで、この時の式法が句会の基本となったそうだ。松永貞徳は、元祖、本家の俳人で、俳句は京都で生まれたということになる。
卯木(うつぎ)は、その名前に月(つき)を含み雪のように白い花が咲く、すなわち雪月花(せつげっか)が一度に見えるという言葉遊び。
雪月花(せつげつか、せつげっか)をウイキペディアで検索すると、白居易の詩「寄殷協律」の一句「雪月花時最憶君(雪月花の時 最も君を憶ふ)」による語とあり、漢詩から引用したものであった。
こういうのを、見立て(比喩)の句というらしく、初心者がこういうのを作ると、「おまえ、ものをしらんやっちゃなあ。俳句に、比喩と擬人は禁句だぞ。」ということになるらしい。
しかし、漢詩から必要かつ十分な言葉を引っ張ってきての言葉遊び、見立て(比喩)の句を、元祖、本家の俳人がしたのだから、してもよいのではなかろうか。比喩と擬人は禁句としたのは、恐らく後世の俳句の大御所あたりが言ったものであろうから。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498751114.html 【雪月花という思想】より
「雪月花」のこと
「雪月花」(せつげつか)という言葉は日本人にとって特別な言葉である。「言葉」というより「思想」と言っていい。
「雪月花」とは、当たり前だが。「雪」(冬)「月」(秋)「花」(春)のことを指す。
「花」とはこの場合、「桜」である。
つまり、四季折々の景物のなかでもっとも美しい風景、代表的な景物を指す。
春は桜 秋は月 冬は雪 ちなみに、これに「夏」の「ホトトギス」を加えたものが、
花鳥風月である。
私は「雪月花」も「花鳥風月」も根本的には同じ思想だと思っている。ただ、実は、「雪月花」には二通りの解釈がある。まず、一つ目の「雪月花」。
「桜」が咲き、そのまわりに「雪」が積もり、天空には「満月」がかかっている風景。
四季のあらゆる風景のなかでもっとも美しいとされている。
聞いた話だが、奈良の吉野山で見ることが出来る。見ることが出来る…といっても滅多に見れるものではない。
吉野山の桜守でさえ生涯で一、二度くらいしか見たことがない、と聞いたことがある。
この「雪月花」の風景は大伴家持の和歌が下地になっているようだ。
大伴家持は『万葉集』の編纂者と言われている。万葉後期第一等の歌人である。その和歌にこういうものがある。
雪の上(へ)に照れる月夜に梅の花折りて贈らむ愛(は)しき子もがも
【意訳】
雪の上に照る月明かりの夜に梅の花を折ってあなたに贈りたい。 そんな愛しい女性がそばにいてくれればいいなあ。この和歌の場合の「花」は「梅」を指す。
平安時代以前は「花」といえば「梅」だったのである。この風景が「雪」「月」「桜」の取り合わせに発展した。
もう一つの「雪月花」は、四季の折々の美しい風景という意味である。
こちらは「花鳥風月」と同じような考えだろう。ただ、雪月花にはより深い意味がある。この「雪月花」は唐の詩人・白居易(白楽天)の漢詩「寄殷協律」から来ている。
五歳優游同過日 一朝消散似浮雲 琴詩酒伴皆抛我 雪月花時最憶君(以下略)
【意訳】
君と過ごした五年の日々は、或る朝、浮き雲のように消えた。
琴を弾き、詩を詠み、酒を交わした友は、皆、私のもとを去ってしまった。
雪を見ても、月を見ても、花を見ても思い出すのはいつも君のことだ。
このことについて語っているノーベル賞作家・川端康成のスピーチがある。
雪の美しいのを見るにつけ、月の美しいのを見るにつけ、つまり四季折り折りの美に、自分が触れ、目覚めるとき、美にめぐり合う幸いを得たときには、親しい友が切に思われ、この喜びを共にしたいと願う。つまり、美の感動が人なつかしい思いやりを強く誘い出すのです。
この「友」は、広く「人間」ともとれましょう。
また「雪、月、花」という四季の移りの折り折りの美を現す言葉は、日本においては山川草木、森羅万象、自然のすべて、そして人間感情の美をも含めての、美を現す言葉とするのが伝統なのであります。
~川端康成ノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私」
つまり、…・「雪月花」とは単なる「風景」ではない。美しい風景を見て、この風景をあの人と一緒に見たい、あるいは見せてあげたい…。そういう思いは誰もが経験したことがあるはず。私もきらきらとした夏の海の輝きを見ていると、亡くなった父や叔父のことを思う。
そして、死というのはこの素晴らしい光景をもう一緒に見ることが出来ない、ということなのだ、としみじみ思う。
おそらく、こういう思いが「雪月花」の思想なのである。
この白居易、川端康成の思いを詩歌、そして俳句を愛する人、もっと言えば日本人すべてが受け継ぎ、発展させている。
なんとなく「雪月花」などというと古臭い観念を想起してしまうが、時代が変わってもこの思いは変わることがないと思う。
松尾芭蕉が言っていた「不易」というのも、こういう思想の類ではないか。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498741468.html 【雪月花(せつげつか) 飯田龍太】より
雪月花わけても花のえにしこそ 飯田龍太(いいだ・りゅうた)
(せつげつか わけても はなの えにしこそ)
「雪月花」の思想には二つあることはずいぶん以前に書いた。
桜の頃(2009・3・2)
http://blogs.yahoo.co.jp/seijihaiku/28537054.html
丸谷才一『八十八句』より (2013・10・10)
http://blogs.yahoo.co.jp/seijihaiku/35435818.html
これは白楽天の「雪月花」と考えていいだろう。
雪月花時最憶君(雪月花の時、もっとも君を想う)
花を見るにつけ、月をみるにつけ、雪を見るにつけ、思い出すのは君のことだ…、という思い。
自然は美しいが、しかし、本当に自然が美しいと感じるのは、家族や恋人、友人など、自分が大切に思う人がいるからなのだ、と、この詩は教えてくれる。
文豪・川端康成もこう言っている。
雪の美しいのを見るにつけ、月の美しいのを見るにつけ、つまり四季折り折りの美に、
自分が触れ、目覚めるとき、美にめぐり合う幸いを得たときには、親しい友が切に思われ、
この喜びを共にしたいと願う。
つまり美の感動が人なつかしい思いやりを強く誘い出すのです。
この「友」は、広く「人間」ともとれましょう。
掲句。
「雪月花」すべて美しいが、私にとっては「花」(桜)の縁(えにし)こそがもっとも思い出深く、美しいのです、と言っている。
「理由」は言わない。言わなくてもいいのだ。「理由」は作者の心の中だけにある。
その大切な思いを心に秘めながら、作者は満開の桜を見上げている。
桜の美しさ、月の美しさ、雪の美しさ、そのほか自然の織りなす様々な風景すべてに出会える喜び。
そして、かけがえのない人たちとの思い出、それこそがこの世でもっとも美しい…と言っている。おそらく、その共有しあった人はもうこの世にはいないのだろう。
その人との思い出は、作者の心と、桜だけが知っている。
桜の花を浴びながら、静かに移りゆく時間を、森羅万象を、作者はしずかに胸に受け止めている。
さまざまのこと思ひ出す桜かな 芭蕉