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斬られたる大蛇より月のぼりけり

2024.09.18 05:57

FacebookYuriko Ohnoさん投稿記事

今日は中秋の名月です。 ベランダからの写真。

中秋の名月は旧暦の8月15日のお月様です。今月の満月は明日になります。

月見団子は、丸い形をお月様に見立てて、収穫を神様に感謝するための供え💗  今晩は。いただいた月餅を食べてお月様をめでたいと思います。

月読命さまとも繋がってみましょう🌕


https://kojiki.kokugakuin.ac.jp/shinmei/tsukuyominomikoto/ 【月読命】より

月読命 読みつくよみのみこと ローマ字表記 Tsukuyominomikoto

登場箇所 上・三貴子の分治

他の文献の登場箇所

紀 月神(五段本書、顕宗紀三年二月)/月弓尊(五段本書・一書一)/月夜見尊(五段本書・一書十一)/月読尊(五段本書・一書六)

山背風 月読尊(逸文▲)  筑紫風 月神(逸文▲)  拾 月神(天地開闢)

旧 月読尊(陰陽本紀、神祇本紀)/月夜見(陰陽本紀)/月弓(陰陽本紀)/月読命(陰陽本紀)/月弓尊(陰陽本義、神祇本紀)/月夜見尊(神祇本紀)

神名式 月読宮(伊勢国度会郡)/月夜見神社(伊勢国度会郡)/葛野坐月読神社(山城国葛野郡)/月読神社(山城国綴喜郡、壱伎島壱伎郡)

梗概

 黄泉国から逃れてきた伊耶那岐神が、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊をした際、右目を洗った時に生まれた神。天照大御神・須佐之男命と並ぶ三貴子の一柱で、伊耶那岐神から夜之食国の統治を命じられた。

諸説

 神名について、『日本書紀』五段本書には「月神」とあり、注に「一書に云く、月弓尊、月夜見尊、月読尊といふ」とある。「月夜見」と「月読」はどちらもツクヨミと読まれるが、上代特殊仮名遣いでは「読」のヨは乙類の仮名、「夜」のヨは甲類の仮名であり、異なる発音であったと考えられる。これらの別名は、同段の「一書」の各伝に見られ、それぞれの伝の元になった原資料ごとの神名の違いを反映していると考えられている。また、元来は神名ごとに別の神であったのが、編纂の際に同一の神として統合されたとする見解もある。

 神名の意義は、「月読(つくよみ)」は月齢を数える意で、暦に関係する名とする説がある。「月夜見(つくよみ)」は、暗い夜を照らすことによる名とする説や、「月夜」を「月」と同義、「見」を神霊の意として、月の神霊の意と捉える説がある。「月弓(つくゆみ)」は、弦月に基づく命名とする説や、「月夜見」の音変化(「弓」は借字)とする説がある。

 『万葉集』では、月そのものを指してツクヨミと称しており、「月読」(4・670、4・671、7・1075)「月夜見」(13・3245)「月余美」(15・3599、15・3622)と表記されている。月を男性とみた、ツキヒトヲトコ(10・2010、10・2043、10・2051、10・2223、15・3611)、ツクヨミヲトコ(6・985、7・1372)、ササラエヲトコ(6・983)といった擬人的な表現も見られる。

 この神は、伊耶那岐神の禊によって天照大御神・須佐之男命とともに生まれた、いわゆる三貴子の一柱で、日の神に対置される神である。しかし、他の二柱が記紀神話内で目立った活躍を見せているのに比べて、この神は、誕生の場面以外では一部の異伝を除き殆ど登場しない。したがって、月の神であることはわかるが、その具体的な神格や背景にある信仰の実態などは明らかにしがたい。

 『日本書紀』の諸伝での描写を見ると、三貴子の誕生が語られる第五段の本書や一書一、一書五では、月の神は日の神に並ぶ存在として、ともに天上もしくは天地の支配が命じられている。

 一書六は『古事記』と最も近い内容を持つが、月の神が夜の世界ではなく海の支配を命じられている点が異なる(『古事記』では海の支配は須佐之男命が命じられている)。月と海との結びつきは、『万葉集』でも、「天の海に 月の舟浮け 桂梶 掛けて漕ぐ見ゆ 月人をとこ(壮子)」(10・2223)といった例が見られるが、こうした海にまつわる月の信仰は、月と潮の干満との関係に基づくもので漁民に由来するであろうと推定されている。

 一書十一では、月夜見命が天照大神に命じられて葦原中国へ行き保食神を訪ねるが、保食神を殺してしまったことで天照大神の怒りを買い、このために日と月とが一日一夜を隔てるようになったと伝える。農耕や食物の始原にまつわる神話であり、ここには月の神の農耕神としての一面がうかがわれる。月は暦を測る基準として農耕に深く関係しており、月によって暦を測った例は、『万葉集』の「月よめば いまだ冬なり しかすがに 霞たなびく 春立ちぬとか」(20・4492)という歌などに見いだされる。なお、食物神が殺害される食物起源神話は『古事記』にも見られるが、月読命が保食神を殺害するのではなく、須佐之男命が大宜都比売神を殺害する内容となっている。

 『日本書紀』の月の神の持つ、海の支配者(一書六)、食物神の殺害(一書十一)といった神格を、『古事記』では須佐之男命が担っている点で、月の神と須佐之男命の神格に共通性があることが指摘されている。こうした神格を、本来は月の神が担った要素と捉え、元々の日と月の神話の中に、新たに須佐之男命が組み込まれて三貴子の形になったことによって、月の神の役割が須佐之男命に取って代わられたものとする説がある。

 この他、月を不死や再生の象徴もしくは人間の死をもたらす者として信仰した例も世界的に多く、これは月が満ち欠けを繰り返すことに基づいた思想と考えられる。『万葉集』には、「……月読の 持てるをち水 い取り来て 君に奉りて をち得てしかも」(13・3245)という歌に、月が若返りの水(をち水)を持つという信仰が見いだされ、後世には、沖縄県宮古島などにこれとよく似た月にまつわる伝承が見いだされる。日本本土でも古来、元旦に若水を汲む習俗が全国的にあり、古くは平安時代の立春の宮中行事として確認できることから、月と死・不死とが結びついた信仰が古代からあったとも推測されている。

 三貴子の一柱として著名な月読命であるが、記紀神話上の位置づけや神格、また、民俗的な月の信仰との関係性など、明らかになっていない点が多い。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/moon.html 【Moon(月)】より

「エジプトの聖職者は月を『宇宙の母』と名づけた」とプルータルコス(46?-120? 古代ギリシアの哲学者、伝記作者)は述べている。なぜならば、月は、「湿気を与え、妊娠させる光を持ち、生ける者の誕生と植物の結実を促進する」からであった[1]。上エジプトはかつてケメヌ(「月の国」)と呼ばれていた[2]。天体を礼拝するとき、最初の礼拝はつねに月に捧げられた[3]。バビロニア人は太陽よりも月に優位を与えた。

 一般に東方の諸国は太陽崇拝より前に月を崇拝していた[4]。モーセ・マイモニデス(1135-1204。スペイン生まれのユダヤ人哲学者、ユダヤ教神学者)は月崇拝はアダムの宗教だと言っている[5]。ヘビを崇拝するナアセン派(Naassians)と呼ばれるグノーシス主義の一派は、「天界の月の角」として知られる原初の存在を信仰していた[6]。月は永遠の「太母神」であった。中央アジアでは、マーヤーの鏡のように、月は世界のすべてを映し出す女神の鏡であると言われていた[7]。

 未開人の多くは太陽より月を崇めた。太陽は昼間輝くだけであるのに反して、月母神は夜、光が必要なときに、光を与えてくれるという理由からである。この信仰は、日光と昼光は同じではないという、原始人に共通に見られる考え方を前提としている[8]。聖書記者はこの同じ誤りを犯している。彼らは、神は太陽と月の前に「光」(昼の光)を作ったと述べているからである(『創世記』 1: 5、 16)。

 アシャンティの人々は、すべての神を総称するときに、「月」を意味するボシュンという語を用いた。パスク語では、「神」と「月」は同じ語であった。インディアンのス一族は、月を「決して死ぬことのない老婦人」と呼び、イロコイ族は「永遠なる者」と呼んだ[9]。南アフリカのエリトリア地帯の支配者は、女神の名「月」を名乗っていた[10]。トゥトシ族の古代の支配者はムウェジ(Mwezi、月)と名づけられた[11]。

 月を指すゲーリック語はgealachであり、ゲール族とガリア族の本来の「月母神」であるガラまたはガラタに由来する語であった。英国はかつてアルビオン(「乳のように白い月母神」)と呼ばれていた。ペルシア人は月を「その愛がいたるところに浸透する」メトラ(マトラ、「母」)と呼んだ[12]。

 「月」 moonと「精神」 mindの語源はともに印欧語の manas、 mana、あるいはmenであった。マナは、女性の中にある 「太母神」の「知恵の血」を表し、その血は月に支配されていた[13]。その派生語maniaは、かつては悦惚たる啓示を意味した。ちょうどlunacyが、「月」 Lunaの精にとりつかれることを意味したのと同じである[14]。

mana、あるいはmen

 manaあるいはmenは、古代ローマ以前の時代の女神メンルウァ(ミネルウァ)の名のもととなった。さらにmentality(知恵)、 menstrual(月経の)、 menology(月別聖人伝)、 menage(家政、母系の家庭)、 omen(前兆、月からの啓示)、 amen(アーメン。再生をした月)などの語を派生した。

 「呆然となる、気が狂う」 moon-touched、 moon-struckことは女神によって選ばれたことを意味した。「精神薄弱者」 mooncalfは、女神に愛され連れ去られた者のことであった。父権制l社会の思想家が女神を矮小化したとき、これらの語は単に狂気を指すだけとなったのである。月に打たれた(moon-struck)者は「愚か」 (silly)と言われたが、sillyも以前は「祝福される」(blessed)ことを意味し、おそらくセレネーSelene(月)から派生した語と思われる[15]。

 ギリシア人にとって、 menosは「月」と「カ」をともに意味した。ローマ人にとって、「月母神」の徳性は「太陽神」のそれより優位におかれた。プルータルコスは述べている。「月の影響は理性と知恵のもたらす影響に等しい。一方、太陽の影響は体力や暴力によって引き起こされる影響と同じように思われる」[16]。

 多くの文明において、「月母神」と「創造女神」は同一であった。ポリネシア人は「創造女神ヒナ」を「月」と呼んだ。ヒナは最初の女性で、すべての女性はヒナを型どって造られたワヒネ(wahine、ポリネシア婦人の意)であった[17]。フィン族にとって「創造主」はルオンノタル(ルナ、月)であった。彼女は海の上で巣ごもり、「世界卵」と天と地を生んだ[18]。スカンジナヴィア人はときには創造主マルドルを「海の上に輝く月」と呼んだ[19]。

 「月母神」は、創造、成長、衰退、破壊という月の周期をくり返して、時を創った。古代の暦が月の相と月経の周期にもとづいて作られた理由はここにある。point.gifMenstrual Calendar. インドのある地方では、今日でもなお月の朔望によって農作業の時期を決定している[20]。インドネシアの月の巫女たちは、それぞれの仕事に適した正しい月の相を見出す責任を負っていた。ダヤク族は子供の誕生、ウシの増殖、穀物の豊穣を月に祈った。彼らは月が時を創り、時を測ると言った[21]。ギリシア人はデーメーテールについて同様のことを言い、デーメーテールに仕える祭司は「月の息子たち」と呼ばれた[22]。

 ペルーの人々は月をママ・キラあるいはママ・オグロと呼び、ときには、デーメーテールとコレーのように、この2人を母と娘であるとした。ママ・キラは太陽と結婚し、月の乙女ママ・オグロ(卵)と、その兄弟の太陽の男を生んだ。この2人が結婚し、クスコの地にインカの王統を創設した。クスコは「へソ」を意味し、インカの宇宙論ではクスコは世界の中心であった[23]。

 「月女神」は三相一体の女神で、創造主であるとともに破壊者であるため、生命を与える神であり、同時に死者を貧り食う神であった。メキシコにおいては月女神の破壊者としての相が、貧り食う者を求めて、夜に空を徘徊するミクテカシワトルとなった。彼女は「破壊者カーリー」と同様の姿をしており、「死者の国の女神」と呼ばれた。月であるばかりでなく、「万物の母」であり、大地にあるミクテカシワトルの生殖器の穴から、初めに人間が這い出で、再びその穴に戻って行くとされた[24]。

 ヴェーダは、すべての霊魂は死後、月に戻り、そこで母なる霊たちに食い尽くされる、と言う[25]。トロプリアンド諸島(ニューギニア東端の北方にある群島)の人々は、この霊たちのことを、死者を食う月と結びつけて、「女魔法使い」として語った[26]。マオリ族は「月母神」を「人食い」と呼んだ。中央アジアのタタール族は、人間を食べると言われる「生と死の女王」マハ・アラとして、月を崇拝していた。アフリカ人は、月は人間を探し求めて貧り食うと言った[27]。

 オルペウス教徒とピュタゴラス学派の人々は、月を死者の家、女性の門(女陰)と考えていた。そこを通って霊魂は星のきらめく天国の野へ行くのである[28]。ギリシア人はしばしば、エーリュシオン(神に愛された死者の家)は月にあるとしている[29]。カストール・オブ・ロドスは、ローマの元老院議員の靴は、死後、月に住むことを示すため、象牙の新月型(三日月)の飾りが付いていた、と述べている[30]。

 ローマの宗教は、「正しい者の霊魂は月で浄化される」と教えた[31]。

 三日月を身につけることは、女神崇拝を人の目に示すものであった[32]。予言者イザヤが月の護符を身につけていたシオンの乙女たちを非難したのは、この理由によるものであった(『イザヤ書』 3: 18)。

 ディアーナが身につけ、他の女神たちから崇拝されるときに用いられた三日月は、方舟、または舟型の器と言われており、豊穣のシンボル、または「あらゆる生命の芽生えの容器」であった[33]。同様の方舟が、ウシル〔オシーリス〕の場合のように神々を死へ運んだのであって、エレミアが、方舟の象徴に敵意を持っていた理由はここに由来するのかもしれない(『エレミア書』 3: 16)。

 セム族は、ヒンズー教徒が貧り食うカーリカーを恐れる如く、人を貧る古い月を恐れた。月の二元的な性質が、セム語のima(母)とe-mah(恐怖)の相互関係を明白に表すものと思われる[34]。

 迷信深いキリスト教徒は、月光がさすところで眠ることを拒否する。ロージャー・ベーコン(1214?-94? 英国の哲学者、科学者)によれば、「月の光から身を守ろうとしなかったために、多くの者が死んだ」と言う[35]。つねに月は死と結びついていた。

「死後、月へ旅立つという考え方は、進歩した文明社会においてもなお失われずに残っているものの1つだ。……月の主題が『死者の国』であり、霊魂を再生させる容器であることは、容易に納得できる。……月が生物の生成ばかりでなく、分解をも支配する理由の1つがここにある[36]。

 再生するまでの霊魂の容器であるところから、月は、死者といまだ生まれない者たちの両方に隠れ家を与えた。この両者は同ーのものであったからである。夢の予言を信じる者たちは、男性が夢で月の中に自分の姿を見たら、男の子の父親になると言った。もし女性が夢で月の中に自分の姿を見たら、その女性は女の子を生むとされた[37]。

 月と生誕を結びつける最も重要なこととして、母親は経血から子供を生むが、月はその経血の容器と考えられていた。神々でさえ、この禁忌的なsacer月の液体によって、活力を保っていた。月は「死ぬことのない生命の液体の杯であって、植物界と、月下の地球で生育するあらゆるものに活力を与え、天界の不死の神々をも活気づけるもの」であった[38]。

 月への旅立ちを諮る多くの神話が、月の天国に対する古代人の信仰を証明している。ジプシーは、「霊魂導師へルメース」のように月に霊魂を運ぶジプシーたちの救世主を信仰して、キリスト教の救世主に対抗した[39]。

 月への旅立ちの神話の中で最も奇妙なものはイエス自身が出てくる神話である。 16世紀のディグピィの宗教劇†は、 「イエスが、太陽に昇る前に留まりし……彼の母にして、器なる『月』に捧げし頒歌」を引用している[40]。

ディグピィの宗教劇

 英国のルネサンス時代の受難劇「マクダラのマリア」。作者不明だが、マイルズ・プロムフィノレデの作とも言われる。

 フランスとポルトガルの農民は、イエスの母親と「月母神」を混同し、「月母神」を「聖母マリア」、「神の母」と呼んだ[41]。スコットランドの女性は、月を見たときに、おじぎをして「きれいな月ね、神の祝福があるように」と言った[42]。ロアール地方には、「月の奥さん、赤ちゃんをくれる人」という童謡があった[43]。中世ドイツのカタリ派は、月を、へヴァ(イヴ)、「万物の母」、「聖母マリアの年をとった化身」として崇拝した[44]。カトリック教会でさえも、イエスが第2のアダムであるならば、マリアは第2のイヴであると考えた。さらにマリアは月と海の両方に結びつけられていた。

 月は海の干満を支配するため、生と死の潮を支配すると考えられた。海の近くに住む人々は、赤ん坊は満ち潮のときに生まれ、死の床にある病人は、潮が引くまでは死ぬことはないという根強い確信を抱いていた。その結果として、満潮あるいは満月のときに生まれた子供は幸福な一生を送る、としばしば言われた[45]。へステルバッハのカエサリウスによれば、霊魂は月の姿となって潮に乗るのかもしれないと言う。そして「霊魂は、月の球のように、球状をした霊的物体である」とされた[46]。

 スコットランドの少女は、女性にとって最も幸運な満月の日以外に結婚式を挙げようとしなかった[47]。スカンジナヴィアの女性は、月を表す金属である銀で作った護符を大切にした。ルネサンス時代においてさえ、月は女性にとって特別な神であって、その当時には、何か願い事があったら、神に祈ってはいけない、代わりに月に祈るように、と言われた[48]。

 魔女たちは「月を招きおろして」、彼女たちの女神に祈願した。これはキリスト教時代より数世紀前の、月を崇拝していたテッサリア(古代ギリシア北東部)にまでさかのぼる儀式であった[49]。テッサリアの魔女もまた、「月の露」を用いて呪いをかけることによって、「魔術」をあらかじめ示した。「月の露」とは、月食の間に集められた初潮を迎えた少女の経血のことである[50]。中世の民衆は、このような呪いは解くことができないと信じていた。

 聖アウグスティヌス(354-430)および教会の神父たちは、ウェルギリウスが「月の~女」について言ったことを信じていた。すなわち彼女たちは、月を招きおろし、呪文で川の流れを止め、星の運行を逆にし、木を歩かせて山からおろすことができた、というものである[51]。聖アウグスティヌスは、「新月の目に1日中、厚かましく下品な踊りをしていた」という理由で女性を叱責した[52]。

 宗教的なシンボルの中で、月ほど多くの異なった内容を持つシンボルは余り見られない。古代北欧の月別聖人暦では、三日月の鎌は収穫祭を表していた。スコットランド人はこの祭りをキルン(コレーイオン。月の乙女コレーに由来する語)と呼び、キリスト教徒は、さらに名前を変えて、「慈愛深き聖母の祭り」と呼んだ[53]。

 ガリアでは、三日月はドルイド教のディアーナを表した。 Crescereはラテン語のcreare (創造する、生産する)の活用形で、「成長する」を意味した[54]。Crescent(三日月)はこの語から派生している。ガリア人は聖餐のパンを三日月型に作ったが、フランスでは今でも三日月型のパンを作り、「クロワッサン」croissants(三日月)と呼ぴ、日常語では「月の歯」として知られている[55]。

 月は女性の性欲を支配し、女性はそのために、ときには男性主導社会の階層意識を噸笑するようなことを起こした。 1688年に出版された占星術の本は次のように警告している。「金星と月が二重結合するとき、女性はきわめて淫乱になり、性病にかかったり、良家の女性が下僕に心を奪われたりするようになる」[56]。

 あらゆる教会の非難にもかかわらず、農村の人々は、最も大切な良作業をするにあたって、「月母神」を信頼し続けた。広く流布されていた暦書には「塩漬けの煉製にする肥ったプタは満月の頃殺すこと……月が満ちていくとき、ヒツジの毛を刈ること……満月が欠付始めたら、木を伐り倒せ……ウマやロバは月が満ちて行くとき、かけ合わすべし。月が欠けて行くときできた仔ウマは丈夫に育たない……月が欠けて行くとき、果実を集め、ウシを去勢するのがよい」と書かれていた。何よりも特筆すべきは、月はつねに魔術を支配していた、ということである。メルトンは1620年に、いかなる魔法使いも、月の相を観察せずに、魔術の開始を意味する護身の輸を描くことはなかったと述べている[57]。