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日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ

権力は必ず腐敗する。40年も永田町を見てくれば、この言葉がいかに真実であるか、身を持って知ることになる。(1)

2024.09.19 05:39

(2024/9/19)

『文藝春秋と政権構想』

鈴木洋嗣  講談社   2024/7/3

<はじめに>

・編集者は黒子である。そう考えてきた。

 本来ならば、政権構想の内幕など活字にするようなことではないかもしれないが、いまの雑誌の有り様、コロナ記事、SNSの大隆盛をみて、気が変わった。

「スクープの99パーセントはリークなんだよ」と教えてくれたのは、ノンフィクション作家の佐藤正明だ。

・「だいたい、企業の中で派閥同士の内紛があったりトラブルがあったりするからこそ、絶対に外部に出ないはずの機密情報が洩れてくる」

<「創政会」誕生当日、竹下昇の顔面蒼白>

・雑誌で政治に関わる取材を始めて今年で40年となる。

・ただ、最後に竹下登がクルマを降りてくるところは、運良く絶好の位置にいた。顔面蒼白とは、こういう人のことを言うのだな、あの表情はいまも忘れられない。

 結局、田中派121人のうち、竹下についたのは40人だった。

<週刊誌記者としての駆け出し時代>

・当時、永田町において週刊誌記者の地位は低く、政治家にはまったくと言っていいほど相手にされない。国会議員に面会のアポを取るのも一苦労であった。

・特に公平公正、中立を旨とする公共放送・NHKの記者はせっかくの特ダネも立場上、書けないことが多い。「ウチでは出来ないから」と取材メモを丸ごとポンともらったことも一度や二度ではない。余談になるが、週刊誌記者が訪ねてこないような記者さんは周りから評価されていないことを自覚すべきだろう。

<印象に残る4つの仕事>

・私の40年のキャリアを説明しておくと、ざっくりいえば、週刊誌が20年弱、月刊「文藝春秋」とは15年ほどの関わりがあった。

・その中で印象に残る仕事が四つある。

 いちばんの強烈な記憶は、2012年、安倍晋三第二次政権が打ち出す「アベノミクス」の基本的な設計に関わり、月刊「文藝春秋」に安倍の政権構想を掲載したことだ。第二には、安倍長期政権に続く、2020年の菅義偉政権誕生の折り、インタビューをしてまとめた「我が政権構想」である。

 さらに三番目としては、古い話で恐縮だが、新党ブームの草分けの記事だ。1992年、田中派支配に「待った」をかけた細川護熙「自由社会連合結党宣言」の立ち上げを仕掛けた。そして最後は、バブル崩壊後、あまたの銀行、証券会社が破綻した金融危機に際して、1997年に発表した梶山静六「わが日本経済再生のシナリオ」であった――。これらの記事に共通しているのは、いずれもリークによって出来た記事ではなかったことである。

<雑誌ジャーナリズムの立ち位置>

・永田町を長く取材していて気づいたことがある。大手メディアの政治記者は政局しか取材しないことだ。彼らの関心事は、第一に人事であり派閥の動き、第二に選挙、三番目は国会の動向、予算の中身、そして、外交、政党間の離合集散と続く。不思議なことに、政治記者たちは政策、とくに経済・金融政策についてあまり興味を持っていない。そもそも取材対象になっていない。

・結果、国民生活にとってダイレクトに重要な経済政策は、メディアのセクショナリズムの狭間に落ち込む形となっている。このビルの谷間に気づいた時、この狭間の空間こそが雑誌ジャーナリズムの出番なのではないかと考えた。

<司馬遼太郎さんの「文藝春秋」論>

・一方の陣営からリークされた情報を相手サイドに当てて(事実確認をすること)書く、そんなスタイルの記事があまりにも多いのではないか。むろん自分もそうした仕事を数多く手掛けてきたのであって、その重要性もよくわかる。政権を倒すことに繋がったスキャンダルも、いくつか関わった。だがしかし、そうしたジャーナリズムばかりじゃない気もする。司馬さんの言われた「リアリズム」のある、本質を捉えた記事を書きたいと思ってきた。

<政治家に対する本質的な理解>

・とくに政治ジャーナリズムの難しさは、当事者が権力ある側の常にとして最大限、批判のターゲットとなることだ。政治家は記者たちに対して身構え、本当のこと、本音をなかなか明かさない。逆に懐に飛び込むことができても特定の政治家ベッタリでは「御用記者」と言われて読者、国民の信用を失う。

・長いあいだ、接触することすら困難であった梶山静六と、ある程度打ち解けて話ができる関係となり、議員会館で政策論議になったことがあった。意見は激しく対立した。

<政治家たちに鍛えてもらった>

・そして、雑誌編集者としてのわたしを鍛えてくれたのは梶山たち政治家だったと思う。この本に掲げた4人の政治家は、それぞれ別の角度から影響を受けたように思う。

・確かにこの40年間、読者の代理人として総理も総裁も山口組組長もみな会うことができた。その都度、普通のサラリーマンでは経験できないような場面に何度も立ち合ってきたように思う。

・これから書いていこうと思うのは、政権構想や経済政策をめぐる、政治家たちと一編集者との関わりの物語である。

<安倍晋三>

・鳴り物入りで始まった経済政策「アベノミクス」。その策定にひそかにかかわった筆者は、次第に疑問を抱くようになる。無制限金融緩和、ゼロ金利継続は本当に正しかったのか? 2014年、アベノミクスに代わる新しい経済政策「ジャパノミクス」を提案したが、「官邸官僚」今井尚哉によって葬り去られる。安倍晋三は結局、「経済のひと」ではなかったのか。

<新橋第一ホテルのロビー>

・2009年の総選挙では、いわば「政権交代」が政権構想。インパクトは強烈だった。この「政権交代」のお題目が自民党政治にうんざりしていた有権者の胸に響いた。国民は、こぞってこの「政権交代行き」のバスに乗り込んだのだが、このバスの乗り心地、迷走ぶりはひどいものであった。

<菅が安倍晋三を口説いた日>

「オレは安倍なんだよな」

 長い沈黙のあと、はにかんだように菅が呟いた。菅は第一次政権をつくったときに「再チャレンジ議連」を立ち上げたのと同じように、派閥横断的に安倍を推す準備を密かに進めていた。しかし、私にはインド外遊中に食べたカレーでお腹を壊し、政権を投げ出したような男に、ふたたび総理が務まるとはどうしても思えなかったのだ。

・ついに安倍は重い腰をあげた。菅は安倍を担いで、9月26日の自民党総裁選の決選投票において石破茂を破った。党員投票では負けたが、国会議員の投票で逆転。大番狂わせであった。

<「政権構想をください」>

・「安倍さんを担ぐのをやめようなどと言ったのは、まったくの不明でした……。これから第二次安倍政権誕生となるわけですが、ついてはお恥ずかしいのですが、政権構想をいただきたい」

 この厚かましい依頼に、菅は声もなく笑っていた。多くを語らず、「じゃあ、総裁特別補佐の加藤に会ってくれ」と段取りをつけてくれた。

<「すごい大学教授がついている」>

・この時期に菅はわたしにこう洩らしていた。

「実は我々のブレーンには大蔵省出身のすごい大学教授がついているんだ」

・しかし、さほど時間が掛からず、その新たなブレーンの一人が静岡県立大学教授の本田悦朗だとわかった。安倍が総理の座を退き逼塞していたこの数年のあいだに、山梨県鳴沢村の別荘でご近所付き合いをしながら経済や金融のレクを受けていたという。香川にとっては大蔵省入省の一期先輩に当たる。大蔵省現役官僚のころの評価はいまひとつの人物であった。その本田が安倍に説いたのが「無制限金融緩和」である。

 当時、1990年代のバブル崩壊以降、日本経済はデフレに喘ぎ、「失われた10年」に次いで「失われた20年」というフレーズが使われて久しかった。

<野田政権下での財務官僚たち>

・民主党政権の3年間、とくに三人目の首相となった野田佳彦政権の官邸では財務官僚の影響力は絶大であった。

 民主党政権の生みの親である小沢一郎の構想として、発足当初は「脱・官僚」すなわち役員を排除する政治主導を唱えていた。

<「新しい国へ」政権構想づくり>

・急ピッチで政権構想づくりが始まった。「新しい国へ」と題した安倍の新しい政権構想は次のように書き始められる。

「『自民党は変わったのか』『安倍晋三は本当に変わったのか』――総選挙を間近に控えて、有権者の方々からそうした疑問の声をいただくことがございます」

「総理大臣を務めていた頃の自分を振り返ると、今にして思えば、やや気負いすぎていたと思う部分もあります。(中略)挫折も含めて、あのときの経験が私の政治家としての血肉となっていることを実感しています」

・安倍は、自身が大きな挫折を経験した政治家だからこそ、日本のためにすべてを捧げる覚悟がある、と続ける。

「東日本大震災から1年半が過ぎても、復興は遅々として進まず、被災地に赴けば、『安倍さん、何とかしてください』という悲痛な声を聴かされました。さらに日本経済は低迷を続け、その足元を見るかのように、近隣諸国は、わが国の領土をめぐり圧力をかけてきています」

 民主党政権下での失敗を受けて、安倍はいの一番に経済・復興、そして第二に、外交面における課題を指摘する。

「日本にとって、喫緊の課題が経済対策であることは誰の目にも明らかです」

<インフレターゲットは3%だった>

・「ええっ、3%ですか。15年もデフレが続いたなかで、なかなかしんどいなあ」

財務省官房長だった香川俊介は率直な感想を口にした。前にも記したようにこの時期、安倍・菅と財務省幹部たちとは距離があった。

・一度、携帯電話を切ったのち、菅から返信があった。「2%で行ってくれ」

 いつものように菅の答えは前置きもなく短い。水面下で日銀・財務省と自民党本部のあいだで直接のやりとりも進んでいたのだろう。

・この「政権構想」を作成している時点では、「2%のインフレターゲット」がこれからのち長期にわたって続く「アベノミクス」の最も重要な指標となるとは夢にも思っていない。第一次安倍政権から第二次政権誕生までの5年で5人の総理大臣が変わったこともあり、2012年末の時点での安倍の経済政策も、その後数年を見据えたものと考えていた。しかも、後知恵をお許しただければ、この「2%」の目標ですら、その後10年にわたって実現できなかったのである。

<日銀の子会社化>

・第二次安倍政権の金融緩和政策の中で、インフレターゲットと並んで特筆すべきは政府と日本銀行のあり方を変えてしまったことだ。「日銀の独立性を脅かす」「財政規律が緩む」という批判に対して、安倍ブレーンの日銀に対する考え方は安倍を通してこう示された。

「世界の中央銀行は政策手段については独立性を担保されていますが、政策目標については、多くの中央銀行は政府と共通の目標を定めています」

・安倍は日銀の独立性について自分は理解が深いことを示しつつ、イェール大学の浜田教授のことばを使って日銀の政策変更を強く求める。

・「日銀法改正以来、日本経済が世界諸国のほぼテールエンドの足跡を示していることから、そこでの金融政策が不十分であったことは明らかです。金融拡張が当たり前の処方箋です」

・やや議論が先走るが、その後の安倍・菅政権の10年後を知る身としては、日銀の独立性が保たれたとは言えないだろう。言い換えれば、日銀法改正で日銀が独立を謳歌していた時代は終わり、政府の子会社化してしまったといえるのではないか。

・第二次安倍政権の7年8ヵ月はその言葉通り、空前の金融緩和を続けた。ゼロ金利は通算で20年以上に及び、また安倍政権下において国債残高は200兆円以上増えた。安倍が主張した「日銀の独立性」は保たれたとは言えず、かつ「財政規律の緩み」はお話にならないレベルに到達してしまった。

<「無制限金融緩和」の一本勝負>

・安倍の側近たちと月刊誌編集部との間で、政策のやりとりが続いていた。安倍の最終的なチェックが入る前に項目を整えなくてはならない。だが当初、安倍周辺のブレーンたちによる構想としては、経済政策の目玉は「無期限金融緩和」の一本勝負であった。金融政策の大きなメリットとしては、財政出動あるいは財源の処置なく政策が打てる。こんな手があったのか、と感心したことも事実である。しかし、我々としては、単品の政策では、政権構想として、いかにも弱いと感じていた。

 経済政策の要諦としては、金融政策と並んで財政政策が柱となることは常識である。

 香川を現場指揮官としては、来るべき自民党政権復帰に備えなくてはならない。霞が関には緊張が走っていた。

・私は香川に直接会って財務省の意向を聞いてみた。

 香川とは、彼が主計局総務課長時代からの長い付き合いがある。

・「公明党の動きはどうなっているのですか。民主と自民で揉めたら、膠になるのは公明党でしょう」

 かつて自民が自由党と連携する際に、公明党というカードを使って自自公連立をなし遂げた例を示し、民主党と自民党に加えて「公明党カード」があるのではないかと提案してみた。

 香川は一瞬、躊躇したがすぐさま三党の合意を得るべく奔走する。彼は瞬く間に三党合意にこぎつけた。彼らの凄まじい政治力を目の当たりにしたことを憶えている。

<「財政で1回は噴かせる」>

・その香川が、安倍の政権復帰を目前にしたこの政局でも、頭をフル回転させていた。香川が財務省の意向を回答してきた。

「財政で1回は噴かせることができます」

・「デフレから脱却するためには、金融政策と同時に財政政策も必要と考えています。国民の命や子供たちの安全を守るための投資、地域が生産性を高め、競争力を得るための未来への投資を行うべきだと考えます」

のちに「機動的な公共投資」と名付けられる二本目の柱となった。積極的な財政出動を東北復興に絡めながら、「国土強靭化」という枠組みが出来上がっていく。

・「ではどうやって経済成長を達成するのか。(中略)私は今後の経済成長のカギとなるのは、イノベーションだと思います。日本が誇る人材力と技術力と文化力を結集し、国家と人類が抱える『新しい課題』にブレイクスルーをもたらすような新しい技術やアイデア、創造的な取り組みが必要になってくる」

「アベノミクス」の三本の矢、すなわち「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」が出揃った。

・そもそも「アベノミクス」は誰が言い出しっぺなのかといえば、安倍自身でも安倍ブレーンでもなかった。2006年、第一次安倍政権発足の代表質問で、当時の幹事長・中川秀直が使ったのが最初だという。

<安倍晋三が評価する政治家>

・わたしは、かつて安倍とも、親しいというわけでは決してないが政策について議論するような間柄であった。小泉政権の時代、次世代のホープとして脚光を浴び続けていた安倍に接近し、来るべき安倍第一次政権の政権構想でも一枚噛みたいという想いがあった。実際、安倍の文藝春秋好きもあって政策議論をする関係になっていた。

・言うまでもなく、安倍は育ちがいい。祖父は岸信介、父は安倍晋太郎と、政界サラブレッドのど真ん中の人物だ。たとえば、夕食を共にすると、安倍は決まってステーキと赤ワインだった。しかも、ステーキを端から食べるのではなく真ん中の肉片から手を付ける。腹具合にも寄るのだろうし持病もあって、残すことが多かった。話題は好んで憲法、外交と派閥の話であった。

・最初に名前が挙がったのは塩崎恭久だった。

・政治家・安倍の本質は経済には興味が薄く、もっぱら外交・憲法のひとであった。その証左として、第一次政権でも安倍の経済政策は小泉政権のそれを継承することが専らであったし、「アベノミクス」にしてもその成立過程をみていくと、ブレーン頼みであり経済政策を心底考え抜いて出てきたものとは言えないように思う。

<「瑞穂の国の資本主義」>

・政権構想「新しい国へ」の中で、「瑞穂の国の資本主義」という言葉を使っている。

・「私は瑞穂の国には、瑞穂の国にふさわしい資本主義があるのだろうと思っています」。

・7年以上にわたって続いた「アベノミクス」だが、「瑞穂の国の資本主義」の方が安倍の本音ではなかったろうか。

<安倍政権の外交姿勢>

・第二次政権のもうひとつの課題設定である外交面で見ていこう。安倍は「民主党政権の3年間は、まさに『外交敗北』の3年間でした」と断じる。

・たしかに鳩山由紀夫政権は発足直後から、アジア外交を重視する一方で米国とは距離を置き、日米同盟を軽くみる姿勢を打ち出した。

・自分の国を守るために戦わない国民のために、替わりに戦ってくれる国は世界中でどこにもありません。

 集団的自衛権の行使とは、米国に従属することではなく、対等となることです。

<「経済のひと」ではなく「外交のひと」>

・2012年末の段階で、既に安倍は自身の安全保障観を明確にしていた。いまの憲法、日米安保のあり方では日本は守れないから、憲法改正を目指した。

・私の見るところ、安倍は「経済のひと」ではなく、「外交のひと」である。外交・安全保障のエキスパートである。

・安倍は徹底的に「外交のひと」なのである。

・菅には「これで憲法改正をしなくとも実質的な改憲ですね」と尋ねてみたが、菅は黙っていた。政権構想が「新しい国へ」で示したとおり、自衛隊が集団的自衛権を行使できる体制に変えたのである。

<「アベノミクス」から第二ステージへの模索>

・第二次安倍政権の発足から1年もすると、アベノミクスの考え方は国民にも行き渡った。

・しかしながら、アベノミクスによってすぐにデフレが克服できたのかといえば、必ずしもそうとは言えない状況が続いていた。

 そうした状況下、わたしは編集者の立場で、あらたに金融通である財界人を軸にして、官邸スタッフ、メガバンク幹部、主要官庁の幹部官僚たちと議論を重ねた。その場で「アベノミクス三本の矢」に変わる経済政策を模索していた。2014年半ばごろから、そうした仲間たちとごく私的な政策研究会を続けていた。

意外なことに総理大臣官邸は、情報の面から孤立しているのである。

<「先進国病」とは何か>

・この「先進国病」とは何か。

 ひとつには出生率が低下して少子化が進み、国全体の高齢化による人口問題を抱えていること、第二に、少子高齢化に伴って社会保障費が膨らみ、その費用が恒常的に肥大化してしまっていること、第三には国家の経済が一定の成長を経てより成熟した段階へと移行し、国内産業の海外移転など産業構造の空洞化が進んでしまうこと。その結果として、GDP成長率が数%程度の低成長に苦しむことになってしまう。

 残念なことに、日本は、この「先進国病」にいち早く罹患してしまっていた。1990年代のバブル崩壊、その後に続いた「失われた20年」の景気悪循環によって、日本は完全な「先進国病」患者になった。

・そのためには、この1500兆円を超える資金を家計セクションから吸い上げ、そのカネを投資に回して循環させ、分配するシステムを構築することが肝要である。そのシステムは、言葉がうまくこなれなかったのではあるが、「平成の財政投融資」のようなシステムをイメージしていた。

<「ジャパノミクス」のゆくえ>

・2014年が明けたばかりの1月8日、朝8時から永田町のキャピタル東急ホテル「ORIGAMI」の個室でミーティングを開いた。

・さすが政策通の集まりとあって話が早かった。家計・預金から投資への流れを作ることは非常に良いことだが、どうやって資金を循環させていくのか。その組織・システムをどう構築していくのか。さらに重要なのは、誰がこの資金を運用して投資を実現していくか――といった鋭い指摘を受けた。しかし、いわゆる官邸官僚の中で経済政策を担当する面々から大きな異論はなかった。政策のブラッシュアップを急がなくてはならない。

 この点、財務省からも知恵を借りた。

・もちろん、官房副長官にお願いしている前段として、菅官房長官には政策づくりを進めるに当たって大枠の説明を行っていた。

・「ジャパノミクスというがアベノミクスはうまくいっている。アベノミクスでいけるところまでいきたい」

 民間のペンペン草(平民)の身としては、老中や若年寄はもちろん、勘定奉行まで順を追って案件を上げてきたつもりであったが、お側衆のところで跳ねられたと感じた。

<総理官邸でのインタビューにこぎつける>

・しかし、この「ジャパノミクス」構想は復活する。その年のゴールデンウィーク明けに今井のOKが出て、安倍総理へのインタビューが実現する運びとなった。わたしは、「文藝春秋」と「週刊文春」を統括する第一編集局長になっていた。仮に総理の考えとして発表するならば、さらに精緻な形でのシステム設計をしなくてはならない。アベノミクスに代わるようなかたちに進化しなければ、政策提言する意味はない。

<「貯蓄から投資へ」もう一つの柱をつくる>

・正確な文言は忘れたが、そうした趣旨の質問にも、安倍は率直に答えてくれた。この国の経済を上昇気運に乗せることが重要だと感じている以上、アベノミクス=異次元金融緩和だけでなく、もう一つの別の柱をつくるべきではないか。貯蓄から投資へ、「先進国病」を世界に先駆けて克服するべきではないか。安倍が掲げた「日本を取り戻す」というキャッチフレーズにも沿っていると考えていた。インタビューを終え、我々が提案した政策は「概ね、理解いただけたのではないか」という感触を得ていた。

<「ジャパノミクス構想」の命運>

・「安倍晋三 アベノミクス第二章起動宣言」と題する論文がまとまった。草稿段階では、「ジャパノミクス」「貯蓄から投資へ」が大きな枠組みのひとつとして入っていたのだが、安倍の外遊先の中南米、たしかメキシコだったと思うが、今井からわたしの携帯に電話が入った。今井の要望の趣旨は、すぐにアベノミクスという文言を下ろす必要はない、経済をコントロールしているような発言でマーケットと対峙するようなことはすべきではないとのことだった。

・「アベノミクスは単なる景気対策に留まるものではありません。デフレからの脱却が確実に視野に入ってきた今こそ、少子高齢化といった構造的な課題にも真正面から向き合い、10年、20年先を見据えながら、日本の社会の有り様、あらゆる制度や慣習を作り替えていく。アベノミクスは、いよいよ第二章へ移るときです」

残念ながら、我々の「ジャパノミクス」構想は採用されず、具体策のないままコンセプトがわずかに残った程度となった。

・2014年10月からは、黒田日銀は異次元金融緩和のギアをさらにチューンナップして国債の買い取りの枠を拡大する。マネタリー・ベースを10兆円から20兆円に拡大して、80兆円ものさらなる異次元金融緩和を実施していくことになる。

<「アベノミクス」の総括>

・安倍政権、菅政権と続いたアベノミクスの評価は、岸田政権になっても定まっていない。しかし、日本経済はすでに物価上昇率3%を超えるインフレ状況が出来している。

・日銀の役割について端的に指摘した上で、世界で初めて採用した「ゼロ金利政策」について言及していく。

「ゼロ金利政策については、副作用も指摘されました。民間主導で中長期的に構造改革をしていかなければ、日本経済は海外に対抗していけないわけですから、構造改革をやっていくためにも、金融サイドからも必要な環境づくりをしていかなければならないと考えます」

・そしてこう断言していた。「私は『ゼロ金利』は前例のない極端な政策だったと思うのです」

そして「ゼロ金利解除」が健全な姿であると思いますか、との問いにこう答えた。「リスクをカバーするために金利があるわけですからね」

生え抜きの日銀マンで、日商岩井の経営を担ったこともある(速水)総裁の言葉だけにその意味は重い。インタビュー後の雑談では、「ゼロ金利」は本来やってはいけない政策である旨を語っていた。

<この壮大なる失敗>

・金融は経済の血液であって、お金をぐるぐる回転させることで新陳代謝を行う。役割を終えた産業分野は退場し、新たな細胞がからだ全体を活性化していく。そのために銀行があり株式市場、債券市場があるはずだ。しかし、バブル崩壊以降、永きにわたって民間は元気を取り戻すことができないでいる。そこで、国が国民に代わって多額の借金をして巨額の国家予算を作り、需要をつくって経済を下支えしつつ新たな産業を生み育てようとしてきたわけだ。何よりもお金を循環させることが重要と考え、国家が人工的に実行してきた施策であったはずだ。しかし、それも少なくとも20年以上、うまくいっていないことが誰の目にも明らかになったのではないか。

・この壮大なる失敗を素直に認めなければならないのではないか。財政に大穴を空けながら民間からおカネを吸い上げ様々な投資促進をしたにもかかわらず、新たな産業を興すことができなかった。そのうえ、人口も減ってしまった。それは、この仕組みそのものが構造的に無理だったのか。あるいは個々の経済・産業政策の方法論が間違ったのか。そこをいま一度徹底的に検証する必要があると考える。

 アベノミクスは修正しなければならない。

 金利を上げることで、果たして金融正常化ができるのか。その大命題が問われている。

<「マイナス金利政策」の解除>

・2024年3月19日、金融政策決定会合において、日本銀行は「マイナス金利政策」解除を決定した。

・しかし、マーケットは甘くはなかった。

 猛烈な勢いで円安が進行したからだ。投機筋の動きも加わって一時は1ドル160円台という急激な円売りドル買いの事態となった。

・20数年ぶりに、金融緩和から引き締めへと舵を切ったからには、これからいよいよ日本の金融界で金利が復活し、日米金利差も縮小の方向に進むと見られ、本来ならば、当局は円高に向かうことを期待していたはずです。

<そうそう金利は上げられない>

・本稿は、2024年2月に書き上げていた。その時点で、マーケットの最大の関心事はいつ「マイナス金利解除」すなわち「異次元金融緩和政策からの転換」が行われるのかにあった。第二次安倍政権以来の宿願であるインフレターゲットを達成し、物価高から賃上げ、需要拡大そして物価高から賃上げといった景気の好循環に繋げられるかが焦点だった。しかしながら、異次元金融緩和を続けすぎた結果、日本銀行のバランスシートが傷んでしまっていたために、機動的な金利政策が取ることができないと、わたしは脱稿時点で考えていた。その不安が的中してしまった。

・後に詳述するが、金利を1%上げると日銀の当座預金に対する利息負担は5兆円にもなる。同時に、巨額の借金がある日本政府も国債の利払費が増える。

・ざっくり言えば、舵を切ったとはいえ、肝心要の国債買いオペはまだ月6兆円規模で実施しており、植田総裁は金融緩和は今後も続けると明言していた。そうせざるを得ない事情は痛いほどわかる。いまの日本をとりまく金融状況についてお復習いしておきたい。

 第一に、「金利が付いた」と言っても、無担保コール翌日物が0.1%に届かないのである。

・第二に、日銀は舵を切っても大きくは切れないことがバレてしまった。

・だから、マイナス金利政策解除と言っても、この先はそうそう大胆なことができない。例えば、インフレ率が3%、4%へと徐々に上がっていったとき、それに対応して金利を3%も4%も上げられるのか。容易なことではない。

<「いつの間にか貧乏」な国に>

・三番目は、円安である。ある国の政府が莫大な量の通貨を長期間発行し続ければ、その国の通貨の価値は下がる。当たり前のことだ。日本政府が20数年も金融緩和をやってきた結果、日本の円の価値は相対的に下がり、海外から見れば、「日本はいつのまにか貧乏になっている」と指摘されてしまう時代となった。それが証左に、海外で出稼ぎ売春する日本女性が出現したではないか。いい加減、この現実に目を向けるべきではないか。

 第四には、為替介入という打ち出の小槌にも限界があることだ。政府・日銀が持つ外貨建て資産は、円換算で195兆円もあると官邸から聞かされたことがある。今回も、1ドル160円で為替介入を行って一気に8円も円高にもっていった。たいした剛腕である。外貨準備高を2日間で8兆円使った。

・しかし、為替介入とは、所詮はカンフル、あるいは緊急輸血のようなものであって、根本的な治療法ではないだろう。日本経済が加速度的に生産性を向上させ、適度な経済成長によって物価高→賃上げという景気の好循環にならなければ、円の価値が戻ってこないのは自明なことだ。この先、日銀が金利を上昇させるたびに円安や資源高に対応して、この緊急輸血を続けていくことができるのか。外貨準備の4分の3以上が米国債であることも忘れてはならない。

・「前向きな経済政策」をいの一番に掲げることができないのは残念至極であるが、ともかくこの日本国の財政状況では、悩ましいことに、まずは「歳出カット」「財政再建」しか選択肢が見当たらないのである。

<菅義偉>

・「夜中に救急車のサイレンで目が覚める。乗っているひとは大丈夫かなあ」リアリストにしてプラグマティスト。新型コロナ対策に振り回されて政権は短命に終わったが、筆者が見つめてきた菅は一貫して政治姿勢を変えることはなかった。「携帯電話の料金を豪腕によって下げさせた」ことで、いまになって再評価される政治家・菅義偉の本質とは。

<菅官房長官への直電>

・菅の朝は早い。朝5時ごろには起きていて、すべての主要新聞に目を通す。そしてNHKニュースを見てから散歩に出る。散歩はだいたい40分程度。スケジュールは分刻みに決まっている。31日朝6時過ぎ、散歩の前の時間を狙って、直電を掛けてみた。「いよいよ、ですね……」と問いかけた。「あとで連絡します」

 取りつくシマがない。当然だろうとも思った。総裁選に向けての情勢分析、支持を得るべく有力議員たちとの連絡に忙殺されているはずだ。電話に出てもらえただけでも勿怪の幸いと考えなくてはならない。

<「文藝春秋の締切はいつですか」>

・数時間後、菅の秘書から連絡が入った。

「今日、午後1時30分に会館の事務所に来ていただけますか」

「もちろん伺います」

会館事務所に駆けつけると、菅は例によって前置きもなく、こう言った。

「締切はいつですか」

 しめた! と思う間もなかった。このあとすぐに政権構想インタビュー、原稿のまとめ、記事チェック、校了と、スケジュールに思いをめぐらす。

・菅が口にしたのは、「自助、共助、公助」という言葉だった。確か自民党の綱領にもあった文言だと思いながら、菅の言葉を聞いていた。

「私の持論は、国の基本は『自助、共助、公助』。自分でできることはまずは自分でやってみる。そして、地域、自治体が助け合う。その上で、政府が必ず責任を持って対応する。国民から政府がそのような信頼を得られるような、そういう国のあり方を目指したい」

 安倍政権が掲げてきた「戦後レジームからの脱却」といった派手なキャッチとは裏腹に、すこぶる地味な印象があった。

<田中派、経世会生まれ>

・2020年の盛夏の時点で、7年半を超える戦後最長の内閣は本当に終焉を迎えるのか否か。終わりであるならば、後継の総理は誰なのか。永田町の空気が張りつめていた。

・この空気のなかで、わたしは菅にメーセッジを発してみた。「総裁選への出馬はない」と言ってはいるが、物事にはタイミングというものがある。菅からの返信はなかったが、来るべき菅政権の「政権構想」を担うべく、さらなる機会を考えていた。