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碧落をうかがふ風船蔓かな

2024.09.19 07:39

Facebook近藤裕子さん投稿記事  ☘️自分のあるべきを考える☘️

「月在青天 水有瓶」 つきはせいてんにあってみずはへいにあり 

悟りを象徴する月、広い視野と心を象徴する晴天、人間を象徴する瓶。

〈月は青天に輝き、水は瓶の中に静かに収まって、あるべきところにある〉ように、

人もこれと同じく、あるべき所であるべきようにやっていくのがよい、ということだと思います。

月の美しい季節です。

自らのあるべき所とはどこか、あるべき姿とはどのようなものか、

時々に考えて見る必要が有るように思います。


https://rinnou.net/language/601/ 【月在青天水在瓶 (槐安國語)】より

つきはせいてんにあって みずはへいにあり『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』

(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

 唐代の禅僧、薬山やくさん惟儼いげん禅師(七四五~八二八)と、その弟子で文学者である李翺りこうとの問答があります。李翺は禅に関心をもち、誰か師事するに足る人はいないかと物色中、湖南省に薬山惟儼禅師がおられるのを知り、早速、使いを出し、来たって法話をと再三懇請(こんせい)します。しかし、薬山禅師は、「道を聞きたければ千里を遠しとせず来たれ」と、一向に応じません。

 やむを得ず、李翺は薬山禅師の草庵を訪れます。何度、声をかけても、読経三昧、一瞥いちべつもしません。李翺、腹が立つやら悲しいやら、「くそっ!見ると聞くとは大違い。法を聞くに足らぬ奴!」と悪態をついて帰ろうとします。しかし、せっかく遠路を来たのだからと思い直し、もう一度威儀いぎを正して、「如何いかなるか是これ道どう」と問いかけます。薬山禅師、李翺を一瞥して、一方の手で天を指し、もう一方の手で床の間にある浄瓶じんびん(水差し)を指して、「会えすや――わかったか」。李翺はなんだかわかりません。「会せず」。薬山禅師、声を大にして、「月は青天に在って水は瓶にあり」と答えます。李翺、大いに得るところがあったといわれています。

 ――月は青天に皎々こうこうと輝き、水は瓶の中に静に収まっている。当たり前のことです。柳は緑、花は紅、眼は横に鼻は縦に、柱は縦に敷居は横に、犬はワンワン、猫はニャンニャン、カラスはカァーカァー、見るがまま、聞くがまま、あるがままの消息以外に法があるはずがないというわけです。

 京都の西北部に位置する栂尾(とがのお)に明恵みょうえ上人しょうにん(一一七三~一二三二)という方がおられました。もともとは華厳宗けごんしゅうの僧ですが、直接、釈尊の教えを体得しようと、宗派を超えて修行した人で、日本仏教史上特筆されるほどの高僧です。ある人の「仏教の教えを一番易しい言葉でいうとどういうことですか」という質問に、それは「阿留ある辺幾べき夜よ宇う和わ」だと断言します。すなわち、

人ハ阿留辺幾夜宇和トイフ七文字しちもじヲ持スベキナリ。僧ハ僧ノアルベキヤウ、俗ハ俗ノアルベキヤウナリ。乃至ないし帝王ハ帝王ノアルベキヤウ、臣下ハ臣下ノアルベキヤウナリ。此アルベキヤウニ背ク故ニ、一切悪いっさいあしキナリ。

 明恵上人は僧侶は僧侶のあるべき姿、俗人は俗人のあるべき姿、帝王は帝王のあるべき姿、臣下は臣下のあるべき姿を保つことが、仏教の教えであり、このあるべき姿に背くから一切の悪いことが起こってくるというのです。

 月は青天に、水は瓶の中にと、あるべきところにきちんとある、人間として当たり前のことを当たり前にやる、あるべきよう・・・・・・にやっていく、これを措おいて別に道があるわけではないというのです。私たちももう一度、あるべき姿をじっくり考えてみようではありませんか。


https://ameblo.jp/e9a1722/entry-12548020324.html 【雲在青天水在瓶】より

雲在青天水在瓶  くもはせいてんにあってみずはへいにあり

雲は、青天に在り、水は瓶に在り。それぞれがあるべきところにあるがままにあること

つまり、人もこれと同じく、あるべき所であるべきようにやっていくのがよい、ということです。

『景徳伝灯録』巻十四(李翺)問曰、如何是道。師以手指上下曰、會麼。翺曰、不會。

師曰、雲在天水在缾。翺乃欣愜作禮、而述一偈曰、練得身形似鶴形、千株松下兩函經。

我來問道無餘説、雲在青天水在缾。

(李翺りこう)問とうて曰いわく、「如何いかなるか是これ道どう」。

師し、手てを以もって上下じょうげを指ゆびさして曰いわく、「会えすや」。

翺こう曰いわく、「会えせず」。師し曰いわく、「雲くもは天てんに在あって水みずは瓶へいに在あり」。

翺こう乃すなわち欣愜ごんきょうして礼らいを作なし、一偈いちげを述のべて曰いわく、「身形しんぎょうを練ねり得えて鶴形かくぎょうに似にたり、千株せんしゅの松下しょうか、両函りょうかんの経きょう。

我われ来きたって道どうを問とうに余説よせつ無なし、雲くもは青天せいてんに在あって水みずは瓶へいに在あり」。

http://zengo.sk46.com/data/kumohaseiten.html

中唐の文人、李翺は、朗州(湘南省常徳県)の刺史(し し)(知事)として赴任すると、その名声を聞き及び、法話を頼むために薬山惟儼禅師(745-828)の許を訪れます。

既に何度も使いを出して懇願したにもかかわらず、禅師からの返事はなく、仕方なしに知事である李翺みずから、薬山の庵を訪ねてきたのです。

しかし、刺史(知事)直々の訪問に対しても、薬山は読経に専念するばかりで、出迎えも、応対もしません。さすがに無礼だと腹を立てた李翺は、「面を見んよりは、名を聞くに如かず」と言い放ちます。「名声ばかりで、何だ、会ってみたら、つまらん坊さんじゃないか...」というところです。すると薬山は、「太守、なんぞ耳を貴んで、目を賤しむることを得たる」と答えます。「知事よ、あなたはどうして評判ばかり重んじて、自分の眼を信用されないのですか...」というのです。

さて、名声や評判ばかりを信じていて、そんな先入観の中で、本当に相手に出会うことなどできるのでしょうか?

「面を見んよりは...」と李翺は言いましたが、果たして本当に薬山の本当の顔、「本来の面目」に見えることができたのかどうか...

どんな名声も、評判も、噂も、しょせんは伝聞に過ぎません。

人と出会うのであれば、ちゃんと自分で足を運んで、一対一で顔と顔とをつきあわせ、

真剣に向き合わなければ、本当のところは分からないのです。

そんな真剣勝負の場所に、評判や名声、地位や権力、見てくれは、必要ありません。

思い込みや先入観も捨てて、素っ裸にならなくては何も見えないのです。

李翺は、さすが、なかなかの人物です。

すぐさま胸に手を当てて非礼を詫び、居ずまいを正して問いかけます。「如何なるか、是れ道」...人の生きていくべき道とは、どのようなものでございましょうか?

薬山は一方の手で天を指さし、もう一方の手でそばにあった浄瓶を指さして言います。「会すや」...どうだ、分かったかな...

李翺は素直に答えます。「会せず」...分かりません..

薬山は言います「雲は青天にあり、水は瓶にあり」...見なさい、雲は青空いっぱいにひろがっているではないか...そして、水はこうして瓶に収まっているではないか...

雲は空に浮かんでいるものだ...瓶は水を入れる入れ物だ...そんなことは、誰でも「知って」います。しかし、そんな「知識」など、問題ではないのです。

しっかりと天を見上げ、自分の眼で青空に浮かぶ真っ白な雲を見なさい...

目の前にある瓶の中に湛えられている澄んだ水を、自分の眼でちゃんと見なさい...

何よりもまず、自分の眼で見、自分の耳で聴きなさい...

「如何なるか、是れ道」...わたしたちが生きていく、そのあるべき道とは...

それは、そもそも、人に訊くべきものではないのです。

李翺は、ハッと気づくところがあったのでしょう。この時の経験を詩にして、こう歌っています。

我来たって道を問うに余説なし 雲は青天にあり、水は瓶にあり...

そう、道を尋ねても「余説なし」余計なことはいらないのです。

ただ、青くひろがる天には白雲が浮かび、目の前には水を湛えた瓶がある...それを見るだけのことなのだ...

修行とは、「ただ」観ること、「ただ」聴くこと...この「ただ」を学ぶ修行なのです。