虹は龍神?
Facebook斉藤 一治さん投稿記事
日本には稲作信仰というものがあり、稲は「稲魂」や「穀霊」が宿った神聖なものだと考え、崇められてきました。
稲から採れる米は、人々の生命力を強める神聖な食べものです。
米をついて固める餅や、米から醸造される酒は、とりわけ力が高いとされています。
そこで、祝い事や特別な日であるハレの日に、餅つきをするようになりました。
餅つきは一人ではできないため、皆の連帯感を高め、喜びを分かち合うという社会的意義もあります。
そして、お正月には「鏡餅」、桃の節句には「菱餅」、端午の節句には「柏餅」というように、行事食としても定着していきました。
とりわけ日本の行事文化の大黒柱であるお正月は、お餅が重要な役割を果たすので、年末に餅つきをするようになりました。
あなめでた 杵と臼とで あめつちむすび 尊き和をなす 夫婦彌榮 杵は男性 臼は女性を表し つきあがるお餅に新たな生命を宿す祝いとして 自然の恵みと人の和を大切にする心とともに親しまれてきました。
http://kubote-historical-museum.com/15-1.html 【求菩提修験道と龍神信仰恒遠俊輔 (求菩提資料館長)】より
求菩提山修験道には、さまざまな信仰が交錯している。そのなかでも、「龍神信仰」は重要な柱の一つをなすのではないかと思われる。
古来、龍神は水の神、水を治める神とされた。その龍神に対する信仰は、農業信仰とのかかわりでとらえられるものであり、水田稲作にとって欠くことのできない水の源が山にあるところから、それは山岳への祈りにも連なっていく。したがって山に生まれ森に育まれた宗教である修験道にあって、龍神信仰はその原点ともいうべきものなのである。
さて、求菩提山には随所に龍が登場する。
《上宮棟札》
江戸寛政年間(18世紀末)に小倉藩主・小笠原氏を大旦那として、求菩提山上宮の再建が行われたというが、その折の棟札がいまなお保存されている。2メートルちかくもあるその大きな棟札には、まず上部中央に十一面観音菩薩、右に薬師如来、左に阿弥陀如来の種子(梵字)が並び、その下に「仏法大棟梁白山妙理大権現本地十一面観音薩た」という墨書が見える。
また、室町時代の作と伝えられる木造の十一面観音立像(樟材・像高117センチメートル)も残されていて、求菩提山修験道では本地垂迹説に基づき、十一面観音を本地仏、白山比咩を垂迹神とする「白山妙理大権現」が主尊として祀られていたことが窺える。そして、それが石川、福井、岐阜の三県にまたがるあの白山から勧請されたものであることはいうまでもない。
御前峰(ごぜんほう)と大汝峰(おおなんじみね)、別山の三つの峰からなる白山の開山は、越前の行人・泰澄が主峰の御前峰(2702メートル)山頂に登拝したことをもって始まるとされる。
泰澄は、役行者よりやや遅れて歴史に登場するが、役行者に次ぐ修験道界の巨頭であるが、彼は、福井の南方、麻生津の出身で、はじめ越知山(おちさん)で修行していたが、養老元年(717)、36歳の時に九頭竜川を遡り、白山(御前峰)へと赴き、白山妙理大権現を感得した。白山山頂には火山の噴火で出来た緑碧池(翠ヶ池)があり、白山比咩はまずこの池から九頭竜王という九つの頭を持つ龍神の姿で出現した。泰澄がその姿に満足せず、さらに祈念すると、それはやがて真の姿である十一面観音に変身したという。これが白山権現のルーツである。
ちなみに、泰澄は、白山妙理大権現に加えて、大汝峰で大己貴神(本地阿弥陀如来)を、また別山で小白山別山大行事(本地・聖観音菩薩)を感得し、その後一千日行を修して下山したと伝えられる。
やがて、泰澄にはじまる白山修験は全国に伝播していくが、そのひろがりのなかで、求菩提山へもそれが持ち込まれたのであろう。
《龍図》
求菩提山修験道の中心を担った天台宗寺院・護国寺へ小倉藩主・小笠原氏から贈られたという「龍図」(紙本・縦100センチメートル、横117センチメートル)一幅が、求菩提資料館に保存されている。
それは、江戸時代後期の南画家・紀時敏の筆になると言われる。彼は梅亭と号し、与謝蕪村に師事。晩年は江州大津に住み、山水画を得意とし、「近江蕪村」の異名をとった。
龍は「想像上の動物。巨大なへびの形をしており、全身うろこにおおわれ、角と鋭いつめを持ち、雲を呼び雨を降らせることができる」と辞典(『大漢語林』大修館書店)にあるが、紀梅亭によって画面いっぱいに描きだされた龍の姿はなかなかの迫力である。
この「龍図」は、かつて雨乞いの祈願の際に用いられたとされていて、いわば求菩提山修験道を特徴づける貴重な資料と言うことができる。
《松会》
旧豊前地方の修験道寺院で行われた「松会」も、龍とのかかわりを持っている。松会は、山伏たちが五穀豊穣を祈願する祭で、「神幸祭」「田行事」「幣切り行事」の三つで構成されたが、いわばその舞台装置に、龍神信仰を見ることができるのである。
祭が繰り広げられる広場を「松庭」と称し、松庭の中央に立てられた柱を「松柱」と呼ぶ。松庭ではお百姓の一年間の農作業を真似た「田行事」がユーモラスに演じられ、また、祭の最後を飾る「幣切り行事」では、山伏が御幣を持って松柱にのぼり、柱の頂から真っ白な御幣を切り落として、五穀豊穣を祈る。切り落とされた御幣は神の御種子であり、それは松庭にまかれた籾と交合し、その年の稲の豊作が約束されるというわけである。
ところで、松柱の頂は8つに割られていて、それは「八大龍王」を意味していると言われる。八大龍王は、倶利伽羅龍王や善女龍王と共に仏教で信仰される龍王のいわば代表格であるが、出典の『法華経』の守護神という性格に加えて、多くは山の頂に祈雨の本尊として祀られるものである。
なお、松柱は3本の控え縄によって支えられるが、これまた雌龍、雄龍、子龍を表しているのだという。
《龍生淵》
求菩提山の南方、犬ヶ岳の山中に「恐ろし淵」とか「恐ヶ淵」とか呼ばれる淵がある。登山口から1時間ばかり進んだ処に位置している。その直径は10メートルほどもあろうか。深さは最大5メートルだという。陽が差し込むこともなく、絶えず薄暗くて、そこを覗くと「恐ろし淵」という名の由来が分かるような気がしてくる。
さて、この淵は、「龍生(りゅうおうぶち)」という別名を持っている。そう言われれば、淵の底からふいに巨大な龍が頭をもたげてくるようにも思えてくる。豊前市をほぼ縦断して周防灘へと注ぐ岩岳川の水源のひとつが此処にあるという意味で、水神としての龍が生れるという呼称が用いられたのであろう。求菩提山の山伏たちは、秘文を書いた亀の甲羅をこの淵に投げ入れて、吉凶を占ったという。
以上、求菩提山に登場する龍をひろいあげてみたが、求菩提山修験道が龍神信仰、言い換えれば農業信仰と不深くかかわっていることが理解できる。
ちなみに、求菩提山には、龍と同様想像上の動物である「天狗」も登場する。それは「次郎坊天狗」と呼ばれ、火伏せの神として人びとの信仰を集めた。火伏せとは火を鎮めることであり、火を鎮めるのは水であり、天狗はすなわち水の神だということになる。
求菩提山から10数キロ下ったところに豊前市大字挟間という集落があり、そこに、今はもう途絶えてしまっているが、かつて「天狗拍子」という「楽」が伝えられていた。それは干ばつの折に白装束の山伏姿で舞われる雨乞いの楽である。
こうしたことを考え合わせれば、天狗もまた農業信仰とのかかわりのなかでとらえられるべきものということになろう。戻る
https://ameblo.jp/onchika/entry-12845596415.html 【虹は龍神様の化身だよ❣️1387日目】より
雨上がりの空にかかる虹🌈 見ると特別に選ばれたように感じてワクワクに満ち溢れる瞬間❣️
虹は日本では 龍神様の化身ともいわれているよ 虹龍さん龍🌈
他にも幸運の訪れる前触れとか 苦難を乗り越えた後に指す光ともいわれているよキ
夢と希望が詰まった虹雨が降った後の空を見上げて探してみてね🌈
あなたに幸せがたくさん訪れるよ🍀
https://www.youtube.com/watch?v=LBJfsxf01cI
https://love-wave.com/ryu-japan/ 【龍をもっと身近に感じてみる(1)龍体日本】より
日本列島って子供の頃は「変な形~」ぐらいにしか考えていなかってのですが…龍神さんの夢を見てから興味を持ち始め、いろいろ調べているうちに
「日本列島って龍そのものなのね!」って気付きました。
日本は見えない力「双龍」で守られている?
双龍
日本列島の形が「龍体」と言われていますが、イラストのように、北海道を頭にした「昇り龍」と、九州を頭にした「降り龍」でもあり日本列島そのものが「双龍」とも言われています
神話や伝説などにも多く登場する龍ですが、神様的存在でもある位の高い龍神と、比較的身近な存在の龍が居るそうで、どのくらいの龍が私達の近くに居るかというとけっこう・・・周りにウジャウジャと居るそうです ( ´∀` )
何でも、位の高い龍神様クラスになると、地球を取り巻いて覆ってしまう程の大きさなので、とても私達の目で見ることは出来ないのですが人間に力を貸してくれる身近な龍の場合は、数十メートルくらいの大きさから存在しているそうです。
一度、夢の中でハッキリと見たことがあるのですが、できれば夢以外で空を飛んでいる?泳いでいる?ところを見てみたいものです。
龍神や龍の役割とは?
そもそも、龍は何の為に存在しているのか…
地球を守る為、私達の住んでいる、この3次元を守る為に存在している生き物(生命体)と言われています。
3次元のパワーやバランスが崩れると、宇宙全体に影響を及ぼしてしまう為、次元を自由に行き来できる龍達が、いつも身近で見守ってくれているのだそうです。
目標を持って頑張っている人には、力を貸したり、背中を押してくれる存在で、龍の背中(後押し)に上手く乗る事ができると、信じられないくらいのスピードと勢いで、物事がトントン拍子に進むと言われています。
きっと「よし、お前に力を貸すことにしよう」と決めたら、ちゃっちゃと行動しないと気が済まない、せっかちなタイプなのかもしれませんね
龍神様に願い事をする時は、漠然とした願い事をするよりも、「こういう方向に進めたいので、力を貸して下さい」というような、目標をしっかりと定めたお願いをした方が良さそうです。
龍との接し方は?
黒龍
ちょっと怖いイメージの龍ですが、地球や人間達を守る為に存在し、そして私達と同じように命があるといいます。
見返りを求めず、ただただ私達を守る為に必死に働く、龍は優しくてとても健気な存在でもあります。
龍の国に住んでいる私達は、生まれた時から龍に見守られて暮らしている事になりますから、もっと龍の存在を身近に感じたり感謝をすることで、もっともっと力を貸してくれるかもしれません。
ただし龍は、優しくもあり・・・厳しくもあります
友達のように馴れ馴れしく接するのではなく、普段はちょっとだけ近寄り難い存在だけど、イザという時には力を貸してくれる頼れる先輩や上司のような接し方が良いかもしれませんね (^^)
https://love-wave.com/ryu-japan2/ 【龍をもっと身近に感じてみる(2)】より
龍の国に生まれ育った私達ですが、子供の頃から何となく「龍が好き~」や「なぜか龍に魅かれる!」という人も居れば…私のように、龍が夢にあらわれたことで興味を持ち始めた…なんて場合もあると思います。
キッカケはどうあれ「龍?」「龍神!」と何かが引っかかったり、「ちょっと龍について調べてみようかな?」と思った時点で「龍をもっと意識してみなさい」という龍神様からのメッセージかもしれません 龍神様は、私達をサポートする気マンマンです(笑)
受け取る側の準備(心を開く)が出来ていないと、アドバイスをしたくても聞いてもらえず、ウズウズしている状態なのだそうです
電話ならば着信拒否 LINEならば未読スルーといったところでしょうか・・。
せっかくですので、もっともっと龍や龍神に興味を持ち、サポートして頂けるよう受け取り上手になってしまいましょう
龍に愛されるタイプ
龍は地球を守る為、私達の住んでいる3次元を守る為に存在している生き物(生命体)だと言われています。
自然や環境だけの事ではなく、人間の成長を含めて見守っているそうです。
世の為人の為になる努力をしている人、自分自身の成長の為に頑張っている人が大好きなのですね
はじめから「できな~い」と言う人に、すぐには手を貸しませんよね。本人の為にならないですからね・・。
不器用ながらも頑張っている人、いつも真面目に取り組んでいる人に、助けを求められたらどうでしょうか・・。
龍も人間と同じように、ひたむきな姿勢で頑張っている人を応援してくれます。
ただし、龍は優しさの中に厳しさもありますから
龍の力で勢いにのっても、感謝を忘れたり、自分を過信して人を傷つけたり、自分だけが良ければそれでいい・・・そんな傲慢になってしまうと 周りから人が居なくなるように、龍も去っていきます
日頃から謙虚な気持ちでいることが、大切なのかもしれません
いざという時に「力を貸して下さい!」とお願いしてみるくらいが、程良い関係なのかもしれませんね
龍が祀られている神社へご挨拶する
龍神様が祀られている近くにある小さな神社から、つながりを持つ方が良いかもしれません。
龍はネットワークで全て繋がっていると言われています
無理して遠くの有名神社に行くよりも、まずは近場の龍神様に覚えてもらうと良いでしょう。
【大切なこと 1】
神社との相性。 あなたにとって「なんか落ち着く~」とか「とても居心地が良い」と思えるかどうか。
いくら人に「あそこ楽しいよ!」や「あの店、めっちゃ美味しいよ!」と勧められて行っても、「う~ん、それほどでもないなぁ~」って事ありますよね?(笑)
それと同じように、神社も自分にしかわからない感覚や直感を大切にして、気軽に立ち寄れるような、神社を探してみるといいですね。
【大切なこと 2】
ちょくちょく参拝する。毎日・月イチという事ではなく、近くを通った時や、時間がある時に伺うということです。
龍神様はサポートする気マンマンと言いましたが、礼儀に厳しく、とてもクールなのだそうです
「顔見知りになる」「あなたの事をもっと知ってもらう」「途中経過を報告する」という意味も込めて
普段から行ける時にはご挨拶に伺って、「おっ!また来てくれたのか」って覚えいてもらえるくらいのがベストかもしれません
ただし、夢や目標に向かって多忙な時期に、無理を押して参拝する事を望んではいないようです
龍神様は頑張っている人に優しい
心の中で感謝の気持ちや伝え、都合が良い時に伺えば、きっと龍神様も喜んでくれますよ(*^^*)
http://asiaphotonet.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-759f.html 【「田毎の月」という日本人の心象風景】より
好きな言葉に「田毎の月」というのがあります。
日本人の自然に対する思いが凝縮されている言葉だと思っています。
最近、「田毎の月」の写真を撮る機会が多かったので、またあらためてこの言葉について考えてみたいと思います。
「田毎の月」は、すべての田んぼの水に月が映る光景で、松尾芭蕉など俳人たちは優れた句に詠んでいます。また歌川広重は『六十余州名所図会』の「信濃 更科田毎月鐘台山」(嘉永六年八月)や『本朝名所』の「信州更科田毎之月」などに、段々になった複数の田んぼに月を描いています。
しかしどんなに田んぼの数が多くても、実際には月はひとつしか映りません。だから厳密には(科学的には)「田毎の月の写真を撮る」というのは不可能です(多重露光は別)。
でも、ちょっと待ってください。「田毎の月」は本当に「嘘」なのでしょうか。
前から「田毎の月」についてはHPに写真ギャラリーを作ったり、思いを書いたりしていましたが、あるHPやブログで「田毎の月」を科学的に説明しているのがありました。あくまでも科学的正しさを追求する考察として面白いものですが、おそらく夜の月をじっくりと時間をかけて見たことがない人たちなんだろうなと思いました。
その瞬間は確かに月はひとつですが、あたりを歩いてみましょう。すると、月は次々に田んぼを移動していきます。結果的にすべての田んぼに月が映ることになります。
それともうひとつ。時間が経てば月が次々に田んぼを移動していきます。
「田毎の月」の本質は、「同時にすべての田んぼに月が映る」という特殊現象(超常現象)ではなくて、「田んぼの水に月が映った光景を見て、美しいなぁと思う感性」にあるのだと思っています。
この言葉の持つ世界観を理解しようとしないかぎり、言葉は生きてきません。科学的には「嘘」として切り捨てられてしまっては寂しすぎます。
空間だけではなく、時間も考慮すると、この「田毎の月」が見えるようになります。嘘ではないのです。と言うよりも、芸術作品を科学で論じてもあまり意味がありません。ピカソの絵を見て、顔の向きがおかしいとは言わないのと同じです。「田毎の月」はピカソの絵と同じ多視点の表現なのです。
フランスの画家、マルク・シャガールは、人から「現実ではなくて想像上の物を描いている」と言われるのが嫌いで、「心的現実を描いている」と反論したそうです。「田毎の月」も同じ、心的現実(心象風景)を描いたものと言えるでしょう。
調べたわけではありませんが、田んぼの水に月を映して鑑賞する文化を持っているのは日本だけなのではないでしょうか。もしかしたら中国にはあるのかもしれませんが、今のところ俺は知りません。
月見の慣習自体は中国から入ってきたものらしいのですが、Wikiには、「平安時代頃から貴族などの間で観月の宴や、舟遊び(直接月を見るのではなく船などに乗り、水面に揺れる月を楽しむ)で歌を詠み、宴を催した。また、平安貴族らは月を直接見ることをせず、杯や池にそれを映して楽しんだという。」とあります。
それと少なくとも複数の田んぼがある棚田が前提です。たとえばタイやベトナムの広大な水田に月が映ってもそれほど特殊な感情が沸き起こるのかどうか。やはりここは狭くて小さな棚田の田んぼだから趣があるのではないかと思います。
「すべての田んぼに月が映る」というのは、日本人の心象風景なのです。写真では難しいけど、俳句や絵では可能になる。
日本人の発想で面白いと思うのは、つまり田んぼそれぞれ、ひとつづつが、全世界であり、全宇宙であるという感覚です。
小さい田んぼが「全宇宙」とは大げさだ、と反論されるかもしれません。
でも、日本人にとって、大きさは関係ないのではないかと思います。小さな1枚の田んぼに生きている植物や小動物たち、そして水が循環し、2千回も稲を作り続けている。
極端に言えば、「すべてがそこにある」のです。それが日本人の世界観、自然観ではないかなと思うわけです。最近欧米でもてはやされている盆栽なんかもそうですね。大きな自然をわざわざ小さい自然に作り変えている。日本人にとっては同じなんですね。大きくても小さくても。1枚ごとの田んぼがひとつの宇宙だということの表現ではないかなと思うのです。すべての田んぼに月が映ってほしいという願望でもあるのではないでしょうか。
なんだか言い訳のようになってしまいますが、けっきょく、俺の「田毎の月」の写真というのは、文化的解釈をして、心象風景を写真にしているので、複数の月が映っていなくても問題ない、ということを言いたいわけですよ。
https://www.youtube.com/watch?v=4dH1_k_oqzw