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Kazu Bike Journey

Ride in Kyushu Day 22 (6/1/19) Part 2 Hara Castle Ruins 原城跡 / キリシタン遺産記念館

2019.01.08 11:02

Continuing from Part 1

Hara Castle Ruins 原城跡

Arima Christian Heritage Museum 有馬キリシタン遺産記念館

廃城となった原城が島原一揆の最後の舞台となる。Part 1では有馬晴信が築城した頃の復元図を見たのだが、一国一城令で廃城になったときは城の建物や石垣などはかなりの部分が破却されていた。そこで一揆軍は堀を彫りなおしたり、小屋を作ったりして、抵抗のための砦として利用した。その時の推定復元図がVRで紹介されている。

何故この地でこれ程の規模で一揆が起こったのか、キリシタンと幕府との戦いと言った単純な事情ではなさそうだ。原城の後、キリシタン遺産記念館で館長さんから2時間ほどつきっきりで色々なお話しを交えて解説をしていただいた。大村や外海地区では一揆は起こらず、キリシタンは潜伏し、静かに信仰を守ってきた。ここでもそうたが、一揆は領民が窮地に追い込まれ、止むに止まれず起こってしまった色々な理由がある。

有馬晴信失脚後、赴任した初代藩主板倉重政と2代藩主 嫡男 勝家の圧政に原因がある。実質4万石の石高を12万石と幕府に良い顔をした為。12万石に相当する米を納めねばならなくなった。実質4万石であるから、領民の税は通常の3倍となった。税を納められない領民は過酷な取り立てで処刑されるほどであった。

キリシタンへの弾圧が他の地域に比べ熾烈を極めた。島原にある雲仙普賢岳での虐殺などは宣教師によりバチカンに報告されている。

旧有馬家臣が浪人として数多くこの地に残っていたが、仕官は難しく、活躍の場を求めていたのだろう。

以上の3つの要因を見ると有馬晴信の失脚が、この一揆への動機を誘発させるきっかけになったと思う。有馬晴信が生きていれば、どうしたであろう。キリシタン禁令後もキリシタンを保護していた事から考えると、何か方策をとったのではないか。キリシタン弾圧が更に過激化するのはこの島原の乱以降であるので、この乱が起こっていなければ、日本のキリシタンの歴史は随分と違っていただろう。各家がどこかの寺院に属さねばならない檀家制度や、連帯責任を課してお互いに監視をさせる五人組制度などがこの時に導入された。この制度は今でも日本の習慣の中で残っている。

最も幕府を恐れさせたのは、捕縛されてキリシタンの処刑にあたり、オラショを唱えながら笑みを浮かべて死んでいった事だ。見せしめのための処刑が天国に行く殉教と考えるキリシタンは為政者としての幕府にとって、幕府を全面的に否定する見逃せない事であった。島原でその様子を目の当たりにした各大名は、危機感を覚え、キリシタンの撲滅の必要性を幕府に提言している。


記念館で非常に興味深い文章を解説して頂いた。小豆島の壷井家に残っている一揆軍が幕府軍に送ったもので、一揆に至った理由と要望が書かれてある。当時の小豆島は幕府直轄地で輸送の任を与えられ、島原に人を送っていた。この文書が第一にあげているのが圧政で板倉を更迭する事を求めている。キリシタンになったのは救いを求めた為だ。何故わざわざ外国の神にすがる必要があるのか、圧政を中止すれば棄教をするとも書かれていた。インターネットでその全文が掲載されていたのでここにも載せておく。

この文章は島原一揆の背景が簡潔に述べられており、その切実さがひしひしと伝わってくる。一揆は島原半島の南部で勃発し松倉氏の居城島原城まで迫る勢いであった。そして唐津藩管理下の天草でも勢いは止まらなかった。(天草でも石高を実情の2倍で申告しており、徴税は過酷であった事がこの地区の一揆の勃発の原因であった) 一揆とは言え、一揆軍を統率しているのは改易となった旧小西、旧有馬の浪人達で、単なる百姓一揆ではなく、統率された軍隊と見たほうが良い。その後、九州諸藩の軍勢が攻めてくることを察知し、原城に籠城の運びになる。この時点ではポルトガルとは援軍の派遣の密約があったとされている。この援軍も籠城作戦のシナリオの重要な部分と思われる。原城に籠城したのは37000人にも達する。この籠城した一揆はキリシタンだけでなく浪人や圧政に不満を持つ者、一度キリシタンを棄教したが相次ぐ天災や圧政は棄教の因果と考えもう一度キリシタンとして参加したもの、キリシタンでないが強制的に参加させられた者もいた。

幕府は事の重大性を認識して三河深溝藩主の板倉重昌を総大将で原城を攻撃するが、ことごとく負戦、4000人もの戦死者を出す。総大将の板倉重昌さえも討ち死にしてしまった。一方的に一揆軍の勝利であった。

これにより、幕府は本腰を入れ、松平信綱率いる12万以上の軍勢を送り込み、原城を囲んで布陣する。甲賀忍者の一隊が原城内に潜入して兵糧が残り少ないことを確認し、兵糧攻めに作戦を切り替えた。これ以外に各地から浪人も参加したとされて15万の軍勢であったのではと推測されている。松平信綱は一揆軍がポルトガルの援軍を期待していること、ポルトガルはヨーロッパでオランダと戦争状態で援軍は不可能と判断し、周囲の反対を押し切りオランダ商船に原城への砲撃を依頼した。原城の近海は遠浅なので射程距離には近づけないが、一揆軍の士気を削ぐ目的で砲撃を行った。一定の目的は達成して、原城からの投降も出た。松平信綱は原城内の食料が尽きている事を知り、幕府の威信をかけ総攻撃を行う。この総攻撃で原城は落城。天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しにされて乱は鎮圧された。

原城に籠城した一揆軍は処刑され、その首塚近くに10年後に地元の人により慰霊碑が建てられている。

この島原の乱はその後の状況に大きな影響を及ぼした。

島原藩の松倉勝家は、過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いた責任を問われて改易処分となり、後に斬首となった。江戸時代に大名が斬首となったのは、松倉勝家のみ。天草を領有していた唐津藩の寺沢堅高も責任を問われ、天草の領地を没収された。幕府は事の真相は把握していたのだろう。壷井文書も見ていたであろうから。

幕府は一揆の原因が藩の圧政とは出来ない故、キリシタンの反乱とし、宗教の起因にしてしまった。圧政とすれば、各地で一揆が起こり事態は益々複雑になる。

キリシタンの教えが幕府の統治に不都合である危険思想とし、キリシタン取り締まりの仕組みを作る。(五人組、檀家制度、踏み絵)

ポルトガルの商船の来航を禁止して鎖国政策に進む。

37000人もの一揆軍が全員処刑されたことにより、農地を耕作する農民が激減し、島原藩は経済が成り立たなくなった。この為、幕府は各諸藩に島原天草に移民を送る事を命じた。先に訪れた大村藩は多くの潜伏キリシタンを抱えており、キリシタンの教えで「間引き(口べらしのため、嬰児を殺すこと)」を行わない為、人口が増加して貧困の問題があった。大村藩は渡りに船という事でこの移民には積極的に対応した。島原は多くの人が県外からの移民の生い立ちを持っている。キリスト教徒は長崎県は依然多いのだが、キリシタン遺産記念館の館長さんの話では、島原にはそれ程多くないそうだ。確かに殆どが皆殺しになったのだから。この分布図を見ると、海外との接点が多かった地域がキリスト教徒が多いのがわかる。

この移民には各藩からだけでなく幕府の直轄地である天領からの行われた。我が故郷の小豆島がその一つだった。原城の近辺を自転車で走り回っている時に、小豆島町と南島原市と姉妹都市関係があり、小豆島のオリーブが植えられていた。何故、姉妹都市なのかという疑問があったのだが、後でキリシタン遺産記念館の館長さんから壷井文書の話を聞き、小豆島から多くの移民がこの地に来た事を知った。自分の故郷と接点があった事を発見した事はちょっとした感動だった。自分が小豆島出身と知ったからか、館長さんはつきっきりでいろいろな事を説明してくれた。インターネットでは出ていないような事もいっぱい教えてくれた。ここまで書いた事にも館長さんから聞いた事が多くある。小豆島にもキリシタン遺産が残っているようだ。初めて知った。今度、故郷に帰った時に是非行ってみたいと思う。

有馬キリシタン遺産記念館 Arima Christian Heritage Museum

原城の後にここに行った。到着し自転車を留めている時に佐賀からバイクで来ている男性に話しかけられ、日本一周の話をすると、館長さんも話に入ってきて、交流が始まった。この後、館長さんには丁寧にいろいろな資料を部屋から出してきて熱心に説明して頂いた。原城は世界遺産になったが、有馬晴信の日野江城は最後に外された事をしきりに悔しがっていた。世界遺産への申請時は、大村純忠や有馬晴信のキリシタンへの改宗から、日本のキリシタンの歴史がはじまり、弾圧、隠れキリシタンの時代、250年後にキリシタンの発見、キリシタンの復活という一連のストーリーで申告したのだが、来日した調査団からは、弾圧が始まってからが遺産対象となってしまった。この隠れキリシタンの背景を理解するには有馬晴信や大村純忠の存在無くしては無理だ。世界遺産の選考には少し疑問を持った。今回の旅では出来るだけその所縁の地を訪れた。まだ天草訪問が残っているのだが、館長さんのいう一連のストーリーは自分の中で消化出来た。自己満足ではあるが。無理をして時間をかけた甲斐があった。記念館からの帰りには、原城と長崎の世界遺産の詳しい資料を荷物になるかもと言いながら手渡してくれた。館長さんに感謝だ。遺産記念館には色々な展示物があった。

宿に戻るとちょっとした発見があった。宿の裏の墓地にキリシタンの墓があった。館長さんの話を思い出した。この時代の発見されたキリシタンの墓の90%がこの島原にあるという。(この後、自転車で走っていると何ヶ所かキリシタンの墓に遭遇する事になる。)