比喩で情景を伝える
https://www.sakigake.jp/special/2020/haiku/article_11.jsp【比喩で情景を伝える】より
「こんなことをして、あたしってバッカみたい」とか、「今日の気分は晴れのち曇りだ」とか。本気で自分はバカだと言っているわけではないし、気分は天気ではない。これらは比喩です。ふだん何かを説明しようとするとき、「何とかのようなものだ」というと、パッとわかることがよくあります。
俳句も比喩を使います。高浜虚子の (1)去年今年貫く棒の如きものは歳月の流れを「棒」に喩(たと)えました。同じ虚子の(2)水打てば夏蝶そこに生れけりは、本当に蝶が生まれたわけではなく、生まれたかのように忽然(こつぜん)と現れたのです。「如き」を伴う(1)は直喩、そうでない(2)は暗喩と言われます。
俳句にとって、比喩は短い言葉で物事を端的に描写できる重宝な手法です。今回は、投稿句の比喩表現を見ていきます。
言葉の「動き」を生かす ぱたぱたと雨降るように夏椿
安田有紀さん(潟上市、34歳)の作。夏椿の花が散る様子を雨に喩えました。ふつう「雨」があれば「降る」は不要なので〈ぱたぱたと雨の如くに夏椿〉も考えましたが、「降る」があると句に動きが出ます。やはり元のままがよいと思います。
句を軟らかくする はかなさをうつした様な白雪よ
佐々木美月さん(秋田中央高2年)の作。「雪」と「はかなさ」はイメージが近いので、「~様な」という直喩の関係をきっちり書き込んでしまうと、句が硬い感じになります。この句はもっとフワッと詠みたいところ。そこで、「~様な」を消してはどうでしょうか。たとえば はかなさを何にうつさん雪白し とすると、「はかなさ」と「雪」の関係が緩くなり、句に余裕が出来ます。
「直喩」を効果的に使う ちり紙の山に埋もれる花粉症
津嶋美夕さん(大館鳳鳴高2年)の作。「山」と「埋もれる」が暗喩です。花粉症を嘆きながらもどこか滑稽な気分もあります。この句に直喩を用いて ちり紙が山の如くに花粉症
としても面白いと思います。この添削案は虚子の〈大試験山の如くに控へたり〉(このあと重大な試験が山のようにドンと控えている。学生も楽ではない)という句からヒントを得ました。 雨が去り天に宝物秋の虹
岩村響さん(能代松陽高2年)の作。美しい虹を「宝物」に喩えました(暗喩)。「宝物」という言葉が硬いのが惜しい。虹の句ですから「天」は消せます。この句もさきほどの津嶋さんの句と同様、直喩を使うと良さそうです。 雨が去り宝のごとく秋の虹
とすると、夏ほどには現れない秋の虹を「宝」と思う気持ちがよりはっきりすると思います。
句に詩情を添える 風鈴やリズム伴奏風のうた
寺田花音さん(秋田市・下新城小6年)の作。風鈴が「風のうた」の伴奏のようにリズムを添えているのです。「伴奏」と「うた」が比喩(暗喩)です。比喩を使わないで書くと〈風鈴やリズムを添えて風の音〉となりますが、これでは面白くない。比喩のない句案と見比べると、「伴奏」「うた」という暗喩が句に詩情を添えていることがわかります。
文語調にそろえる 車軸草その冠の崩れるや
佐藤佳穂さん(秋田南高2年)の作。車軸草の花を「冠」に喩えました。花冠という言葉もありますが、この句の「冠」も暗喩です。「崩れるや」は、そろそろ形が崩れる頃かな、という意味。花が衰えてきたのでしょう。下五の「~や」は文語調ですから、動詞も文語にして
車軸草その冠の崩るるや とするのがよいと思います。さあ、あなたも投稿してみよう!
FacebookNHK出版 投稿記事
——反面、比喩は劇薬のようなもので、使い方を間違えると、比喩は毒になって、何と、句が即死してしまいます。
名作俳句から「比喩表現」を学んでみましょう! #堀田季何 さんによるミニ講座をご紹介!
https://mag.nhk-book.co.jp/article/56589?fbclid=IwY2xjawFcjhZleHRuA2FlbQIxMQABHU_LKZImeWsk73s2LvUTe5GJqn8dI5ALpy_nRqfaLIHSyhzHkoS55hWtgw_aem_rfUInpPdPg45OJqBPH0HPg 【名作俳句の「比喩表現」——脱凡人へのヒント【NHK俳句】】より
俳句 季語 NHK俳句 堀田季何 比喩
Eテレで毎週日曜朝に放送の『NHK俳句』、第1週の選者・講師は、俳人の堀田季何(ほった・きか)さんです。
第1週の『NHK俳句』は初心者向け講座として「俳句の凝りをほぐします」をテーマに、「凡人から脱出(脱ボン)」を目指して学んでいきます。うまくいっていない句の「凝り」を見つけてほぐしていけば、不思議とよい作品になっていくはず。
今回は、名作俳句から比喩(ひゆ)表現を学び、脱ボンを目指す鑑賞エッセイを公開します。
毒にも薬にも
今月は、比喩の話です。比喩は、一つの物事を他の物事に喩(たと)えて(「例えて」と同義です)、つまり、関係または類似する事象や概念を借りて表現することです。広義の比喩は、転義と言い、言葉を一般的な使い方とは別の方法で用いることを指し、多くの修辞法を含みますが、今回は、そこまで広げず、直喩(ちょくゆ) 、隠喩(いんゆ) 、換喩(かんゆ) 、提喩(ていゆ) 、諷喩(ふうゆ) 、活喩(かつゆ) についてお話しします。音喩(おんゆ) (声喩・オノマトペ)については、別の回で紹介します。
まずはよく使われる直喩と隠喩から。
「棒の如きもの」
直喩(明喩)は、「ごとく」「ような」「みたいな」という直接的な表現で、物事のある側面をイメージさせる(類似性のある)別の物事とつなげて喩える技法です。俳句では非常に多く使われます。
去年今年(こぞことし) 貫く棒の如(ごと)きもの 高浜虚子(たかはまきょし)
一枚の餅(もち)のごとくに雪残る 川端茅舎(かわばたぼうしゃ)
金魚大鱗夕焼の空の如きあり 松本たかし
火を投げし如くに雲や朴(ほお)の花 野見山朱鳥(のみやまあすか)
四句とも「ごとく」を使っています。それぞれ、時間を貫く要素を棒みたい、残る雪を餅みたい、金魚(特に、鱗の色)を夕焼空みたい、雲の色と形状が火を投げたみたい、だと作者は思って直喩で表現しています。
「いのちひしめける」
隠喩(暗喩)は、「ごとく」などの直接的な表現を使わずに、物事のある側面をイメージさせる別の物事で置き換える技法です。
水打てば夏蝶そこに生れけり 高浜虚子(たかはまきょし)
ものの種にぎればいのちひしめける 日野草城(ひのそうじょう)
一句目、「生まれたかのように出現した」景ですが、「ように」を使わずに、「現じけり」をそのまま「生れけり」に置き換えています。二句目も、「命が犇(ひし)めいているような感じがする」ことを、そのまま「いのちひしめける」と言っています。なお、俳句の鑑賞でよく言う「見立て」(AがBのように見える)は、直喩や隠喩で表現されることが殆(ほとん)どです。次に、他の比喩にも触れてみましょう。
「終りに近きショパン」
換喩は、その事柄と近接しているもので置き換えることです。
終りに近きショパンや大根さくさく切る 加藤楸邨(かとうしゅうそん)
この句の「ショパン」は人物のことではなく、ショパンの作った楽曲のことを置き換えて表しています。これが換喩です。換喩は、部分(下位概念)で全体(上位概念)、あるいは、全体で部分を表す提喩を含む場合があります。
春雨やものがたりゆく蓑(みの)と傘 蕪村(ぶそん)
露地露地を出る足三月十日朝 川崎展宏(かわさきてんこう)
簑を着る人と傘をさす人を、その人たちの部分である「簑と傘」、露地から歩き出てくる人たちを、同じく部分である「足」で表現した提喩を使っています。
「高熱の鶴」
諷喩は隠喩に似ていますが、読者に本当の意味を間接的に推察させる技法です。直喩が「AはBのようだ」、隠喩が「AはBだ」だとすれば、諷喩では、Aを明示せずに、「Bは何々をしている」と、AのつもりでBだけを示します。「井の中の蛙(かわず)、大海を知らず」や「猿も木から落ちる」という諺(ことわざ)では、読者がAを想像することになります。
高熱の鶴青空に漂へり 日野草城(ひのそうじょう)
箱庭にわたくしがいる杖(つえ)ついて 鳴戸奈菜(なるとなな)
私の想像ですが、「高熱の鶴」は、高熱で臥(ふ)せっている自分の詩魂、「箱庭」は閉塞的な世の中及び(脚の問題で)肉体的に遠出ができない狭い活動範囲を示していると思っています。いずれも、句自体に明示されていません。
なお、俳句鑑賞において、よく使われる象徴は、多義的に使われる用語で定義が困難です。一部の換喩における象徴喩のことであったり、諷喩のことであったり、関係も類似もない二つの物事を繫(つな)げる技法であったり、様々な技法を指しているので、紙幅の都合上、説明を割愛します。
「木枯帰るところなし」
活喩(擬人法)は、非人間に人間的な特性を持たせる技法です。人間以外の主語に人間にしか使わない述語を合わせます。ただし、広義の活喩は、人間的な特性に限らず、無生物に生物的な特性を持たせる技法全般を指します。見立てからアニミズムまで幅広い範囲に及び、比喩の中では、直喩と同じくらい人気の技法です。
なお、活喩は、直喩や隠喩で表現されることが多く、直喩や隠喩と同時に存在できるのが特徴です。
秋雨の瓦斯(ガス)が飛びつく燐寸(マッチ)かな 中村汀女(なかむらていじょ)
海に出て木枯帰るところなし 山口誓子(やなぐちせいし)
冬菊のまとふはおのがひかりのみ 水原秋櫻子(みずはらしゅうおうし)
通常、ガスが「飛びつく」、木枯が「出て/帰る」、冬菊が「おのが」光を「まとふ」、とは言いませんが、敢(あ)えて言うことで、鮮明なイメージが伝わります。
比喩を使う上で最も大事なのは、比喩は毒にも薬にもなることを知っておかなくてはならないことです。比喩は、簡単に使えますし、成功すれば、非常に印象的な表現につながります。反面、比喩は劇薬のようなもので、使い方を間違えると、比喩は毒になって、何と、句が即死してしまいます。そうです、まずい比喩は、句にとってコリどころか、猛毒なのです。
具体的には、「ああ、そうですか」と言いたくなるような、類想のある、安直な比喩を使ってしまうと、句が即死します。比喩を毒にしないで、薬にするツボは、新鮮でありながらも説得力のある比喩にすることです。左三句、いずれも比喩が陳腐で、毒になっています。
春待つ人キリンのやうに首長し 受験勉強わたしの母はたまに鬼
ひまはりの微笑(ほほえ)んでゐるまほらかな
選者の一句
月光に盈(み)ちてプールや波うてる 季何
講師
堀田季何(ほった・きか)
1975 年生まれ。「楽園」主宰、「短歌」同人。芸術選奨文部科学大臣新人賞、
現代俳句協会賞、高志(こし)の国詩歌賞。詩歌集に『惑亂(わくらん)』『亞剌比亞(アラビア)』『星貌(せいぼう)』『人類の午後』、著書に『俳句ミーツ短歌』他。南日俳壇選者、現代俳句協会常務理事、国際俳句協会理事。
◆『NHK俳句』2024年8月号「俳句の凝りをほぐします」より
Facebook北野 和良さん投稿記事
◆ 俳句論にこんな記事を見つけた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%B3%E5%8F%A5
水原秋桜子(明治25ー昭和56)が『俳句の作り方』で「注意六条 禁忌八条」を提唱した。
まず、「俳句を詠むとき、意を注ぐべき六条」は以下のようなものである。
① 詩因を捉える ② 分量をわきまえる ③ 省略を巧みにする
④ 配合を工夫する ⑤ わかる用語を使って ⑥ 丁寧に詠む
省略については、俳句では17文字という限られた音で表現をしなければならないため、不用な言葉の省略が重要視される。体言止めにより動詞や助詞を省略したり、助詞で止めて後に来る動詞を省略したりすることが多い。また、予測可能な言葉を省くことにより、余韻を残したり時間的な「間」を表現することにもなる。
次に、俳句を詠むときで避けるべき八ヶ条は以下のようなものである。
①無季の句を詠まない ②重季の句を詠まない ③空想の句を詠まない
④や・かなを併用した句を詠まない ⑤字あまりの句を詠まない
⑥感動を露出した句を詠まない ⑦感動を誇張した句を詠まない ⑧模倣の句を詠まない
これらはもちろん、水原秋桜子の見解であり、特に無季の句に関しては様々な議論がされている。
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①無季の句はさておき、③空想の句を詠まない、については何となく納得しがたい。
以前ネットで読んだ芭蕉論で、「五月雨の 降り残してや 光堂」「五月雨を集めてはやし最上川」などについて、奥の細道の頃の光堂は決して輝いてはおらず、(今も昔の輝きを華やかに見せている)というのは芭蕉の想像(願望?)であり、最上川の句についても、日記の時期と照らし合わせて、(降り続く梅雨の雨を集めた最上川が,水かさを増しながらゴーゴーと勢いよく流れている様子を詠んだ俳句)とは言えず、これも想像の句だと述べていた。
句会で「席題」というのがあるそうだが、季節に合わせて「心太」「ススキ」などと題を出されても、句会の席に実物があるとは限らないので、自分の知識を基に空想して句を作るしかないだろう。
先日のNHK俳句で、「天と地を杓子で返す茸飯」という句が特選だった(宇田喜代子選)が、茸飯を杓子で返す小さな茶碗の中に、天と地という途方もなく大きな比喩を用いた表現を宇田氏は褒めていた、
このような句は空想の一つではないのだろうか?